その1
その緊急連絡の相手は、幻獣調査官の『
丁寧に接続された通話は、奇妙な不穏さを持っていた。
伝わってくる声の滑らかさは、相手の『試験管の小人』を作る腕前の高さを証明していた。強制的に回線を繋げてきた術も巧みで、幻獣調査官としてもベテランだと考えられる。そんな人物が、わざわざフェリを選び、緊急連絡をしてきたのだ。
何となく嫌な予感を覚えるトローに、相手は続けた。
『
低い声はそう語った。何が起こったのかとフェリは尋ねる。相手は一拍間を置いた。
トローはますます嫌な予感に襲われた。
まるで神経に不穏な気配を直接ぶちまけられたかのようだ。内容を伝えたくはなかったが、彼は言われたそのままをフェリに告げた。すると、宿屋の椅子に座っていた彼女は目を見開き、白い頬を強張らせて立ち上がった。
まるで、満月にサッと影が射したかのような変化だった。
『ヒュドラが現れたんだ』
「……………………そんな」
トローに、その言葉の意味はわからなかった。だが、彼女がそんな低い声を出すのは、世界に、幻獣達に異常が見られた時だけだと知っていた。険しい顔をして、フェリは唇を噛み締めた。しばらく考えた後、彼女はトローに低い声で告げた。
「トロー、返信。幻獣調査官はいつから動けるのか、尋ねて」
その言葉に、トローは微かにホッとした。喩えば、全方位に飛ばせるだけの情報を飛ばさなくてはならないような、逼迫した状況ではないらしい。
彼女の指示通り、トローは問い合わせた。返事は直ぐに帰ってきた。
『担当地区の調査官が、現在被害状況を纏めている。その後、国に応援を要請。対応者の選抜が行われる予定だ。だが、人員の確保と武装の許可が降りるまでの過程には難航が予想される。実際の対応が開始されるには、最低四日はかかるもようだ』
「―――四日。やはり遅い。ヒュドラ相手では、その間に一帯は深刻な被害を免れないわ。伝説規模の獣害に対しての初動の遅さこそ、幻獣調査官の最たる課題ね」
「全くだ。ヒュドラは情報を秘匿にこそされてはおらぬが、第一種危険幻獣の中でも伝説級に該当する生き物よ。対応部隊を組むには志願者が足りぬであろうな。それに事後処理の面倒さと下手を打った際の責任を負わなければならない可能性の高さを考えれば―――部門内で押しつけ合いが始まってもおかしはくなかろう」
「仕方がないわ………速く動けるのが調査員の強みだもの。了解しました。先行して、現場に参ります」
そう、フェリは応えた。クーシュナはゆらりと黒い片耳を揺らす。
「よいのか? 旧き竜ほどではないとはいえ、ヒュドラもまた勇者の出現を待ってもよいような幻獣だ。本来、怪物を倒せるのは選ばれた人間だけであろう………その摂理を覆そうとしてもロクなことにはならぬというものだ」
「でも、旧き竜の時と同じだわ。勇者が現れるまで待っていたらたくさんの人と幻獣が死んでしまう。勇者は人が滅ぶ前に、危機を予知した種族全体が、どこかに産み出す存在だもの。登場が間に合うとは限らない………行かなくては。それが私の務めだから」
フェリは震える手を伸ばし、トローを撫でた。嫌な予感を覚え、彼は精一杯、その掌に慰めるように頭を擦りつけた。少しだけ微笑み、彼女はそっと手を放した。拳を握り締め、白いヴェールを揺らした。彼女は真っ直ぐにクーシュナを見つめる。
いつかの―――それこそ夢のような遠い昔のように―――フェリは彼に頼んだ。
「お願い、一緒に来て」
「――――お前の望み通りに、我が花よ。ただし、今回は、だ」
いつも通りに承諾した後、クーシュナは続けた。
彼は兎の目に、じっとフェリの白い姿を映す。
「ずっと考えておったのだ。我が花よ。我の手が及ばず、我のお前が死ぬような時があれば―――『次の』お前には悪いが、我も後を追うぞ。あぁ、そうだ。もう一人の時間に耐えることなどできぬ。あのような痛みは二度とごめんだ。闇の中に一人残されてたまるものか。アレは……とても寂しい」
トローは目を見開いた。クーシュナが何を言っているのか、彼にはよくわからなかった。ただ、誰にも殺されない強さを誇る幻獣が、寿命など存在しないような闇の生き物が、自身の命を捨てる覚悟を持っていることだけは容易に伝わってきた。
フェリは唇を開き、噛んだ。数秒後、彼女は静かに宣言した。
「それならば、私は死なないわ。絶対に。何があっても」
「あぁ、我が守ろうとも。我が花の枯れることのなきように」
クーシュナはそうフェリの手を取る。
そして、彼らは黒き山へ向かうこととなった。
***
黒き山は鬱蒼と茂った樹木に光を遮られ、昼なお暗いことから名づけられた場だ。
濃密な植物の息吹に閉ざされた空間は、通常、獣や幻獣、希少な妖精種の巣となっている。一度迷い込めば、簡単に人は出られない。軽率な訪問者は森全体に絡め取られるのだ。だが、フェリ達が向かった時、視界を隠す木々の多くは無残に枯れ果てていた。
その表皮はどろりと溶かされている。
「………これは、ひどいわね」
残された青黒い液体からフェリは刺激的な匂いを嗅ぎ取った。彼女は眉を顰める。
辺りは腐臭とも血臭とも異なる、ピリピリと粘膜を焼く危険な匂いで満たされていた。
毒の香りだ。
まだ、空気は深く冒されてはいない。だが、長居は禁物だろう。
ハンカチで口元を覆いながら、フェリは辺りを見回した。枯れ、あるいは爛れた木々の間に生き物の姿はない。吐瀉物に塗れた死骸や、肉の蕩けた骨が残されているだけだ。恐らく、早急に異変を察知し、逃げ出せた者以外は全員死んだのだろう。
木々からは、鳥の群れの死骸が果実のように垂れ下がっている。凄惨な様を見上げ、フェリは囁いた。
「やはり、急いでよかった。これは次の山、次の次の山に広がって行ってしまうから。そして、やがては人家のある場所まで辿り着いてしまうでしょう」
「今は春だというのにな。季節が廻ったところで、この場には何も芽吹きはせぬであろうよ。雪ですら、降り積もることはなかろうな」
怒りを込めて、クーシュナは枝を見上げた。死骸は粘つく毒液で濡らされている。
「そなたに教えられてよかったというものよ。壊すとはこういうことだ」
彼は鋭く指を鳴らした。毒液に冒された枝は消滅する。鞄の中から鼻だけを突き出し―――フェリに置いて行かれかけ、断固としてついて来た―――トローは賛同するようにピスピスと鳴いた。その頭を、フェリは白い指でくすぐるように撫でる。
「行きましょう―――早く止めなくては」
三人は被害の悪化していく方角へと足を向けた。
毒液の帯は、蛇の這いずった跡のように続いている。その周囲には、特に濃く死の気配が広がっていた。『死』そのものが、体をのたうたせながら進んだかのようだ。
「旧き竜と会った『私』以来ね。伝説級の幻獣に遭遇するとはこういうことよ。しっかりね、フェリ・エッヘナ。クーシュナが傍にいてくれる、あなたが何とかしなくては」
自身を鼓舞するように緊張した面持ちで囁き、フェリは歩を進めた。薄く広がる毒の池に、その革靴が埋まりかける。瞬間、黒い円が広がった。彼女は闇の上を歩く。
そうして、フェリ達は無事、該当の地に辿り着いた。
枯れ果てた旧い木の根に包まれ、洞窟が口を開けている。その奥は暗く、見えない。
ただ、どこからか鱗の擦れる音と鋭い息遣いが聞こえた気がした。
肩掛け鞄を降ろし、フェリは中から乾いた薪を取り出した。毒液でぬめる地面に、クーシュナが円を生む。その上に、フェリは折った枝をポキポキと重ね、焚火を作った。携帯用の鞴で吹くと、勢いよく炎が燃えあがる。
鞄の中から矢を取り出し、先端に火を灯した。彼女は火矢を放つ。洞窟の中に、光は尾を引いて飲み込まれていった。やがて、その奥から苛立たし気な声があがった。
敵が襲来した。そう悟った洞窟の主が姿を見せる。
鱗の擦れる音がした。蛇独特のシュルシュルという息の音が響く。信じ難いほどに長い体を引きずりながら、恐ろしい何かが現れた。
巨大な影が頭をもたげる。
夜会服の裾を広げ、クーシュナはマントのように翻した。ナナカマドの杖を握り締め、フェリは低く囁く。
「―――――来る」
蜂蜜色の瞳に、九つの頭を持つ生き物が映った。
多頭の巨大な蛇だ。硬い鱗に守られた体を、ソレは流れる川のごとく雄大に波打たせている。一斉に、九つの頭が口を開いた。鋭い牙から毒液が滴り落ちる。
その様は、この世の邪悪を形にしたかのようだった。
「幻獣書、八ページ。『ヒュドラ』『第一種危険幻獣―――伝説級―――実物未確認』『九つの頭を持ち、口から毒液を出す』『不死、と言われている』」
この幻獣はまさに毒蛇の王と呼ばれるに相応しかった。
壮絶な咆吼が九つ重ねられる。
それが、戦いの合図となった。
まず、ヒュドラが動いた。耳障りな音と共に、クーシュナへと毒液が放たれる。高速で飛ばされた滴は、鉄塊めいた重さと硬さを持っていた。だが、クーシュナは難なくそれを叩き落とした。同時に、彼は闇の槍を生みだし、ヒュドラを貫いた。
蛇は苦痛に悶え叫んだ。だが、倒れはしない。激しく身を捩り、ヒュドラは闇を霧散させた。蛇は再び這い始める。その動きは、異様なほどに早い。
毒液からフェリを庇うべく、クーシュナは闇の盾を生んだ。騎士のごとくそれを構えたまま、彼は地を蹴った。毒液を次々と打ち落としながら、クーシュナは盾の影に隠した方の腕の形を変えた。それは童話の挿絵で死神が掲げるような、巨大な鎌の形になる。
「悪く思うな、世を冒す毒蛇よ」
毒を放つ頭を、クーシュナはすっぱりと切断した。九つの頭部が次々と落ちる。
瞬間、水が沸騰するような音と共に、傷口から新たな首が生えた。
「なんと、やるものだな!」
称賛めいた声をあげ、クーシュナは闇の盾を前に投げた。盾は瞬時に巨大化し、吹きつけられた毒液ごと、ヒュドラを押し潰した。蛇は圧搾され、肉屑に成り果てる。だが、直ぐに、ヒュドラは何事もなかったかのようにしなやかな体躯を取り戻した。
不死の名は伊達ではないようだ。その体は極度の再生能力を持つらしい。
やがて、クーシュナは―――確かな屈辱の滲む口調で―――囁いた。
「負けはせぬが、勝てもせぬな―――これは殺せぬぞ」
続けて、何度も彼は決定打を放った。だが、ヒュドラは針を抜き、深い切り傷を塞ぎ、潰れた心臓すら再生させた。相手の特性を改めて確認し、クーシュナは舌打ちした。
「捕獲も難しいな。流石に、影の中にこれを長時間封じることは無理よ。だが、切り刻んでも蘇るときたものだ。再生能力だけならば旧き竜を上回るか。全てを呑み込み、消すこともできなくはない―――が、闇を解放し、我が我でなくならねば無理だな」
「それは駄目、絶対に駄目よ」
「わかっておる。我がヒュドラよりも悪質な怪物と化しては本末転倒故な。だが、困った………竜種とは違い、こ奴には弱点があるはずなのだが」
彼の言葉にフェリは辺りを見回した。生物の弱点はその棲処に現れることが多いためだ。そこで、彼女は気がついた。ヒュドラの巣穴の周りは毒液で丁寧に濡らされている。
数少ない文献には、彼を巣穴から呼び出す方法として、火矢が有効だと記されていた。
「火…………傷口を火で焼けば!」
「流石だ、我が花よ!」
クーシュナは闇で焚火の炎を持ち上げた。ヒュドラの頭を切り飛ばし、彼は傷口を焼こうと試みる。だが、首は瞬時に再生した。牙から滴る毒液で、炎は消される。
傷口の再生速度を見極め、クーシュナは再度舌打ちした。
「待て、焚火で太刀打ちできぬ程度の話ではないぞ。これより、どれだけ炎を増やしても無理だ。人の火は消える。傷口を焼き切ることはできぬ。一時退却するべきだ、我が花よ。この蛇の首を焼くには、簡単に消えはしない幻獣の火が必要だ」
「わかったわ、行きましょう。今ここで粘っても術はないわ」
フェリは頷いた。闇で壁を造ると、クーシュナは素早く彼女を抱き上げた。風のように、彼は逃げ出す。甲高い咆哮から離れながら、フェリはぼそぼそと呟いた。
「影で運べる炎の幻獣………やはり
「どちらにしろ、茨の道よな………こんな時こそ、勇者が求められるはずなのだが!」
そう苛立たし気に、クーシュナは吐き捨てた。一時、ヒュドラを置き去りにして、彼らは道を急ぐ。その時、慌てた様子で、鞄の中からトローが顔を出してきた。
ピーピーと、彼は鳴き始める。それを聞いて、フェリは大きく目を見開いた。
「なんですって………勇者が?」
通信相手は、彼女にヒュドラの対処を依頼した、調査官だった。幻獣調査官達の要請に応え、王都で育成されていた、特殊な戦闘能力を持つ少年が遂に招集に応じたという。
つまり、勇者が登場したというのだ。