第三章 第二話

 最初に苑紫に連れられてやってきたのは、桜教殿の裏庭だ。そこには花々がき乱れるだんがあった。緋蝶は風にかれてただよって来た花のかおりを、胸いっぱいに吸い込む。

れいなお花畑ですね。それに、いい香り」

 東雲が驚いたように目を丸くしている。

「先月、花賢師の顔合わせでこちらに出向いた時には、ここに花壇なんてなかったと思いますが。あれから一月ほどでこんなに花が咲いているなんて……。花を移植でもしたんですか?」

 苑紫が花壇を見つめて、ため息をつく。

「いいや。種から育てて花を咲かせたんだ。いかに早く花が咲くかの研究をしているそうだ。何でそんな研究をしているのか理解できん」

 本当に一月ほどで、花壇すらなかった場所に花が咲き乱れたというなら、すごい事だった。

 信じられないでいると、ふと目の前の小さな花に目が留まった。

可愛かわいい花だわ」

 白い花びらが風におどっているれんな様子に微笑んで、しゃがんでから手をばした。

さわってはだよ。毒だから」

 ひだりどなりから聞こえた声は、すずやかな男性のものだ。

 その言葉が意味する事に気づいて、あわてて手を引っ込めた。

くきに毒があるんだ。うっかりったりしたら、がただれて火傷やけどみたいになる」

 声が聞こえた方に目をやって、はっと息をんだ。

 花壇のそばに細身の男性が立っていた。彼を最初に見た感想は、〝綺麗な人〟だ。

 女性かといつしゆん思ったものの、苑紫と同じくらいの背の高さから察するに男性のようだ。太陽の光にけるようにしてかがやく金色の長い髪を頭の上で一つにしばり、はくいろの瞳をしている。

 それはつまり、彼もりゆうじんに選ばれた花賢師だという事を意味していた。

 むらさきいろ直垂ひたたれと髪と同じ金色の帯が、彼のはなやかなぼうと相まって、よく似合っている。

とうげん。どうして呼ばれたのに来ないんだ」

 苑紫の額に青筋が立っていた。だが橙幻はまったく気にした様子はなく微笑んだ。

「もうそんな時間かい? 花に水をやっていたら、時間を忘れてしまっていたよ。では、こちらが緋蝶かな?」

 切れ長の目で見つめられると、心臓が止まりそうだ。

(こんなに綺麗な人は、男でも女でも初めて見たわ。はだとかとうめいかんがすごい……! わたしなんて、日焼けしてそばかすがひどいのに)

 彼とは並んで立つのも恥ずかしい気持ちにすらなった。

「初めまして。私は橙幻だ。花の世話をするのが、私の仕事……いたっ」

 震える拳で橙幻の頭にげんこつをらわせたのは、苑紫だった。

「いつからお前は庭師になった!」

「庭いじりがしゆなんだから仕方ないだろう」

「お前の仕事はじよてい候補に《よそおい》を教える事だ。その時々に応じた装い方としよう法と、それにともなそうしよく品は何を選べばいいかを教えるんだ。それなのにどうして庭いじりに熱中する!」

「だーかーらー何度も言っているけど、装い方を研究するうちに、着物を仕立てるのが趣味になって、いまは布を染める研究にぼつとうしているんだって。どんな植物を使えばどんな色で染められるかとか、独自の色も開発したいし」

「だからって、植物から育てる事ないだろう。しかもここは桜教殿だぞ!」

「土地があまってるからいいじゃないか。何事もめて研究しないと気がすまないんだ」

 橙幻が堂々と言い切った。それを聞いて、思わずほおが引きつる。

(うーん。顔はとてつもなく綺麗だけど、中身はかなり変な人だわ)

 よく言えば研究熱心だろう。しかしそこまで研究がわたると、もともとの目的がなんだったのか、よくわからなくなる。橙幻がふいにこちらに目を向けた。

「それより挨拶がちゆうだったね。私は着物を仕立てるのが好きだが、これでも貴族のはしくれだ。よろしくたのむね」

「お父上は左大臣ではありませんか。はしくれとはずいぶんなごけんそんを」

 東雲が苦笑すると、橙幻はかたすくめた。

「父は関係ないさ。私には私の人生があるんだから。私は美しいものが好きだ。特に女性をどう美しくするかに興味がある」

 橙幻がそっと手をこちらに伸ばした。白くて細い指が頰をでる。

 綺麗な顔と、色気があふれている瞳が息がかかるほど近くに寄せられた。

「思っていたより可愛い印象だね。身長は女性にしてはやや高め。体型は少しやせ気味。目は大きくて顔が小さいのはいいけど日に焼けすぎだ。若いからって油断してるとしみになるよ」

 はっとして思わず両手を頰に当てた。それは自分でも気にしていた事だ。

「あとで、お肌の手入れを教えてあげよう。そばかすもうまく消す方法があるんだ。それから、その着物はなに?」

 大内裏に行くので、東雲が高価なそでを用意してくれた。

 初めて袖を通した絹のしようだったが、橙幻はどうやら気に入らないらしい。

「色も形も似合わないよ。私が女帝候補にふさわしい着物を用意しておいた。少し手直しがいるから、明日あした届けるよ。教育を受けるのだから動きやすく、だけど女帝候補としての気品が漂う、そんな装いがいいと思って仕立てたんだ。さっそく準備してくるよ。では」

 呼びかける間もなく去って行った橙幻を見て、苑紫がため息をついた。

「どうしてあいつはあんなに自分勝手にえるんだ」

(苑紫様、本当に苦々しそうな顔をされているわ。まじめそうだから、ああいうちょっと変わった人とは合わなそう)

 心の中でつぶやいていると、苑紫がようやく気を取り直したのか、こちらに顔を向けた。

「失礼した。あれはもうほうっておいて、次に行こう」

 ついに〝あれ〟あつかいされた橙幻は気の毒だったが、素直にうなずいて苑紫のあとに続いた。



 桜教殿の門から見て右手に、こぢんまりとした新しい建物があった。

 緋蝶は苑紫と東雲といつしよにその建物の前まで来て、首をかしげる。

「鳥居があって、こまいぬまでいますね。まるで小さな神社みたい」

 呟くと、苑紫が頷いた。

「ここは、らいだんしやまつられている竜神様をぶんれいしてある神社だ」

「来壇社って、紗和国で一番大きな神社ですよね」

 行った事はないが、話には聞いた事がある。格式が高すぎるので、しよみんは入るのすらおそれ多いと。苑紫が鳥居の先にある建物を見つめた。

「ここでかんぬしを務めているのは、来壇社の神主の息子むすこだ。名前はつきしろと言って、彼も竜神様に選ばれた花賢師だ。月白は《せんじゆつ》を教える」

「占術……ですか? それって、女帝教育に関係あるんですか?」

「ああ、紗和国にとって、占術は重要なものだ。まつりごとの際にもおんみようどうもとづく占術で国のきつちよううらなう。月白からは、方術やものみなど貴族達が日常的に使う陰陽道についても学ぶ事になる」

 そういえばと思い出す。東雲の父であるしきの主人は信心深く、悪い夢を見たと言っては凶事をけるために物忌みしなければと、屋敷に二日ほどもる事があった。

 貴族の暮らしもなかなか大変そうだと思いつつ、苑紫に続いて鳥居をくぐる。

 ここが社だと思うと、神聖な空気が漂っている気がして、身が引きまる思いだ。

「ここで待っててくれ。月白を呼んでくる」

 石段の手前で、苑紫がこちらに顔を向けた。頷くと、そのまま石段を上っていく。

 彼の背中を見送って、東雲と二人になってから、ほうっと息をつく。

「東雲様。どんどん話が進んでいってますね。本当にこれって現実なんでしょうか」

 昨日まで東雲の屋敷で働いていたのに、とつぜんじよてい候補だからとだいだいに連れて来られた。何かのちがいだと思っていたのに、竜神の姿が見えて皇族の血を引いている事が証明された。

(何だか、ふわふわと夢の中を彷徨さまよっている気がするわ)

 心の中で呟いていると、東雲が微笑ほほえんだ。

「現実ですよ。気持ちはわかりますが、げないと決めたなら前に進むしかありません。命がかかっているんですから」

 東雲の言葉は厳しいが、本当の事でもあった。

「わかっています。まずはしきを無事に終わらせないといけませんね」

 考えると、きんちようきようで押しつぶされそうだ。しかし東雲の言う通り、逃げたら命はない。

(花賢師様達はなかなか個性的な人が多いようだわ。これから教えをう事になるんだから、みんなと仲良くしていかないと)

 あまり人付き合いはいい方ではない。気軽に話せる友達なども、いままではいなかった。

 東雲の屋敷で、不知火しらぬい達からいやがらせをされていたのも、人とどう接していいかわからなくて、だまりこくって仕事ばかりしていたせいもあると思う。彼女達のおしやべりにおくれして入っていけなかったのだが、不知火達からしたら無口でつきあいにくいと思ったのだろう。

 しかしここでは生まれ変わったつもりで、花賢師達ともうまくつきあわなければならないだろう。幸い、以前から知り合いの東雲がいてくれるので心強かった。

 目をやると、東雲は石段を見上げている。

おそいですね。ちょっと見てきます。緋蝶はここにいてください。桜教殿の中には、関係ない者は入れないようにしてあるのでだいじようだと思いますが、何かあったら声を上げて」

「わかりました」

 東雲が足早に階段を上がっていった。

 一人になって、ほっと息をつく。ここに来てからずっとだれかと一緒で緊張しっぱなしだ。

 石段に座って少し休もうと足をみ出すと、ふいに何かが頭にあたった。

「いたっ!」

 軽くこづかれたような感じだった。

 あわてて振り向くと、狛犬の上に誰かが馬乗りになっている。よく見ると、まるですいのように美しい深緑の短いくせかみに、うすい茶のひとみをした少年が、こちらをにらみつけていた。

 少年は自分より少し年下だろう。十代半ばで細くて長い手足を緑色の直垂で包んでいた。

「お前が女帝候補か。俺はお前なんて認めないからな」

 少年はどうやら小石を手にしているらしく、さきほどもそれを投げたようだった。

「……どういうつもりで認めないと言っているのかわかりませんが、いきなり石を投げるのはあんまりだと思いますけど!」

 思わず声を上げた。髪と目の色からすると、彼は花賢師だろう。

 きっと、さきほど苑紫が言っていた月白だ。紗和国一の神社の神主の息子だというから、身分もかなり高いだろう。花賢師と仲良くしようと思っていたので、何かされてもたいがいの事はまんするつもりだった。しかし、これは許せない。

でもしたらどうするんですか? あなたがわたしを気に入らないというのは仕方ありませんが、人に向かって石を投げるなんて最低だと思います」

「何だと!」

 月白は顔に感情がすべて出るようだ。真っ赤な顔をしていかりの表情をかべていた。

 だが間違っているつもりはないのでじっと見つめると、彼はふいに目をそらす。

おどかそうと思っただけで、当てるつもりじゃ……」

 ぼそっとした呟きは、しっかり耳に届いていた。

 真っ赤な顔は同じだが、ちらちらとこちらを見る目には、心配げな色がうかがえた。

(……ん? もしかして、さすがに自分でもひどい事をしたと思っているのかしら)

こうかいしているなら、さっさと謝った方が気が楽だと思いますけど」

 月白が慌ててこちらに顔を向けて、目をいた。

「ふ、ふざけるな! 俺はお前に占術なんて教えてやらないからな!」

 あっかんべーして狛犬から飛び降りた月白が、走って去って行った。

 その様子があまりにも子どもっぽくてぜんとする。

「緋蝶!」

 階段の上から声が聞こえた。顔を向けると、苑紫と東雲が走って階段を下りてくるところだった。先に近くまで来たのは苑紫だ。

「どうかしたのか? 声が聞こえたが」

「いいえ。何でもありません」

 月白とは間違いなく初対面だ。なぜあんなにおこっているのかわからないが、軽々しくいまあった事を口にしない方がいいのではと思った。

(見た目もそうだけど、本当に子どもみたいだったわ。あんな花賢師様もいらっしゃるのね)

 苑紫や東雲、そして橙幻は年上で見た目のねんれいよりも落ちついて見えた。

 だから花賢師は全員そういう感じの人が選ばれていると勝手に思っていたので、月白の姿や言動を見て、びっくりしていた。苑紫がうでみして、ため息をつく。

「月白はいないようだ。いったいどこに行ったのだ」

「苑紫。彼はいつもどってくるかわからないので、暁のところに行きましょう。緋蝶も今日はいろいろあってつかれているでしょうから、あいさつを早めにすませて休ませてやりたいんです」

 東雲のやさしいこころづかいだった。頷いた苑紫に続いて、鳥居を潜って社をあとにした。



 苑紫に連れられてやってきたのは、桜教殿から少しはなれた建物だ。緋蝶は、建物の奥にあるゆかりの広い部屋へと通される。そこには書物がたくさん並べられたたながいくつもあった。

「ここは蔵書室だ。いろんな本がそろっている。花蕾東宮はここにある本をすべて読まなければならない決まりだ」

「ぜ、全部ですか!?」

 目を丸くすると、苑紫がうなずいた。

「緋蝶、失礼だが、読み書きはできるか?」

「はい。一応できますけど」

 読み書きがやっとの状態だが、本を読むのは好きだった。東雲が一歩前に出る。

「緋蝶はなかなかかしこいですよ。うちに来たのは二年前ですが、その時は読み書きもほとんどできなかったんです。それがいまでは本を読めるぐらいまでには成長したので。働きながらなので、あまり勉強に時間をとれるはずはないんですが、彼女なりにがんっていました」

「東雲様が字を書いたお手本をくださったからです。ありがとうございました」

 字が読めるようになったら、世界が広がりますと東雲が教えてくれた。

 それは本当の事で、いろんな物語が読める本は好きだった。苑紫がほっとしたように頷く。

「それでは、これからは読書にはげんでくれ。ここの管理は花賢師で《まつりごと》を教える暁がしているから、何か本を借りていきたい時は彼に言えばいい」

 暁と言われて、赤い目をした青年を思い出す。酒をこぼした時に助けてくれた彼だ。

 苑紫が蔵書室を見回した。

「暁は生まれた時から大内裏にいるので、政や貴族達の動向にとてもくわしい。彼からしっかり政について教育を受けてくれ。おそらく儀式でも政についての質問をされると思う」

 それを聞いて、ずっと気になっていた事を口にした。

「苑紫様。儀式とはいったいどんな事をするのでしょうか?」

「私も初めてではっきりした事はわからない。具体的に決まっているのは、花賢師によるりゆうじん様へささげるけんと、貴族達が行う、緋蝶が花蕾東宮としてふさわしいか見定めるための質問。そしてその時の緋蝶の立ち居いも見られると思う」

 東雲があごに手を当てた。

「なるほど。では儀式までに作法の教育を念入りにしなければなりませんね」

「そうだ。まずは儀式を無事に終えないと、次の段階には進めないからな。同時に私達花賢師は剣舞の練習も行わなければ。私達が失敗すると、桜教殿のあるじである緋蝶の責任になる」

「え? わたしがここの主なんですか?」

 びっくりして声を上げると、苑紫が頷いた。

「花蕾東宮の為の桜教殿だからな。儀式が終わるまでは正式な花蕾東宮ではないが、教育を受けるので緋蝶が仮の主となるらしい。だから桜教殿で何かあれば、緋蝶の責任となる」

 いままで下働きとして生きてきた身には、これだけ大きな建物とここに住む人達の責任を負うのは、かなりの重圧だった。

「責任重大ですね……」

 思わずつぶやくと、棚の向こう側から声がした。

いやなら出ていけばいい」

 声がした方を見ると、棚しにつやのあるあいいろの髪が窺えた。苑紫がこしに手を当てる。

「暁。どこに行っていたんだ。緋蝶が挨拶したいそうだ」

「昨日、東雲のしきで会ったからいい」

 棚を回り込むと暁はかべぎわで座り込んで本を読んでいた。苑紫が暁の姿を見てまゆを寄せる。

「たとえそうでも、れいとして……」

「どうせ、一月も持たないさ。しよみん育ちなのに、いきなり雫花帝になれと言われて連れて来られて、困ってますって顔に書いてある」

 はっとして顔を両手でさわった。

「か、書いてあるんですか?」

 東雲に目を向けると、彼は慌てて首をった。

「彼なりのじようだんです。気にしないで」

「冗談じゃないさ。どうせ無理なのに教育したって時間のだ。俺はじよてい制度には反対だし、しきにも協力する気はない。……せいぜいげ出す準備をする事だな」

 酒のかめを割った時、助けてくれた彼と同一人物とは思えないほど冷たい声だった。

 暁は立ち上がり、部屋を出ていってしまう。もう一度彼に会えたら、あの時助けてもらった礼をと思っていたのに、とても言い出せるふんではなかった。

「緋蝶、申し訳ない。暁はいろいろあって……」

 苑紫が言葉をにごした。

 月白といい暁といい、ぜん多難とはこの事だと、目の前が真っ暗になりそうだった。

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