第三章 第三話

 緋蝶は戸の向こうから聞こえる雨の音で目が覚めた。

「びっくりするぐらい、良くたわ」

 とんから身を起こしてびする。生まれて初めてふかふかの布団で寝て、絶対に落ちつかなくてねむれないと思っていた。それなのにじゆくすいした自分にびっくりだ。

「わたしって案外図太いわ。昨日あんなにきんちようしていたのに、けっこう落ちついてるかも。そうよね、考えたって仕方ないわ。教えをさずからないと命はないんだし。生きる為だもの」

 立ち上がって戸をそっと開けると、ろうに面した庭が窺えた。そこにはおおつぶの雨が降っていて、庭に植えられた植木も花も、久しぶりの雨のおかげか生き生きとしているように見えた。

 こんなに雨が降っているのを見るのは久しぶりだと思いつつ、ほっと息をつく。

「あの子ども、本当に竜神様なんだわ。予告通り雨が降った。これでしばらくはだいじようかしら」

 一月以上雨が降らなかったせいで、農作物にえいきようが出ている。今日と明日あした雨が降ったとしても、儀式まで一月もあるのだから、その間また雨が降らなかったらと思うとおそろしくなった。

「わたしが雫花帝になれなかったら、竜神様はこの国を去るとおつしやっている。つまり儀式で失敗したら、これから先ずっと雨が降らなくなるかもしれない。そうなったらこの国は終わりだわ。雨を降らせてもらう為には、絶対に儀式を通過しないと。兄さんの居場所も知りたいし」

 部屋に戻って戸を閉めた。そして大きく息を吸い込んで、てんじように向かってさけぶ。

「どんな試練だって乗りえて、絶対に生き残ってやるんだから!」

 自分に気合いを入れて、まずはたくをしようと布団をたたんだ。

 どこに片付けたらいいかときょろきょろしていると、戸の向こうから声が聞こえた。

「お目覚めになりましたか?」

 女性の声だった。はい、と返事すると、そっと戸が開いた。

「まあ、緋蝶様。布団なんてそのままで」

 顔を出したのは、自分より少し年下の少女だ。そういえば桜教殿に来て、女性の姿を初めて見た。花賢師以外で見かけるのは、従者の男と警護の武官ばかりだ。

 余計な事をしたのかと布団を下ろすと、少女が静かに部屋に入ってきた。

「初めまして。あかねと申します。身の回りのお世話をさせて頂きます」

 年も近い女性の姿を見て、何だかほっとした。

「緋蝶でいいです。こちらこそよろしくお願いします」

 座って頭を下げると、茜が首を横に振った。

「私はただのにようぼうです。貴族でもないのに、緋蝶様を呼び捨てにしたら首を切られます」

 にっこり笑った顔は可愛かわいらしい。明るくてはきはきしていて、話していて気持ちよかった。

「あの……わたしは昨日ここに来たばかりで、何も知らないんです」

「承知しています。準備をいたしますので、まずは洗面を。そのあと食事をお持ちします」

「はあ……でも洗面も食事の用意も自分でしますけど」

 貴族の屋敷で働いていたので、身分が高い人は使用人に食事やお湯を運ばせたりするのはよくわかっている。しかしいままで運ぶ側だった自分が、いきなり運ばれる側に回ると、何だか落ちつかない。茜がぶんぶんと首を横に振った。

です。緋蝶様には教育に専念して頂く為にも、それ以外のお世話はするよう苑紫様より申し付かっています。やらないと私が𠮟しかられるので……」

(うっ! 茜の立場がよくわかる。わたしも東雲様のお世話を任された時もあったけど、東雲様ってば自分で何もかもやってしまうから、あとでこっぴどく不知火さんにおこられたっけ)

 世話をされるのは何だか落ちつかないが、ごうに入っては郷に従えという言葉を思い出した。

(じたばたしたって始まらないんだから、わたしはわたしにできる精いっぱいの事をしよう)

 あわただしく動く茜を見ながら、手伝いたいよつきゆうられる自分を必死でなだめた。



 朝食も終わり、ぜんを片付けていた茜に、緋蝶は声をかけた。

「ねぇ、茜。ここではあなたしか女性を見かけないけど……」

「はい。ここにいる女性は緋蝶様と私だけです」

 桜教殿は東雲の屋敷の倍はあるのに、女性が二人だけというのは、おかしな感じだった。

「どうして二人だけなの?」

「ここは花蕾東宮が教育を受ける場であるとともに、夫君選びをする場だからです」

 そういえば、そんな話を前にもされた事があった。

 ほかにもいろいろしようげき的な話をされていたので、頭のすみに追いやられていた。

「わたし、あんまりよくわかっていないんだけど、夫君選びって具体的にはなに?」

 茜がおどろいたように目を丸くした。

「ご存じないんですか?」

「自分が皇族の血を引いてるって知ったのは昨日なの。ここで花賢師様達から教えを受けて、一月後にある花蕾東宮の位を授かる儀式を無事に終えなければならないっていうのは聞いたけど、夫君選びの事はあまり詳しくは……」

 茜はそっとこちらににじり寄った。

「紗和国では女帝が君臨する決まりがあります。皇族の血を引く女性だけが、ぎである花蕾東宮になれます。でも女帝候補はたくさんいた方があんたいだから、雫花帝には竜神様が選んだゆうしゆうな男子を集めた後宮が用意されるんです」

 たどたどしいが、茜の説明はわかりやすかった。苑紫や東雲はとてもいい人達だと思うが、貴族相手だと思うとどうしても身構えてしまうので、聞きたい事もなかなか質問できない。

「何人か女性の皇族がいれば、まずはその方達に教育をほどこして、あとりである花蕾東宮を決めます。一月後の儀式は本当は、皇族の血を引く複数の女性の中から、花蕾東宮を選ぶための儀式だそうです」

「ああ、なるほど。でもいまは皇族の女性はわたししかいない。だからわたしが花蕾東宮になるのにふさわしいかどうか決めるわけね」

「そうです。そして花蕾東宮は、正式に雫花帝になる時に、後宮の男性達の中から夫を選ぶんです。雫花帝は夫とともに、国の安定の為にまつりごとさいはいを振ります」

 それを聞いて、はっとした。

「じゃあ、ここにいる五人の花賢師様達のだれかが、わたしのけつこん相手になるって事!?」

 改めてそう考えると顔が真っ赤になった。いずれもうるわしく優秀な男性達のようだ。性格に難がありそうではあるが、彼らの中の誰かが夫になると思うと心臓が一気にはやがねを打った。

「いいえ。五人だけとは限りません」

 茜の言葉に目を見張った。

「どういう事?」

「いまの雫花帝が花蕾東宮だった時は、十人ほどの花賢師様と、それ以外にも夫君候補が数十人いらっしゃったそうです。ですので夫君候補は百人近かったとか。これからこの桜教殿も人が増えていくと思います。りゆうじん様が選ばれた教育係の花賢師様達はかみと目の色が変わりますが、他の後宮の男性達は髪も目の色も黒いままなんですよ」

 いまの茜の話を頭の中でまとめてみる。

「……つまり、わたしはここで花賢師様達から教えを授かりつつ、雫花帝になる時にはここにいる男性達の中から夫を選ばなければならないと」

「その通りです! 緋蝶様、頭の回転が速いですね」

 められたようだが、ちっともうれしくなかった。

「教えは授かるけど、結婚とかまだ考えた事もなかったのよ。どうしたらいいの……!?」

 がっくりとうなれると、茜が両手を合わせて夢見るおとのように目をきらきらとさせた。

「ここにいらっしゃる男性方はらしい方達ばかりですよ。東雲様はれいただしくておやさしいし、苑紫様は国で一番の刀の使い手でいらっしゃいますし」

 茜のほおがぽうっと赤らむ。

「橙幻様は、だいだいの女性達のあこがれの的なんです。あの方の作った着物を着て、あの方とお出かけしてみたいという夢をみんな見ているんですよ。それに月白様はとてもお可愛らしいです。未来をうらなったりされるそうですが、すごくよく当たるとか。そして……」

 茜がかんたんの息をついた。

「暁様は主上のご子息です。皇子様としてとてもご立派でしくて……」

「ちょっと待って。暁様って、あのあいいろの髪の人でしょ。主上のご子息なの?」

「知らなかったんですか?」

「ええ。だって、とても皇子様だなんて思えないようないとことづかいだったわ。それに、苑紫様や東雲様だって、暁様と話をされる時は、皇子として敬意をはらうような感じでもなかったから、てっきり花賢師様達の身分はみんな変わらないぐらいかと思ってた」

「あ、それはそうです。花賢師様はみなさん同じ身分としてあつかわれます。皇子であろうが、大内裏を守る護衛隊長であろうが下級貴族であろうが、関係ありません」

 驚いて目を見張ると、茜が話を続けた。

「竜神様が、生まれもっての身分は本人の努力で勝ち得たものではない。そんなものにあぐらをかくのは気にくわない。だから花賢師はみんな身分を統一すると仰ったそうです」

 少年の姿をした竜神の顔を思い出す。

「わあ、確かに竜神様はそういう事を言いそう」

 ぼそっとつぶやくと、茜が目を丸くした。

「緋蝶様は、竜神様のお姿が見えるんですよね。どんな方でしたか? とてもお美しく立派な青年の姿をしているといううわさですが」

(ただの生意気な少年だったけど、言わない方がいいかも。竜神様のけんがさがりそう)

「……うーん。そうかもね。それより花賢師様達の身分は統一されているのよね。だから、花賢師様達はおたがえんりよのない話し方をされるのかしら」

 茜が気を取り直したように、居住まいを正した。

「そうです。この桜教殿は、花蕾東宮を教育する場所です。師である花賢師様達の間に、身分の差があってはよくないだろうというお考えもあるようです。それに……暁様は主上のご子息ですが男のお子様なので、皇位をぐわけでもありませんし」

 男女の差で、扱いがこうもちがうのかと思うと、皇族の暮らしも楽ではないと痛感する。

 そしてふと、ある事に気づいた。

「……という事は、暁様はわたしのいとこになるのかしら」

 茜がうなずいたのを見て、首をかしげた。

「暁様もそれをご存じのはずよね。だけど昨日会った時はとてもいやな感じの対応だったわ」

「それはおそらく……あ」

 何かを言いかけて、茜が慌てて口を押さえた。

「どうしたの? 何か知っているなら教えて」

 少しでも情報がほしくてたずねると、茜が目をきょろきょろさせつつも口を開いた。

「……ここだけの話ですけど、暁様には気をつけられた方がいいかもしれません。じよていようりつされるようになって、主上で三代目です。ですが女性しか皇位につけないという事に、反対する方達もいらっしゃって。暁様もその一人で、女帝制度に反対している貴族達に特別に目をかけているというよくない噂もあって」

 そういえばと思い出す。蔵書室でも暁は女帝制度に反対だと言っていた。茜が話を続ける。

「男性が皇位につけるなら、暁様がみかどで間違いなかったと思います。かしこくて、政治にもくわしくて、身体からだもお強くて。おそらくですが、暁様もご自分でそう思われているから、緋蝶様にあまりいい感情をお持ちでないのかもしれません」

 確かに暁の立場からしたら、とつぜん現れた自分はざわりかもしれない。

(これって、皇位争いってやつなのかしら。……そんなたいそうな事に巻き込まれるなんて、思ってもみなかった。ううっ、帰りたい……)

 だが、ここで帰ったら命はないし、兄の行方ゆくえもわからないままだ。

(ううん。ここでがんるって決めたんだもの。弱気になっちゃよ)

「茜、またいろいろと教えてほしいわ。お願いします」

 頭を下げると、茜があわてた。

「もちろんです。私でよければいくらでも。……では、さっそくおえをどうぞ。橙幻様から、おし物が届いております。とてもてきですよ」

 そういえば、橙幻が女帝候補にふさわしい着物を用意したと言っていたのを思い出す。

「着付けのお手伝いをします。鏡の前にどうぞ」

 大きな姿見を手で示した茜に従って、こしを上げた。

(新たな出会いに、新たな生活。不安はいっぱいだけど頑張れるわ。こわくても前に進むしか、わたしが生き延びる方法はないんだもの)

 息を大きく吸い込んで、着物をいだ。

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