1──神のまにまに 第三話

 放たれた矢が、正しくやわらかい肉に吸い込まれていく。

 天狼の姫が弓を引いたときはいつもそうだ。

 選ばれたものは例外なく、ていこうなく、そうであるというように矢を受け入れる。世界はすべて決められたもので、真珠自身も例外でない。

 くすんだような毛色のうさぎが矢を受け入れて、小さな悲鳴をあげた。真珠は同時に息をいた。矢を射るときはいつも呼吸を忘れてしまう。起こることのすべては定められているというのに、真珠はなにかのひようでずれやしないかと望んでいるのだった。

 そのきんちようかんが息をめさせる。

 しかし、今回もそんな予想外のことは起こらなかった。わずかな失望とともにうさぎの息が絶えるしゆんかん、真珠は息をすることをようやく思い出す。

 いつものことだった。

 たおれたうさぎをそっと抱きあげる。確かに失われてしかるべき生命のやくどうは、いまだ真珠の手の中で確かに伝わってくる。

 肉に食い込んだ矢を一気に引き抜くが、あふれ出るはずのせんけつはなかった。それどころか、きずあとさえ存在していない。

「おいき」

 柔らかな冬毛をひとなですると、黒ずんでいた毛並みも純白へと変わる。うさぎは今気がついたかのように大きくねて真珠の手からげ出した。

「姫宮さま、ありがとうございます」

 薄く雪の積もった冷たい土にへいふくしようとする年老いた女を、真珠はあわてて止める。

「礼など必要ない。これが私の役目だ」

 かたを抱いて顔を上げるようにうながすと、うっすらとなみだのたまったひとみおそれを映していた。

「本当に、あのころから少しもお変わりになりませんね」

「お前は……」

「もう宮を辞して三十年になります」

 かつて少女だったはずのおもかげをわずかに残し、女はじりしわを深くして笑った。

「今は宮のほど近くの集落で暮らしております。姫宮さまに拾われたも同然の私は、帰る場所もゆく場所もありませぬゆえ」

「そうか、三十年前。だがすまない、私はもう通り過ぎる人のだれも覚えないことにしているのだよ」

「姫宮さまはながい時を生きているのですもの。たった一時ごいつしよした私を覚えていただけるなど、恐れ多いこと」

 涙さえ流して、女は言う。

 神をすうはいする様そのものだ。とても人間に対するものとは思われない。

 しかし、それこそが真珠の日常でもあった。

「それにしても、いったいどうしたことでしょう。しようがこの山までい寄ってくるなど」

「昨日から天狼さまがお帰りになっている。それゆえだろう。三百年に一度、神界へお帰りになる、かむがえり。今年がちょうどその年回りだ。命短いお前たちは知らないだろうが」

 それにしても、瘴気がここまで這い寄るのが早すぎる。

 言葉の後半はなんとか飲み下した。

「案ずるな。天狼さまがもどられるのはひとつき後だ。それまでは私がかんぺきにこの国を守って見せる」

 感にえないとまゆを寄せる女に、真珠は小首をかしげた。

「不足か?」

「いいえ、いいえ!」

 必死に首をる仕草が少女だった時のそれそのもので、真珠はなつかしさを覚えた。けれども、たんできするほどではない。別のところから名を呼ばれたからだ。

「姫宮さまっ」

 かんだかい声に振り向けば今朝のじよだ。のうこうな花のかおりをふりまきながら駆け寄ってくる。

 足元はぼうにもぞうで、ちゆうすべって転んだのかところどころれている上にどろよごれがひどかった。

「姫宮さま、宮から遠くはなれたこのようなところまで! ずいぶんと探したのですよ」

「瘴気がこの山にまでおよんでいるのだ。ほうっておくわけにはいくまい」

「その女が恐れ多くも姫宮さまにじようたのんだと言うのですか」

 今にも手打ちにしてくれると言わんばかりのけんまくで女をにらみつける。

「どこが悪い。私は天狼さまの使つかいだ。それに、動物にまで瘴気が宿ったというのならどちらにせよ放ってはおけまい」

 瘴気は大地からき出て、命あるものにとりつき死へのしようどうき立てる。その力は感情を持つ者へでんする。動物ですんでいるうちにたたいてしまわねば、人へとりついたときには取り返しのつかないさんを引き起こすことになる。

 動物に瘴気が宿ったのなら、人への伝播はもうすぐそこだ。侍女もそれをわかっているから、さすがに視線の厳しさを改めた。

「……ご無礼を」

「よい。いずれにしろ、私の不徳のいたすところだ」

「またそのような。ところで姫宮さま、そろそろお時間でございます」

「時間? なんの」

 言いながら、真珠は女にさっさと行けと目配せしてやる。

 侍女はいつしゆん何かを言いたそうにしていたが、女が走りさるのをそれ以上視線で追うことはしなかった。こちらの手を引っ張る。とっさに真珠は振りはらいたいような衝動におそわれ、しかし相手は我が侍女ではないかと思い直したものの、なんだかみようだった。

「お前は、なんだ」

 どうした、と問うつもりだった。

 けれども真珠の口から転がり出たのは目の前の女の本質を問う言葉だ。

 侍女は動きを止め、そうしてかんまんに振り返る。口角が不自然なまでに上がってみを示しているのに、目の奥はまったく笑っていなかった。

 あまりの作り物めいた表情に、真珠のはだあわつ。とっさにきよを取ろうとも、女とは思われぬ力で手をにぎりこまれていて放してもらえそうにない。まどいの視線を向けると、侍女はつり上がった口角をさらに上げて、表情とは裏腹のおだやかなこわで言った。

「お客様がいらしております。姫宮さま、お早く」

 かされて真珠は適当に返事をしながら歩を進める。この侍女を武でもって制圧することはできなくはないが、ふるうつもりのない力だ。どうせ死はおのれえんであるのだからと、真珠はとりあえず従うことにした。

 冬の終わりでさほど雪も深くない。それどころか今年の冬は例年に比べて暖かく、ここ最近は一足飛びにやってきた春のような日差しのせいもあって一度降った雪がもうけ始めている。逆に足を取られそうでしんちように歩きたいところだが、侍女はどこにそんな力がというほどに手を引っ張るものだから早足にならざるを得ない。

 すっ転んでかいがらの着物で宮に帰るのはごめんこうむりたいなと考えながら戻ったが、近づくにつれてかんを覚えた。

 いつになく、空気がさわがしい。

だれが来ている」

 宮が見えてようやく手を放した侍女に問う。

 答えを返したのはとつじよとして視界に入りこんだ山犬だった。

「姫宮さま、宮へお戻りくださいませ。侍女どももみな下がれっ」

「琥珀?」

 慌ててけ寄る琥珀に真珠はまゆをひそめる。死にかけた山犬を拾い、琥珀と名をつけてけんぞくとしたのはもう百年も前のことだ。永い時をともにするにしたがい人語をあやつるようになった命のことわりから外れたけものである。それにしても長い付き合いになるが、これほど慌てた様子を見たことがない。

 なにかあったのか。

 問う前に男が目の前におどり出てきた。とっさに琥珀が真珠をかばうように立ちふさがる。

 とうとつな男の登場よりも、琥珀のろうばいの仕方に真珠はあつにとられる。が、そんなどうようを一瞬で無表情の仮面にかくして、

「何者か」

 れいてつに聞こえるように声を低くする。

 男はよろい武者であった。その場で平伏する。

「姫宮さまに奏上したきことありまして、じようの身ながらまかりしましてございます」

 通常、この宮には女しか近寄れない。真珠が我が身から少しでも銀狼という存在を遠ざけるために、すべての男はこの宮に近づくことまかりならずとれを出したからだ。

 この国ゆいいつの神のしろたる姫宮の言葉は、王とて逆らうことはできない。

「無礼は承知の上でございます」

 なにとぞ。

 さらに額を地にこすりつける武者に真珠は眉根を寄せた。承知で禁を破ったと言うのなら理由を聞くべきだと思い、不快をおさえて先を促した。

「なんだ」

 武者は低く返事をしておそろしいことを簡潔に口にした。

「山城透輝がこの宮にのりこんできております」

 今、何と言ったのだ。

 鹿みたいに開けた真珠の口から、これまた馬鹿みたいに言葉がこぼれ出る。

「誰が、のりこんできている、と?」

 天狼の姫のげんというものを取りつくろひまなどなかった。

 あんまりにも性質たちの悪いじようだん過ぎて、鼻先で笑ってき捨てる。

「この宮を落とそうというのか、正気のとは思えん」

「姫宮さま、惟月様を銀狼と認めるとの触れを急ぎ出されませ。さすればこの山にひかえた我らが神の使徒としてあの不心得者をってみせましょう」

 もう去れ、と手ぶりで追い払おうとしたが、武者はなおも顔を上げずに勝手なことをつらつら述べる。

 まてまてまて。

 何を言い出しているんだ。

 真珠はしゆんかん、目に見えて狼狽した。

 惟月というのは確か、当代の山城の弟であったはず、と真珠は頭の中で関係図を引っ張り出す。

 父王に愛されて順を乱して惟月がそくするのではとうわさになったのはずいぶんと前のことだ。今さら、当主の座をうばおうとしているとは思いもよらなかった。それでもって自分がその後押しをしていることになっているのか。銀狼がどうのと言われるのはつまり、そういうことである。

 さんだつ者に巻き込まれるとか冗談じゃない。ていうか、山に控えた我らとかいったか? こいつらもつれてきてるのか、兵を! なにを人の家で勝手に全面戦争をしようとしてるのだ!

 頭の中でとうしながら、それでもややあって平静を取りもどしたのは在位百五十年の年の功だ。

「私は惟月なる者は知らぬ。銀狼だと? それでは私が顔も知らぬ惟月とやらとちぎれとでも申すか。ずいぶんな言い様だな、この私を」

 早口に言い放つ。

 あなどられていかりに戦慄わななきが止まらない真珠に、武者は顔を上げてそう感すらにじませて断言した。

「いいえ、あなた様は惟月様を当代の銀狼としてお認めになるのです」

 なにを言うのだ、この男は!

 とうとう真珠はまんできずにさけんだ。

「お前はたいおろか者か、そうでなければきだ! 夢を見るならている時に見ろ!」

 付き合っていられない。

 真珠は眼前に立ちふさがるすべての者に命じた。

「さがれ。不快だ」

 なにとぞ、なにとぞ。

 犬でも追い払うかのように手をってもなお、わめいて真珠の赤と白の装束のすそをつかむ武者を、冷たく見下ろす。

「放せ、無礼者」

 一言でもって切って捨てる。冷や水を浴びせたに等しい。

「天狼のひめたる私は惟月などという知らぬ男に加勢をするつもりはない。妙な噂が立つ前にここを去れ」

「姫宮さま」

「早く手を放せ。これ以上、たわごとをぬかすようなら琥珀をけしかけるぞ」

 従順なしもべたる獣は低くうなり声を上げた。

 しかし、男はひるむことはなかった。琥珀が飛びかかるよりも前に、武者の刀が真珠ののどもとねらいを定めた。

「ご無礼を」

 無礼だと? それどころの問題じゃないだろうが。

 いっそ鹿鹿しくなって真珠は口のはしりあげた。

「お前、誰に切っ先を向けているのか理解しているか」

「無礼は承知ですが、姫宮さまには我々に従っていただきます。惟月様の妻になっていただきたい」

「馬鹿も休み休み言え。なぜ、私が簒奪者の夫を持たねばならんのだ。お前ごときが私に命じるか、笑わせるな」

だまってください」

「だから、誰に向かってものを言っている。女子供にやいばを向けることしかできぬ小物め。それではあるじうつわも知れるな」

 やけになっているというよりは、こうようしていた。

「これ以上しゃべらないでください。手元がくるいます」

 言いながら、おびえているのは男の方だった。真珠は口の端を上げたまま、切っ先に首をき出す。つぷっとが破れる音がして、血が流れる。

 遠巻きに見ているじよたちの悲鳴が耳奥ではんきようした。

「やってみるがいい。お前の上等な主もお前たちがいとうあんまりな王も、誰も私を従わせることなどできはしない」

 そうだ。運命すらも。

『全部おいていけ』

 夢の言葉が脳内にひびく。いいや、私はここよりどこへもいかぬ。言いきってやる。

「私は私以外には従わぬ」

 真珠の不敵な宣言にこたえたのは、向けられている刀ではなかった。見知らぬ男の、する声だった。

「あんまり、というのはこういうことか」

 知らぬ声が響くと同時にかげが現れた。

 深いあいいろの、どこか異国じようちよただよう装束を身にまとった男は真珠が何か言う前に刀をいて、そして収めた。

 瞬間、刀を向けていた武者が、かんまんにその身を横たえる。まるで太刀たちすじがみえなかったどころか、目の前の男がどこから現れたのかすらわからなかった。

 もっとおどろいたことに、確かにられたはずの武者には傷一つなかったことだ。ただ、事切れたように気を失っている。

 男はごく平静だった。足元に転がる武者に見向きもせず、かわりに真珠をじっと見つめていた。ぼうの石ころをったとて、もっと足元を気にするだろう。

 見つめてくるひとみをそらすようなおかさない。

 野生の狼のようだ。

 まっすぐなくろかみを横にながし、現れたそうぼうまぎれもなく美しい銀であった。顔つきそのものはせんさいといってもいい。この銀の瞳とこくさえなければ歌人といっても通るだろう。

 が、真珠が一目見て言葉を失ったのはれていたからではない。

 お姉様っ!

 瞬間、叫びだそうとするのをこらえられたのはせきであった。こみあげるなつかしさでは足りぬ、激情ともおぼしき熱の波が真珠の身体からだめぐった。しようどうのままに目の前の男に駆けよってしまいたいと思っている。

 決してまったく同じ顔というわけではないのに、れるまつ毛の長さ、真っぐな鼻筋、うすくちびる、そういったさいなつくりがどうにも姉そのもののように思われて、真珠はがくぜんとした。

 なぜ、目の前の男に私のお姉様のおもかげを見ているのだ。

「あんたが天狼の姫とやらか」

 姉とは似ても似つかぬそんきわまる低い声を聞いて、真珠はようやく我に返った。不快を示すようにまゆを寄せる。

「宮の者ともどもすけいただいたことに感謝すべきだろうが、もとからお前たちのまいた種だ。それに思いっきり我らが巻き込まれているわけだが、なにか言うことはあるか。そういえばお前、まだ私に名乗りもしていないな」

 思いっきり胸をそらすが、男のたけはなお高い。十五で背丈が止まってしまった真珠ではとうてい追いつけない。

 しかし、結果ではなく何事も心意気というものが大事である。

「山城家が当主、透輝だ。天狼の姫のおんまえで失礼した」

 軽く頭を下げる様がまったく悪びれていない。

「私は当代の姫、真珠である。山城の、許す」

 こちらもふてぶてしさを前面に押し出して許しをあたえる。

 山城の当主、ということは真珠の見立て通り、この男がおそれられる不岐の王であった。

「お許しをいただけて有りがたい限りだが、御前をあらごとよごしたことを謝罪はしても、姫をこのたびの反乱に巻き込んだとは思わない」

「なんだ、私が疑われているのか」

 かたい表情を揶揄するように、真珠はかろやかに言い放った。透輝はその軽やかさにつられたのか、引き結んだ口の端をわずかに上げた。

「言葉をいくらろうしても意味がないので単刀直入に聞く。姫は我がていと何をたくらむ」

「覚えのないことだな。仮に私がその弟殿どのえんがあるのならお前はどうするというのだ」

「愚弟ともどもこの宮をかいじんに帰してやるぐらいのことはかくしていただきたい」

 きようあく微笑ほほえんだ男は実に簡潔な答えを返した。

「俺は俺にたてく者には神ですらようしやしないことにしているし、今はくだらぬことで家中を乱している場合ではない。世界に国はここだけではないのだから」

「言葉通りであれば同感だな」

「今一度問うが、何を企んでいる」

「知らぬ。覚えがない」

 事実として、惟月はもう真珠という存在を大義名分として利用している。兵を連れているのだから、いま真珠の口から「いな」を聞き出したところで、結果は変わるまい。

 じょおぉぉぉだんじゃない。ごめんこうむる。

 かつていこがれた姫宮の面影を残す男を目の前にして、内心で大いに舌をだしてやる。

らちが明かんな」

 大いにため息をついて、透輝は真珠をにらみつけた。

せんたくを与えてやる、天狼の姫。この宮ごと灰になるか、あるいは俺にすか、二つに一つだ」

「どういう風のき回しだ」

「あんたが認めようとしないのなら、疑わしきをばつするか、さもなくば手元に置いておくしかない。幸い、俺にはまだ妻がいない。よろこべ正室にしてやる」

 真珠はとうとつたいしようした。

 透輝がろんな視線を送ってくるにも構わず、ひとしきり笑った。そうしてのち、言った。

「なるほど、私をただの女のようにあつかうと言うか。おもしろい、受けて立ってやる」

 言葉の意味を正確にあくしたのはこの場において、琥珀のみであった。

「姫宮さま、なんということをっ」

 悲鳴を上げ、すがりつく。

「ご乱心遊ばされましたか。かような者とこんいんなどと」

「私の決定だ、くつがえらぬ」

 ばつが悪そうにうつむいたまま琥珀は小さくつぶやいた。

「……作法にのつとって扱っていただければこちらからは否やはございません」

「ずいぶんとなおだな」

 そのかたまゆをあげていらだちを示す様がかつての姉そのもので、自然と真珠は微笑んでいた。とたん、透輝はいぶかしげな顔をした。

「なにがおかしい」

「そんなわけはなかろうと思ったのだ。私がただでお前との婚姻をんでやると思うか。条件がある。この乱を治めた後には私を解放しろ。つまり、かりめの婚姻だ。そしてもう一つ言っておくが、今はしきの最中ゆえこの宮をはなれるわけにはいかんぞ。部屋を用意するゆえ、ひとつきはゆるりと過ごされよ」

「なにかかんちがいしていないか。あんたに決定権はない。ことこの場においてのすべての生死も宮の存亡も俺がにぎっている」

「お前、透輝とかいったか」

 やれやれ。

 真珠はわざとおおぎように息をついて見せた。

「私のことを知らんのか。天狼のひめぞ。母上は語って聞かせなんだか」

「あいにく、神を信じていない不心得者だからな。いずれにしろたわごとだ。姫が天狼の力でしようしずめてはんえいをもたらすなど、頭から信じているのは鹿な我が弟殿か、あんたみたいな神が見えるとずかしげもなくけんでんするきだけさ」

 おのれの優位を確信しているからこそ、真珠のたいぜんとした態度がしんでならないのだろう。強い言葉を使うのは立場をわからせたいからだ。しかし、それを言うならこちらも同じことだった。

「神とはどこに宿るか知っているか」

 一歩、真珠は歩を進める。脈々と受けがれる命の川をわたるように。

「善なる心? 美しき行い? それともなるたましいか。どれもちがう。習慣にこそ宿るのさ。生まれ落ちてから己が確立するまでずっと、浴びるように天狼という価値観をたたき込まれる。それはのりのようにべったり張り付いて、洗えども洗えども容易にはとれない。では問題だ。そういうふうにして育ったたみがざっとここらあたりにひしめきあっているのだが、お前のその少ない手勢でどう主導権を握る気だ? よもや、ここがお前たちの言語で言うところの、てきじんのど真ん中であることを忘れたわけではあるまい?」

「あんた……」

 透輝もそのあたりの危険性を考えていなかったわけではあるまい。それを引きえにしてでもあせっているのか、あるいはどうとでもなると思っているのか。

 お前がうっかり作ろうとしている敵はさほど甘いものではないと真珠は親切にも教えてやっているのだ。

 いまいましそうに口をゆがめる透輝に、真珠はさらに言った。

「武人とただの民草では兵力が違うなどと、べんを弄してくれるなよ。同じ人間だ。いつ当千などという言葉はそれこそごとよ。仮にお前たちがここを制圧し私を殺したとしても、そこからが我らの本領発揮だ。この山のすべて、ふもとの村々の住人は死を恐れぬ兵となるだろうよ」

 人は己の根幹にかかわるものを傷つけられる時、命を担保にしてやいばをとることがある。まして、しんぽうする天狼はいくさがみだ。魂に刷り込まれたとうそうの血は身分を問わない。

「で、教えてほしいのだが、ここまで言ってもお前が主導権を握っていると本当に思っているのか、心から?」

「なるほどな。ただのお姫様じゃないようだ」

 軽い口調とは裏腹に、透輝の言葉はわずかばかりの苦さがにじんでいた。若者らしいきよせいの張り方だ。

 在位百五十年をえる真珠が笑う。

あなどるなよ。私がお前の六倍ほども生きているといっても信じないだろうがな」

「なにが望みだ」

 を無視して、透輝はずばりきく。真珠はわざとあっけらかんと答えた。

「望み? お前は王としての役目を果たせ。私は天狼の姫としての役目を果たし続ける。ただそれだけだ。私とお前は今このしゆんかんのみ混じり合っただけで、ことがすめばまた平行線だ。私の世界とお前の世界、正しく線を引かれることを望む。この夜の宮はお前のような昼間の人間を必要とはしていない」

 すべてはただの取引だ。

 透輝はしばし考え込むりをした。

「ことが終わった時、あんたが俺の首をねらわない保証は?」

「それこそ考えるだけだな。そもそもお前が言うところのただのお姫様におとされるほどの安い首か?」

「どうにもそちらさんに都合がよすぎやしませんかね。ひとつきここにいろだの、用がすめばえんしてくれだの、よくも勝手なことばかり並び立てる姫さんだ」

 さえぎったのは派手なみみかざりをつけた、あいきようある顔立ちの男だった。瑠璃、と透輝がその名を呼んだことで、仲間かと真珠はてんする。

 先ほどまで姿は見えていなかったのにどこから現れたものか。それにずいぶんと血のにおいがする。そのくせ着ているものに血のいつてきもついていないのが恐ろしい。

「あんた、お人よしもたいがいにしてくださいよ。弟殿のこうそくがならないのなら姫さんを城に連れ帰る。そうすれば世はこともなし、です」

 殺気をかくそうとしない瑠璃に、何のこだわりもないように真珠はうなずいてみせた。

「こともなし? 笑わせるな。惟月とやらを拘束するだのなんだのは好きにすればいい。だが、この宮を巻き込むな。巻き込んだ瞬間、私が号令をかけていくさにする。どろぬまだろうな。それも面白かろうよ」

 かたすくめて言う真珠を透輝は睨みつける。真珠は決して目をそらすことはなかった。はたして、根負けしたのは透輝のほうであった。

「神に仕えさせるにはしいな」

「どういう意味だ」

「それほどのたんりよく、男であったら俺の配下にほしいということだよ」

 合意を得られた、ということか。

 透輝の言い方にぜんとして、ややあってから真珠は破顔した。

「なら一つ忠告しておこうか」

「なんだ」

「見ての通り、私は美しい」

「……は?」

 ぽかんと口を開けたままの透輝に、真珠は一つ大きく頷いた。

まどわされるなよ、人間」

 透輝はわずかに顔を引きつらせていた。とんでもない女だな、と呟いたのが真珠の耳に届く。

「あんた、ちょっとおもしろすぎやしないか」

 ため息と同時にいた言葉はまぎれもなくあきれの色がい。真珠は鼻で笑い飛ばした。

しようぶんだな。立ってしまった波風には全力で乗っかっていくことに決めているのさ、私はな」

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