第三章 第二話
最初に苑紫に連れられてやってきたのは、桜教殿の裏庭だ。そこには花々が
「
東雲が驚いたように目を丸くしている。
「先月、花賢師の顔合わせでこちらに出向いた時には、ここに花壇なんてなかったと思いますが。あれから一月ほどでこんなに花が咲いているなんて……。花を移植でもしたんですか?」
苑紫が花壇を見つめて、ため息をつく。
「いいや。種から育てて花を咲かせたんだ。いかに早く花が咲くかの研究をしているそうだ。何でそんな研究をしているのか理解できん」
本当に一月ほどで、花壇すらなかった場所に花が咲き乱れたというなら、すごい事だった。
信じられないでいると、ふと目の前の小さな花に目が留まった。
「
白い花びらが風に
「
その言葉が意味する事に気づいて、
「
声が聞こえた方に目をやって、はっと息を
花壇のそばに細身の男性が立っていた。彼を最初に見た感想は、〝綺麗な人〟だ。
女性かと
それはつまり、彼も
「
苑紫の額に青筋が立っていた。だが橙幻はまったく気にした様子はなく微笑んだ。
「もうそんな時間かい? 花に水をやっていたら、時間を忘れてしまっていたよ。では、こちらが緋蝶かな?」
切れ長の目で見つめられると、心臓が止まりそうだ。
(こんなに綺麗な人は、男でも女でも初めて見たわ。
彼とは並んで立つのも恥ずかしい気持ちにすらなった。
「初めまして。私は橙幻だ。花の世話をするのが、私の仕事……いたっ」
震える拳で橙幻の頭にげんこつを
「いつからお前は庭師になった!」
「庭いじりが
「お前の仕事は
「だーかーらー何度も言っているけど、装い方を研究するうちに、着物を仕立てるのが趣味になって、いまは布を染める研究に
「だからって、植物から育てる事ないだろう。しかもここは桜教殿だぞ!」
「土地があまってるからいいじゃないか。何事も
橙幻が堂々と言い切った。それを聞いて、思わず
(うーん。顔はとてつもなく綺麗だけど、中身はかなり変な人だわ)
よく言えば研究熱心だろう。しかしそこまで研究が
「それより挨拶が
「お父上は左大臣ではありませんか。はしくれとはずいぶんなご
東雲が苦笑すると、橙幻は
「父は関係ないさ。私には私の人生があるんだから。私は美しいものが好きだ。特に女性をどう美しくするかに興味がある」
橙幻がそっと手をこちらに伸ばした。白くて細い指が頰を
綺麗な顔と、色気が
「思っていたより可愛い印象だね。身長は女性にしてはやや高め。体型は少しやせ気味。目は大きくて顔が小さいのはいいけど日に焼けすぎだ。若いからって油断してるとしみになるよ」
はっとして思わず両手を頰に当てた。それは自分でも気にしていた事だ。
「あとで、お肌の手入れを教えてあげよう。そばかすもうまく消す方法があるんだ。それから、その着物はなに?」
大内裏に行くので、東雲が高価な
初めて袖を通した絹の
「色も形も似合わないよ。私が女帝候補にふさわしい着物を用意しておいた。少し手直しがいるから、
呼びかける間もなく去って行った橙幻を見て、苑紫がため息をついた。
「どうしてあいつはあんなに自分勝手に
(苑紫様、本当に苦々しそうな顔をされているわ。まじめそうだから、ああいうちょっと変わった人とは合わなそう)
心の中で
「失礼した。あれはもう
ついに〝あれ〟
桜教殿の門から見て右手に、こぢんまりとした新しい建物があった。
緋蝶は苑紫と東雲と
「鳥居があって、
呟くと、苑紫が頷いた。
「ここは、
「来壇社って、紗和国で一番大きな神社ですよね」
行った事はないが、話には聞いた事がある。格式が高すぎるので、
「ここで
「占術……ですか? それって、女帝教育に関係あるんですか?」
「ああ、紗和国にとって、占術は重要なものだ。
そういえばと思い出す。東雲の父である
貴族の暮らしもなかなか大変そうだと思いつつ、苑紫に続いて鳥居を
ここが社だと思うと、神聖な空気が漂っている気がして、身が引き
「ここで待っててくれ。月白を呼んでくる」
石段の手前で、苑紫がこちらに顔を向けた。頷くと、そのまま石段を上っていく。
彼の背中を見送って、東雲と二人になってから、ほうっと息をつく。
「東雲様。どんどん話が進んでいってますね。本当にこれって現実なんでしょうか」
昨日まで東雲の屋敷で働いていたのに、
(何だか、ふわふわと夢の中を
心の中で呟いていると、東雲が
「現実ですよ。気持ちはわかりますが、
東雲の言葉は厳しいが、本当の事でもあった。
「わかっています。まずは
考えると、
(花賢師様達はなかなか個性的な人が多いようだわ。これから教えを
あまり人付き合いはいい方ではない。気軽に話せる友達なども、いままではいなかった。
東雲の屋敷で、
しかしここでは生まれ変わったつもりで、花賢師達ともうまくつきあわなければならないだろう。幸い、以前から知り合いの東雲がいてくれるので心強かった。
目をやると、東雲は石段を見上げている。
「
「わかりました」
東雲が足早に階段を上がっていった。
一人になって、ほっと息をつく。ここに来てからずっと
石段に座って少し休もうと足を
「いたっ!」
軽くこづかれたような感じだった。
少年は自分より少し年下だろう。十代半ばで細くて長い手足を緑色の直垂で包んでいた。
「お前が女帝候補か。俺はお前なんて認めないからな」
少年はどうやら小石を手にしているらしく、さきほどもそれを投げたようだった。
「……どういうつもりで認めないと言っているのかわかりませんが、いきなり石を投げるのはあんまりだと思いますけど!」
思わず声を上げた。髪と目の色からすると、彼は花賢師だろう。
きっと、さきほど苑紫が言っていた月白だ。紗和国一の神社の神主の息子だというから、身分もかなり高いだろう。花賢師と仲良くしようと思っていたので、何かされても
「
「何だと!」
月白は顔に感情がすべて出るようだ。真っ赤な顔をして
だが間違っているつもりはないのでじっと見つめると、彼はふいに目をそらす。
「
ぼそっとした呟きは、しっかり耳に届いていた。
真っ赤な顔は同じだが、ちらちらとこちらを見る目には、心配げな色が
(……ん? もしかして、さすがに自分でもひどい事をしたと思っているのかしら)
「
月白が慌ててこちらに顔を向けて、目を
「ふ、ふざけるな! 俺はお前に占術なんて教えてやらないからな!」
あっかんべーして狛犬から飛び降りた月白が、走って去って行った。
その様子があまりにも子どもっぽくて
「緋蝶!」
階段の上から声が聞こえた。顔を向けると、苑紫と東雲が走って階段を下りてくるところだった。先に近くまで来たのは苑紫だ。
「どうかしたのか? 声が聞こえたが」
「いいえ。何でもありません」
月白とは間違いなく初対面だ。なぜあんなに
(見た目もそうだけど、本当に子どもみたいだったわ。あんな花賢師様もいらっしゃるのね)
苑紫や東雲、そして橙幻は年上で見た目の
だから花賢師は全員そういう感じの人が選ばれていると勝手に思っていたので、月白の姿や言動を見て、びっくりしていた。苑紫が
「月白はいないようだ。いったいどこに行ったのだ」
「苑紫。彼はいつ
東雲の
苑紫に連れられてやってきたのは、桜教殿から少し
「ここは蔵書室だ。いろんな本が
「ぜ、全部ですか!?」
目を丸くすると、苑紫が
「緋蝶、失礼だが、読み書きはできるか?」
「はい。一応できますけど」
読み書きがやっとの状態だが、本を読むのは好きだった。東雲が一歩前に出る。
「緋蝶はなかなか
「東雲様が字を書いたお手本をくださったからです。ありがとうございました」
字が読めるようになったら、世界が広がりますと東雲が教えてくれた。
それは本当の事で、いろんな物語が読める本は好きだった。苑紫がほっとしたように頷く。
「それでは、これからは読書に
暁と言われて、赤い目をした青年を思い出す。酒をこぼした時に助けてくれた彼だ。
苑紫が蔵書室を見回した。
「暁は生まれた時から大内裏にいるので、政や貴族達の動向にとても
それを聞いて、ずっと気になっていた事を口にした。
「苑紫様。儀式とはいったいどんな事をするのでしょうか?」
「私も初めてではっきりした事はわからない。具体的に決まっているのは、花賢師による
東雲が
「なるほど。では儀式までに作法の教育を念入りにしなければなりませんね」
「そうだ。まずは儀式を無事に終えないと、次の段階には進めないからな。同時に私達花賢師は剣舞の練習も行わなければ。私達が失敗すると、桜教殿の
「え? わたしがここの主なんですか?」
びっくりして声を上げると、苑紫が頷いた。
「花蕾東宮の為の桜教殿だからな。儀式が終わるまでは正式な花蕾東宮ではないが、教育を受けるので緋蝶が仮の主となるらしい。だから桜教殿で何かあれば、緋蝶の責任となる」
いままで下働きとして生きてきた身には、これだけ大きな建物とここに住む人達の責任を負うのは、かなりの重圧だった。
「責任重大ですね……」
思わず
「
声がした方を見ると、棚
「暁。どこに行っていたんだ。緋蝶が挨拶したいそうだ」
「昨日、東雲の
棚を回り込むと暁は
「たとえそうでも、
「どうせ、一月も持たないさ。
はっとして顔を両手で
「か、書いてあるんですか?」
東雲に目を向けると、彼は慌てて首を
「彼なりの
「冗談じゃないさ。どうせ無理なのに教育したって時間の
酒の
暁は立ち上がり、部屋を出ていってしまう。もう一度彼に会えたら、あの時助けてもらった礼をと思っていたのに、とても言い出せる
「緋蝶、申し訳ない。暁はいろいろあって……」
苑紫が言葉を
月白といい暁といい、