「くそが。冗談じゃないぞ」
姓を山城、名を透輝というこの不岐を治める王は、轟く悪名とは裏腹に小奇麗な顔立ちをしている。けれども、飢えた狼のように輝く銀眼だけが確かに不岐の王その人だと伝えているのだった。
悪態をついて刀身を振り払ったが、血の一滴すら空に舞うことはなかった。
それもそのはずで、彼は何者も斬ってはいない。足元に確かに男が倒れているにもかかわらず、だ。
実に、奇妙な光景であった。
「相変わらず、見事なお手前で」
「嫌味か」
「いやいや、尊敬申しあげてるんですよ、我が君。血を流さずに戦力を無効化できるのならこんなに便利なこともないでしょうに。この局面においては」
そう瑠璃が肩を竦めた拍子に、右耳につけた大ぶりの耳飾りが揺れて甲高い音を奏でた。瑠璃の軽い調子をそのまま音にしたような、はっきり言えば揶揄されているようで前から気に障っていたのだが、今はくどくどと説教なんぞしている場合ではない。
透輝は舌打ちを何とかこらえた。
通常はおよそ人が訪れようのない場所で、というかもはや獣道すら消えかかっている山の中だ。ふらりと迷い込みまして、などという見えすいた言い逃れが通らぬ場所である。もっとも、兵を向けてはならぬ場所に僅かの手勢とともに山城の当主が自ら乗り込み、幾人か倒している時点ですでにどんな言葉も戯言にすぎないことにはなっているのだが。
槙島瑠璃。
山城に代々仕える一族のなかでももっとも古いと言われる槙島家の嫡男であるこの男は、目に見えてだるそうな様子を隠さなかった。
右耳につけた耳飾りもさることながら、着物はおよそ武を行使する者とは思われないほどに派手だ。透輝は一度窘めたが、返ってきたのは以下のような申しひらきだった。
曰く、『派手な格好をしていれば最初に俺が狙われるでしょう。そうすればあんたはその間に逃げるなり策を弄するなりできますから、これは将来に対する一つの備えなんですよ』。
単なるお前の趣味だろうと喉元まで出かかったが、透輝は賢明にも口にはしなかった。口のまわりすぎる瑠璃に正論を突きつけたところで、ろくでもない言葉の羅列で煙に巻かれてしまうにきまっていることを長い付き合いの中で知りぬいているからだ。
その変わり者は、透輝の乳兄弟である。もはや一心同体も同じだが、実は最近まで臣従するかどうか腹が決まっていなかったという。半年前、『あんたに仕えることにしましたよ』と改めて言われた時、平静を装うことに長けた透輝ですらさすがに激しく狼狽したものだ。
透輝が山城の当主、つまり不岐の王として立ったのは一年前であり、瑠璃が臣従を表明する間、それこそ幼いころからずっと透輝のやりようを主君足るかどうか見定めていたというのだから、常人とは違う神経のありようなのであろう。
人格的にどうなのかと思うことはあれど、こと戦となると目の色を変える節がある男を、乳兄弟という以上に透輝は信頼している。
「殺していないだけで、もはや人としてあるかどうかも怪しいぞ。俺を恐れている連中が言うには、俺は魂を斬る不吉な王らしいからな。そのほうが神域を汚している気がするが」
「血で汚さないのだから、神様とやらもそれ以上の文句は贅沢ってもんですよ」
「どういう理屈だ、それは」
これ以上は終いだと透輝は瑠璃に手を振る。
軽口の応酬をしているような余裕はどこにもなかった。
宮をぐるりと囲むように弟の惟月の兵がいる事実が、今さらながらに放り出すことのできない状況だとわからせる。
できるなら、穏便に事を運ぶつもりだった。
なにせ、今の不岐はそれどころではない。
「右から荒雲、左から斑、それぞれの国から虎視眈々と狙われている今の緊迫した状況わかってんですかね、あのアホどもは」
国境を山々に囲まれたこの不岐は、きれいな水と豊かな土地に恵まれている。この豊かな国を奪おうと企む荒雲と斑とは長い歴史の中で幾度となく刃を交えてきた。
緊張と緩和を繰り返してきた三国は、今また緊張が高まりつつある。
「荒雲は稀代の王が立ったことで勢いづいている。斑は相変わらずよくわからんが、きな臭さは今まで以上だ」
「荒雲はねぇ、今の王がどうにもあんたと相性が悪いんですよねぇ」
「そうだったか?」
透輝はその昔挨拶にきた荒雲の王、左海藍を思い浮かべた。
黒曜石のように輝く瞳の、美しい男だった。男に蠱惑的という言葉を使うのも妙な話だが、どうにもそうとしか言いようのない美貌だった。商業の盛んな荒雲らしい、貴重な絹糸で織られた着物に着られることのない藍は明らかに場を圧倒していた。
当時、まだ父が存命で冷遇された嫡男にすぎない透輝に、彼はまるで透輝こそが不岐の王であるように接した。無視されることが当たり前だった透輝は驚き、そして藍に対して僅かばかりの好感すら抱いていたのだ。
だというのに、相性が悪いとは身に覚えがなさすぎる。
「まじでか。あんたほんとに自覚がないんですね。あんなに煽りまくっていたのに」
「煽る? なんだそれは」
「うっそ、まさかの無自覚! 呪術がどうたらとか講釈たれる荒雲の王にあんたがよりにもよって、くだらねぇ~って一刀両断したじゃないですか!」
言ったか、そんなこと?
透輝はしばし脳内を探って、はたと気がつく。
「くだらないとは言っていない。俺には必要ないし、神とやらに傾倒する気持ちは微塵もないが、やりたきゃあくまで与えられた領分で勝手にやればいいと言っただけだ」
「それを要約すりゃあ世間一般でいうところの『くだらない』の一言になるんですよ! 言われたあちらさんは、めちゃくちゃ顔が引きつりまくってたじゃないですか! 俺は後ろで聞いていて頭抱えましたよ」
「そういうつもりじゃなかったんだがな。俺は言葉が足らんらしい」
ぜんぜんそうじゃないと思うとかなんとか脱力した様子で呟いた瑠璃を無視して、引き続きあの時のことを思い出していた。
荒雲の王は不岐と違い、血脈による王の系譜というものがない。貴賤を問わずその時代において一番の呪術の使い手が王として立つ。特に藍は歴代の中でも屈指の才能を持つらしく、そしてその才能に相応しい野心も持ち合わせていた。荒雲の神たる天竜を使役するだけにとどまらず、不岐の神である天狼にまで興味を示していたのだ。
天狼の姫にぜひ目通り願いたいと乞われたが、そちらの領分でする限りは勝手にやればいいが不岐に手を伸ばすのなら遠慮願う、ということを端的に返したにすぎない。
「ま、なんにしても事実として今の三国は、はちゃめちゃにやばいって感じですね」
「だからだ。国の外がこんな状態であるなら、あの真面目一辺倒の我が弟殿が簒奪など企むはずがない。ここで内乱を起こせば不岐がどうなるかなぞ、誰にでもわかることだ」
簒奪を企むのなら、国の外が不穏であるのが一番のころ合いだ。なぜなら外に意識が向いていて、国内の兵は疎かになる。王の周りも自然と手薄になるのだから、そこを突くのが一番容易い。もちろんこれは王位を得た途端、隣国から狙われる諸刃の剣でもあるのだが。内乱で弱った国は隣国からしてみれば食べごろの果実同然だ。
この度の謀反人と目されている透輝の実弟、惟月はそういうことを企む種類の人間ではない。
ひたすら真面目で、国のために自身が存在していると信じて疑わない男である。仮に王位を望んだとしても国を危うくする方法をとるとは考えにくかった。
だからわからない。
兵どもは確かに惟月の手の者たちで、そしてみな頑なだった。透輝という主には絶対に従わぬという強い気概がみてとれたのである。であれば、倒すしかない。こうして、いやがおうでも幕が切っておとされてしまった。
「あんたがそう思いたがるのは勝手ですが、状況見る限り噂どまりじゃなさそうですけどね。弟殿が天狼の姫と簒奪を企んでいる、というのは」
「……惟月」
今度こそ、透輝ははっきりと舌打ちをした。我慢しきれるものではなかった。
「神なんぞにすがってまで玉座が欲しいか」
「欲しいでしょうね、もとはといえば弟殿のものだった」
あっさりと肯定してみせた瑠璃に、透輝は渋面を隠そうともしなかった。
父の一存によって廃嫡されかけた透輝が玉座を得ることができたのは、当人たる父が急逝したからこそだ。惟月は透輝の臣となることに何ら不満はなさそうにみえた。
なのに、なぜ今さら。
「弟殿がなにを考えているにしろ、探るのはあとですよ。言えるのは天狼の姫と弟殿が本当に通じていたら王位を得る正当な理由になりかねないというわけで、とにかくこの状況を治めることです。ごちゃごちゃ考えるのは後回し、ですね」
瑠璃が足下の兵をごろりと転がした。彼はなにもまちがっていないというふうに気を失っている。
殉死、という言葉がよく似合う。透輝がくだらないと切って捨てる天狼の姫──神とやらに大義を見出しているのだ。
それがひどく癇に障る。
「あとどれくらいいる」
「それが妙な話なんですがね」
瑠璃が声を落とす。
「山にいるのはせいぜい五十人かそこらのはずですが、俺たちが倒したのは今の一人」
それもこの一人は何かから逃げてきた、といった風だった。
「残りは俺のが何人かやっていますが、それにしたって半数もない」
「逃げられた、と?」
「逃げられてはいないです。死んでいるんですよ」
死体がころがっているのだ、と瑠璃はこともなげにいった。
瑠璃がここへ連れてきた郎党は十名。暗殺に長けた者たちで、ちょいとばかり特殊であった。それでも、こんな死体はみたことがないという。
「どうやったんだか知りませんがね、血の痕がない。だのに、死んでいるんです。俺たちのやりようとはまったくもって違う技ですね、あれは。言うなれば、我が君の御業に近い」
「そうかよ。その死体はいくつだ」
「ざっと二十名弱」
「ほぼ半数だな」
「あんたと同じ、あやかしの類なのかもしれませんね」
その能力ゆえに透輝が周りから人でないと恐れられていることを知っていて、瑠璃は時々わざとこういうことを言う。
「阿呆か」
鼻を鳴らした途端、
「山城殿とお見受けいたします」
唐突に響くが姿が見えない。平坦な女の声であった。
「ほら、やっぱりあやかしですよ」
こわいこわい。そう囃したてる瑠璃だが、立ち姿に隙はない。どこから声の主が現れようともしとめることのできるようになっている。
「我ら宮の者にございます」
剣吞な瞳を向ける先に、許しを請うがごとく姿が現れた。
「このような姿をさらすことをお許しください」
一人の黒装束の女であった。
深い傷を負い、息が荒い。あらゆる箇所から流れる血を拭わぬまま、顔だけは右手で覆い決して見られまいと隠す様が奇妙であった。
「他にもいるようだけど?」
瑠璃が透輝の前に立って油断なく闖入者を見下ろしている。得物に手をかけ、隙あらば殺す構えだ。
「本来であれば我らすべての存在を明らかにし、お願い申しあげるところですが、お許しください。我らはあなた方とは交わることのない者ゆえ」
名も、姿も素性も明かすことができないという。斬ってくれと言わんばかりである。案の定、気の短い瑠璃は臨戦態勢だ。
「言っている意味がわからないんだけど、あんたさぁ」
抜き打ちに斬って捨てる気配を察して、さすがに透輝は肩に手をかけ制止する。
「もういい、瑠璃。よくわからんが事情があるのだろう。それに、時間がなさそうだ」
目の前の女は瀕死である、といっていい。
そして場合によってはこちらに殺されることもやむを得ないという覚悟もあるのだろう。言われて、瑠璃は大人しく身を引いた。柄から手が離れるのを確認して、女は膝をついて頭を下げた。
「お心遣い痛みいります。実は山城殿にお願いがございます。どうぞ、ここはお退きあれ」
ちらりと見上げた手の隙間からのぞく瞳が透輝を射る。何の疑いもなく、命のすべてを放り出すような決意が宿っていた。
こういう目をするやつは、危ない。そして、これを統率するものはもっと危ない。経験則から透輝は悟っていた。
「いきなり現れて退けと言うか」
「我ら、不岐の王を傷つけることはいたしませぬ。そういうふうにできておりますゆえ。けれども、あなた様が土足で神域を荒らすことは認められませぬ。お退きあれ」
なるほど、天狼の姫の手の者か。
合点がいくと、ますます退くことはできぬと透輝は薄く笑った。
「俺は、ここの姫君に用があるのだが?」
「姫宮さまが山城殿に用あらば、招かれることもありましょう。ただ、今はその時ではありませぬ。お退きあれ」
「そちらが俺に用あるのではない。俺が姫君に用があるといっている」
透輝の不遜なもの言いに、女が何か言い返そうと口を開いた途端、
「ならば僕が相手になろうか?」
甲高い子どもの声が茂みの奥から響いた。女ははっとして、その身をあっという間に隠した。
「女ときて今度は子ども? 次から次へと現れるね。というか、どういう仕組みなの、ここは」
やれやれと瑠璃が嘆息するも、軽口はそれ以上続かなかった。
「……山犬?」
呆然と透輝が口にした言葉に間違いはない。茂った草をかき分けて現れたのは白の毛並みが美しい一匹の山犬だった。金に輝く瞳でこちらを睨み、
「退いてくれる? 昼の者ども」
そうして獣そのものの顔をゆがめて器用に笑った。
瑠璃は目の前の光景を凝視したまま、確認する。
「透輝、俺の目と耳がどうかしてなければ、えらく達者にしゃべる犬っころが存在してるんだけど?」
「安心しろ、俺にも見えているし聞こえている」
さすがの透輝もしゃべる山犬を目の前にして驚きを隠せなかった。それでも瑠璃よりは取り乱さずにいる理由は、圧倒的に瑠璃が騒ぎすぎているからだ。
わけのわからない現実を前に瑠璃は叫ぶより他なかった。
「なんでもありか! この不思議山は!!」
「もう、静かにしてよね」
「お前が俺を動揺させてんだよ、犬っころ!」
「だから退いてってば。こちらは常夜の世界、お前たちの世界とは理が異なる場所なの。というか、僕は山犬じゃない! 琥珀という立派な名がある!」
「犬、同じことを何度も言わせるな。俺は姫に用がある」
山犬ごときにたしなめられ、透輝は片眉を上げて不機嫌を示してみせた。琥珀は怯むことなく淡々と警告を口にした。
「そちらこそ何度も言わせないで。退いてもらえなかったら、不届きな兵ども同様に眠ってもらうよ」
眠ってもらうとはずいぶん上品な言い方をしたものだ。瑠璃のいう奇妙な死体の出どころは、この美しい獣に違いなかった。
透輝が確信を得たことが分かったのだろう。琥珀は獰猛な牙を惜しみなく見せた。
「何人たりとも、姫宮さまの御身を汚すことは許さない。退け」
なにを言っても退けと繰り返す宮の者たちに、さすがに瑠璃の忍耐は限界を迎えたようだった。小さく耳打ちされる。
「透輝、やるぞ」
「任せた」
言うや否や、透輝は駆けだした。
「あ! 待て!」
「犬っころの相手は俺だ」
背後で瑠璃が吠えるのを聞きながら、とにかくやみくもに走った。
天狼の姫とやらを排除せねばならない。
その唯一つの確信を抱いて、透輝は走った。
あれほど妄信される主君は、それだけで害悪となる。
やつらはこちらを傷つけることはできないと言った。その意図はよくわからないが、噓を言っている様子もなかった。
恐ろしく大胆なことをしていると思ったが、別段不安はなかった。
自分の命が関わっている決断を下すとき、透輝はいつも体の表面が熱くなっているのがわかる。が、通う血は恐ろしいほど冷たいのだ。
いままで賭けに勝ってきた。今回とて例外ではないはずだ。
今さら神を恐れるようなことはない。
ならば神の娘を捕らえたところでなにほどのこともあらん。
「常夜の姫、か」
山奥にひっそりと陽の光を避けるようにある宮にこもりきりの神の姫を、そう呼ぶ者たちもいるという。人々が神と人を線引きするように、同じ不岐という国にありながら王の支配が届かぬただ一人の女でもある。
馬鹿な話だ。自らの国で例外などあるものか。
人は人によって裁かれるものだ。
それが、この人の世の間違いのない道理である。
「夜に引導を渡して日のもとへ引きずり出してやる」
惟月の心を探るよりもことがずっと単純になったことに、透輝は自然と笑っていたのだった。