その3
『火の王様』の棲処である廃城もまた、深い森の中にあった。
かつて、白い石が組まれた城には女王が棲み、その膝元には城下町が広がっていたという。だが、何があったのか―――人の争いの果ての結果か―――小国の王都は今や放棄されていた。木々に呑まれて朽ち果てた街跡には、石組みだけが残されている。
ヒュドラの森と違い、辺りには妖精や幻獣の気配が息づいていた。だが、フェリ達が歩を進めると、空気はピンッと張り詰めた。茸の傘の下から小人が顔を覗かせる。花の隙間をフェアリーが忙しなく舞い飛んだ。声なき声が一斉にフェリへ呼びかけてくる。
進んではならない、行ってはいけない。幻獣は恐れる必要などないが、人間は畏れ、会うべきでない御方がこの先にはいらっしゃる。入ってはいけない、進んでもならない。
選ばれし、貴き御方の地だ。
彼らの反応に、フェリは微かに目を細めた。心の底から、彼女は懐かしそうに囁く。
「あぁ、過去の『私』が本に書き残していた―――『闇の王様』の時と同じ反応ね」
影の中、クーシュナは複雑そうに蠢いた。少年を労わりながら、フェリ達は歩き続ける。やがて、彼女は驚きに目を見開いた。
「本当ね………ここに棲む子は、あまりにも既存の幻獣とは違う存在だわ」
城は炎で覆われていた。森の木々の間に、紅い火が音もなく揺れているのだ。その様は砂漠に浮かぶ蜃気楼に似ている。だが、炎は確かな熱を放ってもいる。それでいて、木々に燃え移る様子はない。頑なに城を守護してはいるが侵入を図る者以外には無害だ。
この炎は自然の摂理からは外れている。
『闇の王様』の城は、黒い茨に覆われていた。
『火の王様』の城は紅い炎で閉じられている。
「ううん、茨と違って、流石に炎はかい潜れないわね………ヴェールがビリビリになるのは構わないのだけれど、燃えてしまっては危ないわ………こら、トロー、駄目よ」
好奇心に瞳を輝かせながら、トローは鞄から鼻先を突き出した。彼はこっそり不思議な炎に触れようとする。その頭を、フェリは寸前で押さえた。ブニッとトローは潰れる。
彼女の影の中から、クーシュナは自慢げにピンッと片耳を立てた。
「なに、心配は無用だ、我が花よ。我の闇ならば、この炎も容易く切れ………ん、どうした、幼子よ? 勝手に前へ出るでないわ」
「………………フッ!」
無言で、少年は腰の鞘から剣を抜き払った。銀光が奔る。一瞬後、刃は元へ戻された。
目には見えない何かが切断される。
パラリと、炎は柔らかく崩れ、溶け消えた。
「なるほど………本来、人に可能な技ではないな。これが勇者というものか」
ぼそりと、クーシュナは呟いた。少年は返事をしない。フェリは彼に丁寧な礼を述べ、その頭を撫でた。少年は不思議そうな顔をする。彼の目を見つめ、彼女は忠告を重ねた。
「ありがとうございます。助かりました。でも、これからは私達の前には出ないようにしてくださいね………約束ですよ。さぁ、行きましょう」
朽ちた城門から、フェリ達は中へ入った。
やはり城内は荒れていた。枝が鎧戸の壊れた窓から侵入し、不気味に腕を広げている。階段の手摺や装飾には名も知れない蔦が這い、暗い色の花々を咲き誇らせていた。
冷たい石畳みを靴底で叩き、フェリ達は進んだ。足元は意外にも明るく、崩れている箇所はあるものの歩くのに不安はない。何故ならば、蜘蛛の巣の張ったシャンデリアや腐敗した松明、燃えるはずのない鎧兜の内側にまで、赤々と火が灯っているためだ。
長く広い廊下には紅い衣服や装飾を身に着けた、高貴な男女の絵画も見て取れる。
何もかもが死んでいるのに、炎だけは明るく息づいていた。
不思議な城内を、フェリ達は奥へ奥へと進んだ。
やがて、彼女達は玉座の間へ辿り着いた。
そこには絵画の人々と同様に、紅く緩やかな長衣を纏った幻獣が座っていた。
彼の体は人間だが、頭部は蜥蜴のものだ。細身のクーシュナと違って、その肩幅は広く、骨格もがっしりとしている。蜥蜴の頭部も実に精悍な造りをしていた。堂々たる姿からは、王と評されるにふさわしい威圧が放たれている。
玉座に座る幻獣の前に、フェリは粛々と進み出た。
「あなたが『火の王様』ですか?」
「………………」
問いかけに応えはなかった。何が気に入らないのか、『火の王様』はフェリへ侮蔑の眼差しを向ける。その芳しくない反応を見てか、彼女の隣に急速に黒色が編み上がった。
針金のように細い闇が、兎頭の紳士の姿を描く。
黒一色の体を傾け、クーシュナは『火の王様』に優雅な礼をした。
『火の王様』は微かに表情を変える。彼は瞳孔の細い、金の目を見開いた。
「失礼するぞ、『火の王』よ。我が姿を見れば、我が何者かは貴様にもわかろうて」
「………『闇』………『闇の王』、ね」
「驚いたぞ。まさか、我以外にも『王様』がいたとはな。まぁ、所詮、人のつけた呼び名ではあるが………同時に、我には自覚がある。我は王だ。そして、貴様も王だ。この世の全てを覆すため、強力な幻獣と精霊の間に産み出された存在だ」
そう断言し、クーシュナは兎耳を揺らした。
『火の王様』は応えない。深々と玉座に凭れたまま、彼は無言を貫く。
改めて、フェリは『火の王様』の前で両膝を折り、頭を垂れた。
「『火の王様』、あなたにお願いがあります。今、人間や幻獣はヒュドラの毒により苦しめられています。どうか、あなたの不思議な火を、私達に貸しては頂けませんか?」
フェリは返事を待った。やがて、『火の王様』は深い深い溜息と共に首を横に振った。
不機嫌に、クーシュナはトンッと足を鳴らした。
「助力はせぬ、か? なぁ、もしや、貴様はその生まれた理由の通りに、世界を滅ぼそうなどと考えているわけではあるまいな?」
「………そうだとしたら?」
「何故だ、『火の王』よ。この世界のことを、貴様はまだ何も知らぬであろう? 城の中に閉じ籠り、無知のままに全てを壊しては必ずや後悔するぞ」
「………………」
「それともあれか? 貴様も過去に何かがあったというのか? この城でもどこでも誰相手でもいい。世界を壊したくなるようなことや別れを、既に味わいでもしたのか?」
『火の王様』は応えなかった。話す価値もないというかのように、彼は沈黙を保つ。
もう一度助力を乞うべく、フェリが口を開いた時だった。
空気の切り裂かれる鋭い音がした。王座に届くことなく、音の正体は空中で炎に包まれる。燃え尽きた矢が、白い灰となって床に舞い散った。
『火の王様』に向けて、矢が放たれたのだ。その事実を理解し、フェリは目を見開いた。
「――――――えっ?」
「――――――毒虫が」
『火の王様』は頬杖を突きながら吐き捨てた。フェリは慌てて隣を見る。
そこでは勇者の少年が自身の鞄の中から取り出した弓を構えていた。彼が遠距離攻撃用の武器を隠し持っているなどと、フェリは考えすらしない。彼女は上ずった声をあげた。
「何故、止めてください。私は今協力を」
「きけんだから」
「危険?」
「わかりあえるとおもうなと、ほかくがだいいいち」
「何を言って」
初めて聞く少年のたどたどしくも物騒な言葉に、フェリは愕然とした。
クーシュナは鼻で嗤った。彼は靴音も高らかに前に出る。
「ハッ、どうせ、クレメンスの差し金であろうな。見よ、その矢尻にはヒュドラの毒が塗られておる。『王様』であろうと、当たればただでは済むまい。最初から、奴は捕獲のみを目当てにしていたというわけだ」
彼の前で、攻撃された『火の王様』は猛然と熱と炎を纏い始めていた。
フェリは目を閉じる。再度の交渉の余地など、最早どこにも残されてはいなかった。
千の鳥の群れのように、輝く紅色は宙を旋回した。クーシュナは低く囁く。
「道化劇に我らを巻き込んだのは―――この展開も予測していたからであろうよ」
『火の王様』は軽く前へ手を振った。その気だるげな動きとは真逆の獰猛さで、炎は一斉にフェリ達の下へ飛んだ。
勇者の少年は前に出ると剣を構えた。有無を言わさず、フェリは彼を引きずり戻す。
「あなたは戦っては駄目。動いても駄目。お願いだから、このままでいて」
そう、彼女は少年を抱き締めた。瞬きをしながらも、彼はフェリの指示に従う。
視界を焼き尽くす量の火矢を前に、クーシュナは優雅に片手を挙げた。闇の盾が炎を受け止める。間髪を容れずに、『火の王様』は指先を動かし、追撃を放った。瞬間、闇の盾が蠢いた。その表面に巨大な咢が生まれる。鋭い牙は次々と紅色を噛み砕いた。
散らされた炎の一部が、城の壁を直撃した。瓦礫が飛び散る。
二人の王様に当たる寸前、それは火と闇に弾かれた。
再び玉座の周りは輝き出した。『火の王様』の紅い長衣の端が蕩ける。ソレは溶岩のような輝きを放ちながら、蠢き始めた。
「―――チッ、この程度は仕方があるまい」
舌打ちすると、クーシュナは片腕を溶かした。
膨大な量の黒と紅がぶつかり合う。壮絶な力を持つ渦が巻き起こった。
衝撃波の中、フェリは少年とトローを胸の中に庇い、身を屈めた。
四人を焼き潰せなかったことに『火の王様』は苛立たし気に踵を鳴らした。自身の周りに彼は幾重にも炎を重ね始める。ソレは膨れ上がり、部屋を埋める紅い暴風と化した。
クーシュナは逆に、自身の腕の中に闇を圧縮させた。彼は逼迫した声で叫ぶ。
「我が花よ、我が腕の中へ!」
「えぇ!」
フェリは少年とトローを抱えた。迷うことなく彼女はクーシュナの胸へ飛び込む。
クーシュナはフェリを抱き締めた。瞬間、彼は限界まで集めた闇をマントのように広げ、自分達の全身を固く覆った。
そこに猛然と炎が襲い掛かった。紅い薔薇が黒い果実を包むような光景が展開される。
長い長い時間が過ぎた。やがて炎は晴れ、闇は崩れた。
クーシュナはよろめき、片膝を着いた。その体を、フェリは慌てて支える。
「クーシュナッ!」
「えぇい、埒が明かぬ………流石に疲弊したぞ、このわからずやが!」
クーシュナは叫んだ。疲れ切った姿は隙だらけだ。しかし、追撃はない。見れば、『火の王様』も激しく消耗していた。玉座に凭れる彼の姿勢は崩れている。
フェリの腕の中で、少年は無表情に一連の光景を眺めていた。目の前で繰り広げられる激しい戦闘に、何かを感じている様子は、彼にはない。
その時、トローが小さく鳴いた。クーシュナもぴくぴくと片耳を動かす。
「………どうやら、招かれざれる客まで来たか。なるほどな。こうなることすら、計算のうちときたか。とことん呆れ果てるな」
クーシュナは憎悪を低く声に乗せた。兎の片眼を歪に見開き、彼は吐き捨てる。
「―――――毒虫が」
クーシュナの視線の先―――壁に空いた穴の向こう―――には多くの人間がいた。
幻獣調査官の一群が、いつの間にか廃墟の部屋を取り囲んでいたのだ。