目の前にある大きな木造の門を見上げて、緋蝶は目を丸くしていた。
門には立派な武官が二人いて、眼光鋭くこちらを見つめている。苑紫に雫花帝を目指して、教えを授かると告げると、さっそく連れて来られたのがここだった。
「緋蝶様、ここは桜教殿と呼ばれています。代々の花蕾東宮が、花賢師達に教育を受けながら暮らしていた場です。古いですが、手入れは行き届いておりますので、ご安心を。今日からはここで暮らして頂きます。準備は整っておりますので」
門の奥には、綺麗に整えられた庭と、立派な建物が窺えた。
(こんな貴族様の邸宅のような立派なところに住むのよね。身の丈に合わなくて、眠れなさそうだわ。どうしよう。やっぱり帰りたい……!)
本音だが口にはできなかった。一度決めた以上は何があってもやり遂げる。それが信条だ。
一度荷物を取りに帰りたかったが、苑紫に竜神の顔を見た以上、雫花帝の許可なしに外に出る事は許されないと言われた。東雲があとで、荷物を持って来てもらうよう父親に頼むと言ってくれたので、仕方なく帰るのは諦めた。苑紫がこちらに向き直る。
「緋蝶様、女帝候補と花賢師は、教育中は雫花帝の許可なく、桜教殿からは出られません。これは教育に集中するとともに、女帝候補と花賢師の身を守る為でもあります。もちろん、外から来る者達も、雫花帝の許可がないとここには入れません」
苑紫の言葉にうろたえた。正直に言うとまだ混乱しているし、桜教殿から簡単に出られないと聞いて足が竦んでいる。怖じ気づいている様子を悟ったのか東雲が優しく背に手を当てた。
「緋蝶。お兄さんの居場所を突き止めるんでしょう。……大丈夫、私がついていますから」
囁く声にはっとした。見つめると、東雲がそっと笑う。
(慌ただしくここまで来てしまったけど、やるからには、全力を尽くそう。まずは教えを授かって、竜神様に花蕾東宮として認めてもらわなければ。この国に雨を降らせて、なおかつわたしが生きる為には、それしか道はないんだし。それに、兄さんの居場所は絶対に知りたい)
竜神はつかみ所がない感じはするが、約束は守る方だと東雲は言っていた。
いまはその言葉を信じるしかない。顔を上げて、大きく息を吸い込む。
「行きます」
声を上げると、苑紫が小さく頷いた。
「では、どうぞ」
門を潜ると、そこは緑溢れる中庭だった。苑紫が歩きながら、顔をこちらに向ける。
「奥の建物が桜教殿です。そこで教育を受けて頂きますが、その前に一つ伝える事があります。正確には一月後の儀式が終わるまで、緋蝶様はまだ皇族とは認められません」
東雲が眉根を寄せた。
「どういう事ですか?」
苑紫が東雲に向き直った。
「これは東雲にも知っておいてほしい事だが、一月後に行われるのは、花蕾東宮として竜神様に認めて頂く儀式だ。そこで招かれた貴族達が緋蝶様に質問をする。それに答えられなければ、雫花帝としての資質はないと判断すると竜神様が仰っているそうだ」
「それって、儀式で花蕾東宮と認められなかったら、命はないって事ですよね」
皇族と認められないなら、庶民が竜神の姿を見た事になり、それは処刑されるほどの不敬にあたる。苑紫がこちらを向いて重々しい表情で頷いた。
「はっきり言うとそうです。そして緋蝶様が花蕾東宮として認められなければ、世継ぎの姫はいなくなります。それはつまり、紗和国が竜神様の守護を受けられなくなるという事です」
山吹の言葉を思い出す。竜神の守護がなければ、この国は遠からず滅ぶと言っていた。
「責任があまりに重くて、押しつぶされそうです……」
自分の肩にこの国の未来がかかっていると言っても、過言ではないだろう。
改めてそう考えると、震えが走って思わず立ち止まる。隣にいた苑紫も足を止めた。
「その責任を一緒に背負うのが私達花賢師です。ここには緋蝶様を教育する為に選ばれた五人の花賢師達がいます。全員で緋蝶様が儀式で竜神様に認められるようお手伝いをします。しかし我々は補佐しかできません。あなたが弱気になってしまっては、どうにもならないのです」
厳しい言葉だったが、不安に駆られた心を揺さぶり起こすのには、十分だった。
「……そうですね。わたしが不安がっていたら、どんなにみなさんが頑張って教えてくださっても、きっと儀式はうまくいかない。絶対にうまくいくとわたしが信じなければ」
苑紫が、わずかに口角を上げて頷いた。
「その意気です。我々にできる事なら何でもしますので。あとは緋蝶様がどれだけやる気を起こされるかです。頑張ってください」
苑紫は厳しいが、まじめで噓がつけない人のようだ。
(こういう人は信頼できる気がするわ。厳しいけど、その人の為になる事をあえて口にするんだから。普通だったら嫌われたくないとか、いろいろ考えて遠慮してしまうのに)
「わかりました。……あの、一つだけお願いがあります。いまの話だと、わたしはまだ皇族ではありません。ですからわたしの事は緋蝶と呼び捨てになさってください。あと、わたしには敬語を使われなくても大丈夫です」
苑紫が困ったような表情になった。
「しかし、あなたが皇族の血筋である事には変わりません。それならば敬意を払わねば」
「でも、緋蝶様なんて言われると、こそばゆいというか、恥ずかしいというか。呼ばれるたびにどきっとするので」
東雲が微笑んで、苑紫に目を向けた。
「呼ばれ慣れていないからでしょう。苑紫、私からもお願いします。緋蝶の心の平安を保つ為にも、教育をする間だけでも彼女の希望を叶えてくれませんか?」
考え込んでいる苑紫に向かって、両手を合わせる。
「お願いします!」
頼み込むと、苑紫がふっと笑みを浮かべた。男らしい顔立ちが笑みを浮かべると、ずいぶんと優しい印象になる。さきほどとがらりと雰囲気が変わって、思わず目を瞬かせた。
「────いいだろう。あなたがそう望むなら。教育の間は敬語で話したり、敬称はつけないよう、他の花賢師達にも言っておく」
口調を変えてくれた苑紫に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
再び歩き出した苑紫に続きながら、次に頭に浮かんだ疑問を口にした。
「五人の花賢師がいると言われましたよね。みなさんどんな事を教えてくださるんですか?」
「我々はそれぞれ、得意な分野がある。たとえば、東雲は作法に秀でている。雫花帝に必要な大内裏での《作法》を教える事になる」
見つめると、東雲が微笑んだ。確かに東雲は礼儀正しく、所作が美しいと有名だ。
田舎から出てきた貴族が、都で恥をかかないよう東雲に作法を習いに来たりもしていた。
苑紫が歩きながら、自分の胸に手を当てた。
「私は大内裏の護衛隊長だったが、今日からは桜教殿の警護を任される事になる。教えるのは《護身術》だ。本来、女性が剣術や武術を習う事はないが、花蕾東宮は国を治める為にも心と身体を鍛える必要がある。だから護身術を通してその手伝いをするのが私の務めだ」
苑紫が庭から建物に入る為の階段に足をかけた。そして前方の戸を手で示す。
「ここに、他の花賢師達を全員集めている。まずは紹介しよう」
心臓がきゅっとなって、緊張感が高まった。
(東雲様のお屋敷で会った暁様は花賢師の一人よね。藍色の髪に赤い瞳だったし。でも他の二人は初めて会うわ。どんな人達なんだろう。どきどきするわ)
息苦しささえ感じながらも頷くと、苑紫が戸を開けた。
「よろしくお願いします!」
中を見る余裕もなく、頭を下げた。しかし、しばらくしても返事がない。おそるおそる顔を上げると、部屋には誰もいなかった。隣にいた苑紫が拳をぶるぶる震わせている。
「ここに来いと伝えたはずなのに、どうしてあいつらは言う事を聞かないんだ……!」
冷静で落ちついた声しか聞いた事がなかったから、怒りの混じった声に驚いた。
「君と私以外は、自由奔放な人が選ばれていますからね」
苦笑混じりの声は東雲だった。
「緋蝶。全員首根っこを捕まえて連れて来るから、ここで待っててくれ。東雲、あとは頼むぞ」
きびすを返した苑紫に慌てて声をかけた。
「待ってください。わたしからご挨拶に参ります」
「だが……」
「教えを請う身ですので、ご挨拶に出向くのが礼儀かと思います」
苑紫がちらりと東雲を見つめた。
「その方が早いと思います。来いと言われて、素直に来る人達ではないですし」
「……わかった。せっかくだから桜教殿を案内しながら、彼らを見付けよう」
ため息をついた苑紫が部屋を出たので、そのあとに続いた。