放たれた矢が、正しく柔らかい肉に吸い込まれていく。
天狼の姫が弓を引いたときはいつもそうだ。
選ばれた獲物は例外なく、抵抗なく、そうであるというように矢を受け入れる。世界はすべて決められたもので、真珠自身も例外でない。
くすんだような毛色のうさぎが矢を受け入れて、小さな悲鳴をあげた。真珠は同時に息を吐いた。矢を射るときはいつも呼吸を忘れてしまう。起こることのすべては定められているというのに、真珠はなにかの拍子でずれやしないかと望んでいるのだった。
その緊張感が息を詰めさせる。
しかし、今回もそんな予想外のことは起こらなかった。僅かな失望とともにうさぎの息が絶える瞬間、真珠は息をすることをようやく思い出す。
いつものことだった。
倒れたうさぎをそっと抱きあげる。確かに失われてしかるべき生命の躍動は、いまだ真珠の手の中で確かに伝わってくる。
肉に食い込んだ矢を一気に引き抜くが、あふれ出るはずの鮮血はなかった。それどころか、傷痕さえ存在していない。
「おいき」
柔らかな冬毛をひとなですると、黒ずんでいた毛並みも純白へと変わる。うさぎは今気がついたかのように大きく跳ねて真珠の手から逃げ出した。
「姫宮さま、ありがとうございます」
薄く雪の積もった冷たい土に平伏しようとする年老いた女を、真珠は慌てて止める。
「礼など必要ない。これが私の役目だ」
肩を抱いて顔を上げるように促すと、うっすらと涙のたまった瞳は怖れを映していた。
「本当に、あのころから少しもお変わりになりませんね」
「お前は……」
「もう宮を辞して三十年になります」
かつて少女だったはずの面影をわずかに残し、女は目尻の皺を深くして笑った。
「今は宮のほど近くの集落で暮らしております。姫宮さまに拾われたも同然の私は、帰る場所もゆく場所もありませぬゆえ」
「そうか、三十年前。だがすまない、私はもう通り過ぎる人のだれも覚えないことにしているのだよ」
「姫宮さまは永い時を生きているのですもの。たった一時ご一緒した私を覚えていただけるなど、恐れ多いこと」
涙さえ流して、女は言う。
神を崇拝する様そのものだ。とても人間に対するものとは思われない。
しかし、それこそが真珠の日常でもあった。
「それにしても、いったいどうしたことでしょう。瘴気がこの山まで這い寄ってくるなど」
「昨日から天狼さまがお帰りになっている。それゆえだろう。三百年に一度、神界へお帰りになる、神還の儀。今年がちょうどその年回りだ。命短いお前たちは知らないだろうが」
それにしても、瘴気がここまで這い寄るのが早すぎる。
言葉の後半はなんとか飲み下した。
「案ずるな。天狼さまが戻られるのはひとつき後だ。それまでは私が完璧にこの国を守って見せる」
感に堪えないと眉根を寄せる女に、真珠は小首を傾げた。
「不足か?」
「いいえ、いいえ!」
必死に首を振る仕草が少女だった時のそれそのもので、真珠は懐かしさを覚えた。けれども、耽溺するほどではない。別のところから名を呼ばれたからだ。
「姫宮さまっ」
甲高い声に振り向けば今朝の侍女だ。濃厚な花の香りをふりまきながら駆け寄ってくる。
足元は無謀にも草履で、途中で滑って転んだのかところどころ濡れている上に泥汚れがひどかった。
「姫宮さま、宮から遠く離れたこのようなところまで! ずいぶんと探したのですよ」
「瘴気がこの山にまで及んでいるのだ。放っておくわけにはいくまい」
「その女が恐れ多くも姫宮さまに浄化を頼んだと言うのですか」
今にも手打ちにしてくれると言わんばかりの剣幕で女を睨みつける。
「どこが悪い。私は天狼さまの御使いだ。それに、動物にまで瘴気が宿ったというのならどちらにせよ放ってはおけまい」
瘴気は大地から湧き出て、命あるものにとりつき死への衝動を搔き立てる。その力は感情を持つ者へ伝播する。動物ですんでいるうちに叩いてしまわねば、人へとりついたときには取り返しのつかない惨事を引き起こすことになる。
動物に瘴気が宿ったのなら、人への伝播はもうすぐそこだ。侍女もそれをわかっているから、さすがに視線の厳しさを改めた。
「……ご無礼を」
「よい。いずれにしろ、私の不徳の致すところだ」
「またそのような。ところで姫宮さま、そろそろお時間でございます」
「時間? なんの」
言いながら、真珠は女にさっさと行けと目配せしてやる。
侍女は一瞬何かを言いたそうにしていたが、女が走りさるのをそれ以上視線で追うことはしなかった。こちらの手を引っ張る。とっさに真珠は振り払いたいような衝動に襲われ、しかし相手は我が侍女ではないかと思い直したものの、なんだか妙だった。
「お前は、なんだ」
どうした、と問うつもりだった。
けれども真珠の口から転がり出たのは目の前の女の本質を問う言葉だ。
侍女は動きを止め、そうして緩慢に振り返る。口角が不自然なまでに上がって笑みを示しているのに、目の奥はまったく笑っていなかった。
あまりの作り物めいた表情に、真珠の肌は粟立つ。とっさに距離を取ろうとも、女とは思われぬ力で手を握りこまれていて放してもらえそうにない。戸惑いの視線を向けると、侍女はつり上がった口角をさらに上げて、表情とは裏腹の穏やかな声音で言った。
「お客様がいらしております。姫宮さま、お早く」
急かされて真珠は適当に返事をしながら歩を進める。この侍女を武でもって制圧することはできなくはないが、ふるうつもりのない力だ。どうせ死は己に無縁であるのだからと、真珠はとりあえず従うことにした。
冬の終わりでさほど雪も深くない。それどころか今年の冬は例年に比べて暖かく、ここ最近は一足飛びにやってきた春のような日差しのせいもあって一度降った雪がもう溶け始めている。逆に足を取られそうで慎重に歩きたいところだが、侍女はどこにそんな力がというほどに手を引っ張るものだから早足にならざるを得ない。
すっ転んで愉快な柄の着物で宮に帰るのはご免こうむりたいなと考えながら戻ったが、近づくにつれて違和感を覚えた。
いつになく、空気が騒がしい。
「誰が来ている」
宮が見えてようやく手を放した侍女に問う。
答えを返したのは突如として視界に入りこんだ山犬だった。
「姫宮さま、宮へお戻りくださいませ。侍女どももみな下がれっ」
「琥珀?」
慌てて駆け寄る琥珀に真珠は眉をひそめる。死にかけた山犬を拾い、琥珀と名をつけて眷属としたのはもう百年も前のことだ。永い時をともにするにしたがい人語を操るようになった命の理から外れた獣である。それにしても長い付き合いになるが、これほど慌てた様子を見たことがない。
なにかあったのか。
問う前に男が目の前に躍り出てきた。とっさに琥珀が真珠を庇うように立ちふさがる。
唐突な男の登場よりも、琥珀の狼狽の仕方に真珠は呆気にとられる。が、そんな動揺を一瞬で無表情の仮面に隠して、
「何者か」
冷徹に聞こえるように声を低くする。
男は鎧武者であった。その場で平伏する。
「姫宮さまに奏上したきことありまして、不浄の身ながらまかり越しましてございます」
通常、この宮には女しか近寄れない。真珠が我が身から少しでも銀狼という存在を遠ざけるために、すべての男はこの宮に近づくことまかりならずと触れを出したからだ。
この国唯一の神の依り代たる姫宮の言葉は、王とて逆らうことはできない。
「無礼は承知の上でございます」
なにとぞ。
さらに額を地にこすりつける武者に真珠は眉根を寄せた。承知で禁を破ったと言うのなら理由を聞くべきだと思い、不快を抑えて先を促した。
「なんだ」
武者は低く返事をして恐ろしいことを簡潔に口にした。
「山城透輝がこの宮にのりこんできております」
今、何と言ったのだ。
馬鹿みたいに開けた真珠の口から、これまた馬鹿みたいに言葉がこぼれ出る。
「誰が、のりこんできている、と?」
天狼の姫の威厳というものを取り繕う暇などなかった。
あんまりにも性質の悪い冗談過ぎて、鼻先で笑って吐き捨てる。
「この宮を落とそうというのか、正気の沙汰とは思えん」
「姫宮さま、惟月様を銀狼と認めるとの触れを急ぎ出されませ。さすればこの山に控えた我らが神の使徒としてあの不心得者を討ってみせましょう」
もう去れ、と手ぶりで追い払おうとしたが、武者はなおも顔を上げずに勝手なことをつらつら述べる。
まてまてまて。
何を言い出しているんだ。
真珠は瞬間、目に見えて狼狽した。
惟月というのは確か、当代の山城の弟であったはず、と真珠は頭の中で関係図を引っ張り出す。
父王に愛されて順を乱して惟月が即位するのではと噂になったのはずいぶんと前のことだ。今さら、当主の座を奪おうとしているとは思いもよらなかった。それでもって自分がその後押しをしていることになっているのか。銀狼がどうのと言われるのはつまり、そういうことである。
簒奪者に巻き込まれるとか冗談じゃない。ていうか、山に控えた我らとかいったか? こいつらもつれてきてるのか、兵を! なにを人の家で勝手に全面戦争をしようとしてるのだ!
頭の中で罵倒しながら、それでもややあって平静を取り戻したのは在位百五十年の年の功だ。
「私は惟月なる者は知らぬ。銀狼だと? それでは私が顔も知らぬ惟月とやらと契れとでも申すか。ずいぶんな言い様だな、この私を」
早口に言い放つ。
侮られて怒りに戦慄きが止まらない真珠に、武者は顔を上げて悲壮感すら滲ませて断言した。
「いいえ、あなた様は惟月様を当代の銀狼としてお認めになるのです」
なにを言うのだ、この男は!
とうとう真珠は我慢できずに叫んだ。
「お前は稀代の愚か者か、そうでなければ法螺吹きだ! 夢を見るなら寝ている時に見ろ!」
付き合っていられない。
真珠は眼前に立ちふさがるすべての者に命じた。
「さがれ。不快だ」
なにとぞ、なにとぞ。
犬でも追い払うかのように手を振ってもなお、喚いて真珠の赤と白の装束の裾をつかむ武者を、冷たく見下ろす。
「放せ、無礼者」
一言でもって切って捨てる。冷や水を浴びせたに等しい。
「天狼の姫たる私は惟月などという知らぬ男に加勢をするつもりはない。妙な噂が立つ前にここを去れ」
「姫宮さま」
「早く手を放せ。これ以上、戯言をぬかすようなら琥珀をけしかけるぞ」
従順な僕たる獣は低く唸り声を上げた。
しかし、男は怯むことはなかった。琥珀が飛びかかるよりも前に、武者の刀が真珠の喉元に狙いを定めた。
「ご無礼を」
無礼だと? それどころの問題じゃないだろうが。
いっそ馬鹿馬鹿しくなって真珠は口の端を吊りあげた。
「お前、誰に切っ先を向けているのか理解しているか」
「無礼は承知ですが、姫宮さまには我々に従っていただきます。惟月様の妻になっていただきたい」
「馬鹿も休み休み言え。なぜ、私が簒奪者の夫を持たねばならんのだ。お前ごときが私に命じるか、笑わせるな」
「黙ってください」
「だから、誰に向かってものを言っている。女子供に刃を向けることしかできぬ小物め。それでは主の器も知れるな」
やけになっているというよりは、高揚していた。
「これ以上しゃべらないでください。手元が狂います」
言いながら、怯えているのは男の方だった。真珠は口の端を上げたまま、切っ先に首を突き出す。つぷっと皮膚が破れる音がして、血が流れる。
遠巻きに見ている侍女たちの悲鳴が耳奥で反響した。
「やってみるがいい。お前の上等な主もお前たちが厭うあんまりな王も、誰も私を従わせることなどできはしない」
そうだ。運命すらも。
『全部おいていけ』
夢の言葉が脳内に響く。いいや、私はここよりどこへもいかぬ。言いきってやる。
「私は私以外には従わぬ」
真珠の不敵な宣言に応えたのは、向けられている刀ではなかった。見知らぬ男の、揶揄する声だった。
「あんまり、というのはこういうことか」
知らぬ声が響くと同時に影が現れた。
深い藍色の、どこか異国情緒の漂う装束を身にまとった男は真珠が何か言う前に刀を抜いて、そして収めた。
瞬間、刀を向けていた武者が、緩慢にその身を横たえる。まるで太刀筋がみえなかったどころか、目の前の男がどこから現れたのかすらわからなかった。
もっと驚いたことに、確かに斬られたはずの武者には傷一つなかったことだ。ただ、事切れたように気を失っている。
男はごく平静だった。足元に転がる武者に見向きもせず、かわりに真珠をじっと見つめていた。路傍の石ころを蹴ったとて、もっと足元を気にするだろう。
見つめてくる瞳をそらすような愚は犯さない。
野生の狼のようだ。
まっすぐな黒髪を横にながし、現れた双眸は紛れもなく美しい銀であった。顔つきそのものは繊細といってもいい。この銀の瞳と黒衣さえなければ歌人といっても通るだろう。
が、真珠が一目見て言葉を失ったのは見惚れていたからではない。
お姉様っ!
瞬間、叫びだそうとするのをこらえられたのは奇跡であった。こみあげる懐かしさでは足りぬ、激情とも思しき熱の波が真珠の身体を駆け巡った。衝動のままに目の前の男に駆けよってしまいたいと思っている。
決してまったく同じ顔というわけではないのに、揺れるまつ毛の長さ、真っ直ぐな鼻筋、薄い唇、そういった些細なつくりがどうにも姉そのもののように思われて、真珠は愕然とした。
なぜ、目の前の男に私のお姉様の面影を見ているのだ。
「あんたが天狼の姫とやらか」
姉とは似ても似つかぬ不遜極まる低い声を聞いて、真珠はようやく我に返った。不快を示すように眉根を寄せる。
「宮の者ともども助太刀いただいたことに感謝すべきだろうが、もとからお前たちのまいた種だ。それに思いっきり我らが巻き込まれているわけだが、なにか言うことはあるか。そういえばお前、まだ私に名乗りもしていないな」
思いっきり胸をそらすが、男の背丈はなお高い。十五で背丈が止まってしまった真珠では到底追いつけない。
しかし、結果ではなく何事も心意気というものが大事である。
「山城家が当主、透輝だ。天狼の姫の御前で失礼した」
軽く頭を下げる様がまったく悪びれていない。
「私は当代の姫、真珠である。山城の、許す」
こちらもふてぶてしさを前面に押し出して許しを与える。
山城の当主、ということは真珠の見立て通り、この男が恐れられる不岐の王であった。
「お許しをいただけて有り難い限りだが、御前を荒事で汚したことを謝罪はしても、姫をこの度の反乱に巻き込んだとは思わない」
「なんだ、私が疑われているのか」
硬い表情を揶揄するように、真珠は軽やかに言い放った。透輝はその軽やかさにつられたのか、引き結んだ口の端を僅かに上げた。
「言葉をいくら弄しても意味がないので単刀直入に聞く。姫は我が愚弟と何を企む」
「覚えのないことだな。仮に私がその弟殿と縁があるのならお前はどうするというのだ」
「愚弟ともどもこの宮を灰塵に帰してやるぐらいのことは覚悟していただきたい」
凶悪に微笑んだ男は実に簡潔な答えを返した。
「俺は俺に盾突く者には神ですら容赦しないことにしているし、今はくだらぬことで家中を乱している場合ではない。世界に国はここだけではないのだから」
「言葉通りであれば同感だな」
「今一度問うが、何を企んでいる」
「知らぬ。覚えがない」
事実として、惟月はもう真珠という存在を大義名分として利用している。兵を連れているのだから、いま真珠の口から「否」を聞き出したところで、結果は変わるまい。
じょおぉぉぉだんじゃない。ご免こうむる。
かつて恋いこがれた姫宮の面影を残す男を目の前にして、内心で大いに舌をだしてやる。
「埒が明かんな」
大いにため息をついて、透輝は真珠を睨みつけた。
「選択肢を与えてやる、天狼の姫。この宮ごと灰になるか、あるいは俺に嫁すか、二つに一つだ」
「どういう風の吹き回しだ」
「あんたが認めようとしないのなら、疑わしきを罰するか、さもなくば手元に置いておくしかない。幸い、俺にはまだ妻がいない。よろこべ正室にしてやる」
真珠は唐突に大笑した。
透輝が胡乱な視線を送ってくるにも構わず、ひとしきり笑った。そうしてのち、言った。
「なるほど、私をただの女のように扱うと言うか。面白い、受けて立ってやる」
言葉の意味を正確に把握したのはこの場において、琥珀のみであった。
「姫宮さま、なんということをっ」
悲鳴を上げ、すがりつく。
「ご乱心遊ばされましたか。かような者と婚姻などと」
「私の決定だ、くつがえらぬ」
ばつが悪そうに俯いたまま琥珀は小さく呟いた。
「……作法に則って扱っていただければこちらからは否やはございません」
「ずいぶんと素直だな」
その片眉をあげていらだちを示す様がかつての姉そのもので、自然と真珠は微笑んでいた。とたん、透輝はいぶかしげな顔をした。
「なにがおかしい」
「そんなわけはなかろうと思ったのだ。私がただでお前との婚姻を吞んでやると思うか。条件がある。この乱を治めた後には私を解放しろ。つまり、仮初めの婚姻だ。そしてもう一つ言っておくが、今は儀式の最中ゆえこの宮を離れるわけにはいかんぞ。部屋を用意するゆえ、ひとつきはゆるりと過ごされよ」
「なにか勘違いしていないか。あんたに決定権はない。ことこの場においての全ての生死も宮の存亡も俺が握っている」
「お前、透輝とかいったか」
やれやれ。
真珠はわざと大仰に息をついて見せた。
「私のことを知らんのか。天狼の姫ぞ。母上は語って聞かせなんだか」
「あいにく、神を信じていない不心得者だからな。いずれにしろ戯言だ。姫が天狼の力で瘴気を鎮めて繁栄をもたらすなど、頭から信じているのは馬鹿な我が弟殿か、あんたみたいな神が見えると恥ずかしげもなく喧伝する法螺吹きだけさ」
己の優位を確信しているからこそ、真珠の泰然とした態度が不審でならないのだろう。強い言葉を使うのは立場をわからせたいからだ。しかし、それを言うならこちらも同じことだった。
「神とはどこに宿るか知っているか」
一歩、真珠は歩を進める。脈々と受け継がれる命の川をわたるように。
「善なる心? 美しき行い? それとも無垢なる魂か。どれも違う。習慣にこそ宿るのさ。生まれ落ちてから己が確立するまでずっと、浴びるように天狼という価値観をたたき込まれる。それは糊のようにべったり張り付いて、洗えども洗えども容易にはとれない。では問題だ。そういうふうにして育った民がざっとここらあたりにひしめきあっているのだが、お前のその少ない手勢でどう主導権を握る気だ? よもや、ここがお前たちの言語で言うところの、敵陣のど真ん中であることを忘れたわけではあるまい?」
「あんた……」
透輝もそのあたりの危険性を考えていなかったわけではあるまい。それを引き換えにしてでも焦っているのか、あるいはどうとでもなると思っているのか。
お前がうっかり作ろうとしている敵はさほど甘いものではないと真珠は親切にも教えてやっているのだ。
忌々しそうに口をゆがめる透輝に、真珠はさらに言った。
「武人とただの民草では兵力が違うなどと、詭弁を弄してくれるなよ。同じ人間だ。一騎当千などという言葉はそれこそ寝言よ。仮にお前たちがここを制圧し私を殺したとしても、そこからが我らの本領発揮だ。この山のすべて、麓の村々の住人は死を恐れぬ兵となるだろうよ」
人は己の根幹に関わるものを傷つけられる時、命を担保にして刃をとることがある。まして、信奉する天狼は戦神だ。魂に刷り込まれた闘争の血は身分を問わない。
「で、教えてほしいのだが、ここまで言ってもお前が主導権を握っていると本当に思っているのか、心から?」
「なるほどな。ただのお姫様じゃないようだ」
軽い口調とは裏腹に、透輝の言葉はわずかばかりの苦さが滲んでいた。若者らしい虚勢の張り方だ。
在位百五十年を超える真珠が笑う。
「侮るなよ。私がお前の六倍ほども生きているといっても信じないだろうがな」
「なにが望みだ」
揶揄を無視して、透輝はずばりきく。真珠はわざとあっけらかんと答えた。
「望み? お前は王としての役目を果たせ。私は天狼の姫としての役目を果たし続ける。ただそれだけだ。私とお前は今この瞬間のみ混じり合っただけで、ことがすめばまた平行線だ。私の世界とお前の世界、正しく線を引かれることを望む。この夜の宮はお前のような昼間の人間を必要とはしていない」
すべてはただの取引だ。
透輝はしばし考え込む素振りをした。
「ことが終わった時、あんたが俺の首を狙わない保証は?」
「それこそ考えるだけ無駄だな。そもそもお前が言うところのただのお姫様におとされるほどの安い首か?」
「どうにもそちらさんに都合がよすぎやしませんかね。ひとつきここにいろだの、用がすめば離縁してくれだの、よくも勝手なことばかり並び立てる姫さんだ」
遮ったのは派手な耳飾りをつけた、愛嬌ある顔立ちの男だった。瑠璃、と透輝がその名を呼んだことで、仲間かと真珠は合点する。
先ほどまで姿は見えていなかったのにどこから現れたものか。それにずいぶんと血の匂いがする。そのくせ着ているものに血の一滴もついていないのが恐ろしい。
「あんた、お人よしも大概にしてくださいよ。弟殿の拘束がならないのなら姫さんを城に連れ帰る。そうすれば世はこともなし、です」
殺気を隠そうとしない瑠璃に、何のこだわりもないように真珠は頷いてみせた。
「こともなし? 笑わせるな。惟月とやらを拘束するだのなんだのは好きにすればいい。だが、この宮を巻き込むな。巻き込んだ瞬間、私が号令をかけて戦にする。泥沼だろうな。それも面白かろうよ」
肩を竦めて言う真珠を透輝は睨みつける。真珠は決して目をそらすことはなかった。はたして、根負けしたのは透輝のほうであった。
「神に仕えさせるには惜しいな」
「どういう意味だ」
「それほどの胆力、男であったら俺の配下にほしいということだよ」
合意を得られた、ということか。
透輝の言い方に啞然として、ややあってから真珠は破顔した。
「なら一つ忠告しておこうか」
「なんだ」
「見ての通り、私は美しい」
「……は?」
ぽかんと口を開けたままの透輝に、真珠は一つ大きく頷いた。
「惑わされるなよ、人間」
透輝は僅かに顔を引きつらせていた。とんでもない女だな、と呟いたのが真珠の耳に届く。
「あんた、ちょっとおもしろすぎやしないか」
ため息と同時に吐いた言葉は紛れもなく呆れの色が濃い。真珠は鼻で笑い飛ばした。
「性分だな。立ってしまった波風には全力で乗っかっていくことに決めているのさ、私はな」