海豹乙女

その3


 嵐の発生から―――そのあまりにも不自然で短い―――消滅までを見届け、フェリ達は砂浜を後にした。


 再び穏やかな青色に戻った空の下、彼女達はディランの家へ急ぐ。

 クーシュナは影に溶け込んでいた。トローは再び風からフェリのヴェールを守るべく、目を光らせ始めている。


 その時、牧草の生え揃ったなだらかな丘の上に、人影が立った。


「………どなたかしら?」


 そう囁き、フェリは足を止めた。相手はじっと鬼気迫る様子で、彼女を睨んでいる。


 栗色の癖毛を長く伸ばした娘だ。その服は何やら暗褐色に点々と汚れている。影の中、クーシュナが蠢くのを視線で抑え、フェリは臆することなく彼女と向き合った。


「あの、私に何かご用でしょうか?」


「余計なことをするな。あの糞爺と海豹乙女セルキーを会わせてたまるもんか」


 開口一番、娘はそう言った。フェリは目を瞬かせる。


 娘は一歩前に出ると、返事を待つことなく、フェリに詰め寄った。トローが小さな牙を剥き出しにする。彼が警戒を露わにするのに構うことなく、娘は唾を飛ばした。


「なんで人の家のことに首を突っ込むのさ。アンタになんの得がある? 金でも貰ったのか? 余計なことをするな。帰れ、さっさと帰れ」


「もしや、ディランさんの娘さんですか。どうやら事情がある様子ですが話を」


「うるさいっ! 話なんてするもんかとっとと」


「おーいっ、魔女が旅人さんになんかしてるぞ!」


 娘がフェリに掴みかかろうとした時だった。どこからか、声が聞こえてきた。更に、小さな石まで飛んでくる。


 見れば騒ぎを聞きつけたのか、数人の子供達が子犬を連れて集まっていた。緊張に頬を少し強張らせながらも、彼らは面白がっている様子で娘のことを眺めている。

 顔立ちのあどけなさのわりに大柄な少年が、彼女に向けて叫んだ。


「こらっ、魔女、お前、今度は旅の人に何をする気なんだ」


「ひどいことしたら、海豹狂いの親父に言いつけてやるからな!」


「毎日毎日、海豹海豹! 兄さん達は水かき持ち、お前も魔女なんだろ!」


「うるさい、うるさい、黙れっ!」


 フェリから飛び退くようにして離れると、娘は歳のわりに幼い仕草で地団駄を踏んだ。だが、子供達は黙らない。彼らは顔を見合わせると、手を叩きながら韻を踏み、囃し唄まで歌い出した。


「アンナ・シールを知ってるかい? ユールフォーの島の魔女、縛り首のトムハッスン、死体に近づき手は真っ赤、肉を毟ってコトコト煮込み、今日のスープのできあがり!」


「うるさい、お前達いい加減に」


「やめなさい」


 騒がしい場に、凛とした声が響いた。びっくりした顔で、子供達は一斉に口を閉じる。


 一声で彼らを鎮めると、フェリはズンズンと大股で歩き出した。小柄な体が大きく見えて、子供達は震える。

 彼らの前に立つと、フェリはあくまでも穏やかだが、有無を言わせない口調で続けた。


「なんて唄を歌うんですか。人に失礼なことを言ってはいけませんよ」


「で、でもだって、そいつは今、旅人さんに」


「私がいじめられていると思って、助けようとしてくれたのですね? ありがとうございます。でも、そんな優しい心を持っているのなら、嫌がる人にひどい言葉を投げつけてはいけませんよ。それはいけないことです。わかってくれますね」


「うっ…………う、ん」


「わかったのなら、ごめんなさいをしましょう」


 フェリの言葉に、子供達は気まずく視線を交わし合った。彼らはもじもじと足踏みをして、だって魔女だしと呟く。だが、フェリの優しいが―――気の強い母親のような―――瞳にじっと見つめられ、早口にごめんなさいと続けた。


「よくできました。もう、悪い言葉を使ってはいけませんよ。お願いします」


 その頭を、フェリはいい子いい子と撫でる。子供達は頬を赤く染めながらも、気まずそうな顔をした。その時、状況に飽きたらしい子犬が野兎でも見つけたのか駆け出した。


「あっ、ボブッ!」


「い、行こうぜ! 追いかけなきゃ!」


「おうっ」


 これ幸いと子犬を追いかけ、子供達は慌ただしく走り去った。

 後には魔女と呼ばれた娘と、フェリだけが残される。娘は彼女をちらりと見て、唇を尖らせた。しばらくして、彼女はぽつりと呟いた。


「………礼なんて言わないよ………でも、悪かったね」


「いいえ、私のせいで不快な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした。海豹乙女に会いに行く前に、ご家族の方のお考えを聞き、その上で判断するべきでした。重ね重ねお詫びを申し上げます」


「いや、海豹乙女のことはともかく、さっきのはアンタのせいじゃないよ。アンタが何かしたって、何もしなくったって、私はユールフォーの島の魔女。父さんは海豹海豹ばっかり言ってるし、兄さん達の手の股には水かきがあったから、いつもいじめられてばっかりなんだ………大人になった今でもさ。島中に馬鹿にされてるよ」


 そう、娘―――アンナというらしい―――はぽつりと呟いた。彼女の横顔には深い苦悩が刻まれている。彼女は自身の手―――何の変哲もない人の掌だ―――を見て囁いた。


「………兄さん達は人間とは思えないような綺麗な顔をしてたし、泳ぎも凄く上手かったからね。しかも、頭だってよかった。変な手をしてても、皆、面と向かって罵るようなことはしなかったさ。でも、私は駄目だ。なんのとりえもない、人間の娘だもの」


「その手」


「えっ」


「怪我をなさっているのですか? すぐに手当てを」


 フェリの言葉に、アンナは瞬きをした。彼女の爪には乾いた血が詰まっている。その洋服に点々と散った暗褐色の染みも、よく見れば血液だ。更に、ポケットからは獣の毛が塊で覗いている。それに手を突っ込んで隠し、慌ててアンナは言った。


「さっ、さっき、うちの網に猫が絡まってたんだ。網からは魚の匂いがするから、よくじゃれては引っかかるんだよ。取ろうとしてやったら、爪がポケットに引っかかって折れちまってさ。わざとじゃないんだよ、嘘でもない、本当だよ!」


「………そうですか」


「なんだい、アンタも私を疑うのかい? 猫殺しの魔女だとでも?」


「いいえ、信じます。お怪我がなくてよかった」


 フェリは柔らかく微笑んだ。緊張を解き、アンナはほうっと息を吐く。彼女は再び顔をぶっきらぼうに横に向け、今にも消え入りそうな声を出した。


「なんていうか………変な奴だよね、アンタ」


「そうでしょうか? そして、あの………海豹乙女の話なのですが」


「そう、それ、いや、あの、さっきは乱暴にして悪かったけど本当に帰って」


「まだ帰ることはできません。ですが、海豹乙女のことについては、彼女に直接尋ね、既に断られてしまいました。彼女には、お父様と会う意思はないそうです」


「なん……だって………そうなの。そうなんだ」


「えぇ、幻獣調査員として、私はこれ以上、人間側の意思を通すことはできません」


 フェリの言葉を聞き、アンナは全身からふっと力を抜いた。

その顔に、圧倒的な安堵が漂う。彼女は何か―――全身を固く縛りつけていた鎖のようなもの―――から解放されたかのような様子で、ぽつりと呟いた。


「そっか………糞爺が待ってても、もう、来ないんだ」


「えぇ、そのつもりはないと、彼女は言っていました」


「そう………そっか、それなら猶更、悪かったね」


 アンナは嬉しそうな笑みを浮かべ、突然、フェリの肩を叩きだした。バシバシと乱暴だが親しみを込めた様子で、彼女は手を振るう。

アンナはにかにかと内側から自然と溢れてくるらしい明るい表情で続けた。


「糞爺から海豹乙女に会うのを手伝ってくれる幻獣調査員の人って聞かされてたけどさ。それならもう用はないんだろ? でも、せっかくだから家に泊まっていけばいいよ。私、これでも料理は得意なんだ。さっきの歌に怯えることはないさ。ちゃんとした美味しい蟹のスープを出すからね」


「いえ、まだ帰れません」


「えっ、なんで?」


「海でおかしな嵐が起こっています。幻獣保護の観点から、私はあれを見過ごすことはできません。原因を調査しなくては」


 フェリはそう言った。アンナは一瞬、足を止めた。彼女はフェリから視線を反らして、どこか言い訳をするようにぽつりと囁いた。


「大丈夫だよ………きっと、自然に止むと思うからさ」


「あと一つ、お尋ねしてもいいですか?」


「えっ、うん、なに?」


「先ほどの唄は………ひどく奇妙な調子でしたが、どういうことでしょう?」


 アンナは今度こそ完全に足を止めた。フェリも立ち止まる。

柔らかだが、確かな強さを持った風がざぁっと吹いた。舞い上がった癖毛が、アンナの頬を撫でる。その横顔は、まるで彫像のように強張っていた。

影の中に隠れながら、クーシュナは低く陰鬱な声で唄を繰り返した。


「アンナ・シールを知ってるかい? ユールフォーの島の魔女、縛り首のトムハッスン、死体に近づき手は真っ赤、肉を毟ってコトコト煮込み、今日のスープのできあがり!」


「………あの唄は」


 アンナが応えようとした時だった。ひょろりと長い手足を持つ男性が、遠くから走って来た。彼は針金のような腕を振り回しながら、大声でアンナに呼びかける。


「おおーいっ、アンナ、こんなところにいたのか」


「先生っ! どうしたのさ?」


「お父さんが倒れたんだ。すぐに来なさい。そっちは………もしかして、ディランの

言ってる旅の人か」


「フェリと申します。あの、ディランさんは」


「アンタを譫言で何度も呼んでる。早く、こっちへ」


 先生と呼ばれた男―――どうやら、医者らしい―――を先頭に、二人は走り出した。


 フェリ達は先ほど、海辺へ向かう際、後にした家に着く。


 ディランは造り置きの石の寝台に寝かされていた。寒くないようにか、寝台には厚い敷布が重ねられ、体の上には幾枚もの毛布が被せられている。

ディランは辛そうな咳を繰り返した。医者の男は、困りきった様子でアンナに訴える。


「できれば本島の病院に運びたいんだが、ここにいると聞かないんだ。どうするね?」


「糞爺、なんでこんな時まで先生を困らせるんだよ! この人に聞いたよ、海豹乙女はもうアンタには会わないんだって! さっさと本島に行っちまいなよ!」


「あのな、アンナ、お父さんにその言い方はないだろ」


「うっさいな、先生、黙っといてくれ! さぁ、糞爺、どう」


「あぁ………マリッサ」


 罅割れた唇から、ディランはこの場にはいない者の名前を落とした。灰色の目を見開き、彼は潤んだ瞳を彷徨わせる。その名前を聞いた途端、アンナは顔を凍らせた。


 それはきっと、花婿が海から来た花嫁に与えた名だったのだろう。

目の前にいる己の娘を映すことなく、ディランは朦朧としたまま続けた。


「マリッサ………マリッサ………どこにいるんだ………」


「糞爺………アンタ」


「帰ったよ、マリッサ………ほら、君に似合いそうな髪飾りも買って来たんだ………マリッサ………どこだい………出ておいで………」


 皺塗れの手が宙を掻いた。アンナはひどく忌々しそうに顔を歪め、拳を固めた。フェリは彼女を止めようとする。だが、その前に、ディランは涙を流しながら呟いた。


「………………僕を一人にしないでおくれ」


「……………ッ!」


 人の胸を張り裂けさせずにはいられない、そんな悲しい声だった。

 アンナは振り上げかけていた拳を解いた。彼女は深く顔を伏せる。唇を一度強く噛み締めると、アンナは吐き捨てた。


「………なにさ、なにさ、見ておいでよっ!」


「アンナさんっ!」


 そのまま、彼女は踵を返し、扉から出て行った。残された医者は、呆気に取られた顔をする。後を追いかけ、フェリは足を止めた。


 アンナを放っておくことはできない。だが、瀕死のディランを残すことも躊躇われる。

 その時、迷う背中に声がかけられた。


「………行って、ください」


「ディランさんっ!」


「あの子は………最近、様子が………おかしいか、ら………なにか」


 やっと意識が戻ったのだろう。潤んではいるが焦点の定まっている瞳で、ディランはフェリを見上げた。アンナが去った後の空間を目に映し、彼はぎゅっと瞼を閉じた。


「………今も、昔も、私は悪い父親だ」


「失礼します。彼女を連れて、戻りますから!」


 後悔の滲む言葉を背に、フェリは床を蹴った。彼女は家から飛び出す。

 アンナの行方は知れない。だが、迷うことなく、フェリは海へ向かって走り出した。


 ひゅるりと音を立てて、クーシュナは兎頭の紳士の形に実体化した。一時、彼女に並走しながら、彼は低く陰鬱に囁いた。


「やはり、か? 我が花よ」


「えぇ、そう………異類婚姻譚の多くは破局で終わる」


 クーシュナの問いかけに、フェリは囁いた。彼女はぎゅっとナナカマドの杖を握り締める。足を止めることはしないまま、フェリは鋭く続けた。


「その後、悲しむことになるのは、なにも当人達だけではないんだわ」


               ***


 以前、フェリ達が歩いて小島へ渡った海岸から少し離れた場所―――切り立った岩陰―――に一艘の小舟が止められていた。


 そこに、アンナが素足を潮水に晒しながら立っている。


 今や、海は鮮やかな朱色に染まっていた。水平線に太陽が沈みつつあるせいで、波はまるで泡立つ果実酒のように見える。


 それを蹴立てながら、彼女は片手に何かを握り締め、小舟を押して前へ進んで行った。勢いをつけ、アンナは小舟に飛び乗ろうとする。その背中を、凛とした声が止めた。


「嵐を呼ぶおつもりですか?」


「…………ッ!」


 背後から猟銃で撃たれたかのように、アンナは振り向いた。その視線の先で、花嫁のような純白のヴェールが揺れる。フェリはアンナを―――正確には彼女が握り締めたものを―――蜂蜜色の瞳にとても悲しそうに映した。


「猫の足に、絞首台の死体から引きちぎった肉片をつけ、呪いの言葉をかけ、海に投げ込めば望んだ嵐を起こすことができる………禁呪の一種です。浅瀬に落としては、波に吐き出されてしまうかもしれません。小舟に乗って、それを帰ってこない場所で投げ、島を襲わせるおつもりなのでしょう?」


「……………私は」


「とても残念です。嵐を呼んでいたのは、あなただったのですね」


 そう思いたくなかったのにと、フェリは悲しみを乗せ、小さく唄を紡いだ。


 アンナ・シールを知ってるかい? 

 ユールフォーの島の魔女、縛り首のトムハッスン、死体に近づき手は真っ赤、肉を毟ってコトコト煮込み、今日のスープのできあがり!


「あの奇妙な唄は、あなたが本島で縛り首にされた人間の死体に近づき、肉を毟っている様を誰かが目撃したことから生まれたものだった………あなたは実際に、魔女として動いていた」


「違う………私は、私は魔女じゃない………望んで魔女になったわけじゃないっ!」


 海を蹴立てて、アンナは叫んだ。彼女は震える掌を開く。

そこには切断した猫の足に、腐敗した肉片をつけた、おぞましい物が握られていた。猫殺しの結果だろう。乾いた血痕が点々と飛んだ服を掴み、彼女は悲痛な声をあげた。


「私の母さんは優しい人だった。遅い結婚だったけど、精一杯糞爺を大切にした。それなのに、糞爺はいつも海豹乙女のことばっかり見てた。私の話も何も聞いちゃくれなかった。魔女って呼ばれるから止めてって言っても、海豹を待つことを止めてくれなかった………だったら、本当の魔女になるしかないじゃないかっ!」


「嵐を起こして珊瑚の島を削り、海豹達を別のところへ移動させるつもりだったのですか? どこでその方法を?」


「子供達に虐められて、逃げ込んだ小屋に、孤独に死んだ、変わり者の婆さんの残した本があったんだ………私もいつかそうやって死ぬんだろうね。母さんも一人で死んだ! 糞爺も一人で死ねばいい。アイツを海豹乙女には会わせない! 絶対に!」


 鬼気迫る様子で、アンナは叫んだ。その目の奥に、フェリは深く深く沈んだ孤独を見出した。石のように固まったそれは、ディランのものとはまた違った鋭さを放っている。


 ディランのそれは愛しい人に去られた絶望に彩られていた。アンナのそれは、誰にも自分を顧みてもらえない寂しさを纏っている。


 最早視線を反らすことなく、アンナはフェリと向かい合って続けた。


「次の嵐で、きっとあの島は崩れる。そうすれば、流石に海豹達も去るだろうさ。糞爺はもう海豹乙女には会えない。ざまぁみろ。それで………それで、私がどれだけアイツのことを嫌いか思い知ればいいんだ」


「………それは、違いますね」


「何、が?」


 フェリはぽつりと呟いた。予想しない反応だったのだろう。アンナは一瞬怒りを忘れて瞬きをした。


 フェリは蜂蜜色の瞳に彼女を―――まだ内側は子供のままの娘を―――静かに映した。


 異類婚姻譚の多くは破局で終わる。その後、悲しむことになるのはなにも当人達だけではないのだ。残された人間が新たな家族を作り―――それが心の慰めに繋がらなければ―――また寂しい想いをする者を増やすこととなる。


 人は幻獣に嘘を吐き、幻獣は人の運命を狂わせる。

正しく回らなくなった歯車は軋みをあげ、周囲に新たな苦しみや憎悪を生み出す。


 しかし、人を憎みきるには、アンナの本質は脆かった。

 まるで傷ついた獣に語り掛けるように、フェリは囁く。


「あなたが、そうして嵐を起こすのは、彼が嫌いだからだけではないでしょう」


「うるさい………うるさい、うるさい、うるさい、アンタに何がわかるんだよっ!」

 そう、アンナは小舟を押し出そうとした。止めるため、クーシュナが影からゆらりと身を起こしかける。だが、そこで誰も予想しない声があがった。


「………アンナッ!」


「糞爺、なんで」


 アンナは驚愕に目を見開いた。平坦な大地からふらふらと走って来たのは、彼女が憎いと言った父親その人だった。話を聞かれていたのかもしれないと、アンナは目に動揺を走らせる。フェリは慌てて、ディランの体を支えた。


「ディランさん、無理は」


「いいから………いいから、私は大丈夫だ」


 皺だらけの手で、彼はそっとフェリを押し返した。ディランはひょこひょこと危ない足取りでアンナに近寄っていく。その様はあまりにも頼りなく、切ないほどに不安定だ。


「アン、ナ、今まで、すまなかった」


「なん、で。本島の病院に行けよ。なんでこんなところに来てんだよ!」


「先生が、手配をする間に、抜け出してきたんだ………ごめんな、本当に、悪かった………私は悪い父親だった。お前のことも、母さんのことも、大事にできなかった」


「今更………そんな、今更」


「私はもうすぐ世を去るんだ………どうか、どうか許してはくれないか?」


 ディランは震える手をあげた。皺と染みに塗れた掌が、アンナに向けられる。アンナは一瞬、手を伸ばし、それに応えようとした。だが、彼女は自分の掌を見てハッとした。


 そこには切断した猫の足に、腐敗した肉片をつけた、おぞましい物が握られていた。


「アンナ・シールを知ってるかい? ユールフォーの島の魔女」


 そう、小さく歌い、彼女は寂し気な微笑みを浮かべた。

 アンナは振り向き、片手で禁呪の品を投げた。海にぽちゃんと猫の足が落ちる。


 ディランとフェリは息を呑んだ。波はしばらく、大きく寄せては返った。海は呪いを吐き出せなかった。空の色が変わり、黒雲が渦巻き始める。

 栗色の髪を風に遊ばせながら、アンナは振り向くと微笑んだ。


「糞爺も海豹乙女も、みんな死んじまえ」


 それは悲しみと憎しみの混ざった、あまりにも壮絶な笑みだった。

 一瞬言葉を失った後、ディランは顔を引き締めると走り出した。


 どこにそんな力が隠れていたのかというほどに、彼は素早く駆け、小舟の縁を掴んだ。ディランが押すのに合わせ、浅瀬から小舟は進んでいく。その上に、彼は転がるようにして飛び乗った。中に置かれていた櫂を掴み、ディランは海へ漕ぎ出した。


 一瞬、その目がアンナを映した。

 ディランは確かに口を開き、囁いた。


「――――ごめんな」


「嘘………どうして、馬鹿っ! 嵐が来るんだよ!」


 アンナは叫んだ。だが、ディランは戻らない。彼は皺に塗れた枯れ木のような手で、どんどん沖へ進んでいく。その先には、海豹達の休む島がある。フェリは声をあげた。


「クーシュナ、止めないと!」


「我が花よ………あの男はもうすぐ、大地にいても死ぬのだ」


「でも」


「よく考えて、我に命じよ――――止めるのが、本当に正解か?」


「………えぇ、そう、私達は」


 フェリは言葉を止めた。彼女は唇を噛み締める。

異類婚姻譚とその破局に、本来幻獣調査員は関与できない。運命を狂わされた人間の末後の苦痛緩和に、何が正しいのかは誰にもわからなかった。


 彼は海へ進む。娘は手を伸ばす。

 フェリは――――何も言わない。

 

 それは贖罪か、それとも最後の身勝手だったのか。

ディランは真っ直ぐに海へ漕いで行った。激しい波に煽られ、雨に打たれながら、それでも彼は止まろうとはしない。その視線の先で、海豹達は嵐を避け、次々と海に飛び込んだ。だが、島にはまだ一頭が残っている。


 それが彼女か、フェリにはわからなかった。だが、確かに、小振りの美しい海豹が、じっと老人を見つめているのだ。


 アンナは海に向かって進んだ。バシャバシャと波を蹴立てながら、彼女は訴える。


「やだ………やだやだやだ………行かないで………行かないで、行っちゃやだ」


 許してくれと言ったディランと同じように、彼女は手を前に差し伸ばした。けれども、彼は振り向かない。波はディランを運んでいく。彼はよろよろと立ち上がると、両腕を広げたまま、島へと向かった。


 その先には、一頭の海豹が待っている。


「私を一人にしないで、お父さんっ!」


 泣きながら、アンナは叫んだ。

 瞬間、波が高く持ち上がった。


 それは船と島を一緒に飲み込んだ。アンナの悲鳴が風に飲み込まれる。


 海は的確に、島を嬲り、砕き、全てを灰色の水の中に食いつくした。だが、その一瞬前に、フェリは確かに、皮を脱いだ美しい乙女が、彼を抱擁する様を見たように思った。


 嵐は始まった時と同様に、急速に鎮まっていく。


 後には何も残らなかった。

 ―――――何も。


                  ***


 翌日、空も海も穏やかなものに戻った。


 二色の青に挟まれた島は、まるで永遠のように静かな美しさの中に浮かんでいる。

ディランの最後は―――アンナが嵐を起こしていたことは除いて―――医者の男に話してあった。『ディランも本望だっただろう』と、古馴染らしい彼は語っていた。


 ぽろぽろと声もなく涙を流すアンナを連れ、フェリは海辺に立っていた。彼女はじっと静かな海を見つめている。やがて、フェリはぽつりと呟いた。


「海豹乙女が海底に己の国を持つか持たないかについては、諸説わかれます。彼らは海の底に己の領土を持ち、地上に出るときだけ、海豹の姿を取るともいわれている。彼らと似た生態を持つ人魚は、時折海の底へ自身の恋人を招きます。お父様は、そこで生きているのかもしれません………海の底はいいところだといいますよ」


「………………ねぇ、わからないの」


 フェリの言葉に、アンナは呟いた。彼女は虚ろな目をして、首を横に振る。


「父さんが嵐に溺れて死んでしまった方がいいのか、海の底で楽しく暮らしている方がいいのか………どっちがいいのか、私にはわからない」


「………きっとどちらでも、お父様に悔いはないことでしょう。だから、あなたはもう魔女として生きてはいけません………お父様もきっとそれを望んでいます」


 フェリはそう告げた。彼女はその言葉を、決して適当な慰めとして口にしたわけではなかった。去る際、ディランは謝っていたのだ。


 その言葉には、確かに多くの祈りも含まれていた。


 アンナは何も言わない。やがて風に遊ぶ癖毛を押さえ、彼女はぽつりと呟いた。


「島を出るわ。兄さん達の行った本島よりもっと遠く。誰も私を知らないところへ行く」


「そうですか………あなたの新しい生活にどうか幸多きことを」


「絶対に、幻獣に恋なんかしないわ」


 アンナは靴を脱ぎ捨てた。彼女はフェリが途中で摘んでいた花を受け取る。ザブザブと、アンナは海の中に進んでいく。


 浅瀬に立ち止まると、彼女は勢いよく花を投げた。


「――――絶対に」


 白い花はひらひらと海へ舞い落ちていく。


 ディランは死んだのだろうか。それとも伴侶と共に海の底で暮らしているのか。それは誰にもわからない。だが、生きている人間にとってはどちらでも同じことだ。


 彼は去ってしまい、そして、もう二度と帰ってはこないのだ。

 花弁はしばらく浮き、不意に波に飲まれ、水底へ沈んでいった。


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