第一章 『聖女と騎士』2

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 ワーツ=フゥシィは旅の命数術師である。

 その目的は研究だ。多くの命数術師は教会所属の騎士になるが、彼のような変わり者も中にはいる。命数術を戦いの武器ではなく、あくまで研究手段/対象として見る者だ。

 そしてワーツは今、絶体絶命の窮地に陥っていた。

「は、は……あ、もうっ、参ったな、ああ、くそぅ……!」

 だだっ広い平野を必死に駆けるワーツ。

 その背後を、異形の怪物が追ってきているのだ。

「ぼ、ボクの命数も、ここまで、かな……!? はは……本当、参った」

 軽い口調で吐き出される言葉。当然、それが事態を好転させることはない。

 現実逃避のひと言だ。本当に現実を見るのなら、しやべることをやめて少しでも体力を温存すべきだろう。彼はただ、迫り来る死の恐怖から逃れるために言葉を作っていた。

 それが聞こえていたわけでもなかろう。

 あるいは、聞こえたところで意味を理解することもなかろうに。

 にもかかわらず背後の怪物は、まるでワーツの泣き言を塗り潰すようにうなりを上げた。

「──ひ、」

 それが彼にはこたえた。

 もう限界だ。彼の体力は全力で走っているということ以上に、足を止めれば死ぬという当然の理解に奪われている。ここまで逃げられたこと自体、奇跡みたいなものだった。

 当然の結果として彼の足はもつれ、逃避行は地面に体を投げ出すことで終わる。

 地べたを転がったワーツ。その視界に、怪物の全身が再び捉えられて。

 ──怪物は、たとえるならば無色の炎の塊に似ていた。

 輪郭は獣のそれだが、おぼろで現実感がない。それが人のカタチを取っていれば、あるいは幽霊に見えただろう。現実という空間に映し出された、幻想のちらつきといった風情。

 それが片獣フリツカー

 ヒトを殺す怪物。

 喰べるためではなく、身を守るためでもなく、ただ殺すためだけに殺す異形の生命。

 その大型の熊にも似た威容に、ワーツは呼吸を止められていた。息の吸い方を、はいが忘れてしまっている。この分では近く、鼓動の重ね方さえ忘却の彼方へと向かいそうだ。

 いや。それよりも早く、殺されるほうが先だろうか。

「く──くそぅ」

 もはやワーツにできることは、神に祈りをささげること以外にない。

 とはいえ。仮にも命数術師の祈りならば、それが現実に影響することもあった。

「──《母なる神と、そして大地にこいねがう》──」

 聖句。信徒が神に捧ぐる祈りのことば。

 ゆるしではなく、許しをうための宣誓。権能の代行を、地上において求めるもの。

「──《あらがいたまえ、抗いたまえ。死にこそ強く抗いたまえ。それが罪への報酬でなく、天命ありしと信じるならば。ここに、今、抗う力を求めたもう》──」

 瞬間。ふたつのことが起こった。

「《砲炎バースト》──ッ!!」

 言葉と同時に、しりもちをついて地面に座るワーツが、それでも抗うべく伸ばしたみぎうでから放射状の火炎が発せられる。

 その色は薄い緑。個々人によって異なる、それがワーツの命火たましいの色。

 己が命火に熱を持たせ、勢いよく放つことで外敵への攻撃とする命数術だ。彼に使える術の中では、最高の火力を持つものでもあった。

 勢いよく渦を巻き、一直線に伸びていく薄緑の火炎。

 それはまとう熱量以上に、炎の勢いそのものが破壊力を持っている。凡百の片獣ならば、あるいはこの一撃で貫くことが可能だっただろう。

 だが。この場で起きたふたつ目のこと。

 熊のごとき片獣が、そのきよに備わる丸太じみた右腕を軽く振るったのだ。

 たったそれだけで、ワーツの最後の抵抗が完全にされた。

 それこそ、降りかかる火の粉を軽くあおぐように。巨大な腕が持つ腕力と、片獣としての抵抗力だけで──ひどくあっさりと薄緑の炎ははじかれた。

「そん、な……」

 ワーツの心を支えていた、最後の何かが、そのとき砕けた。

 当然だ。所詮は戦いの訓練を積んだわけでもない、単なるはぐれの命数術師の一撃に、このレベルの片獣を倒す攻撃力はない。彼が旅の途中で行き遭ってしまった脅威は、その発生場所によっては多数の犠牲を生んでいたことだろう。

 広い視点で見るのなら、犠牲が彼ひとりで済むことはむしろ幸運と言っていい。

 自然発生的に、どこからともなく現れる片獣。その命火のたいには、命数術でなければ傷ひとつつけることができない。──多くの教会騎士の、最大の仕事がその討伐だった。

 それでも、彼の最後の小さな抗いは、決して無意味だったわけではない。

 確かに意味を生んでいた。それもふたつ。

 そのひとつは、ワーツの命をほんの数秒であっても永らえさせたことである。おそらく《砲炎》の一撃がなければ、最初の腕のひと振りは彼自身に与えられていただろう。

 ほんの数秒の延命。

 それだけでは意味などなく、死の運命は依然として目の前だ。

 だが。結論を言えば、ワーツの最後の抵抗は──確かにこのとき、彼の命を救った。

 この場で起きたふたつ目のこと。

 それは一瞬の抵抗によって生んだ時間に、救いの手が間に合ったということである。

 突然だった。

 目の前まで迫っていた片獣が、いきなり真横へと吹き飛んだ。どこからともなく飛んできた攻撃によって、強制的に吹き飛ばされたのである。

「え──ええぇっ!?」

 混乱するワーツの目前で、状況は目まぐるしく変化していく。

 新たな片獣が、自分に追いついてくる姿を目にしたのだ。現れた片獣は、何も一体だけではなかった。だが今度こそ、と思う間さえなく。

「──ちょっと動かないでくださいね──っ!!」

 そんなこえが、ワーツに届いた。

 そして彼の目の前で、こちらへと近づいてくる四足の片獣が、真後ろから猛スピードで迫ってきた四輪鋼騎にばされたのである。

 その破壊力に耐え切れず、おおかみに似た姿の片獣は文字通りに爆発四散して、解けた。

 この世界での存在力を保つ命数が途切れたということだ。

「うっし、さすが鋼騎! 動力が命数術なだけあって片獣にも効くな! 高い金を払って手に入れただけはある……!」

 そんな声とともに、土煙とブレーキの音が鼓膜を揺さぶった。

 ここでようやく、ワーツはさきほどまでの声が術で届けられたものだと気がついた。

 目の前で停止した鋼騎。

 その運転席からひとりの青年が降りてきて、ワーツの前に立つ。

 若い青年だ。ワーツよりずっと年下、まだティーンだろう。だが鍛え抜かれた肉体と、何よりその片目で揺らめく鈍色の命火が、強力な命数術師であることを告げていた。

「っと、大丈夫ですか?」

 青年は人好きのする笑顔で、ワーツに片手を差し伸べてきた。そして、その行為と並行して、空いた左手からワーツの後方へと鈍色の炎弾を発射していた。

 背後から着弾音が響いてくる。その一撃で、さらに新たな片獣を撃破したのだろう。

 ──すごい……!

 恐れではなく、畏れから。仮にも命数術師の端くれとして、ワーツにはその洗練された戦闘技術が理解できた。

 命数術の才能は、何より生まれ持った命数によって左右される。

 だが。彼のそれはあくまで技術によるものだ。聖句の詠唱を省略し、術の名を口にすることさえなく、ただの一撃で片獣を倒し続ける技量──。

 それはまごうことなき、教会騎士クロスガードの在り方だった。

「あ、ありがとうございます……っ!」

 助かったのだ。その実感が、ワーツを硬直から解放した。

 救い主の手を取って急ぎ立ち上がる。

「まさか、教会騎士の方が通りかかってくださるなんて……本当に助かりました!」

「はは。それはまあ、貴方あなたの命数がまだ残っていたってことでしょう。あ、とにかく中に入ってください。傷はないようですし、よければ近くの街までは──」

 大地を揺らがせるような、強烈な唸り声が響いたのはそのときだった。

 ふたりは揃って、その声のほうへ視線を向ける。ワーツの表情が再びゆがんだ。

「ま、また発生した……どうしてこんなに!?」

 片獣とは、確かに突如として湧き出るように現れるものだ。

 だがこんなにも短期間に、ここまで連続して発生することはめつにない。一度に大量に湧くことならあっても、断続的に湧き続けるということはまずないのだ。

 その上、最悪なことに──今までの三体よりも明らかに巨大である。

 それだけ強大な個体ということだ。いかな教会騎士でも、このレベルの片獣には、まず複数がかりでなければかなわない。

「に、逃げましょう……今、すぐにっ!」

 すがるように青年へ告げるワーツ。

 だが、青年のほうはそれを裏切るように。

「……いや。もう、遅いです」

「な──」

「エイネが出ちゃったんで。……ったく、大人しくしてるように言ったのに」

「……エイ、ネ?」

 言葉に首を傾げるワーツだったが、見れば視線の向こうに、片獣の行く手をこちらから遮る形で、ひとりの少女が立っているとわかる。

 本当なら、今すぐにでも逃げろと伝えるべきなのだろう。

 だがワーツはそれをしなかった。

 エイネ──という名に聞き覚えがあったことが理由のひとつ。だがそれ以上に、少女の持つ圧倒的なまでの熱量が、命火の勢いが、ここで死ぬような者のそれに見えなかった。

「……まさか。あなた、がたは……」

 震える声音でワーツが呟く。

 その視線の先で、通常の教会騎士が十人がかりで倒すべき怪物が、全身を鮮やかなまでのれんの炎に包まれていく。

 圧倒的だった。戦闘でさえない、一方的な駆逐。

 とてもではないが、まともな人間が保有している命数量だとは思えない。

 ならば、その正体も──自ずと知れるというものだった。

「第、二十三代神子、エイネ=カタイスト聖下……」

 その名前は、この国の人間ならば命数術師でなくとも知っている。

 彼女が神子──この世で最も尊き聖人だから、ではない。その神子の中でさえ、歴代で最高の才能と語られる存在であったからだ。

 なにせ彼女は、神子でありながら、──同時に騎士でもあるのだから。

 誉れ高き教会騎士の中で、頂点の十三人にのみ与えられる称号。命数術師最高の栄誉。

 守護十三騎ラウンドキヤンドル

 神子エイネ=カタイストは、その資格を神子において初めて取得した者であり、同時に歴代最年少で命数術師の頂点に立ったことでも知られている。

「ま、そういうことになりますね」

 青年が、ワーツに対して悪戯いたずらっぽい微笑ほほえみを向ける。

 そこで気づいた。彼女が神子であるのなら、その隣に付き従う灰髪の青年はひとり。

 エイネに続く歴代二位の若さで守護十三騎へと至った、神子と同郷の天才騎士。

 ラミ=シーカヴィルタ。

「……はは」

 ワーツはぼうぜんと、乾いた笑みを浮かべた。

 そこへ、仕事を終えたエイネが戻ってくる。若い少女はふたりに笑いかけるように。

「終わったよ。お疲れ様ー」

 その笑みに当てられたワーツだったが、すぐに自分を取り戻す。

 そして最高の敬意を示すべく、その場に膝を突いてこうべを垂れるのだった。

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