その4
「それが『闇の王様』か………やはり、伝承は本当だったわけだ」
金縁の片眼鏡の向こう側で、クレメンスはそう目を細めた。続く溜息には、感嘆の響きすら覗いている。その背後に、彼女は十数人の幻獣調査官を従えていた。
一時、トローと少年の傍を離れ、フェリは臆することなく、彼らの前に立った。人間を相手取るのは、彼女の役割だ。調査官達の手に水晶片―――結界を発生させるために必要な品だ―――が握られているのを睨み、フェリは口を開いた。
「意外なお着きですね? 王政の人員が本部に頻繁に出入りしているため、調査官は下手に動けなかったのでは?」
「下手には動けないとも。現在、私達はヒュドラの獣害調査に赴いているだけだからね」
堂々と、クレメンスは虚偽を述べた。目を細め、フェリは問いを続ける。
「それで、あなた方は何をしにここへ来たのですか? この少年への指示といい、話が違います。幻獣に協力を仰ぐことを初めから放棄し、捕獲、人の利益のため強制的に使役しようとするとは………幻獣調査官の風上にも置けない行為ではありませんか」
「その言葉、そのまま返そう、フェリ・エッヘナ」
「私が何を」
「『闇の王様』という極めて危険な幻獣を、報告義務を果たすことなく傍に置いたのは―――果たして適切な行為と言えるだろうか?」
涼やかに追及の声が響いた。
対するフェリは、動じることなく口元を和らげた。
「職務倫理の観点から考えれば、確かに問題行為と言えるでしょう。謹んでお詫びを申し上げます。ですが、あまりにも幻獣の種類が多く、情報が整理しきれていない現状では、『第一種危険幻獣』と、人間に明らかな利となる種族以外の新種の報告については、発見者の任意とされているはずです。彼は分類外の存在のため、規則違反は何も」
「なるほど、詭弁だ。君は意外と強かだな」
今まで散々改善を要求してきた点を、フェリは逆手に取った。感心したように、クレメンスはくすりと笑う。彼女を見つめ、フェリは真剣に続けた。
「それに報告をしたが最後、彼はその希少性と莫大な力が故に捕縛をされてしまったことでしょう。彼を一箇所に縛りつけておくことは人と幻獣、双方のために望ましくないと、私は判断しました。今でも両者にとってその判断は有益であったと信じています」
「確かに、君に使役されていた間、『闇の王様』が人間に一切の危害を加えなかったことは見逃し難い事実だ。後ほど、使用実績について報告書を纏めるように」
この状況下でクレメンスは滑稽なほど生真面目に命じた。彼女はフェリの背後に視線を向ける。黒一色の夜会服を纏った兎頭の紳士を、クレメンスは耳から爪先まで眺めた。
「元々、『闇の王様』が我々の情報網に浮上したのは、お偉方には馬鹿げていると称された、ある御伽噺が切っ掛けだった―――それは遠い遠い昔の話だ」
遠い遠い昔、とある国同士の戦いの場に黒い波が訪れた。
黒色は人の姿を真似、殺し合いを止めさせ、城を奪った。
城は黒い茨に覆われ、中は恐ろしい魔王の棲処にされた。
しかし、ある日を境に、その噂はぷつりと途絶えた。
「御伽噺は御伽噺、所詮は作り話にすぎないと誰もが考えていた。だが、過去に上層部の分裂騒動から散逸した資料の一部が、数年前に発見されてね。そこには、ある存在の捕縛記録が記されていた………『旧き竜』の暴走跡地で発見された、闇を使役する力を有し、兎頭と人の体を持つ新種について」
「………………」
「担当調査官とその幻獣のやり取りは極短時間だった。にも拘わらず、その跡地で何を見たものか、調査官は新種は莫大な力を持つものと判断し、結界に封じた。だが、今でも封印場所に関する資料だけは、誰かが持ち去りでもしたかのように見つからないままだ………君に心当たりはないかな、フェリ・エッヘナ?」
「いいえ、全く」
「そうか………まぁ、いいだろう。だが、幻獣の詳細が不明な以上、その情報もまた我々の間でさほど重要視されることはなかった。御伽噺と精霊の活発化、一時捕縛された幻獣の存在が結びつけられ、各々の価値が再認識されたのは『火の王様』の発見後だ」
クーシュナの方へ顔を向けたまま、クレメンスは眼球だけを動かした。
瞳の中に、彼女は未だ玉座に力なく座る蜥蜴頭の幻獣を映した。
「何の根拠もなく、我々は『火の王様』を『世界の敵』と位置づけたわけではない。『火の王様』の父に当たる幻獣の死骸と、母となった精霊の存在を………母親は理論上だがね、確認している。両者の交わりは意図的なものだ。また、その発生時期について、君に教えておきたいことがある」
ひらりと、クレメンスは人差し指を立てた。その根元には、自身の尾を呑み込む蛇を象った青銅製の指輪が光っている。細い指を左右に振りながら、彼女は語った。
「まず、『闇の王様』が発生した時―――度重なる戦争は人間だけでなく、幻獣にも多大な損害を与えていた。だが、程なくして国は統合、人と幻獣の摩擦を鑑みて、賢王により幻獣調査官も任命された。つまり人間が安定期を迎えたのと同様に、最もたる脅威である人の手を逃れ、幻獣も安定期を迎えたんだ。以降、次の王様は長く現れなかった」
「それでは、『火の王様』は―――」
「君も感じているだろう、調査員フェリ・エッヘナ? 安定期を迎え、人間達は栄えた。人の進出範囲は広がり、再び幻獣達との衝突が増え始めた。調査官や調査員の獣害対策は間に合っていないのが現状だ。人間側の嘆きも深いが、幻獣側の視点に立てば」
「人間により、自身の領域を多く侵害されている状況に他なりません」
フェリは蜂蜜色の目を伏せた。彼女はライオスの悲痛な叫びとグリフォンの哀れな姿を思い返した。蛇の指輪をなぞり、再びクレメンスは『火の王様』を眼球に映した。
「そこで創られたのが『火の王様』さ。最早、幻獣側の答えは示されたと言えるだろう。『王様』は人間に限らず、世界を壊す存在だが―――現在の幻獣達には、妖精種を中心に人への依存傾向が見られる。自分達の存在をも再編する意味合いが強いのだろう」
フェリは唇を噛んだ。クレメンスが言わんとしていることについては、彼女にも理解ができた。勇者とは大規模獣害に対して、人間という種族全体が示す防御反応だ。
(幻獣側の防御反応が王様だとすれば、既に種対種の対立構造は発生している)
クレメンスは一歩前に出た。彼女はフェリと間近で見つめ合う。
「幻獣は自分達のために、王様を創りあげた。ならば、我々も人間側の答えを示すまでさ。人は王様達を捕縛し、利用する。それがこちらの答えだ」
「確かに、王様の創られた目的は、そこにこそあるのかもしれません。ですが、あなたはある重要な事実を忘れています」
「何かね? 見落としがあると言うのならば検討しよう」
「生き物は親の考えに関係なく、生きる道を選ぶことができます。『闇の王様』が生み出されてから、人は長く滅んでいません。種族の意志と個の意志は時に一致しない。王様を人類の敵対存在だと決めつけるのは早計です」
フェリはじっとクレメンスを見上げる。だが、クレメンスは首を横に振った。
「先程も述べた通り、君という一調査員が『闇の王様』を使役し続けてきたことは軽視し難い事実だ。だが、君という個人の判断に頼るには、王様達はあまりに危険すぎる」
「ですが、王様と人の間には現在も大きな力の差があります。もしも、『王様』が同時に二体以上現れ、協力されれば人類に敵う術は皆無となる。牙を向け合うだけでは、間違いなく人は滅ぼされるでしょう。今から交渉の余地を信じるべきです。もしも、世界を滅ぼすための知恵と力を持つ者がいるのならば、それを思い留まらせるためには愛と信頼も必要だと、私は信じます」
「君は『闇の王様』が愛と信頼のために世界を滅ぼすことを止めたとでも言うのかい?」
「えぇ、その通りです。私の言葉は実例に基づいていますから」
さらりと、フェリは断言した。微かな風が吹き、彼女の白いヴェールを揺らす。
まるで花嫁の宣誓のように、フェリは続けた。
「クーシュナ・トゥラティンは私を愛し、愛されています。愛とは形なく、不安定なものですが、人と幻獣が………あまりにも違う者同士がわかり合おうとする時、それもまた重大な要素でしょう」
フェリの背後で、クーシュナは片膝を着いたまま耳の先端を紅く染めた。彼はそれをへにゃんと倒す。だが、トローの視線に気がつくと、慌ててぴんっと戻した。
彼女達のやり取りが聞こえているだろうに、『火の王様』は一切口を挟まなかった。だが、何を考えているのか、特に否定しようともしない。
蜂蜜色の瞳を輝かせ、フェリは説得を続けた。
「それに現在、私は『幻獣書』を記しています。情報とは世を変えます。多くの人間が幻獣の生体を正しく把握しさえすれば、大幅に獣害を減らすことができるでしょう。どうか力を貸してください。殺し合う前に、やらなくてはならないことがあるはずです」
「なるほど、君は理想主義だな………その点については、私個人としては評価したいと思う。挑戦を積み重ね、困難を乗り越えてこその人間だ。だが、今回の意見の相違は」
クレメンスは指を鳴らした。
それを合図に、彼女の背後の部下達が水晶片を掲げた。それは竜種の長達が人と契約を結ぶ際―――友好の証にと寄越した―――地脈からの魔力を溜めた品だ。その内部には錬金術師が使い魔を召喚する際に使う結界を参考にした、幻獣を捕縛するための、術式が加えられている。
「―――――残念だよ」
「駄目です! あなた方は、王様の力を見誤っている」
間髪を容れず、フェリは叫んだ。だが、クレメンスは訴えを聞かない。
水晶片から垂れ落ちた蒼い光が、床に複雑な文様を描き始めた。
クレメンスの肩に触れ、フェリは懇願を続けた。
「王様達は己の形を、自我を捨てた時、最も強くなるのです! 彼らを疲弊させることが叶ったため、あなたは、捕縛は可能だと勘違いをしたのかもしれない! その認識は誤りです! どうか交渉を! 勇者はまだ幼い、人が勝てると考えるのは驕りです!」
その情報を、フェリは過去にクーシュナから聞かされていた。それは『闇の王様』が最初に会ったエッヘナが死んだ後、何が起こったかについての話でもあった。
『闇の王様』は兎頭の紳士の形を捨て、世界を滅ぼす者と化したのだ。
その時、クーシュナはクーシュナではなくなった。
『あの時の我はおぞましい、全てを壊す闇そのものでしかなかった。二度と、あぁはなりたくないものだ………いや、なってはならんのだ』
「お願い! 私のクーシュナに、『火の王様』に、そんなひどいことをさせない
で!」
悲痛に、フェリは叫んだ。
同時に、トスッと軽い音がした。
「あ、れ?」
間抜けな声をあげ、フェリはぐらりと足を揺らした。怪訝そうに目を細め、クーシュナはなんとか体の一部を伸ばした。彼女が倒れる前に、彼はその腰を浚い、抱き寄せた。
そして、クーシュナは困惑しきった声をあげた。
「我が花よ………なんだ、それは?」
「な、何かしら、これ?」
フェリは自分でも、状況を理解できずに首を傾げた。
その腹部には、飾り気のないナイフが深々と突き立てられていた。
フェリが刺される前に、クーシュナは反応できなかった。それは片膝を着くほどに彼が疲弊していたせいでもある。だが、何よりも、彼はクレメンスから一切の殺意を感じなかったのだ。それこそ、まるでフェリの肩に手を置くように、彼女はその腹を刺した。
異変を察したトローが、鞄から外に出ようと暴れ始める。フェリは弱々しくも、それをしっかりと押さえた。彼女達の前で、クレメンスは柔らかな口調で囁いた。
「本当に残念だよ、調査員フェリ・エッヘナ」
そうクレメンスは首を横に振った、彼女は指先を汚す僅かな血を絹のハンカチで拭う。
「このような、始末書ものの事態にはなって欲しくなかった。だが、君に反発と邪魔をされ続けるよりも、こうして今後の事態観察をさせてもらう方が有意義だと判断した」
クレメンスは実に穏やかな眼差しをフェリに注いだ。
彼女は―――憎悪も怒りもない―――澄んだ目をして続けた。
「幻獣調査官、調査員の歴史は、熱意溢れる人材による、身を挺しての実体験の積み重ねでもある。君が死んでも、本当に『闇の王様』が危険ではない存在のままなのか、実証してもらういい機会だろう………だが、すまない。即死には浅かったな。苦しませるのは本意ではないんだが。君、トドメを頼めるかな?」
クレメンスは勇者の少年に尋ねた。
彼は無表情のままだ。だが、フェリに視線を向けながらも、少年は指示に従おうとはしなかった。彼はぐっと拳を握り締め、返事をしないまま―――何を言えばいいのかわからなかったのだろう―――一歩、フェリの側へと動いた。
呆れたように、クレメンスは声をあげた。
「おや、君が指示を拒むとは、国からの説明は当てにならないな………まあ、いい。調査員、フェリ・エッヘナ。死亡まで時間はかかりそうだが、我慢して欲しい。耐え難いのならば、少し痛むが一気に刃を抜けば………」
「クレメンス調査官!」
「なんだね?」
憤怒から、クーシュナが己の形を崩しかけた時のことだった。
調査官の一人が緊張に嗄れる声をあげた。見れば、年若い青年が唇を噛み締めている。
彼は―――クーシュナの腕の中で、腹を押さえている―――フェリをじっと見つめた。ローブにも似た、地味な黒色のヴェールを揺らし、青年は上官に反発の声をあげる。
「あまりにも、これは非道ではありませんか! 私は『第一種危険幻獣』を超える、危険な幻獣を捕縛するため、お供をしたはずです! 同胞を、エッヘナ調査員を殺害するなどとは聞いておりません!」
「調査員フェリ・エッヘナは『闇の王様』側の人間だ。彼女の思想は幻獣の方へ傾きすぎている。最早、わかりあえる可能性はないものと判断した」
「し、しかし、自分は彼女の獣害解決数、綿密な報告書の数々に感銘を受けている者であります! 早急な手当てを望みます!」
青年は断固として退かなかった。
クレメンスは困惑した顔をする。彼女は軽く額を押さえた。
「弱ったな………この件について、情報を開示する者は相当厳選したはずなんだが………君、この部隊に加入したのは父君からの推薦だろう? 顔向けができる言動か?」
「ち、父のことは無関係です! 自分は反対です! これは流石におかしい!」
「自分もです、上官殿! 幻獣調査官の仕事は人殺しではない!」
続々と反発の声があがった。クーシュナは闇を揺るがせる。歪に広げた目に、彼は深い怒りと憎悪、拭い難い困惑を浮かべた。だが、戸惑いながらも、彼は理解してもいた。
人を殺し、人を庇う。それが人間なのだ。
迷うクーシュナに白い手が伸ばされた。フェリがそっと彼の頬を掌で包み込んだのだ。
「駄目よ、クーシュナ」
兎の紳士の細かくぶれ続ける顔にフェリは額を寄せた。息をする度、その腹に刺さった刃から血が伝い落ちる。それでも、彼女はいつもと何ら変わりない微笑みを浮かべた。
「人を、傷つけては駄目よ」
瞬間、闇が爆発的に広がった。
それはクレメンスとその部下を覆い―――何も呑み込むことなく元に戻った。
部下達の無事を確かめ、クレメンスは緊張を解いた。彼女は感心したと声をあげる。
「なるほど………君の言葉は嘘ではないようだ、フェリ・エッヘナ。部下達からの嘆願もある。これは検討の必要があると改めよう………だが、今は『火の王様』と『闇の王様』の捕縛を優先させる。その後、調査員フェリ・エッヘナを病棟に収容、供述を取ることとしよう。それでいいな、皆」
彼女はそう結論づけた。蒼い光は止まることなく広がっていく。
フェリはぎゅっとクーシュナにしがみついた。闇を広げたことで、彼は更に疲弊している。だが、力強く、クーシュナはその腕で彼女を抱き締め返した。
不吉な光に、『闇の王様』が呑まれかけた時だった。
「なんだい、なんだい、何が起こっているんだい?」
明るい声と共に、フェリ達の前に金色の点が三つ舞い上がった。
フェリは目を見開く。華やかな光は、見覚えのある形をしていた。彼女の腹を貫いた刃物の周りを飛びながら―――小さな人―――フェアリーは声をあげた。
「すっごく怖くて、覚えのある力が流れてきたぞと思ったら、なんだい『闇の王様』じゃないか! そして僕らを庇ってくれた子が、大変なことになっているぞ!」
「やいやい、お前達、何をしてくれたんだ! この子は僕らの可愛い子だぞ!」
「僕らの国へ連れて行こうよ! 早く治してあげなけりゃ!」
鈴を転がすような声を聞きながら、フェリはある事実を思い返した。
この城の周りにもフェアリーはいた。彼らの棲処である妖精丘は全て同じ場所―――若者の国に―――繋がっている。異常を察し、彼らはそこから飛んできたのだろう。突然の展開についていけないのか、調査官達はぽかんと口を開けている。
「そうれ! 目くらましだ!」
彼らに向けて、妖精達は金色の光を放った。
フェリ、クーシュナ、トローはそれとはまた別の転移魔術に包み込まれる。
妖精達の織り成す光の中、フェリは必死にある人物に腕を伸ばした。
「一緒に―――――――っ!」
少年は手を伸ばし返さなかった。じっとフェリを見つめ、彼はただ首を傾げる。
まるで、どうすればいいのか、わからないというように。
フェリの蜂蜜色の目から涙が零れ落ちた。
次の瞬間、三人の姿は掻き消えた。
フェリの意識は、ふっと途切れた。