その2
子守歌のような、静かな波音が響いている。
フェリとクーシュナ、トローは再び海辺を歩いていた。
クーシュナはフェリの影に溶け込んだままだ。白い砂浜には、彼女の足跡だけが点々と続いている。時たま、普段よりも大きく広がった波がそれを洗い流した。
柔らかな光が心地いいのか、純白のヴェールの上で、トローは微睡み始める。彼が鼻提灯を作り出したのを見計らったかのように、突然、クーシュナは実体化した。
無言で二本の耳を揺らす彼を見上げ、フェリは首を傾げた。
「あら、どうしたの、クーシュナ?」
「我が花よ」
「なに?」
「あー、その、だ。我のお前さえよければ、手でも繋ぐか?」
唐突かつ不自然な一言だった。クーシュナは斜め上を見ながら、ふんっと鼻を鳴らす。
あまりの意外さに、フェリは蜂蜜色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「あなたがそんなことを言うなんて、珍しいわね」
「なんだ、別によかろうが………いや、確かに、我ながら人間の幼子じみた馬鹿げたことを言ったものだ。せいぜい嗤うが」
「いいえ、とても嬉しいの」
ぎゅっと、フェリは彼の手を握った。クーシュナは一瞬、びくっと掌を震わせた後、恐る恐る指を折り、その手を包み返した。フェリは繋いだ腕を嬉しそうに小さく振る。
「ふふっ………それにね、クーシュナ。私があなたを嗤ったりしないって、あなたはちゃんと知っているでしょう?」
「うむ、その通りだな。我が花は我を嗤わぬ。お前が浮かべるのは常に愛らしい微笑みのみよ………失言であったな。我のお前の優しさに免じて、どうか許してはくれぬか」
「えぇ、勿論許します」
そう、フェリはわざと気取った調子で言うと、くすくすと笑った。クーシュナはひくひくと鼻を鳴らす。彼は絡んだ指と指をじっと見つめ、紅い目を細めた。
どんな生き物も、一人では手を繋ぐことなどできないのだ。
二人は海と空、二色の青色を横に歩く。そうして並んで進んでいると、水平線の向こうにある小島が見えてきた。
「あれね、クーシュナ」
「うむ、ディランの言っていた、海豹達のよく休む小島で間違いなかろうよ。灰色の塊がごろごろしておるわ。実に呑気な様子だな。知っているか、我が花よ。海豹の毛皮はよく売れるし、肉は食えるのだ」
「自然の恵みはとてもありがたいものだし、私達はそれを頂いて生きているわ。でも、今言うべきことではないわね、めっ」
「我は幼子ではないが、その怒り方は嫌いではないのよなぁ」
そう、クーシュナは満足げな声をあげた。フェリは手を放し、海に向き直る。
ディランはあの島に、何度も小舟で出かけたという。だが、海豹は彼が近寄ると全て逃げ出してしまったそうだ。
日向ぼっこをする海豹達を眺め、フェリは口を開いた。
「お願い、クーシュナ」
「いかなる時もお前の望み通りに、我が花よ」
そう囁き、クーシュナはまるで忠実な部下のように砂浜に片膝を折った。彼の夜会服に包まれた膝がトンッと砂を叩く。同時に、黒い影がその前の海面に広がった。
波を無視して、まるで湖に浮かぶ蓮のごとく漆黒の円が点々と連なっていく。
「これでよいな、さてと」
クーシュナは立ち上がり、フェリを持ち上げた。まるで花嫁のように軽々と横抱きにされながら、彼女はのんびりと小首を傾げる。
「あのね、クーシュナ。私は自分で歩けるわよ?」
「よいではないか。こうすれば、不意の高波で足が濡れることもあるまい。手を繋ぐのと同様にたまには、我に我のお前を運ばせるが、い、い………おい、小僧っ子よ。だから、貴様は一体どんな文句があるのだ」
起きたトローにガジガジと鼻を齧られ、クーシュナはそう訴えた。バサバサと不機嫌に、トローは羽ばたく。その訴えに耳を傾け、クーシュナは叫んだ。
「『近い近い今すぐ離れろでも落とすなちゃんと運べぇ』? いや待て、その訴えはどう叶えろというのか、無理があろうが! おいっ、返事をせずに嚙むでないわ」
ガジガジと、トローは無言でクーシュナの鼻を齧る。
それを見て、フェリは本当に二人は仲がいいのねぇと嬉しそうに微笑んだ。
トローに顔に張りつかれたまま、クーシュナは足を進めた。海に浮かぶ黒い円の上を、彼はスタスタと足元も見ずに渡っていく。
やがて、彼らは目的の小島に辿り着いた。
トローの羽根の隙間からその場を見て、クーシュナは片目を細めた。
「珊瑚で造られた島か………波の浸食のせいか、随分と削れておる。危ういな」
海を歩いて渡ってきた者達を見て、海豹達はぎょっと顔をあげた。だが、彼らは逃げようとはしなかった。中の一人が、徐に皮を脱いだ。銀髪に黒い目を持つ、美しい娘が図るようにフェリ達をじっと見つめる。その視線を受け止め、フェリは小さく呟いた。
「幻獣書、第一巻九十七ページ――『
「『闇の王様』ともあろうものが、私達、海に棲む者に一体何の御用かしら?」
娘は涼やかな声をあげた。フェリはほうっと小さく息を吐く。
「………クーシュナ、あなたやっぱり有名なのねぇ」
「ううむ、今更、その名で呼ばれても困るのだがなぁ………海豹乙女よ、お前達の仲間の中で人間の男と結婚した者を知らぬか?」
そう、クーシュナは呼びかけた。海豹達は顔を見合わせる。皮を脱いだ娘は腕を組み、急に険しい顔つきになると応えた。
「何の用? たとえ『闇の王様』であろうとも、仲間への無礼は許されないわ」
「突然、申し訳ありません。彼女の元夫、ディランさんに頼まれて来たのです。彼は彼女に会いたがっています。どうか、話をさせてもらうことはできないでしょうか?」
「無理よ。あの子は断るわ。帰って」
「重ねて、ディランさんの死期が近いことをお伝えください」
皮を脱いだ娘は、目を見開いた。彼女は組んでいた腕を解き、ぼそりと囁く。
「………驚いた。海豹の姿の時、私達も獣に襲われて命を落とすことはあるわ。それでも、随分と簡単に死ぬのねぇ………ちょっと待っていて。返事が変わるかもしれない」
素早く皮を身に着け、彼女は海中に身を翻した。やがて、彼女は一頭の小振りな海豹を伴って戻ってきた。新しい海豹はフェリ達の前で皮を脱ぐ。
その目を見て、フェリは間違いなく、この海豹こそディランの妻だと確信した。
海豹乙女は皆、獣の姿の時と同じく、黒く濡れた瞳を持っている。その中でも、彼女の目は一際印象的だった。まるで星がいくつも散った、黒い夜空のようだ。
じっとフェリを見上げ、彼女は口を開いた。
「悪いけれども、私は行かないわ。彼には、あなたはいい夫だったと伝えて」
「その言葉だけでも、彼は癒されることでしょう。ですが、彼はもうすぐ死にます。それでも、顔を見せては頂けないのですか? やはり、騙されたことを怒っていると?」
「憎んだことも恨んだこともあるわ。でも陸の時間も悪くはなかった。今でも子供達は可愛いし、あの子達が本島に渡るときは、仲間と共に船の横を泳いだものよ。ディランは私を大切にしてくれた。それも知っている。人の言葉でそれを愛というんでしょ?」
「それならば、どうか慈悲を」
「でも、私は海の者よ。海の者なのよ。彼は陸の者。それだけよ」
海豹乙女はそう首を横に振った。彼女の足元には海豹の皮が落ち、その青白く瑞々しい肌は、海水でしっとりと濡れている。フェリは静かに考えた。
(えぇ………確かに、その言葉の通り)
人の形をしていても、彼女は海の者なのだ。
「結局、私は海の者としか暮らせない。陸の者は陸の者と生きるべきだわ。彼が私の毛皮を盗んだのがそもそも間違いだった。死が私達を別っても今と同じよ。海と陸に隔てられても、生と死に隔てられても変わりはない。それなのに今更会いにはいけないわ」
「わかりました。それがあなたの結論だというのならば、そうお伝えしましょう………ですが、一つだけ、お答え頂けませんか?」
「えぇ、『闇の王様』の黒き腕に抱かれた、彼のかわいい陸の少女。聞きたいことをお尋ねなさいな」
「この周囲の環境は似通っています。諸島の端まで、穏やかな海が続く。移動しようと思えば、他の島に棲むこともあなたにはできたはずです。あなたは、彼から遠く離れることも可能だった。それなのに、何故、彼を避けながらも棲み続けているのですか?」
フェリはそう尋ねた。返事はない。
数秒後、海豹乙女は首を傾げた。彼女は顔を跳ね上げ、黒い目に遠くの島を映した。パチパチと何度か瞬きをして、乙女はぼそりと応えた。
「そうね………なんでかしら? 考えたこともなかったわ」
「嵐が来るぞ! 波が震えている! 『闇の王様』とその愛する娘も帰るんだ!」
突然、男の声が響いた。フェリ達の傍に横たわっていた雄の海豹が、皮を脱いで叫んだのだ。ディランと結婚していた海豹乙女も慌てた様子で皮を身に着け、海中に身を翻した。海豹達は次々と水に飛び込む。
見れば、頭上には黒々とした雲が立ち込め始めていた。
あまりにも急激すぎる変化だ。フェリを抱え直し、クーシュナも踵を返す。
「走るぞ、我が花よ! ここで巻き込まれてはたまらぬわ!」
「えぇ、お願い………でも、何故急に、嵐が?」
フェリは小さく呟いた。自然の驚異は、人間の想像を時に容易く超える。だが、流石にこの変化は不自然すぎた。
クーシュナは矢のように駆けた。
無事、フェリ達は濡れることすらなく砂浜に辿り着いた。ヴェールを揺らして、彼女は後ろを振り返った。激しい雨と風が、小島を襲っている。だが、その脅威は海岸までは届いていなかった。不思議なことに、怒り猛った獣のように、嵐は的確に小島とその周囲の海を嬲り続けているのだ。
まるで針を狙って虫の背に突き立てているかのような、不自然さがあった。
フェリは蜂蜜色の目を細めた。彼女はディランの言葉を脳内で反芻する。
(『それに、最近海に不自然な嵐が来るんです。嵐はこの島から少し離れた、海豹のよく休む小島を襲う。僕は彼女が心配で』)
「…………これは、まだ帰るわけにはいかないわね」
穏やかさを失った海を眺めながら、フェリは低く呟いた。