接続章 『夜のこと/旅の始まり』
接続章『夜のこと/旅の始まり』
1
「──こういうの、ちょっと懐かしいね」
エイネのそんな
ちょうど同じようなことを考えていたからだ。
「ラミは昔からいろんなことに首を突っ込んでたけど、そういえば料理だけは苦手だったよね。いつの間に克服したの?」
「エイネの要求ハードルが高すぎるだけだろ。別に苦手ってほどでもなかったよ」
からかうように告げたエイネに、ラミは怒るでもなく肩を
夜のことだった。再会し、聖都を
最初の夜だけは
てきぱきと火を
その手際に感心したエイネに対し、「修行時代は、まともな寝床にありつけるほうが珍しかったからな。必要に駆られて覚えたんだよ」と哀愁を誘う答えのラミだ。
街道沿いに危険な動物など出ないし、盗賊なんて存在は百年ほども昔に絶滅した。仮に片獣や、その他の脅威があったとしても、ふたりなら襲われるより先に察知する。たとえ眠っていたところでだ。
「ときどきキャンプとかやったよね」
そんなエイネの言葉に、ラミは
「田舎だったしな。ほかに遊ぶことがなかったとも言う」
「何もないところだったもんねー。ちょっと出ればリスリアの街があったけど、ホントに小さいときはなかなか遊びにも行けなかったし」
「言うほど、エイネはリスリアまで出かけることなかっただろ。俺とアウリはよく街まで行ってたけど……ほら、シシュー聖下がリスリアまでお見えになったときとか」
アウリ、というのはエイネの実の妹──アウリ=カタイストのこと。
ラミとエイネよりふたつ年下で、今もまだ故郷の村でふたりの帰りを待っている。よく三人で悪さをしたものだから、離れるときは泣かれたのをラミは覚えていた。
彼らの故郷は、山間にあるゼリヤという名の小さな村だ。
ふたりはそこで生まれ育った。
と言っても、エイネとアウリの姉妹の両親は不明で、親戚筋という夫妻が後見人として引き取ってくれている。ラミも早くに両親を亡くし、姉妹と家族同然に暮らしていた。
「アウリは元気にしてるかな……してるといいな」
小さく呟くエイネ。
ただひとり血を分けた妹を、彼女がとても大切に思っていることをラミは知っている。
こうして
「その気になれば、お前ならアウリの様子を確かめられるんじゃないか?」
ラミは言う。
命数術のひとつには、自身の視力/視界を強化/延長する《
多くの命数術師が覚えている、基礎的ながら便利な術だ。
とはいえ、同じ術でも術者によって効果に違いが出るのが命数術である。
「やろうと思えばできるけどね」
簡単に言ってのけるが、少なくともラミでは、この場所から
およそ命数術とは《
ラミの生まれ持つ命数では、この場から数百キロ以上離れた故郷の様子を知ることなどできない。それが可能である運命を持っていない、命数が足りない──ということ。
これはラミが劣っているというより、そもそも無理難題だった。
神子は特別なのだ。
神子であるというだけで、彼女たちの命数は無限に等しい。それほどの命数を持つことが、逆を言えば、神子を神子たらしめる条件であるのかもしれなかった。
「だからって覗きはよくないよ。ラミもそういう風に命数を使っちゃダメなんだからね」
「覗きって……いや、そもそもオレにはできねえっつーの」
「できたらやるってコト?」
「言葉の
「ふふ。まあ確かに長い旅になるからね、ラミが持て余すのも無理はないかー」
ニヤニヤと笑ってからかってくる
数年振りに再会したばかりであることを
「そういう話だったっけ今の?」
「──覗くなら、うん。私だけにしておくべきだよ」
「だからやらないっつってんだろうが!」
叫ぶラミ。そんな様子を、エイネは心底から楽しそうに眺めている。
だからラミも、仕方ないか、なんて風に思ってしまうのだ。
昔から、こうしてからかわれることは多かった。とはいえなんだか、方向性が変わってきた気もするけれど、──それでもエイネが楽しそうなら、まあいいかと許してしまう。
かつてと何も変わらない、ふたりでいられることが
「……ああ。こんな感じも懐かしい」
エイネはそう、
幼い頃を思い出しているのだろう。ラミも静かに
──いつだって、この幼馴染みは隣にいた。
※
ふたりの故郷である《ゼリヤ》は、王国の東外れに位置するごく平凡な農村だ。
そしてそれは、ラミにとっては狭すぎる世界だった。
危険だからという理由で、子どもはなかなか村から出してもらえない。仮に出ることができても街までは行かせてもらえない。行けても大人といっしょになってしまう。
けれど、それでは自由がない。面白くない。
この当時、ふたりはそろそろ十二になる年だった。
家の手伝い以外に、何か別の仕事を、ひとりの人間として持っていい頃だ。かといって村から出られないような、面白くない役目を振られるのも困る。
ラミには、目標があったから。
「──やっぱ
ことあるごとに口に出しているラミの夢を当然、幼馴染みのエイネは知っていた。
「騎士になるだけなら、教会に行けば済む話じゃない?」
「そんなんじゃ出世できないだろ。俺がなりたいのはただの騎士じゃない、騎士の頂点、神子様をお守りする
ほとんど口癖のようなラミの夢。
だからエイネも、そんなことはとっくに知っていた。
「騎士になるためには、命数術を習得しなければならない。君の本当の目的は、街に出て商人から命数術の教本を手に入れること、ってわけか」
「……まあね。ちょっと値が張るし、そもそもこんな村まで出回ってこないからなあ」
やがて村を出て、力をつけ、教会騎士になって人々を守る。
何度も語ったラミの夢。だが、その実現はそれこそ夢物語で。
「……そういや、エイネって夢はないのか?」
ふと気になって、ラミはエイネにそう
エイネは軽く微笑んでラミに答える。
「私自身の夢ってのは、特に思いつかないかな」
「そうなのか?」
「うん。だけど私は、ラミが夢を
「……そっか。それなら、ずっといっしょだな!」
子どもらしい約束。未来の明るさを疑いなく信じているがゆえの、尊い誓い。
エイネはくすりと
「ま、今のラミじゃ無理だと思うけど」
「……それだよなあ」
エイネのベッドに腰を下ろしたまま、ラミは自分の右の
それから数秒。ふと、彼の右手が
命火だ。命数術を行使している
「──《
呟き、ラミは部屋の反対側に備えられている本棚へと、鈍色に輝く右手を伸ばした。
すると次の瞬間、本棚から一冊の古本が飛び出し、ラミの右手へすっと収まる。
命数術によって起こされた現象だ。
時間の短縮と、解釈の拡大。これが命数術の大きな利点である。
ラミの命数において、本棚にある書物を取り出すという行為は可能なことだ。だから、それは命数術によっても可能となる。そういうこと。
その本を手に取れる運命の強さがあれば、向こうから勝手に手に収まった。
ラミが取り出した書籍は、この村で一冊だけ手に入った命数術の、初歩の初歩の教本である。これを読むことで、ラミとエイネはほとんど独学のまま命数術を習得していた。
とはいえ。
「……やっぱダメだな。この程度が限界だし、しかも普通に取ったほうが早い……」
「そうだね。もう少し高度な教本がないと、これ以上は難しいかもだ」
言うなりエイネは、ラミと同じように命火を自らの手に灯す。
鮮やかで力強い
命火の色合いは生まれつき決まっている。色自体に優劣はないとされているが、鈍色という地味な色合いの自分に比べ、純炎に近いエイネの命火はとても
「ラミにはそろそろ、次の段階に進んでもらわないと」
エイネが軽く指を振ると、その動きに誘われる形で、教本がラミの手元から本棚へ再び仕舞い込まれた。ラミに比べて、明らかに洗練された命数術の技量である。
離れたものを手元へ取り寄せる《手得》とは逆に、離れた場所へ物体を送る《
「……ぐぬ」
何度も何度も、擦り切れるほど読み潰した本。けれど同じだけの鍛錬を行っていても、ラミの実力はエイネに比べれば遥かに劣る。
才能が違うのだ。自身の総命数が、エイネを遥か下回っていることはラミにもわかる。
この事実には、ラミもわずかな劣等感を抱かずにいられない。
なにせエイネはラミと違い、命数術そのものにはさしたる興味がないのだから。親友のラミがやっているから、自分もいっしょに学んだだけ。
それが嫉妬に腐ることなく、前向きな向上心に変わっていることは、それだけふたりの仲が微笑ましいものだということなのだろう。
家族とも、兄妹とも違うけれど。あるいはそれ以上の
文字通りにお互いを、己の半身として認識しているのだ。
「今に追いついてやるからな。見てろよ、エイネ?」
「うん、楽しみにしてる。だけどやるからには、私だって負けないよ」
──エイネはすごい。
物心つく前から、ラミはずっと幼馴染みを尊敬し続けている。その隣に在るため努力を重ねている。だからこそ、エイネもまたラミとともにあることが嬉しいのだ。
「よし。そうと決まったとこで、このあとちょっと組手やろうぜ」
ラミはエイネをそう誘った。これはふたりの日課なのだ。
体を鍛え、かつ同時に命数術も学ぶ。
そうでなくとも田舎の子どもは、多少の格闘くらい学ぶもの。
術の
エイネも年齢と性別を考えれば驚異的な運動能力を持っているが、体を動かすことなら誰にも負けない──これは、ラミにとってひとつの自慢だった。
「いいよ。なんなら命数術なしの体術一本勝負でも」
「お、言ったな? その条件じゃ、エイネに負ける気がしないね」
「そっちこそ。甘く見てると足を
「──よっしゃ、やろうぜ! あ、でも術アリ戦でもな。そっちも勝ちたい」
「そっちでは、私はラミに負ける気がしないけどね」
こんな風に話しては、しょっちゅう村で殴り合っているふたりだ。それが
「強くならないとな」
ラミは笑う。そのために、競い合える幼馴染みがいることは──けれど幸運だったのか。
このとき、まだラミは知らなかったのだ。
エイネの
※
「今思えば、村でやってた訓練なんて大したもんじゃなかったな」
苦笑して呟くラミに、だけどエイネは首を振って。
「そうでもないよ。少なくとも、やらないよりはだいぶマシだったって私は思うけどな」
「そのレベルで言えばそうかもしれないけど」
「何もできない状態で、ジャニス師匠の訓練に投げ出される自分を想像してみなよ」
「……それは、考えたくないな。確かにそれよりはずっとマシだ」
ラミは、自分を今の場所まで連れてきてくれた恩人──騎士としての師を思い出す。
ジャニス=ファレル。
ラミやエイネと同じ守護十三騎、それも第三席に位置する女傑である。彼女の薫陶なくして、ラミがこの若さで現在の地位に
「師匠の訓練は地獄だったからなー……できなきゃ死ね、とか真顔で言うんだもん」
「ラミは強くなったよねー。ま、それでもまだまだ私には届かないけど?」
「……言ってろ。いつか追い抜いてやるからな」
悪戯っぽく告げたエイネに、真正面からラミはそう応じた。
神子という、競うほうが馬鹿らしいような才能。紛れもない命数術師の頂点。
そのエイネに対してさえ、幼い頃からずっと変わらず対抗心を抱き続けているのがラミという青年だった。
かつて故郷にいた頃、彼女がずっと実力を隠していたことを知った今でもなお、だ。
「だから、私はラミが好きだよ」
そんなこと言ってエイネは微笑む。
神子という立場を気にせず、いつまでも幼馴染みのままあってくれることが、どれほど救いになっていることか。顔を背けて恥じらうラミには、きっとわからないのだろう。
「もう寝ろ。……旅は始まったばっかなんだぞ」
「うん。──お休み、ラミ。いい夢を」
消えた炎の向こうで、少女は
穏やかな表情が意味する