その2
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バリバリむしゃむしゃバリバリむしゃむしゃバリバリむしゃむしゃ
それは、そうとしか表現しようのない変な音だった。
棚から―――正確には、チーズと丸い影を描く固焼きパンの隙間から―――トローはそっと顔を出した。
見ればいつ食糧室にやって来たのか、床の中心にぶくぶく太った男がいた。脂肪がたっぷりついたその醜悪な体は、最早限界と言わんばかりに膨れあがっている。明らかに食べすぎだ。それなのに男は手を休めることなく、食糧室中の食べ物を貪り食っていた。
大きな肉の塊、固焼きのパン。瓶詰めのピクルスから香辛料まで。
また、男は酒樽の栓を抜き、ごくごくと一気に中身を飲み干した。
これは一体なんだろう。そう、トローはポカンとしながら考えた。だが、徐々に、その食べっぷり、飲みっぷりが、彼には輝かしく見えてきた。
だって、勢いよく飲み食いする男は、この世の憂いなど何も知らないようなのだ。その頭の中には、食欲しか存在しないに違いない。
段々と、トローもこの宴に参加したくなってきた。
つまり、やけ食い、やけ酒をしたくなったのだ。
肉は死んでも食べたくなかった。だが、幸い、固焼きパンはまともな小麦粉を使った品のようだ。トローはむしゃむしゃとそれを齧った。同時に、男が放り投げた樽の底から、ビールも少しばかり拝借した。
そうして、男と一緒に飲み食いをしているとトローは悲しみが薄れていくのを感じた。酔いと満腹感が頭を濁らせる。ふわふわといい心地になって、トローは棚板の上に戻り、ごろごろと左右に転がった。お腹の中で、しゅわしゅわとビールの泡が弾ける気がした。
お腹いっぱい、夢見心地だ。今ならばなんでもできる気がする。
選ばれし勇者トローは、それこそ素晴らしい活躍をするはずだ。根拠のない全能感を覚えながら―――けれども、本当は―――トローはちっとも気持ちよくなんてなかった。
どうして上手くいかないんだろうと、彼はぽつりと呟いた。
どうして、自分はこんなところで酔っ払って転がっているんだろう。
何もかもできるような気分がするのに、何一つとしてするべきことをやれていない。
主の柔らかな微笑みが、なんだか無性に懐かしかった。
やっぱり、フェリの下へ帰ろうとトローは思った。彼女と顔を合わせて、ちゃんと謝るのだ。そう、決意して起き上がった時、彼はふとその事実に気がついた。
男は食糧室中の物を食べ尽くす勢いで、まだむしゃむしゃと口を動かしている。
どうもおかしい。
人間の所業とは思えない。
と、いうか、トローは泣いていたせいで気づかなかったが、これはもしかして、ただの人間には見えない類の生き物ではないのか?
そうはたと気がつき、トローは跳ね起きた。元々、この宿屋は人を騙す悪名高き場所だ。だが、あの男が人間でなく―――恐らく幻獣の類ならば―――自由にさせておくわけにはいかなかった。 獣害に対処するのも、主の、トロー達の仕事なのだ。
ちなみに、もしや、これをなんとかすることができれば、胸を張って戻れるのではないか? と思ったことも否定できない。
トローはいざ、男の暴食を止めるために飛び立とうとした。
その瞬間、彼はハシッと大きな掌で体を掴まれた。宙に持ち上げられながら、トローは何事かと首を傾げた。
彼は思いっきり、男の手の中に掴まれてしまっていた。
困惑し、トローはぴすぴすと鼻を鳴らした。男を捕まえるつもりではいたが、まさか、逆に捕まるとは予測していなかったのだ。
もしや、自分の考えがバレたのかと思った瞬間、トローは自分がチーズと一緒に掴まれていることに気がついた。男の脂肪がたっぷりついたふかふかの掌と、匂いのきついカサカサしたチーズの間に、彼は挟まれてしまっている。
チーズ。トローは思った。
まさかのチーズ。
チーズとは食べ物である。
男がそれを掴んだということは。
もしやと身構えるトローの前で、男は大きく口を開いた。彼はそのままあーんっとトローを食べようとする。まさかのまさかだった。ぴぎゃあああああああああっと声にならない悲鳴をあげ、トローは必死に逃げようともがいた。だが、どうやら無駄らしい。食欲に支配された男の掌は、トローを放さなかった。
トローはあぁと涙を流した。最早おしまいだ。こうなれば覚悟を決めるしかない。彼は本来かっこいい男である。突然の―――あまりに間抜けな―――死を前にしても取り乱すことは許されなかった。トローは蜂蜜色の目にしっかりと迫りくる巨大な口を映す。
あぁ、でももうちょっと主のためになりたかったなぁ。
兎耳は自分がいなくなっても大丈夫かなぁ。
そう、トローが心配に思った時だった。
「どうせ、自分がいなくなったら、我は大丈夫かなぁなどと、間の抜けたことを考えておるのであろうが。大丈夫に決まっておるであろうが、この戯け」
闇がトローの体にぴしっと巻きついた。それはまるで一本釣りをするように、彼の体を強く引っ張ってきた。
再び、ぴぎゃああああっと、トローは悲鳴をあげた。あまりにも乱暴な所業だ。だが、すっぽーんっと、彼は上手く男の手の中から抜け出すことができた。
そのまま、トローは間抜けに宙を舞った。体勢を立て直す余裕などない。一難去って、また一難。今度は、彼は墜落死を覚悟した。だが、気がつけば、トローはぽすりと柔らかくて、温かな場所に落ちていた。顔をあげると、フェリの心配そうな瞳と出会った。
トローは彼女の白い掌の上に乗っているのだ。また無事に会えた。そう、彼は彼女とおそろいの蜂蜜色の瞳に、ぶわっと感動の涙を浮かべた。フェリは慌てた調子で言う。
「大丈夫、トロー、怪我はないわね? あぁ、よかった。どこに行ってしまったのか
と思ったわ。心配していたのよ。もっと早くに探せばよかった」
「そこは小僧っことて男であろうから、少しは一人にさせてやれと言った、我のせい故な。気に病むことはないぞ………それに、だ。元はと言えば………なーにをお前はこんなところで酔っ払っておるのだ、小僧っ子よ。こら、恩人ならぬ恩獣の顔に蹴りを入れるでない、止めぬか」
クーシュナは布で隠した顔―――何故か、今の彼は人を装っている―――をトローの前に突き出してきた。布越しに、トローはその鼻をゲシゲシと蹴った。
本当は礼を言うべきなのはわかっていた。だが、やはり上手く言葉を出せなかったのだ。何よりも、言い訳のしようもないほどに、一人で酔っ払っていたことが恥ずかしかった。顔を伏せ、トローはもじもじする。
急にしおらしくなった彼を見て、クーシュナは調子が狂うわとふんっと鼻を鳴らした。
「改めて言っておくぞ。お前がいなくなっても、我は大丈夫よ」
それはそうだろうと、トローは思った。何せ、自分は主の顔を叩き、酔っ払うような愚か者なのだ。今度ばかりは馬鹿にされても仕方がない。
そうトローがますますうなだれるのを見て、クーシュナは大きく溜息を吐いた。
「何故ならば、お前が我と、我と常に一緒な我が花の前からいなくなるような事態は、我が事前に防ぐからだ。そんなことは二度とありえぬ。ありえぬことを心配しても仕方がなかろう。ほら今も助けてやったであろうが―――だからこそ、貴様は自身の不始末などそうは気にせず、好きなだけ小さいながらに口やかましくいるがいい、小僧っ子」
クーシュナはにゅっと黒い手を伸ばした。そして、驚いたことに、彼はトローの頭をぐしゃぐしゃと撫でたのだ。
「貴様が友と主のためならば、勇者よりも勇敢な蝙蝠であることを、我は知っておるわ」
クーシュナは今までになく、真剣な調子でトローにそう告げた。
トローはじわりと涙が滲むのを覚えた。もう耐えられなかった。
彼は再びぴぇええええっと泣き出した。それを見ても、クーシュナは嘲笑うことはしなかった。フェリは優しくトローの涙を拭ってくれる。白い手の中で、彼がわぁわぁと好きなだけ泣いていると、クーシュナが言った。
「で、どうなのだ、人間よ。お前にも見えたであろう?」
「え、えぇ………本当に。まさかのまさかですよ。こんな生き物がいるなんて」
そこで、トローはようやく、この場に見知らぬ人間がいることに気がついた。
クーシュナの隣に―――どうやら彼はこのために人間を装っていたものらしい―――チョビ髭の男が並んでいる。その瞼にはフェリの持ち歩いている、四葉のクローバーで作った軟膏が塗られていた。食糧室の中の太った男―――人間には見えない幻獣―――を見えるようにするための措置らしい。
恐らく、チョビ髭は先程フェリが話してみると言っていた、宿屋の主人なのだろう。彼を振り返り、フェリは告げた。
「幻獣書百十二ページ『食糧室の精』、『不当に得たものや、誤魔化して調理した食べ物を自分の思うままにする力がある』この妖精がいる限り、どんなに食材を偽っても儲かることなどありません。それを上回る量を、彼が食べてしまいますから」
「な、なんと、儲かろうとすればするほど何故か貧しくなったのはそのせいだったと」
「数年前には、この宿屋もちゃんと儲かっていたと聞きます。正直に、人のためになる仕事をしてください。そうすれば、この幻獣に食べ物を盗られることもなくなります」
目の前で、食料や酒を貪る男はどんな言葉よりも雄弁な説得力を発揮したらしい。宿屋の主人はこくこくと頷いた。それに頷き返し、フェリはトローの瞳を見つめて囁いた。
「トローごめんね」
「…………!」
「心配をかけてばかりね」
トローはまた泣いた。彼は声にならない声で、必死に自分の不安を並べていく。
フェリが傷つくのが嫌なこと。純白の服が紅く染まるのが怖いこと。それをうんうんと頷いて聞きながら、彼女はそっと彼の頬に唇を寄せた。
「大丈夫よ、トロー………二度とそんなことにはならないわ」
フェリはゆっくりと瞼を閉じる。彼女の言葉の意味が、彼にはよくわからなかった。
二度ととは、なんだろう。だが、聞き返すには涙が溢れ、喉が詰まってしまっていた。ぼろぼろと泣くトローに、フェリは重く囁いた。
「私の大切な子達を、二度と一人ぼっちにはできないもの」
そう、トローを抱き締める白い姿の傍には、まるで御伽噺の騎士のように黒い姿が寄り添っていた。なんだか、それが凄く貴重なことに思えて、トローは泣き続けた。
宿屋の部屋に帰っても、彼の涙は止まらなかった。
まるで、ずっとずっと昔に怖かった分を、今、泣いているかのようだった。
***
翌日、主人は必ず経営を改めると約束し、食堂を一時閉鎖した。数か月後には、完全に食材とメニューを直して、再開予定だという。
間違った方向に向かってはいたが、元々商人魂は熱いものらしい。
やるぞと張りきっている彼に手を振り、フェリ達は街を出た。
気持ちよく整備された街道を進み、やがて三人は森に入った。
木漏れ日の下を歩きながらトローはついっと羽ばたいた。彼はクーシュナに話しかける。心得たとばかりに、クーシュナは片耳をピンッと立てた。
二人はいつも通りの言い争いを開始する。
「ん、なんだ? 妖精の国での決着をつけよう、とな? ふんっ、つくづく愚か者だな、貴様は。何回問うたとて答えは同じよ。我が花に愛されているのは、我が一番と決まっておるわ。なに? そこだけは絶対に譲れない? お前はどれだけ意固地なのだ」
「はいはい、二人とも大好きよ」
「なぁ………なんだか雑になっていないか、我が花よ?」
トローと兎耳がじゃれあい、それを見て主は微笑む。
仲がいいのねと彼女が言い、違うと兎耳が叫ぶ。
トローの目の前で、実は大好きな光景が繰り返される。。
きらきらと輝く太陽の下、緑溢れる森を、三人はそうして永遠のように進んだ。