1──神のまにまに 第一話

 はじめに、神より分かたれし三びきけものあり。

 獣は神のはんりよたるひめの差配にて国をつくりき。

 りゆうひそあらくもとらばつするまだらおおかみが守護する

 これは、神と人が正しく混じりあひし世の物語なり。

さんじゆうたいへい




「私をうらみなさい、しんじゆ

 かたぐちで切りそろえたくろかみが激しくれて、ぎよくをすり合わせるがごとき音をかなでる。

 ひめみや様が──いいえ、私の美しいお姉様が泣いてしまったから。

「許してなどととうていいえない。たった一つのこいのために、あなたを差し出してしまう私のおろかさを、どうして許してもらおうなどと考えることができるでしょう」

 姫宮様がこんなふうに人間らしく感情をあらわにしたところをだれも見たことがないにちがいない。

 氷でできた人形にたとえられるほどの人だ。

 切れ長のうすあかひとみは、つやのあるたっぷりとしたまつ毛でそうしよくされている。世にもめずらしいこの瞳に見つめられれば死んでもいいと思うしんぽう者は多い。

 かくいう私もその一人だった。

「私を世界の果てまでにくんでいいわ。それでも、あなたこそは千年に一人のむすめ。神に愛されて神を支配する娘。この国をたった一人で永遠に守り続けるのよ、私の真珠」

 憎めだなんて、ひどいお姉様。

 それどころか、今なおしたわしく思っている。これから永遠に続くどくを、てんろうの姫という大役を私はおそれてはいけないと自分に言い聞かせるほどに。

 このしゆんかんの美しさをいて私はたった一人で生きてみせるから、だから、愛して。

 たった一人の私を、たった一人のあなたが愛して。

 じゆのごとき願いをきだす代わりに、私は私にうそをつく。

「孤独なんてこわくないわ」

 声がふるえないように早口でささやいた私は気がつく。

 あぁ、そうだった。

 私のなかで、もう一つの意識がかくせいする。

 これはすべて過去の話。

 景色はおごそかなはい殿でんでなく、泣きじゃくっていたお姉様も消え去っていた。

 なにもない。ただ、はくだくした空間が広がるばかりだ。

 いやだ。一人はいや。

「おいていかないで、お姉様」

 白いやみの中で天狼の姫たる私を取りつくろうことなくさけんだ言葉は、確かに心の奥底から出たさびしさだった。

 たった一人の、私だけしか知らぬはずのどうこく

 それなのに。

「いいや、全部おいていけ」

 ひびいた聞き覚えのない声が白を引きいた。

 とたんに世界はごくさいしきで満たされる。私の知らない花がき乱れる、極楽じようの景色にあつにとられる。その中でぼうぜんあおぎ見たのは見知らぬ男だった。

「だれ」

 童女のように問う私を男の美しい銀眼が見下ろす。どんな感情を宿せばそんなに美しくかがやくのか。銀のそうぼうから目をそらすことができない。

 瞬間、私にとって男の瞳だけが手に入れるべき星なのだと、みような確信をいだいた。

 ばかな。

 未知の感情にたじろぎ浅い息をり返す私のほおに、男の手がれる。触れたはしからけそうなほど熱い体温だった。

 冷たいお姉様の手とはまるでちがう。

 心臓が一つ、大きくね上がった。

 どうようを飼いならすことのできない私を笑うように、男はもう一度はっきりと言い放つ。

「神も使命もすべて捨てて俺と共に来い、真珠」



「じょおぉぉぉだんじゃないっ」

 真珠は叫んで飛び起きた。

 勢いで身体からだおおいかぶさっていた赤い夜着が空をって、落ちる。

 今のは私の声、か?

 叫ぶなど何年ぶりのことだろう。のどがひりついて小さくせきが出た。

 視界のすみでいつもとは違う様子の真珠におびえたじよが映ったが、それよりも自己の内面を制すのでせいいつぱいだった。

 実に恐ろしい夢だった。

 孤独へのおそれを誰かに救われたがっている、おのれの心の弱さを表しているかのようじゃないか。

 ながきにわたって国を守るために身をささげ、もはや人並みの感情など捨て去ったはずなのに。

しよせん、私も人の子だということか」

 つぶやいた言葉は、真珠が想像するよりもずっと無味かんそうな音として宙に舞った。

 が、この宮に、真珠に仕える者にとっては聞きのがすことのできないことであるらしい。

「姫宮さま、そのような!」

 はらいのけた夜着を拾った侍女が色を失くして声を上げる。

「世にまたとない身分でございますのに、ただびとであるかのようなおっしゃりよう。たとえ姫宮さまのお言葉とはいえ、この宮にいる者たちは誰一人として賛同いたしませんよ」

 そう言った視線はゆうべんに真珠のりんかくをなぞっている。あこがれと、ほんの少しの怖れの色で。

 世にまたとない身分、とは言いて妙だ。

 緑豊かなあんねいの国、

 この国では神──天狼にいのりを捧げる宮はここよりほかは存在しない。天狼が姿を現すのは聖域と呼ばれるこの山のみだからだ。

 神とかいこうするのは、この場所でしかありえない。そのため、あちこちに神の宮をつくったところでなのであった。ゆえに不岐にたった一つしか存在しないこの宮に識別する名など必要なく、ただ『宮』と呼ばれるばかりだった。そうして自然、宮のあるじたる姫も『姫宮』としようされている。正しくは『天狼の姫』だが、神の名をやすやすと口にするそんな者はこの宮には存在しない。

 身分ばかりではない。

 つややかな黒髪と静脈までけるような白いはだを持つ、たぐいまれなるぼう。だがこの美しさを加えても人を従属させるにはまだ足りない。

 にごることなく永遠にじゆんかんする、せんれつなるあか

 真珠に宿る天狼とそろいのしんに輝く瞳こそが、不岐のたみをことごとく従えるのだった。

「確かにお前の言うとおり、こんななりでは人というより化け物の類に違いないね、私は」

「なんというおつしやりようでしょう」

 さめざめと泣き始める侍女をまったくの他人ひとごとのようにながめていた。

 わざと侍女をなじるような言葉を吐いて泣かせても、か弱きなみだになんら心動かされることはない。罪悪感すら、き上がってはこないのだ。

 やはり、私はもう人にはもどれぬ。

 そう胸中で呟いた言葉に、かわいた心が不意にざわめいた気がして胸を押さえた。

『俺と共に来い』

 夢の男の声が、とうとつによみがえる。

 いいえ、とうに置いていったのだ、人のすべてを。どうして共になど行けようか。

 否定して、そうじゃないと真珠の感情が叫ぶ。

 しようどうで胸を押さえてもなお、さわどうが静まらない。

 きつだ。

 まるで、今日を限りに世界が変わってしまうような。

 思うようにせいぎよできない心を抱いて、真珠はぐらりとかしいだ身体をなんとか持ち直した。

 息をんだ侍女に、真珠は言葉とは裏腹ににっこりと笑いかける。

「すまない、なんだかとてもつかれているようだ」

 ようようとしんだいから下りた真珠は歩きながら着衣の乱れを適当に直した。だんからはありえぬざっくばらんな有様だったが、もはや何事も気にすることがおつくうだった。ほとんど身体に布切れが引っかかっているようだったのが、ようやく着物としての尊厳を思い出して真珠の身体の線をゆるくなぞる。

 縮こまった侍女から水差しを受け取り、真珠は中身をたらいにぐ。すいしようけずり出した一級品であるこのたらいは、優美なことを尊んだ三代目姫宮の遺物である。

 本来はここに水を張って金魚でも放して眺めるものらしいが、まったく実用的でないので真珠は顔を洗うのに使っている。

 いつか侍女のだれかがもったいない、と呟いていたが、金魚に水晶のほうがよっぽどもったいない、こういうものは使いたおしてこそだと言い放った真珠は、せんさいな見た目を裏切るごうさを持ち合わせている。

「これがどんないわくのあるものか、知っているか」

「確か、三代目様の秘蔵品であったと」

「そう、三代目は美しいものがお好きでね。王からぎんろうしようにんをいただきたいとわれた折に、せしめたものだ」

「銀狼、とは」

「絶えて久しい我が夫となるものの位、神宿す姫の承認を得た地上の王だ。彼らはいつも天からのおすみきを欲しがっている。私の力と引きえにね」

 真珠が神のむすめであるなら、銀狼は人の王だ。姫宮不在の間、しようと戦うことを義務づけられた地上の王、それが銀狼である。

 つまり、姫宮が銀狼を選ぶときはおのずと自らの力の終わりを意味している。

 それは、この宮にいるものにとって不吉以外の何物でもなかった。

おそろしいこと」

「そうだろうな。だからこそ、三代目はありもしないほうらいぎよくなぞを欲しがったのだろうさ。山ほどの玉をおくられても、三代目は自らの地位を降りることはなかった。ただ一つ、蓬萊の玉を見せねばすことまかりならぬと言って」

 とうてい世に存在しないものをねだることによって、お前のものにはならぬと王に告げたのだ。

 だが、それだけではあるまいと真珠は思っている。

 後にほうぎよくひめとあだ名された三代目は、その異名通り美しい玉をことのほか愛した。それは永遠を生きるさびしさゆえのことだろう。

 命あるものとはちがい、ちることなく永遠に残り続けるものになぐさめを見出みいだしたに違いなかった。だからこそ、その愛する永遠を宿す玉を見せられれば、彼女はくつしてやろうと思ったに違いなかった。

 運命に対し、私をうばってみせろとたんをきったのだ。

 そういう種類の勝ち気さは、どこか自分と似ていると真珠はひそかに思っていた。

「ねぇ、外はもう雨はやんだだろうか」

「はい、明けがたまでは降っておりましたが、いまはもうすっかり」

「けっこう。なら今日も務めを果たそうじゃないか」

あさつゆが冷とうございますよ」

「私は化け物の類だからね。なにほどでもない」

 混ぜっ返すような言い方をした真珠に、侍女はかたらした。

「先ほどは何という無礼を」

 真珠かられた手ぬぐいを受け取り、へいふくしそうになるのをさすがにあわてて止める。

「いや、我が身を化け物などと言った私の意地が悪かったのだ。どうにも、夢見が悪くて」

「……姫宮さま」

 真珠が肩をね上げておどろいたのは、その静かな呼び声ではなかった。

 温かい両手が真珠の白い手をそっとにぎりこんだからだ。

 そうして侍女は、まるで秘密を告白するかのように言った。

「私はどこまでも姫宮さまのお味方でございます。私だけでなく、宮の者すべてです。宮の者はみな姫宮さまに救われた者たちですもの。この命を差し出してもしくはございませんわ」

 宮に住む者たちはほとんどが真珠に拾われた、あるいは真珠をたよってきた女たちだった。不岐が豊かな国とはいえど、どうしてもつまはじきになる者たちはいる。そしてその多くは弱い女子供だった。

 彼女たちはみな真珠をたった一人のおのれの神のように思っている。親愛というよりは、それは正しくしんこうであった。

 思いつめたひとみのぞき込む侍女に、真珠は寂しさを宿したしようこたえた。

 彼女の手はやわらかなぬくもりと、どこか異国じようちよのある花のかおりを真珠に伝えた。

 変わったこうだ、と鼻をひくつかせながら瞳を閉じる。

 どこかでかいだことのあるような、いや気のせいか。

 夢見が悪かったせいで、いつもより何もかもが判然としなかった。ともあれ、すべてはどうでもいいことだ。日々をただ生き続けるだけの自分には、波風などえんなのだから。

 ゆっくりと、を開けた。

 ちようすきから冬の冷たい空気とともにの光が入って、ゆるくしんじよを照らしている。

 なにも変わらない、真珠の世界。そうだ、変えてはならない。

 姉への愛にじゆんじるために、死んだように生きねばならない。

 それを奪おうというのなら。

「……やってみるがいい、銀狼め」

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