一:新学年 1
三月三十一日、朝。
ポーラさんの寮を
「よし、着いたぞ。……って、大丈夫か?」
「ふぅふぅ……相変わらず過酷な道ね……っ」
「……あぁ、これだけ一つの修業メニューになる、な……ッ」
リアとローズは額の汗を拭いながら、なんとか呼吸を整えている。
「あはは。ああいう道は、慣れが必要だからな」
落ち葉と枯れ枝の散乱した森や曲がりくねった山道やデコボコの野原、人の手が入っていない悪路を歩くには、ちょっとしたコツのようなものがあるのだ。
その後、千刃学院の寮に向かっていると、とある交差点でローズが足を止める。
「さて、私はこの辺りで失礼しよう」
「どうしたんだ?」
「何か用事?」
俺とリアがそう問い掛けると、彼女は腰に差した剣に左手を添えた。
「明日からは新学年だからな。気持ちのいいスタートを切るため、馴染みの武器屋で剣の調整をしてもらおうと思う」
「そうか、それじゃまた明日な」
「ちゃんと目覚ましをセットするのよ。寝坊しちゃ駄目だからね?」
ローズと別れた後は、二人で千刃学院の寮へ向かう。
「ねぇアレン、今度はいつ里帰りする予定なの?」
「うーん、特に決めてはないけど……。次の夏休みとか、かなぁ」
そんな他愛もない雑談を交わしていると、あっという間に寮へ到着した。
しかしそこで、ちょっとした問題が発生する。
「……ん?」
「……あれ?」
俺たちの部屋の扉の前に、見知らぬお婆さんが立っているのだ。
おそらく八十歳は過ぎているだろうか。
くすんだ長い白髪・ダラリと垂れた鼻・深く折れ曲がった腰、まるで童話の中の魔女みたいな人だ。
「あのお婆さん、リアの知り合いか?」
「いいえ、違うわよ」
俺かリアに用事があるのか、はたまた、他の誰かの部屋と間違えているのか。
なんにせよ、ここでボーッと突っ立っていても
「とりあえず、声を掛けてみるか」
「そうね」
俺とリアが歩き出したそのとき、お婆さんがゆっくりとこちらを向いた。
「――アレン=ロードル様でございますね?」
「あ、はい」
どうやら彼女は、俺に用があるらしい。
「初めまして、私めはヒヨバア。パトリオット=ボルナード様より
「えーっと……初めまして、アレン=ロードルです」
まったく心当たりがない名前が飛び出したので、一瞬ちょっと固まってしまった。
(パトリオット=ボルナード……、って誰だろう?)
俺が記憶の川を辿っていると、
「い゛っ!?」
横合いから、蛙の断末魔のような声が聞こえた。
そちらへ目を向ければ、リアがとんでもない表情で固まっているではないか。
「リア? どうしたん――」
俺が呼び掛けると同時、彼女は
「――すみません。アレンと相談したいことがありますので、少し失礼してもよろしいでしょうか?」
「えぇえぇ、どうぞどうぞ」
ヒヨバアさんは優し気に微笑み、コクコクと何度も頷く。
その後、リアは俺の服の袖を引っ張って、少し離れたところまで移動した。
「リア、いったいどうし――」
「アレン、あなたまた何をしたの!?」
「いや、別に何もしてない……と思う」
特に問題となるようなことは何もしない……はずだ。
「ボルナード家はリーンガード皇国で一・二を争う大貴族、パトリオットはそこの当主よ」
「……なる、ほど……。ということは、貴族派からの勧誘っぽいな」
会長と天子様から、何度も警告を受けていたやつだ。
「それで、どうするつもりなの?」
「うーん……とりあえず、話ぐらいは聞いておこうかな」
俺はまだ皇族派の言い分しか聞いていない。
こういうのは片方の意見だけを鵜呑みにするのではなく、きちんと双方の主張を聞くことが大切だ。
(そもそもこれは、皇国でトップクラスの大貴族様からのお誘いみたいだしな……)
俺のような一般庶民が、大貴族のお誘いを無下に断ったとなれば、角が立ってしまうだろう。
「そう。まぁ……アレンなら大丈夫だとは思うけれど、一応気を付けてね?」
「あぁ、ありがとう」
俺とリアはお婆さんのもとへ戻り、中断していた話を再開させる。
「――失礼しました。それで今日は、自分になんの用事でしょうか?」
「我が主パトリオット様が、ぜひアレン様とご歓談したいと申しております」
やはりというかなんというか、予想通りの返答だ。
「そうでしたか。自分なんかでよろしければ、ぜひ」
「おぉ、ありがとうございます。主人もお喜びになることでしょう」
ヒヨバアさんは手を擦り合わせ、深々と頭を下げた。
「それでパトリオットさんは、いつ頃の歓談を希望されているのですか?」
「いつでも構いません。アレン様のお好きなお日にち、お時間を仰ってください。全て貴方様のご都合に合わせるようにと言い付けられております」
「そうですか、お心遣いありがとうございます」
さて、どうしようか。
(明日からは新学年が始まって、否が応でも忙しくなる……)
それに何より、こういう面倒事は後回しにしたくない。
「あの、もしできればなんですけど……」
「はい」
「今日というのは、やっぱり難しいですよね?」
貴族との歓談という超絶面倒な予定は、可及的速やかに済ませたい。
なんなら今この場で、すぐに終わらせてしまいたいぐらいの勢いだ。
(いやでもさすがに、今日の今日というのは無茶だったかな?)
そんな俺の予想とは裏腹に、ヒヨバアさんは柔らかく微笑む。
「もちろん、問題ありません。アレン様さえよろしければ、この後すぐにでもご案内いたします」
「えっ、いいんですか?」
「はい。我が主人は、アレン様に対して格別の敬意を払っておられますから」
「そうですか、では――」
俺がそのまま行こうとしたところで、横合いから「待った」の声が掛かる。
「ちょっと待ってアレン、あなた服装は大丈夫?」
「……あっ」
リアに言われて、ハッと気付いた。
俺が今着ているのは千刃学院の制服、それも大自然の悪路を通ってきたばかりのため、泥や葉っぱで各所が汚れてしまっている。
(服は着替えたらいいとしても、大貴族と会うのに制服のまま、ってわけにはいかないよな)
世の中には、時と場所に合わせた衣装――所謂『
(貴族と歓談するときの服か……)
礼儀作法にはあまり詳しくないけど、地味な色のスーツを着て行けば、なんとなく丸く収まるような気がする。
(慶新会のときに用意したスーツじゃ駄目なのかな?)
いやでも、おめでたい行事に出席するための衣装と貴族の屋敷に行くための衣装は、違うのかもしれない。
(……やっぱりここは、日を改めるのがベストか)
決断を下そうとしたそのとき、ヒヨバアさんが小さく首を横へ振った。
「いえいえ。衣服のような些事は、どうかお気になさらないでください。我が主は、そんな
それを受けた俺は、リアと小声で相談する。
「本当にいいのかな?」
「普通はあまりないことだけれど……。ホスト側がこう言っているんだし、いいんじゃないのかしら?」
「そういうものか、それじゃサクッと済ませて来るよ」
服装規定の問題は解決した。これでもう障壁となるものは何もない。
「ではヒヨバアさん、今日この後パトリオットさんとの歓談をお願いできますか?」
「ありがとうございます。こちらで馬車を用意してありますので、アレン様のご準備がお済みになられましたら、再び私めにお声掛けくださいませ」
「わかりました。すぐに準備しますので、少々お待ちください」
「ごゆっくりどうぞ」
その後、自分の部屋に戻った俺は、手早く身だしなみを整えていく。
(あまり待たせちゃ悪いし、パパッと済ませてしまおう)
濡れたタオルでサッと体を拭き、替えの制服に着替えれば――準備完了だ。
「よし、まぁこんな感じかな?」
洗面台の鏡で身だしなみのチェックを済ませたところで、リアがひょっこりと顔を出した。
「アレン、準備できた?」
「あぁ、もう出られそうだ」
「そっか、それじゃ最終チェック」
彼女は右手を顎に添えながら、俺の頭の天辺から爪先までジーッと確認していく。
「ふむふむ……あっ、ここほつれちゃってる。襟元にも少しシワがあるわね。後は――」
ちょっとした髪のほつれと服のシワを伸ばし、最後に胸元のネクタイをキュッと締めてくれた。
「うん、これでばっちりね」
「ありがとう、助かるよ」
「ふふっ、どういたしまして」
準備も終わり、寮の外で待つヒヨバアさんのもとへ向かう。
「――すみません、お待たせしました」
「いえいえ、瞬きの合間に終わってしまいました」
ヒヨバアさんは冗談っぽくそう言うと、自身のローブをガサゴソとまさぐり、脇差のような短刀を取り出した。
「それではアレン様、今から馬車を出しますので、少々お下がりください」
「馬車を出す……?」
「はい、恐れながら、
彼女は短剣をポイと放り投げ、静かに両手を合わせる。
「
次の瞬間、空中をクルクルと舞う短剣は、瞬きのうちに小さなカボチャの馬車に変化した。
「魂装使いだったんですか。剣が馬車に変わるなんて、珍しい能力ですね」
「ほほっ、所詮は
ヒヨバアさんは柔らかく微笑み、謙遜の言葉を口にした。
(それにしても、本当に変わった能力だな)
荷馬車だけじゃなく、それを引く馬まで実体化している。
おそらくこれは、『馬車』という概念をそのまま再現しているのだろう。
(<童詩>という名前から判断して、童話の中に出て来るものを自由に再現できる能力、かな?)
童話をどれぐらい正確に再現できるのかはわからないけれど、かなり汎用性の高い魂装であることは間違いない。
「さぁさぁアレン様、どうぞお乗りくださいませ」
「はい、失礼します」
促されるまま、カボチャの馬車に乗り込む。
(へぇ……思ったより、けっこう広いな)
中は
「それじゃリア、ちょっと行って来るよ」
「うん、気を付けてね」
俺とリアが馬車の窓越しに挨拶を交わしていると、ヒヨバアさんが「よっこらせっと」言って、
「アレン様、出発してもよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
「かしこまりました」
彼女が革製の鞭を軽く振るうと、馬車はゆっくりと前に進み出す。
こうして俺は、大貴族パトリオット=ボルナードの屋敷へ向かうのだった。