第一章 『聖女と騎士』2
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ワーツ=フゥシィは旅の命数術師である。
その目的は研究だ。多くの命数術師は教会所属の騎士になるが、彼のような変わり者も中にはいる。命数術を戦いの武器ではなく、あくまで研究手段/対象として見る者だ。
そしてワーツは今、絶体絶命の窮地に陥っていた。
「は、は……あ、もうっ、参ったな、ああ、くそぅ……!」
だだっ広い平野を必死に駆けるワーツ。
その背後を、異形の怪物が追ってきているのだ。
「ぼ、ボクの命数も、ここまで、かな……!? はは……本当、参った」
軽い口調で吐き出される言葉。当然、それが事態を好転させることはない。
現実逃避のひと言だ。本当に現実を見るのなら、
それが聞こえていたわけでもなかろう。
あるいは、聞こえたところで意味を理解することもなかろうに。
にもかかわらず背後の怪物は、まるでワーツの泣き言を塗り潰すように
「──ひ、」
それが彼には
もう限界だ。彼の体力は全力で走っているということ以上に、足を止めれば死ぬという当然の理解に奪われている。ここまで逃げられたこと自体、奇跡みたいなものだった。
当然の結果として彼の足はもつれ、逃避行は地面に体を投げ出すことで終わる。
地べたを転がったワーツ。その視界に、怪物の全身が再び捉えられて。
──怪物は、たとえるならば無色の炎の塊に似ていた。
輪郭は獣のそれだが、
それが
ヒトを殺す怪物。
喰べるためではなく、身を守るためでもなく、ただ殺すためだけに殺す異形の生命。
その大型の熊にも似た威容に、ワーツは呼吸を止められていた。息の吸い方を、
いや。それよりも早く、殺されるほうが先だろうか。
「く──くそぅ」
もはやワーツにできることは、神に祈りを
とはいえ。仮にも命数術師の祈りならば、それが現実に影響することもあった。
「──《母なる神と、そして大地に
聖句。信徒が神に捧ぐる祈りのことば。
「──《
瞬間。ふたつのことが起こった。
「《
言葉と同時に、
その色は薄い緑。個々人によって異なる、それがワーツの
己が命火に熱を持たせ、勢いよく放つことで外敵への攻撃とする命数術だ。彼に使える術の中では、最高の火力を持つものでもあった。
勢いよく渦を巻き、一直線に伸びていく薄緑の火炎。
それは
だが。この場で起きたふたつ目のこと。
熊の
たったそれだけで、ワーツの最後の抵抗が完全に
それこそ、降りかかる火の粉を軽く
「そん、な……」
ワーツの心を支えていた、最後の何かが、そのとき砕けた。
当然だ。所詮は戦いの訓練を積んだわけでもない、単なるはぐれの命数術師の一撃に、このレベルの片獣を倒す攻撃力はない。彼が旅の途中で行き遭ってしまった脅威は、その発生場所によっては多数の犠牲を生んでいたことだろう。
広い視点で見るのなら、犠牲が彼ひとりで済むことはむしろ幸運と言っていい。
自然発生的に、どこからともなく現れる片獣。その命火の
それでも、彼の最後の小さな抗いは、決して無意味だったわけではない。
確かに意味を生んでいた。それもふたつ。
そのひとつは、ワーツの命をほんの数秒であっても永らえさせたことである。おそらく《砲炎》の一撃がなければ、最初の腕のひと振りは彼自身に与えられていただろう。
ほんの数秒の延命。
それだけでは意味などなく、死の運命は依然として目の前だ。
だが。結論を言えば、ワーツの最後の抵抗は──確かにこのとき、彼の命を救った。
この場で起きたふたつ目のこと。
それは一瞬の抵抗によって生んだ時間に、救いの手が間に合ったということである。
突然だった。
目の前まで迫っていた片獣が、いきなり真横へと吹き飛んだ。どこからともなく飛んできた攻撃によって、強制的に吹き飛ばされたのである。
「え──ええぇっ!?」
混乱するワーツの目前で、状況は目まぐるしく変化していく。
新たな片獣が、自分に追いついてくる姿を目にしたのだ。現れた片獣は、何も一体だけではなかった。だが今度こそ、と思う間さえなく。
「──ちょっと動かないでくださいね──っ!!」
そんな
そして彼の目の前で、こちらへと近づいてくる四足の片獣が、真後ろから猛スピードで迫ってきた四輪鋼騎に
その破壊力に耐え切れず、
この世界での存在力を保つ命数が途切れたということだ。
「うっし、さすが鋼騎! 動力が命数術なだけあって片獣にも効くな! 高い金を払って手に入れただけはある……!」
そんな声とともに、土煙とブレーキの音が鼓膜を揺さぶった。
ここでようやく、ワーツはさきほどまでの声が術で届けられたものだと気がついた。
目の前で停止した鋼騎。
その運転席からひとりの青年が降りてきて、ワーツの前に立つ。
若い青年だ。ワーツよりずっと年下、まだティーンだろう。だが鍛え抜かれた肉体と、何よりその片目で揺らめく鈍色の命火が、強力な命数術師であることを告げていた。
「っと、大丈夫ですか?」
青年は人好きのする笑顔で、ワーツに片手を差し伸べてきた。そして、その行為と並行して、空いた左手からワーツの後方へと鈍色の炎弾を発射していた。
背後から着弾音が響いてくる。その一撃で、さらに新たな片獣を撃破したのだろう。
──すごい……!
恐れではなく、畏れから。仮にも命数術師の端くれとして、ワーツにはその洗練された戦闘技術が理解できた。
命数術の才能は、何より生まれ持った命数によって左右される。
だが。彼のそれはあくまで技術によるものだ。聖句の詠唱を省略し、術の名を口にすることさえなく、ただの一撃で片獣を倒し続ける技量──。
それは
「あ、ありがとうございます……っ!」
助かったのだ。その実感が、ワーツを硬直から解放した。
救い主の手を取って急ぎ立ち上がる。
「まさか、教会騎士の方が通りかかってくださるなんて……本当に助かりました!」
「はは。それはまあ、
大地を揺らがせるような、強烈な唸り声が響いたのはそのときだった。
ふたりは揃って、その声のほうへ視線を向ける。ワーツの表情が再び
「ま、また発生した……どうしてこんなに!?」
片獣とは、確かに突如として湧き出るように現れるものだ。
だがこんなにも短期間に、ここまで連続して発生することは
その上、最悪なことに──今までの三体よりも明らかに巨大である。
それだけ強大な個体ということだ。いかな教会騎士でも、このレベルの片獣には、まず複数がかりでなければ
「に、逃げましょう……今、すぐにっ!」
だが、青年のほうはそれを裏切るように。
「……いや。もう、遅いです」
「な──」
「エイネが出ちゃったんで。……ったく、大人しくしてるように言ったのに」
「……エイ、ネ?」
言葉に首を傾げるワーツだったが、見れば視線の向こうに、片獣の行く手をこちらから遮る形で、ひとりの少女が立っているとわかる。
本当なら、今すぐにでも逃げろと伝えるべきなのだろう。
だがワーツはそれをしなかった。
エイネ──という名に聞き覚えがあったことが理由のひとつ。だがそれ以上に、少女の持つ圧倒的なまでの熱量が、命火の勢いが、ここで死ぬような者のそれに見えなかった。
「……まさか。あなた、がたは……」
震える声音でワーツが呟く。
その視線の先で、通常の教会騎士が十人がかりで倒すべき怪物が、全身を鮮やかなまでの
圧倒的だった。戦闘でさえない、一方的な駆逐。
とてもではないが、まともな人間が保有している命数量だとは思えない。
ならば、その正体も──自ずと知れるというものだった。
「第、二十三代神子、エイネ=カタイスト聖下……」
その名前は、この国の人間ならば命数術師でなくとも知っている。
彼女が神子──この世で最も尊き聖人だから、ではない。その神子の中でさえ、歴代で最高の才能と語られる存在であったからだ。
なにせ彼女は、神子でありながら、──同時に騎士でもあるのだから。
誉れ高き教会騎士の中で、頂点の十三人にのみ与えられる称号。命数術師最高の栄誉。
神子エイネ=カタイストは、その資格を神子において初めて取得した者であり、同時に歴代最年少で命数術師の頂点に立ったことでも知られている。
「ま、そういうことになりますね」
青年が、ワーツに対して
そこで気づいた。彼女が神子であるのなら、その隣に付き従う灰髪の青年はひとり。
エイネに続く歴代二位の若さで守護十三騎へと至った、神子と同郷の天才騎士。
ラミ=シーカヴィルタ。
「……はは」
ワーツは
そこへ、仕事を終えたエイネが戻ってくる。若い少女はふたりに笑いかけるように。
「終わったよ。お疲れ様ー」
その笑みに当てられたワーツだったが、すぐに自分を取り戻す。
そして最高の敬意を示すべく、その場に膝を突いて