食糧室の精

その1

 今日も今日とて、トローには後悔したことがたくさんある。


 一つ目は、妖精の国から続く兎耳との言い争いに、本日も決着をつけられなかったこと(答えは火を見るよりも明らかだっていうのに!)。


 二つ目は、最近鞄の中に仕舞われてばかりで、守られっぱなしな気がすること(でも、これについては、そんなことないわよと主が微笑んでくれたので、そんなことないのかもしれない)。


 三つ目は、主が怪我をしてしまったとき、自分には何もできなかったこと(なんといっても荷物さえ運べないのだ! この小さな体は!)。


 そして最も後悔しているのは、大好きな主と喧嘩をしてしまったこと!


                 ***


 元をただせば、悪いのは全て宿屋である。

 宿屋がブッ潰れてしまえばいいのである。


 薄暗く、黴臭い食糧室の中、トローはべそべそと泣きながら物騒なことを考えていた。定期的に、彼はべしべしと羽で棚板に八つ当たりをする。しかし、どこからも言葉は返ってこない。ただ、トローの涙で作られた池が虚しく広がっていくばかりだ。


 一体、何が原因でこうなったのか。

 その要因はというと数刻前に遡った。


 ある街に到着したフェリ達は宿屋を探した。この場所は、丁度、大きな街同士の中間地点に位置している。そのため、煉瓦造りの家々が目立つ小さくて可愛らしい街には、悩むほど宿がたくさんあった。


 その中から、フェリは『赤い雄鶏亭』を選んだ。

 彼女が宿屋を決める少し前、トロー達は二回、『赤い雄鶏亭』の話を耳にしていた。

 

「あぁ、お嬢さん。ありがとう。君のおかげで、ようやく馬が落ち着いた。ん、まだ今日の宿屋が決まってないのかい? それなら『赤い雄鶏亭』はどうだろう? 数年前に泊まったんだが、あそこは料理も美味しくて気持ちのいいところだった。客入りもよくて、とても儲かっているようだったね。商人としては、ああいう人に喜ばれて利益も得られる商売をしなくてはと思ったものだよ。私は今日も日帰りなんだが、ゆっくりできる時にはぜひ泊まりたいものさ」


「親切な子ねぇ、ありがとう。マーサが戻って来たのはあなたのおかげね。ふふっ、こんなに喉をゴロゴロ鳴らして、あなたのことが好きなのね。こら、もう降りられないような高いところに昇っちゃ駄目よ、おちびさん………あら、これから宿を探すの? 『赤い雄鶏亭』? それならあの角にあるけれども………あそこは主人がいつも儲からない儲からないって嘆いていてね。なんだか嫌な雰囲気よ。毎日、忙しくはしているように見えるんだけど、どうしてかしら?」


 二つの話を並べて、フェリはふうむと首を傾げた。そうして、しばらく悩んだ後、彼女はトローとクーシュナに告げた。


「やっぱり、今日は『赤い雄鶏亭』に泊まろうと思うの」


 確かに、その時点でも、トローはなんだか二番目の話が妙だなと思っていたのだ。でも、さほど深刻に捉えはしなかった。けれども、その判断こそ大間違いだったのだ。


『赤い雄鶏亭』に着いたら、それはそれは嫌な匂いがした。


『赤い雄鶏亭』は名前の通り、立派な風見鶏が屋根の上でカラカラと回る、赤煉瓦製の建物だ。二階に多数の客室を持ち、一階は酒場も兼ねた食堂になっている。


 とんでもなく嫌な匂いの出どころはそこだった。

 しかも、ただ悪いだけではなく、『性質たちの悪い』香りだった。


 人間からすればそれはきっといい匂いに感じられてしまうことだろう。甘辛い肉餡と焼かれた小麦の甘い香り。あるいは香草を利かせてじっくり煮込んだシチューの匂いだ。


 丁度、宿屋の受付から見える食堂の中では、襟ぐりの深い、袖なしの服にエプロンを付けた娘が、忙しくパイやシチューを運んでいた。更に、彼女は木製のジョッキでなみなみと満たされた金色のビールも次々と客に渡した。


 高らかに、乾杯の声があがってしまう。人間にはわからないのだ。だが、あらゆる点で並外れた感覚を持つ、試験管蝙蝠ホムンクルスであるトローはすぐその事実に気がついた。


 香辛料で炒めて誤魔化しているが、パイには犬の肉が使われていた。香草を利かせたシチューの中には疫病で死んだ牛の肉が詰められている。ビールには水が混ぜてあった。


 まったくもって許し難い所業だ。


 一時の宿だから、騒ぎになってはいないのだろうが、こんなものを食べ続けては病気になってしまう。


 トローが人間の言葉を操れたのなら、宿の主に一体なんだこれはと既に怒鳴り込んでいるところだった。だが、そういうわけにもいかない。何せ、トローの言葉は人には―――愛しい主を除いて―――何を言っているのか通じはしないのだから。


 酒場は明るく盛り上がっている。騙されている人間達はかわいそうだが仕方がなかった。むしろ、もう口にしてしまった以上、知らない方がいいのかもしれない。


 せめて愛しい主は止めようと、トローは彼女の前に飛び出した。ここは駄目と、彼は慌てて訴える。フェリは軽く頷いたが、そのまま足を進めた。

 どうやらわかっていないらしいと、トローが説明を重ねようとした時だった。


「大丈夫よ、トロー。ありがとう。ちゃんとわかっているから。でも、だからこそ、今日はここに泊まらなければならないの」


 トローはガーンッとショックを受けた。わかっているのなら、何故、フェリはここを選ぶというのか。もしかして、宿の主の憎き所業を止めるためか。

 そう、トローは尋ねた。彼の頭をよしよしと撫で、彼女は柔らかく続けた。


「そうね、止めるためと言えば、止めるため。でも、それはいけないから止めなさいっていうのとはね、ちょっと違うの。まずはあることを確かめなくては………そのためにも、この宿の主人に会わないといけないわ」


 それを聞いて、トローはとんでもないと思った。何せ、犬の肉や疫病にかかった牛の肉を客に食わせるような人物だ。フェリが会うには危険すぎる。不正を指摘されたら激昂するかもしれない。兎耳はとても強いとはいえ―――悔しいが、トローもそれは認めるところだが―――万が一ということもあるではないか。


 人間は、時に、誰も予想しない事態を引き起こすことがあるのだ。

 そう、トローは今までになく心配をした。だが、フェリは柔らかく微笑んだ。


「大丈夫よ、ちゃんと考えてあるから。心配しないで、トロー。平気、平気」


 そこで、トローはプッツンと堪忍袋の緒が―――試験管蝙蝠にもそれがあるのならばの話だが―――切れるのを覚えた。


 普段の彼ならば、こんなことで怒ったりはしなかっただろう。トローは紳士的な―――兎耳よりも遥かに大人なっ! ―――蝙蝠なのだ。


 そう、本来、トローはかっこいい男なのである。だが、今回ばかりは話が別だった。


 大丈夫だと平気だと言いながら、主は無茶を通し、怪我をしてばかりだ。この前も、フェリはそうして人間のために動いて、幻獣に脇腹を抉られたではないか。


彼女が血を流すことが、トローにはとても恐ろしかった。したたる紅色は、彼の胸の奥深くにある、古い瘡蓋かさぶたを濡らしてふやけさせた。

 それが剥がれた下には恐ろしい記憶が眠っていると、トローは確信していた。


 そう、いつかの昔―――それこそ遠い遠い、朧げな夢のようなどこかで―――真っ白な服が真っ赤に染まるのを、彼は見たことがあるような気がするのだ。


 トローはとても勇敢な男だ。きっと、その気になれば勇者よりも立派な働きができるに違いない。けれども、恐れを知らない彼にも一つだけ、怖いことがあった。

純白の姿が真っ赤に染まることだけは、とてもとても恐ろしくてならないのだ。


「トロー、どうしたの?」


 本当ならば、トローはその場に残って、フェリを止めなければならなかったのだろう。彼女のことを心配しているのなら、短気に走ることはせず言葉を尽くすべきだったのだ。

 そう知りながら、トローには何も言うことができなかった。


 今回のことは、そんなに大げさな話ではない。きっと何もかもが上手く収まることだろう。そうとも理解しているはずなのに、なんだか胸の内が様々な感情でいっぱいになってしまって、何一つとして言葉にならなかったのだ。


 だから、トローはぺちっとフェリの顔を羽で叩いた。


 彼女はびっくりした顔をした。一瞬後、トローは―――蝙蝠に顔色があればの話だが―――真っ青になり、ぴゅっと逃げ出した。

 背後から、フェリの必死に呼び止める声が聞こえてきた。それを無視して、トローは飛びに飛んで、うっかり入り込んだ食糧室の隅に隠れたのだ。


 今思えば、喧嘩、というにはあまりにも一方的で中途半端なやり取りだった。


 恐らく、フェリは怒ってなどいないだろう。優しい主は、トローのことを許してくれるし、どうしたのと頭を撫でてくれるはずだ。だが、トローはどうしても戻ることができなかった。以来、彼はずっとめそめそと泣き続けている。


 涙を流せば流すほど、後悔は山のように積もっていった。


 こんな無様な有様では兎耳と張り合うことなどできはしない。彼女の騎士を名乗ることなど、あまりにも無謀な夢だった。


 そもそも、これからはどんな顔をして、フェリと会えばいいのか。

 彼女の顔を叩いてしまうなど、最早一匹で旅に出るしかないのだろうか。


 あぁ、でも、それはとてもとても悲しいことだ。

 せっかく、またみんなで旅ができているのになぁ。


 ―――また?


 そう、トローが泣きながら首を傾げた時だった。

 どこからか奇妙な音が聞こえてきた。

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