ヒュドラ

その5

 どこからか、この世のものとは思えないような美しい音楽が聞こえてくる。

 続けて、鈴を鳴らすような愛らしい声が、小さくフェリの耳をくすぐった。


「目覚めるかしら?」「きっと目覚めるよ」

「もうすぐかしら?」「きっともうじきさ」

「ほら」「目覚めるよ」


 高い声に促され、フェリは瞼を開いた。混濁した記憶が、彼女の頭を流れていく。ハッとしてフェリは腹部を撫でた。だが、痛みはなかった。何故か傷口すら見つからない。


(………一体、どういうことなのかしら?)


 呆然としながら、彼女は起き上がった。


 フェリは金糸製の天蓋に覆われた、豪奢な寝台に横たわらされていた。空気は宝石をちりばめたかのように、キラキラと輝いている。窓の外に広がる景色は、絢爛に美しい。


 そして、彼女の周りには小さな人達が集まっていた。


 空中で宙返りをし、彼らは金の光を振り撒きながら歓声をあげた。


「目覚めたわ!」「僕らの可愛い子が!」

「『闇の王様』の愛しい花が目覚めたよ!」


 ようやく、フェリも思い出した。ここは妖精たちの国なのだ。


「おはようございます………あの、」


 彼らに尋ねかけ、フェリは奇妙な音に気がついた。ププスー、ププスーと何やら間抜けな音が聞こえる。彼女は異音の下を探した。すると―――今、妖精達に居場所を尋ねかけた―――小さな蝙蝠が、彼女の枕の隣で腹這いになっているのを見つけた。


 鼻提灯を作りながら、トローは眠っている。その目の下の毛はしとどに濡れていた。どうやら今の今まで、ずっと泣きながら起きていたらしい。


「………ごめんね、トロー」


 手を伸ばし、起こさないように、フェリは彼の頬を優しく撫でた。


 その瞬間だった。嵐のように、大量黒色が部屋に乱入してきた。


 フェアリー達は震えあがった。彼らは素早く物の隙間に姿を隠す。闇は部屋を塗り潰し、中央に収束するとヒュボッと音を立てて固まった。ソレは細身の紳士の形を取る。


 微笑みを浮かべ、フェリは彼を見上げた。

 兎耳を揺らし、クーシュナは顔を伏せたまま尋ねた。


「………傷はどうか、我が花よ」


「えぇ、大丈夫よ。妖精の皆が助けてくれたおかげで痕すらないわ」


「そうか………ならば何よりよ」


 再びヒュボッと音を立てて、クーシュナは影に溶け込んだ。ジグザグの軌跡を描きながら、黒色は稲妻のようにどこかへ移動する。クーシュナはいなくなった。


 クーシュナがいなくなると、フェアリー達は隠れ場所から恐る恐る顔を覗かせた。


 金色のネグリジェをさらりと揺らし、フェリはベッドから飛び降りた。一匹のフェアリーが、彼女の前に飛んでくる。彼に手を差し伸べて、フェリは片膝を曲げて礼をした。


「本当にありがとう。皆の親切に感謝します。後ほどお礼と御挨拶に、女王様の下へ伺います………その前に、少しだけ時間をくださいな」


 そして、フェリは部屋を後にした。

 妖精達の館から外に出ると、彼女は一目散に花畑を目指した。


              *    *    *


 空は人の世の色をしていない。花も知った形とは違っていた。


 どちらも人間の世界の法則の縛りから放たれた、見事な美しさを誇っている。想像を超える色と形をした花の海は、まるで永遠のごとく広々と続いていた。


 その複雑で深い色合いの中に、一点だけ、邪魔な黒色が存在している。


 兎頭の細身の紳士が、脚を組んで座っている。


 密に咲いた花々―――その花弁は散らない―――を掠めて歩き、フェリはちょこんと彼の隣で両膝を抱えた。クーシュナは応えない。彼はぼんやりと虚空を眺めている。純白の髪を揺らし、彼女は体を傾けた。ぽすんっと、フェリは夜会服の肩に頭を乗せる。


「ごめんなさい」


「………何が、か、我が花よ」


 フェリの呟きに、クーシュナは前を向いたまま応えた。瞼を閉じて、フェリは続ける。


「あなたのために、何もできなかった」


「我の花であろうが怒るぞ」


「死にそうに、なってしまったから」


「それだ。戯けが」


 クーシュナは片耳を垂らした。それ以上、彼は何も続けない。

 花達も無音で揺れた。美しい光景の中、やがて、フェリは再び口を開いた。


「私が死ねば、あなたも死んでしまうのに。トローとも約束したのに、ごめんなさい」


「………………いや、本来謝るべきはこちらなのだ。我が花よ」


 不意に、クーシュナは片腕を伸ばした。彼はぎゅっとフェリの肩を抱く。彼女は自ら彼に強く身を寄せた。花畑の中、フェリにしっかりと寄り添ってクーシュナは囁く。


「何が守るか………何が枯らさぬか。我が花を凶刃から守ることすらできずして、何が『闇の王様』か………我に幻滅したか? 我を嫌いになったか、我が花よ?」


「その答えは一つだけね」


「そうだな………あぁ、その通りよ」


 クーシュナに向き直り、フェリは両腕を伸ばした。彼女はぎゅっと彼を抱き締める。


 その温かな腕は、母のようで、姉のようで、花嫁のようだ。

 彼のことを抱擁しながら、彼女は真剣に囁いた。


「大好きよ、クーシュナ。心配をかけてごめんなさい」


 クーシュナは優しく―――大切なものを包み込むかのように―――その背中に腕を回した。フェリの体は小さく、細く、脆い。無言のまま、彼はゆっくりと目を閉じた。


 花畑の中、二人は別ち難く抱き合う。


 その時だった。


 ピィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!


 思わぬ奇声が、場を乱した。慌てて、二人は抱擁を解く。


 フェアリー達をわらわらと引き連れて、何かが高速で飛んできたのだ。それはキキィッと空中で急停止するとフェリの顔面にピタッと張りついた。ぴぃぃっと鳴き声が響く。


「まぁ、トローっったら。目が覚めたのね。ごめんなさい、心配をかけてしまったわ」


「………ッ! ………ッ!」


「えぇ、わかっているから。ごめんね、本当にごめんなさい。大好きよ」


 そのまま、トローはべそべそと泣き始めた。肩を竦め、クーシュナは彼に話しかける。


「起きたのか、小僧っ子よ。まぁ、そう泣くでないわ。我が花はこうして無事に………なぁ、おい、さっきまで、我と我が花の距離は随分と近かったと思うのだが、鼻を蹴ってこんのか。調子が狂うわ………こら、そう泣くな。水分が足りなくなるぞ」


 顔中べしょべしょにしたトローを、クーシュナは持ち上げた。

 僕らの友達を泣かすなーっと、フェアリー達は一斉に抗議の声をあげる。


「い、いつの間に仲良くなったのだ、こ奴ら」


 そう、クーシュナは呆れた。辺りを舞い飛ぶ妖精達に、フェリは穏やかに頷く。


「えぇ、もう元気。大丈夫よ。皆さんのおかげです………えぇ、うん………だからこそ、戻ろうと思うの。妖精の国と人間の国は時間の流れが異なるから。『火の王様』が、ヒュドラが、勇者のあの子が、どうなったのかを確かめなくては」


「おいっ、正気か、我が花よ! こ奴らは我のお前のことを歓迎しておる! 人の世界など最早知ったことか! 戻らないという選択肢だってあるのだぞ!」


 そう、クーシュナは訴えた。無言で、フェリは彼を振り向く。

 ざわりと、花が啼いた。深い色の波の上を、キラキラと黄金のネグリジェがなびく。


 彼女は自身が愛し、自身を愛する幻獣を静かに見上げた。その蜂蜜色の澄んだ瞳を見た瞬間、クーシュナは全てを悟った。悟らざるを得なかった。


「仕方があるまい、な………我が花は、それでこそ我が花よ」


 クーシュナは空を仰いだ。彼にもわかっていた。それこそ、遠い昔から知っていた。


 フェリ・エッヘナは世界を愛している。彼女は世界を、人を、幻獣を、心より慈しんでいた。母のように、花嫁のように、赤子のように、フェリは全てを愛しているのだ。


 彼女が幻獣と人を見捨てることなどありえない。


 たとえ、何回裏切られたとしても、だ。


「わかった………共に行こう、我が花よ。それが、我と我のお前の約束だ」


 クーシュナは手を伸ばす。縋るように、フェリはその掌を掴む。再び、彼は誓う。


「どこまでも、いついかなる時も、共に行こう」


 そうして、二人はしっかりと手を繋いだ。

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