はじめに、神より分かたれし三匹の獣あり。
獣は神の伴侶たる姫神子の差配にて国を創りき。
竜が潜む荒雲、虎が跋扈する斑、狼が守護する不岐。
これは、神と人が正しく混じりあひし世の物語なり。
『三獣太平記』
「私を怨みなさい、真珠」
肩口で切りそろえた黒髪が激しく揺れて、玉をすり合わせるがごとき音を奏でる。
姫宮様が──いいえ、私の美しいお姉様が泣いてしまったから。
「許してなどと到底いえない。たった一つの恋のために、あなたを差し出してしまう私の愚かさを、どうして許してもらおうなどと考えることができるでしょう」
姫宮様がこんなふうに人間らしく感情をあらわにしたところを誰も見たことがないに違いない。
氷でできた人形にたとえられるほどの人だ。
切れ長の薄赤い瞳は、艶のあるたっぷりとしたまつ毛で装飾されている。世にも珍しいこの瞳に見つめられれば死んでもいいと思う信奉者は多い。
かくいう私もその一人だった。
「私を世界の果てまで憎んでいいわ。それでも、あなたこそは千年に一人の娘。神に愛されて神を支配する娘。この国をたった一人で永遠に守り続けるのよ、私の真珠」
憎めだなんて、ひどいお姉様。
それどころか、今なお慕わしく思っている。これから永遠に続く孤独を、天狼の姫という大役を私は恐れてはいけないと自分に言い聞かせるほどに。
この瞬間の美しさを抱いて私はたった一人で生きてみせるから、だから、愛して。
たった一人の私を、たった一人のあなたが愛して。
呪詛のごとき願いを吐きだす代わりに、私は私に噓をつく。
「孤独なんて怖くないわ」
声が震えないように早口で囁いた私は気がつく。
あぁ、そうだった。
私のなかで、もう一つの意識が覚醒する。
これはすべて過去の話。
景色は厳かな拝殿でなく、泣きじゃくっていたお姉様も消え去っていた。
なにもない。ただ、白濁した空間が広がるばかりだ。
いやだ。一人はいや。
「おいていかないで、お姉様」
白い闇の中で天狼の姫たる私を取り繕うことなく叫んだ言葉は、確かに心の奥底から出た寂しさだった。
たった一人の、私だけしか知らぬはずの慟哭。
それなのに。
「いいや、全部おいていけ」
響いた聞き覚えのない声が白を引き裂いた。
とたんに世界は極彩色で満たされる。私の知らない花が咲き乱れる、極楽浄土の景色に呆気にとられる。その中で呆然と仰ぎ見たのは見知らぬ男だった。
「だれ」
童女のように問う私を男の美しい銀眼が見下ろす。どんな感情を宿せばそんなに美しく輝くのか。銀の双眸から目をそらすことができない。
瞬間、私にとって男の瞳だけが手に入れるべき星なのだと、妙な確信を抱いた。
ばかな。
未知の感情にたじろぎ浅い息を繰り返す私の頰に、男の手が触れる。触れた端から溶けそうなほど熱い体温だった。
冷たいお姉様の手とはまるでちがう。
心臓が一つ、大きく跳ね上がった。
動揺を飼いならすことのできない私を笑うように、男はもう一度はっきりと言い放つ。
「神も使命もすべて捨てて俺と共に来い、真珠」
「じょおぉぉぉだんじゃないっ」
真珠は叫んで飛び起きた。
勢いで身体に覆いかぶさっていた赤い夜着が空を舞って、落ちる。
今のは私の声、か?
叫ぶなど何年ぶりのことだろう。喉がひりついて小さく咳が出た。
視界の隅でいつもとは違う様子の真珠に怯えた侍女が映ったが、それよりも自己の内面を制すので精一杯だった。
実に恐ろしい夢だった。
孤独への怖れを誰かに救われたがっている、己の心の弱さを表しているかのようじゃないか。
永きにわたって国を守るために身を捧げ、もはや人並みの感情など捨て去ったはずなのに。
「所詮、私も人の子だということか」
呟いた言葉は、真珠が想像するよりもずっと無味乾燥な音として宙に舞った。
が、この宮に、真珠に仕える者にとっては聞き逃すことのできないことであるらしい。
「姫宮さま、そのような!」
払いのけた夜着を拾った侍女が色を失くして声を上げる。
「世にまたとない身分でございますのに、只人であるかのようなおっしゃりよう。たとえ姫宮さまのお言葉とはいえ、この宮にいる者たちは誰一人として賛同いたしませんよ」
そう言った視線は雄弁に真珠の輪郭をなぞっている。憧れと、ほんの少しの怖れの色で。
世にまたとない身分、とは言い得て妙だ。
緑豊かな安寧の国、不岐。
この国では神──天狼に祈りを捧げる宮はここより他は存在しない。天狼が姿を現すのは聖域と呼ばれるこの山のみだからだ。
神と邂逅するのは、この場所でしかありえない。そのため、あちこちに神の宮をつくったところで無駄なのであった。ゆえに不岐にたった一つしか存在しないこの宮に識別する名など必要なく、ただ『宮』と呼ばれるばかりだった。そうして自然、宮の主たる姫も『姫宮』と称されている。正しくは『天狼の姫』だが、神の名をやすやすと口にする不遜な者はこの宮には存在しない。
身分ばかりではない。
艶やかな黒髪と静脈まで透けるような白い肌を持つ、類まれなる美貌。だがこの美しさを加えても人を従属させるにはまだ足りない。
濁ることなく永遠に循環する、鮮烈なる紅。
真珠に宿る天狼とそろいの真紅に輝く瞳こそが、不岐の民をことごとく従えるのだった。
「確かにお前の言うとおり、こんななりでは人というより化け物の類に違いないね、私は」
「なんという仰りようでしょう」
さめざめと泣き始める侍女をまったくの他人事のように眺めていた。
わざと侍女をなじるような言葉を吐いて泣かせても、か弱き涙になんら心動かされることはない。罪悪感すら、湧き上がってはこないのだ。
やはり、私はもう人には戻れぬ。
そう胸中で呟いた言葉に、乾いた心が不意にざわめいた気がして胸を押さえた。
『俺と共に来い』
夢の男の声が、唐突によみがえる。
いいえ、とうに置いていったのだ、人の全てを。どうして共になど行けようか。
否定して、そうじゃないと真珠の感情が叫ぶ。
衝動で胸を押さえてもなお、騒ぐ動悸が静まらない。
不吉だ。
まるで、今日を限りに世界が変わってしまうような。
思うように制御できない心を抱いて、真珠はぐらりと傾いだ身体をなんとか持ち直した。
息を吞んだ侍女に、真珠は言葉とは裏腹ににっこりと笑いかける。
「すまない、なんだかとても疲れているようだ」
ようようと寝台から下りた真珠は歩きながら着衣の乱れを適当に直した。普段からはありえぬざっくばらんな有様だったが、もはや何事も気にすることが億劫だった。ほとんど身体に布切れが引っかかっているようだったのが、ようやく着物としての尊厳を思い出して真珠の身体の線を緩くなぞる。
縮こまった侍女から水差しを受け取り、真珠は中身をたらいに注ぐ。水晶を削り出した一級品であるこのたらいは、優美なことを尊んだ三代目姫宮の遺物である。
本来はここに水を張って金魚でも放して眺めるものらしいが、まったく実用的でないので真珠は顔を洗うのに使っている。
いつか侍女の誰かがもったいない、と呟いていたが、金魚に水晶のほうがよっぽどもったいない、こういうものは使い倒してこそだと言い放った真珠は、繊細な見た目を裏切る豪儀さを持ち合わせている。
「これがどんないわくのあるものか、知っているか」
「確か、三代目様の秘蔵品であったと」
「そう、三代目は美しいものがお好きでね。王から銀狼の承認をいただきたいと乞われた折に、せしめたものだ」
「銀狼、とは」
「絶えて久しい我が夫となるものの位、神宿す姫の承認を得た地上の王だ。彼らはいつも天からのお墨付きを欲しがっている。私の力と引き換えにね」
真珠が神の娘であるなら、銀狼は人の王だ。姫宮不在の間、瘴気と戦うことを義務づけられた地上の王、それが銀狼である。
つまり、姫宮が銀狼を選ぶときはおのずと自らの力の終わりを意味している。
それは、この宮にいるものにとって不吉以外の何物でもなかった。
「恐ろしいこと」
「そうだろうな。だからこそ、三代目はありもしない蓬萊の玉なぞを欲しがったのだろうさ。山ほどの玉を贈られても、三代目は自らの地位を降りることはなかった。ただ一つ、蓬萊の玉を見せねば嫁すことまかりならぬと言って」
到底世に存在しないものをねだることによって、お前のものにはならぬと王に告げたのだ。
だが、それだけではあるまいと真珠は思っている。
後に宝玉姫とあだ名された三代目は、その異名通り美しい玉をことのほか愛した。それは永遠を生きる寂しさゆえのことだろう。
命あるものとは違い、朽ちることなく永遠に残り続けるものに慰めを見出したに違いなかった。だからこそ、その愛する永遠を宿す玉を見せられれば、彼女は屈してやろうと思ったに違いなかった。
運命に対し、私を奪ってみせろと啖呵をきったのだ。
そういう種類の勝ち気さは、どこか自分と似ていると真珠は密かに思っていた。
「ねぇ、外はもう雨はやんだだろうか」
「はい、明けがたまでは降っておりましたが、いまはもうすっかり」
「けっこう。なら今日も務めを果たそうじゃないか」
「朝露が冷とうございますよ」
「私は化け物の類だからね。なにほどでもない」
混ぜっ返すような言い方をした真珠に、侍女は肩を揺らした。
「先ほどは何という無礼を」
真珠から濡れた手ぬぐいを受け取り、平伏しそうになるのをさすがに慌てて止める。
「いや、我が身を化け物などと言った私の意地が悪かったのだ。どうにも、夢見が悪くて」
「……姫宮さま」
真珠が肩を跳ね上げて驚いたのは、その静かな呼び声ではなかった。
温かい両手が真珠の白い手をそっと握りこんだからだ。
そうして侍女は、まるで秘密を告白するかのように言った。
「私はどこまでも姫宮さまのお味方でございます。私だけでなく、宮の者すべてです。宮の者はみな姫宮さまに救われた者たちですもの。この命を差し出しても惜しくはございませんわ」
宮に住む者たちはほとんどが真珠に拾われた、あるいは真珠を頼ってきた女たちだった。不岐が豊かな国とはいえど、どうしてもつまはじきになる者たちはいる。そしてその多くは弱い女子供だった。
彼女たちはみな真珠をたった一人の己の神のように思っている。親愛というよりは、それは正しく信仰であった。
思いつめた瞳で覗き込む侍女に、真珠は寂しさを宿した微笑で応えた。
彼女の手は柔らかなぬくもりと、どこか異国情緒のある花の香りを真珠に伝えた。
変わった香だ、と鼻をひくつかせながら瞳を閉じる。
どこかでかいだことのあるような、いや気のせいか。
夢見が悪かったせいで、いつもより何もかもが判然としなかった。ともあれ、すべてはどうでもいいことだ。日々をただ生き続けるだけの自分には、波風など無縁なのだから。
ゆっくりと、眼を開けた。
几帳の隙間から冬の冷たい空気とともに陽の光が入って、ゆるく寝所を照らしている。
なにも変わらない、真珠の世界。そうだ、変えてはならない。
姉への愛に殉じるために、死んだように生きねばならない。
それを奪おうというのなら。
「……やってみるがいい、銀狼め」