その1
ギッコンバッタン、ギッコンバッタン、ギィギィギィ
白い少女が夜道を歩いていると、奇妙な音が聞こえてきました。
薔薇の植え込みに囲まれた、古いお屋敷近くでの出来事です。
橙色の光を放つカンテラを手に、白い少女はゆっくりと道を進んでいました。
もう遅い時間です。本当ならば、少女は既に宿で休んでいるはずでした。
ですが、宿の女将さんから、息子さんのお馬さんがひどく苦しんでいると聞き、薬を届けに行ったのです。彼女特製の飲み薬で、お馬さんはすっかり元気になりました。
息子さんの送りますとの申し出を、少女は断り(信頼するご主人様が行ってしまうことに、お馬さんが不安そうな顔をしていたからです)、てくてく帰路を急いでいました。
たった一人の夜道ですが、白い少女はへっちゃらです。だって、彼女には闇の王様と、小さいですが勇者より勇敢な蝙蝠も一緒なのですから。けれども、この不思議な音には、流石に驚いて足を止めました。だって、このお屋敷にもう人はいないはずなのです。かつては見事だった薔薇の植え込みも、荒れ放題。今では雑草だらけなのですから。
「一体、なにかしら?」
白い少女はカンテラを掲げました。温かな光が届く範囲には、何も映りません。
音は薔薇の植え込みの向こう側から響いていました。そこは立派だった旦那様が死んでから、守る者もいなくなり、バン・シーもブラウニーも去って久しいところです。
さてさて、そんなところから、不思議な音は続きます。
ギッコンバッタン、ギッコンバッタン、ギィギィギィ
ほいほい作れ、やれ作れ
リンデルところの金の娘か、ホーネンのところの白の娘か
どっちにするかはわからんけれど
金の娘なら大きめで、白の娘なら小さめだ
ほいほい作れ、やれ作れ
「この唄は妖精達かしら………ホーネンは宿のお婆さんの名前ね。お婆さんには息子さんしかいないのに、白の娘………謎だわ」
「いや、泊まっているお前のことではないのか、我が花よ?」
「えっ、あら本当、確かに、白いかもしれない」
「ふうむ、ちびっこ達め、一体、何を企んでおるのだ?」
闇の王様は、ひゅっと自分の影を一部伸ばしてみました。黒色が薔薇の茂みを超えていきます。すると、音はぱたりと止みました。しんっと辺りは痛いほど静まり返ります。
ふうむっと闇の王様は、片耳を揺らして言いました。
「姿の確認はできなかったな。おのれ、気づかれたか。どこかに移動しおったな」
念のため、闇の王様は、それから白い少女のことをいつもより丁寧に見守りました。けれども、その夜は何も起こりませんでした。
白い娘さんは無事です。その事実はある可能性を示唆していました。
白い少女はリンデルさんの金の娘さんを探しに行くことにしました。
***
「あぁ、リンデルね。アイツなら、最近は惚気話に大忙しさ」
ホーネンのお婆さんは、リンデルさんのことをよく知っていました。
リンデルさんは、美しい奥さんをもらったばかり。今は幸せいっぱいに過ごしているとのことです。奥さんは金色の髪をした、心の綺麗な人だと言います(実に、妖精好みの女性です)。
それを聞いて、白い少女は嫌な予感がますます強くなるのを覚えました。
朝日の中、白い少女は夜露に濡れた道を、てくてくてくてく歩きました。すると、辺りを森に囲まれた、こじんまりとした可愛らしいお家が見えてきました。
一体、どうしたことでしょう。
その扉の前で、気弱そうな男の人が、蹲っておいおいと泣いているではありませんか。
「あの、リンデルさんですか?」
白い少女が話しかけると、男の人はそうだと応えました。
「どうして、あなたは泣いているのですか?」
少女が尋ねるとリンデルさんは顔をあげました。彼はまだまだいっぱい涙を湛えた目をして―――きっと信じてもらえないだろうけれどと前置きして―――語り始めました。
今朝、それはそれは恐ろしいことが起きたというのです。
「僕の愛する妻が、姿を消したのです」
その代わりというように、寝台には、奥さんそっくりの形と大きさに彫られた、黒ずんだオークの埋もれ木が置かれていました。家を隅から隅まで探しましたが、結局奥さんは見つからずじまいです。今でも、その不気味な彫刻は二階に置いてあるといいます。
「僕の美しくて優しい妻に、何が起きたのでしょう。彼女はどこへ行ったのでしょう」
どうしたらいいのかわからないと、リンデルさんは再び泣き始めました。
男ならばしっかりせぬかと、闇の王様はぼそりと呟きました。それをめっと叱って、白い少女は頷きました。
「その彫像は、妖精達が人間を誘拐した後、代わりに置いておく木片(ストック)ですね………昨日の音は、これを作っていたのね………こうしてはいられません。幻獣に浚われてしまった人を取り戻すのも、私の責務ですから」
少女の言葉に、リンデルさんはとても驚きました。君は一体、何者なの? そう尋ねられ、白い少女は胸元から、古竜の紋章が刻まれた、銀の膏薬入れを取り出しました。
「私は幻獣調査員のフェリ・エッヘナ。奥さんを取り戻すため、力を尽くしましょう」
白い少女はそう約束しました。
さてはて、しかし、妖精の囚われ人を取り戻すのは、簡単なことではありません。
昔から、浚われた妻や、
白い少女は、そこに賭けることにしました。
彼女は蝙蝠を鞄の中に隠し、闇の王様に、何があっても自分が合図をするまで影から出てきてはいけないと言いました。
そして、彼女はリンデルさんのお家の周り、鬱蒼とした森の中をてくてく歩きました。いかにも妖精が好みそうな、草木の美しい広場を見つけると、彼女はその場に座り込み、歌うように呼びかけました。
「妖精さん、妖精さん。リンデルさんの、黒い娘さんのことを聞きました。私は彼女が羨ましい。あなた達の素敵なお家へ、私も連れて行ってくださいな」
白い少女はそのまま座って待ちました。何回目かの呼びかけをした時、目には見えない気配が、彼女の周りを飛び回り始めました。それでも、少女が大人しく座っていると、金色に輝く小さな人が慎重に姿を見せました。彼女がにこりと愛らしく微笑むと、彼はツィと飛んできて、その蜂蜜色の目を小さな針で刺しました。
もしも、事前に言われていなければ、闇の王様は大暴れをしていたことでしょう。
盲目にされた少女は、そのまま妖精達に導かれ、どこかへ連れて行かれました。
さてはて、どれだけの距離を移動したのでしょう。白い少女にはさっぱりわかりません。突然、彼女はまじないで目を治されました。
瞼を開くと、辺りには見たこともないような美しい国が広がっていました。
草木は青々と茂り、色取り取りの豪華絢爛な花々で丘と谷は覆われています。空気はまるで宝石を散りばめたように輝いていて、滝や泉は輝かしく銀の飛沫をあげていました。そこでは黄金で装った紳士淑女が、遊び戯れています。
そう、こここそ、全ての妖精丘から繋がる『若者達の国』。
この世の憂いから解き放たれた、美しき妖精達の国なのです。
気がつけば、白い少女の周りには、彼女を導いてきた妖精達が飛んでいました。彼らはお気に入りの少女を他の連中に取られることがないよう、自分達の館に案内しました。そこには、リンデルさんのところの金髪の花嫁も囚われていました。
白い少女は慌ててリンデルさんの奥さんに尋ねました。
「あなたはここで、食べ物や飲み物を口にしてしまいましたか?」
「いいえ、いいえ。愛しい旦那様の元を離されてしまったのですもの。どんな美食も美酒も、この喉を通りませんでしたわ」
彼女の答えに、白い少女はほっとしました。どうやら、間に合ったようです。けれども肝心なのはここから先です。
白い少女は何とかして無事に戻る方法を考え始めました。
その間にも、妖精達は黄金で縫われた、自分達と同じ服を白い少女に持ってきました。更に、まるで蜘蛛の巣のように編んだ繊細なヴェールを、白いヴェールの代わりに被せました。キラキラ、キラキラ、花と黄金で飾られて、白い少女はまるで世界一美しいお姫様のようになりました。
妖精達に浚われた人々の中には、子供の世話をさせられたり、宴の給仕をさせられたり、ひどい扱いを受ける者もいます。ですが、彼らは二人を可愛がるつもりのようです。
妖精達は二人をもてなし、あれやこれやと構い始めました。
リンデルさんの奥さんは怯えて震えています。ですが、少女はにこにこと妖精達の話を聞き、勧められる杯を受け取り、巧みにそのまま返しました。
やがて、すっかりいい気分になって、妖精達は言いました。
「いやぁ、この白い子は本当に可愛いや。どうやら、僕のことが大好きみたいだぞ」
「いやいや違う、この子は一等、おいらのことが好きなんだよ」
「そんなわけないさ、私だとも」
そうして、妖精達は喧々囂々と喧嘩を始めました。
騒ぎはどんどん大きくなっていきます。一体、誰が一番少女に気に入られて、愛されているのか。あちらこちらで、小さな戦いが始まりました。
少女は呆気に取られながらも、この騒ぎに便乗して逃げるか、止めるかを悩み始めました。その時です。今まで静かにしていた彼女の影が、わっと膨らみました。
合図をするまでは出てきてはいけないと、闇の王様は少女に固く言われていました。ですが、約束を破って、彼は低く陰鬱な、それはそれは王様らしい声で言ったのです。
「もう、黙って聞いてはおれぬ。いい加減にするがよい」
妖精達はびっくりして、その場にひっくり返りました。あまりの威厳に声もなく、彼らは怯えました。そして闇の王様は、小さき者達に向けて、実に堂々と告げました。
「我こそが、我が花に一番愛されているに決まっておろうがあああああああああっ!」
次の瞬間、それは聞き捨てならないと、鞄から蝙蝠が飛び出しました。
小さな蝙蝠に情け容赦なく攻撃される王様を見て、妖精達も元気を取り戻しました。急になんだい、この子は僕らの愛しい子だぞと、彼らは怒りだしました。
おっとりと困る白い少女の前で、新たな喧嘩が始まりました。
妖精達は一歩も引きません。蝙蝠も折れません。
そして、闇の王様はというと、なんとこの中で一番短気でした。
「ええい、答えはわかりきっておるであろうが、こざかしい! そもそも、そこな小僧っ子はともかく、ちびっこ共が何をぬかすか! 元はと言えば、貴様らが無理やり人間を、ひいては我が花を連れてくるから悪いのであろうがあああああああああああっ!」
怒りの叫びと共に、闇の王様は黒い波で、妖精達の館をどっかーんっと壊しました。
咄嗟に、白い少女は妖精達を庇ってあげました。彼女の影に隠れて、小さき者達はガタガタ震えました。
館の一つが砕け散り、中から恐ろしい闇が溢れ出したのを見て、他の妖精達はそれはそれはびっくりしました。特に、気高く尊き、妖精の女王様はお酒を吹き出しました。
彼女は闇の王様をよく知っていました。かつて、自分の恋人―――人間の詩人です―――にその存在について、尋ねられたことがあったからです。
いつか世界を滅ぼすはずの存在が、何故、こんなところにいるのでしょう。
しかも、彼は怒り狂っているのです。
彼女は慌てて、闇の王様の下へ使者を飛ばしました。何がなんだかわからないまま、使者は闇の王様にぺこぺこと非礼を詫びました。その割には、いささかどころではなく無礼に、彼はまじないで白と金の娘の服を戻し、せぇのっと王様達を追い出しました。
一体、どれほどの距離を移動したのでしょう。
気がつけば、白い娘と金の娘は、揃って元の草原に座っていました。
辺りには穏やかな朝の光が満ちています。白い少女は立ち上がり、目を回している金の花嫁さんを連れて、リンデルさんのお家へ向かいました。
リンデルさんは相変わらず扉の前に座っていました。その髪はぼうぼうで服は皺くちゃです。足音を聞いて、彼はハッと顔をあげました。帰って来た二人の姿を見て痩せこけて髭だらけの頬を震わせると、リンデルさんは飛び上がりました。
妖精の国と人間界では、時間の流れが異なります。
二人が去ってから、もう一週間以上が経過していたのです。
リンデルさんとその奥さんは、ぎゅうっと抱きしめ合いました。二人はとてもとても喜んで、白い少女に言いました。
「ありがとう、幻獣調査員さん。なんとお礼をしたらいいのでしょう」
「いいえ、とんでもありません。無事に帰ることができて、本当によかったです」
白い少女は微笑んで、いつも通りに旅を再開しました。
けれども、今回、彼女の元には大きな問題が残されてしまっていました。
「いやいやいや、何を言う。そこは我であろう? 我が花の騎士であり、不敵な紳士である我こそが一番だ。何、どうしても譲る気はない? お前はどれだけ意固地なのだ」
闇の王様と蝙蝠は、どちらが彼女に愛されているのか、まだまだ言い争っています。
二人とも大好きよ。そう言っても納得しない二人に困りながら、少女は旅を続けます。
そうして、去っていく彼らの背中を、妖精達が恐る恐る覗いていました。
ある、春の日のお話でした。
めでたし、めでたし。
この続きは、また明日。