海豹乙女

その1

 その島は延々と続く、海と空の狭間にあった。


 大地はどこまでも平坦で、高い丘や木立も見られない。海沿いに並ぶ家々の屋根も、風を避けるためか低く造られていた。視界を遮るものがないことと全体の面積の狭さから、島では至るところで海の煌きが目に入る。余計なものが何もない視界は、だからこそ単調で美しかった。


 水際まで点々と牛や羊の影が散っている以外は海と空しかない。

 二色の青に挟まれた島は、今にも溶けて消えてしまいそうに見えた。


 そんな脆く、気がつけば波に飲み込まれてしまいそうな砂浜の一つに、腰の曲がった老人が立っている。


 寄せては返す波打ち際で、彼は皺がれた手に杖を握り、じっと水平線を見つめていた。その灰色の目は、飽きることなく穏やかな海を映している。


 時折、彼は苦しげに咳をした。

 老人が何をしているのか、事情を知らない人間にはわかりなどしないだろう。晴れ渡った柔らかな空に惹かれ、機嫌よく散歩をしている途中だとでも考えるかもしれない。だが、その曲がった背中に、不意に的確な言葉が投げかけられた。


「誰かを、待っているんですか?」


 驚愕の面持ちで、老人は後ろを振り向いた。彼は皺に埋もれた目に声の持ち主を映す。


 老人の前には、純白の少女が立っていた。


 少女の被った花嫁のものに似たヴェールが、柔らかな風になびく。飛ばされないよう、それを全身で押さえながら、蝙蝠が小さく鼻を鳴らした。蜂蜜色の目で、彼女は彼に、親愛の籠もった静かで温かな眼差しを返す。


 しばしの沈黙が落ちた。


 少女を映す老人の瞳の奥底には、固い孤独が沈んでいた。それは石のように強張った鼠色の孤独だ。だが、それを微かに溶かすと―――見知らぬ人間とは一切話さないと評判のはずの―――彼はそっと少女に尋ねた。


「………わかるのかい?」

「何度か、同じ目をした人を見たことがありますから」


 責めるわけでも、嘲るわけでもない口調で、少女は応えた。老人は更に大きく目を見開く。どうやら、この少女には、彼の待っている相手のことがわかっているらしい。それでいて馬鹿にしてこない人間と出会ったのは、老人には初めてのことだった。


 彼は注意深く少女を見つめる。それに応えるように、彼女は優しく優しく囁いた。


「恋しい方が、海にいるんですね」


 少女は『方』と言った。

『人』とは言わなかった。


 痰と血の絡んだ咳をして、老人は万感の想いを込めて頷いた。


「あぁ――――女房がね。いるんだよ」


 海から来た老人の妻は、子供と彼を残し、波の合間に帰っていった。

 もう、数十年も昔の話だった。


                 ***


 フェリ達は大小七十を超える島々からなる、ある諸島の一つを訪れていた。


 島と島との距離はまちまちだ。石畳の道―――その多くは干潮時のみ現れる―――で、行き来できる近さに浮かぶものもあれば、船しか移動手段がないほど離れているものもある。だが、本島を含め、その面積はどれも狭く、文化や風習にも大きな差はなかった。気候と風景も同じだ。


 海と人が近い。

 つまり、海に棲む幻獣と人の生活区域は接していた。そして人と幻獣の間には、互いの距離が近ければ近いほど起きやすくなるある事柄が存在する。


 それこそ、異類婚姻譚だ。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 海で出会った老人に、フェリ達は家に招かれ、茶を振る舞われた。


 端は欠けているが、長年丁寧に扱われてきたらしい陶器を、彼女は慎重に手に取る。口をつけると、丸みを帯びたカップの中の茶は熱く、少し刺激的な味がした。


 石造りの部屋の中には、使い込まれた炉や広い戸棚が備えつけられている。女性がいるのか、端々に水薬の瓶に差された花や、ちょっとした民芸品も飾られていた。

フェリの視線に気がついたのか、老人は皺がれた声で言い訳をするように訴えた。


「周りの勧めで、二人目の妻を取りましてね………娘はまだ家にいます」

「お一人ではないとのことで何よりです。肺が悪いように見受けられますので」


 彼女がカップを皿に戻すと、老人は頷いた。


「えぇ、そうですね………もう、長くはないでしょうな」


「そんなことは」


「自分の体のことです。自分が一番よくわかっていますよ。毎晩、眠りに着く前、私は真っ暗な穴の中に、すとんと落ちていくような心地を味わうんです。きっと、私はこのまま二度と彼女に会うことができずに死ぬのだ、とね………情けない話ですよ。まさか、自分がこんなに死を恐れる老人になるなんて、若い頃には考えもしませんでした」


「死への恐れは、生き物にとって極自然な感情ですよ。それを恥じるのは人間だけです。貴方の感情は情けないものなどではありません。会いたい方がいるのならば、猶更」


 フェリはそう囁いた。灰色の目を細め、老人はほっと息を吐く。


「ありがとう、お嬢さん………あぁ、名乗るのが遅くなってしまいました。私は、ディランといいます。数十年前、海豹を嫁にした、愚かな男ですよ」


「海豹………海豹乙女セルキーですね」


 フェリの言葉に―――老人―――ディランは頷いた。彼は海豹を待つ自分を馬鹿にしなかった―――何よりも幻獣調査員である―――フェリに、話を聞いて欲しいと自宅に招いたのだ。自身のカップを、皺だらけの掌で包み込み、彼は改めて口を開いた。


「えぇ、その種族名を知ったのは、彼女を無理に娶った後のことでした。あの時はもう無我夢中でしたよ。あんなに美しい女性を見たのは産まれて初めてでしたから………」


 ディランはそう語り出した。

 数十年前、海藻を取りに行った日、若かった彼は彼女に出会ったのだ。


 穏やかな波の美しい、紺色の朝の出来事だった。

 日はまだ昇っていなかった。島の漁師達は皆早起きだが、その砂浜は船着き場とは逆方向にあったため、辺りに人の姿はなかった。

 

 早くに目覚めたディランは、籠を片手に海藻を拾い歩いていたのだ。


 海を独り占めしている気分で、彼がまだ冷たい砂を踏んでいると、どこからか美しい音楽が聞こえてきた。ディランは咄嗟に浅瀬に足を進め、大きな岩陰に身を隠した。


 見れば、二十人ほどの裸の男女が、バイオリンの音色に合わせて湿った砂を踏み、歌い踊っていた。彼らはディランの知る島民達より、それどころか、時折村を訪れる旅人の誰よりも美しかった。そして奇妙なことに、丁度ディランの隠れた岩の上には、何枚もの海豹の皮が並べられ、銀色に輝いていた。


 固唾を飲んで、ディランは美しい人々を見つめた。

 やがて、その中でも―――宝石のように黒く濡れた―――一際印象的な目を持つ乙女に、彼は心を奪われた。


 笑みを絶やさずに躍る彼女は、実に生き生きとした魅力を放っていた。しなやかな足が砂を蹴る度、朝の光が強さを増し、目が潰れてしまうようにすらディランには思えた。


 長くて短い時間が過ぎた。

 老年に入ってから振り返った際、彼にはこの時間―――固唾を飲んで乙女を見つめていた数分間こそ―――が、己の人生の中で最も満ち足りていたように思えた。


 やがて太陽が昇り、幻のような時に終わりを告げた。

 美しい人々はディランの隠れている岩に駆け寄ると、海豹の皮を手に取り、均整の取れた裸に纏った。彼らはみるみるうちに海豹に変わると海へ飛び込んだ。


 ディランは呆気に取られた。彼らがまさか人ではないとは夢にも思わなかったのだ。

 その時、ディランは自分の足元に一枚の毛皮が浮いていることに気がついた。どうやら岩から滑り落ちたようだ。それに気づいていないのか、一人の娘が困った様子で辺りを探していた。


 彼女の顔を見た瞬間、ディランは発作的に毛皮を籠の中に丸めて押し込んだ。

 あの印象的な目を持つ乙女が、毛皮を見つけられずに彷徨っていたのだ。困り切った彼女が座って泣き出したのを見計らい、ディランはその肩に声をかけた。そして、言葉が通じず、嫌がる彼女を無理やり家へ連れて帰った。


 一晩大切に扱うと、娘は落ち着いたようだった。


 砂浜に毛皮を探しに行きたいと、彼女はディランに身振り手振りで訴えてきた。

 それから毎日、彼はその望みを叶えてやった。だが、毛皮が見つかるはずもない。

海に帰れないと泣く娘に、ディランは人の言葉を教えた。彼女は賢かった。衣服を身に着け、直ぐに陸の暮らしに馴染んだ。


 時を見計らい、彼は娘にプロポーズをした。彼女はそれを受け入れた。


 二人は本島の教会で結婚式を挙げた。


 彼女は諸島一美しい花嫁となり、彼は諸島一幸福な花婿となった。


 二人の間には、指の股に水かきのある男の子が二人産まれた。子供の手のことは気がかりだったが、ディランは幸福だった。


 家族は平凡に、幸せに暮らした。


 確かに幸せだったと、ディランは今でも思っている。


 しかし、その時間にも終わりがきた。彼が子供達を連れて市へ言っている間に、彼女は夫の忘れた煙草入れの中から古い鍵を見つけたのだ。彼女はそれを使い、夫がこっそりと隠していた―――隠しきれていなかった―――鍵付きの箱を開けた。

 ディランが帰ると、家には誰もいなかった。


 箱の中から、海豹の皮は消えていた。

 彼女は二度と帰って来なかった。


 語り終えると、ディランは灰色の目から涙を落とした。透明な滴が、顎に刻まれた皴の溝を流れていく。フェリは頷いた。彼が落ち着くのを待ち、彼女は口を開いた。


「後悔しているのですか?」


 幻獣調査員の観点から、彼女は慰めの言葉を口にしなかった。ただ、フェリは穏やかに―――だが、同情も共感も示すことなく―――続けた。


「幻獣調査員である私が招かれた、ということは、何らかの言葉か手伝いを求められているものと判断したうえで―――申し上げてもいいのならば続けますが、どうしましょうか? 先にお断りしておきますが、厳しい言葉となります」


「構いません。お願いします」


「辛い気持ちはお察しします。ですが、残念ながら異類婚姻譚は両者の同意のうえでも、互いの禁忌や生活の違いから破局に至る場合がほとんどです。相手に嘘を吐いたうえでの婚姻ならば、尚更当然の結果と言えるでしょう。特に、幻獣の帰還する術を奪ったうえでの婚姻は、今では罰則対象に該当します。つまり、現行法に照らし合わせれば貴方は犯罪者にあたるのです。本来ならば、私は理解を示すこともできなければ、何のお手伝いをすることもできません」


「わかっています。全てわかっているんです。私が愚かだったのだと馬鹿だったのだと」


「………ですが、今回の場合は、特例にも該当します」


「特例?」


 老人はフェリの言葉を不思議そうに繰り返した。だが、彼女はその詳細を語らなかった。フェリは顔をあげ、蜂蜜色の瞳で真っ直ぐに老人を射抜いた。


「お尋ねします。後悔をしていて――――それでもまだ会いたいのですか?」


 フェリはディランの―――拭い難い孤独が底に沈んだ―――瞳を見つめた。

海豹乙女に逃げられた後、周囲の勧めでディランは二人目の妻を娶ったという。彼の傍には今も娘がいた。恐らく、海豹乙女と暮らしていた時よりも、その生活振りは安定していることだろう。だが、彼の心は常に絶望に支配されていたはずだ。


 幻獣を伴侶に選択する時、大半の人間は自身でもどうしようもないほど魅了されてしまっている。その相手に去られることは、魂を千切られるような痛みを伴うのだ。


 人は幻獣に嘘を吐き、幻獣は人の運命を狂わせる。


 両者の慰撫―――特に異類婚姻譚の破局への仲裁――――は、本来幻獣調査員の責務にはなかった。どちらかに肩入れをすることは、その立場上、許されないからだ。

だが、一つだけ特例があった。


(幻獣に心を囚われた人間の死が近い時――――その末期の苦痛緩和も役割の一つ)


 フェリに返事をする前に、ディランは血と痰の絡んだ嫌な咳を繰り返した。多くの生き物を看取り、時にはその腕の中に死を抱いてきた、フェリにはわかっていた。

 彼が予測している以上に、その寿命は長くない。彼女は問いを重ねた。


「奥さんに拒まれたとしても、会うことを望むと?」

「………会いたい………えぇ、会いたい、会いたいんです」


 フェリの問いに、ディランは罅割れた唇を震わせた。その顔に、一瞬激しい苦悩が過ぎる。だが、表情を歪めながらも、彼は熱を込めた声で続けた。


「会って、彼女に謝りたいんです。許されなくてもいい、ただ、愛していると伝えたい。本当に愛していたんだと………僕は君を………そ、それに、最近海に不自然な嵐が来るんです。嵐はこの島から少し離れた、海豹のよく休む小島を襲う。僕は彼女が心配で…………それもあって、あぁ、違う。そうじゃないんだ。僕はもう一度だけ」


 その顔に、一瞬、かつての若さが戻った。ディランは海で海豹乙女に初めて会った時のような身を滅ぼしかねない情熱を、灰色の瞳に宿して叫んだ。


「あの黒く美しい目を、間近で見たいんだっ!」


 それは、ある意味、ひどく醜い言葉だった。


 あまりにも人間の欲に塗れすぎた願いだ。だが、同時に、死に逝く男に残された、たった一つの他愛ない望みでもあった。

 顔を伏せてはらはらと泣くディランに、フェリは静かに頷いた。


「わかりました。幻獣調査員として、私もお手伝いをしましょう」


「本当、ですか? 本当にっ?」


「えぇ、再会はお約束できません。私は彼女に接触しますが、拒まれた時点で関与を中止します。ですが、それまでは貴方のために動きましょう」


 彼女はすっと白い手を差し出した。震えながら、ディランはその掌を子供のように掴んだ。その手を温かく握り返しながら、フェリはぽつりと呟いた。


「………ずっと一人は、寂しいものですね。どんな生き物も」


 ぴくりと、彼女の影が震えた。だが、黒色は直ぐに平坦に戻った。


老人は弱々しく、握り締めた手を上下に振った。ありがとう、ありがとうと、ディランは何度も繰り返す。


 まるで、その言葉だけでも、長年の孤独が報われたというかのように。



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