悪竜と毒姫

その3


 その時、鳴き声が響いた。

 空を裂き、地を割るような声が。


 フェリは顔を跳ね上げた。高みからの風を受け、そのヴェールが激しく揺れる。蜂蜜色の瞳の中心に、小さな黒点が映った。

 彼女は低く呟く。


「――――――来る」


 蝙蝠に似た羽をゆったりと打ち、漆黒の竜が舞い降りようとしていた。物理法則に逆らった優雅な動きで、その威容は下降してくる。

 緊張に包まれた場に、不意に、別の声が響いた。


「何をやっているんですか! 娘さんを見つけたのなら、早く!」


 恐らく、言い争う声で場所を特定したのだろう。ギルバートが飛び込んで来た。

 その爽やかな整った顔立ちを見た途端、娘は飛び上がった。何を考えたのか、彼女は金貨を撒き散らしながら、財宝の山をチヤリチャリと掘り進み、身を隠そうとし始めた。


「や、やだやだやだやだ、何よ、この美形。こういう人、凄い苦手。絶対、こういう奴は性格がドブネズミみたいに卑怯だって決まってるんだから、きゃっ!」


「何を言ってるんだかわかりませんが、怪我はありませんね! うん、ないな! 行きますよ!」


「やだやだやだやだ、離してったら!」


 辺りに散らばる金貨は無視して、ギルバートは娘の襟首を引っ掴んだ。彼は荷物でも点検するかのように彼女の無事を確かめると、樽でも持つかのごとく小脇に抱えた。

 こんなところも御伽噺のようにとはいかないらしいと、クーシュナは呆れた顔をした。


「いや、もっと他に持ち方があるであろうが」


「離してっ、離して、離せってばああああああああっ! 離せぇっ! 私が不細工だからって、こんな運び方をするなんてひどいじゃない!」


「いえ、僕は誰が相手でもこういう持ち方をしますよ!」


「余計ひどいわ! 何なのよアンタ! 離してえええええええええええええっ!」


 両手足をばたつかせ、娘は更に暴れた。彼女を見つめ、フェリはぎゅっと杖を握り締めた。決意の表情で娘に駆け寄り、フェリは懇願するように声をあげた。


「どうか落ち着いてください。竜が怒りだせば、争いになってしまいます! そうしたら、あなたは危ないし、私は『暴走竜』の判定をしなければなりません!」


「ぼうそう、りゅう?」


「あの竜を殺すことになってしまうんです!」


 瞬間、娘はハッと息を呑んだ。彼女はぐるぐると視線を彷徨わせる。やがて自分のことはどうでもいいと繰り返していたというのに、娘は驚くほどの素直さで頷いた。


「わかった、わ………私だって、別に、死んで欲しいなんて思ってないもの」


「よかった………ありがとうございます。あなたは、やっぱり優しい人ですね」


「はぁっ、どこが!」


「それでは、今は共に!」


 娘の怒声は無視して、フェリは生き生きと合図を出した。ギルバートは頷き、駆け出した。彼が螺旋状の通路を駆け戻ろうとした時、クーシュナは指を鳴らした。

空中に闇が集い、四角い箱に変わった。それはパタパタと下へ開いていく。後には階段が生み出された。人間には使えるはずがない異様な技だ。


 ギルバートは唖然と目を見開いた。


「………これは………貴方は一体」


「我が何者でも、どうでもよかろうが。先に行け、若造」


「そう、ですね! 後程、魔術の手ほどきを願います!」


 どこまでも真っ直ぐな声をあげ、ギルバートは娘を抱えて階段を駆け下りた。肩を竦めたクーシュナと、鞄の中にトローを入れたままのフェリがその後に続く。


 闇の階段を駆け下りれば、出口は間近だ。


 湖の近くを、彼らが走り抜けようとした時だった。


 派手な水飛沫があがった。波に足を浚われかけたフェリを、クーシュナが横抱きにする。ギルバートと娘は、双方共に派手に水を浴びた。


「きゃあっ!」


「………ッ、間に合わなかったか」


 驚くほど透明な水の上に、竜が腹から着地したのだ。


 威圧を放つ巨体が、間近で頭をあげ、長い尾を力強くしならせた。音を立てて、空気が鋭く切断される。翼がバサリと鳴らされ、空気を受け止めた皮膜が風を起こした。


 漆黒の体躯が震える。たくましい顎を備えた鋭い顔には、金色の目が燃えていた。


 まさに、悪竜と称されるにふさわしい姿だ。

 

 威嚇をするように、竜は激しく尾を振り回した。出口があるのは、その向こう側だ。


「これでは、行けませんね」


「きゃっ!」


 ギルバートはその場に容赦なく娘を落とした。彼女は小さく悲鳴をあげ、彼を睨む。それに応えることなく―――ただ娘を守るように前に出て―――彼は腰の鞘から剣を引き抜いた。魔力の補助があるのか、鍛えられた鋼は青白く発光している。


 その肩に、フェリは声をかけた。


「止めてください。戦闘は、私達が行います。クーシュナはあなたよりも遥かに強い」


「だからこそ、です。どうか、その力でお嬢さんを守ってあげてください。僕が隙を生みますので、出口の確保を。通り道さえ作ってもらえれば、僕も一緒に外へ出ます。そうすれば、とりあえず竜も殺さないでいいでしょう? 巣の外まで追いかけて来たら、その時はその時だ」


「ですが、私達が両方を」


「それに、さっきの言い争いを聞いていたんですが、そのお嬢さんは僕が助けた方がいいように思えるんです」


「ふぇっ?」


 ギルバートの言葉に、娘は間抜けな声をあげた。フェリもぱちぱちと瞬きをする。


 ギルバートは剣を横に構え、真剣な口調で続けた。


「自分を必死になって助けてくれる人間がこの世にいないって思うのは可愛そうですよ」


「アンタ、なに」


「だったら、信じてもらうしかないじゃないですか」


 ギルバートはそうへらりと笑った。何故か、娘は泡を吹きそうな顔で白目を剥く。


 何故、その表情なのだと、クーシュナは心底呆れたように呟いた。だが、娘は直ぐに顔を落ち着かせると、頬をじわりじわりと赤く染め始めた。


「馬っ鹿じゃなっ」


「それでは行きます!」


 彼女が爆発する寸前、ギルバートは地を蹴った。彼は竜の視線を引きつけながら、壁沿いに走り出した。竜は地面を揺らし、波をあげながら前へ進んだ。


 その隙に、クーシュナは闇を走らせ、出口までの通路を確保しようとした。瞬間、竜は振り向きざまに炎を吐いた。ゴウッと音を立てて、粘つく紅色が地面を奔った。


「―――チッ、いらん知恵を回しおって!」


 入口に炎が届いた。自然の火とは違う熱が穴を覆う。クーシュナは二人の娘を抱え、大きく熱源から離れた。顔を隠す布を揺らしながら、彼は忌々し気に舌打ちをした。


「まずは、闇で炎を食らわねばな。面倒だ」


 その間にも、ギルバートは竜と刃を交わしていた。剣戟が奔り、固い音が鳴る。

岩をも打ち砕く尾の一撃を、ギルバートは躱し、瓦礫を蹴って着地した。そこを竜の翼が横に薙ぐ。だが、ギルバートはそれを剣の腹で受け止め、衝撃を殺すと、後方へ飛び退いた。誰が見てもわかるほど、彼の腕前は見事だった。


 まるで、御伽噺の一幕のような攻防が続く。


 ギルバートは瓦礫で切った頬を拭った。彼は傷の痛みも顧みず、鋭く前に踏み込む。皮膜に軽く一撃を食らい、竜は不快そうな声をあげた。

その時、固唾を飲んで争いを見守っていた娘が口を開いた。


「なんでよ………なんだってのよ………私は別に」


「娘よ、外へ出るぞ。こっちへ。おい聞いておるのか。問答無用で拘束してもよいのか」


「だからなんだってのよぉおおおおおおおおおおおおおお!」


 突然、娘は叫ぶと駆け出した。フェリの伸ばした手を、彼女は乱暴に弾く。更に、予想をしないめちゃくちゃな跳ね方で、娘はクーシュナの影すら躱してみせた。

そのまま、彼女は悪竜とギルバートの前に飛び出した。


 両腕を広げ、娘は竜に向かって叫び始める。


「もうやめて、やめてよ! なんで、アンタが私を浚ったのか知らないけど、私なんかいらないでしょ? なんで争ってんのよ! もう止めなさいよ!」


「………お嬢さん」


「アンタも、この人も怪我してるじゃない! 馬鹿! 屑! のろま! オオトカゲ! 何をやってるのよ! もういいでしょ、ねぇ!」


 娘は大きな目に涙を湛え、悪竜を見つめた。竜は静かに、金の目に彼女を映し返す。


 娘の目から涙が零れ落ちた。子供のようにぼろぼろと泣きながら、彼女は彼に訴える。


「………もういいよぉ」


 その時、悪竜はちらりとクーシュナを見た。その目を見て、彼はそっとあげかけていた手を下ろした。悪竜は再び娘に視線を戻す。


 一瞬、彼は確かに金色の目を細めた。

 まるで、幼い娘の泣き顔を見るような眼差しだった。


 しかし、それは溶けるように消えた。悪竜は憎悪を瞳に称え、息を吸い込んだ。鱗の内側が鈍く光り、喉の肉が柔らかくたわむ。炎の熱が口内でパチパチと弾けた。

信じていた者に裏切られたかのように、娘は茫然と呟いた。


「えっ、なんで?」


「ッ、危ない!」


 ギルバートは走り出した。彼は娘に向けて炎を吹きかけようとしている竜の喉に、剣を突き立てた。魔力で補強された刃が、鱗を断ち割る。


 ――――――ギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!


 悪竜は悲鳴をあげた。黒い血が勢いよく噴き出す。


 その声が鳴った瞬間、悪竜の無傷だった胴体が裂け始めた。伝説が本当であることを証明するかのように、彼の声は自身の体を傷つけていく。激痛に苦しみながら、悪竜は翼をはためかせた。彼は何度も壁に体をぶつけながら、頭上へ舞い上がる。

悶え、苦しみながら、無様に羽ばたき、


 やがて、竜は天井の穴から姿を消した。


 糸が切れたかのように、ぺたんと娘はその場に座り込んだ。彼女は虚ろに呟く。


「なんで………どうして。今まで一度も、怒らなかったのに」


「なんて勇敢な人なんだ! 僕と竜の争いを止めようとしてくれるなんて!」


 その手を、ギルバートが握った。へっ? と目を丸くする娘へ向けて、彼は感極まった口調で続ける。


「僕はあなたのことが気に入りました! 領主様とのお約束がありますが、その前に申し込みましょう! どうか結婚を前提に付き合ってください!」


「はぁあああああああああああああああああああああああああああああっ?」


 娘は絶叫した。告白を受けたとはとても思えないような悲鳴だった。


 お、おうとクーシュナが退く中、その声すらも面白がるように、ギルバートはにこにこと笑った。彼の表情を確かめ、娘は急にブチ切れたように叫び出した。


「何よ、なんなのよ、ばっかじゃないの! わかったわ、アンタ、どうせお父様のお金が目当てなんでしょ? でも、残念だったわね、うちみたいな貧乏領主、ろくな財産なんてないわ! それとも……あっ、ここの財宝! 伝説よりは少ない気がするけど、好きに持っていきなさいよ! 私に犬みたいに媚びを売る必要なんて」


「何を言ってるんですか、そんなんじゃありませんよ!」


「私のことを何も知らないくせに! 私がどんなにひどいか」


「あなただって僕のことを何も知らないでしょう!」


 ギルバートは娘の言葉に重ねるようにして叫んだ。彼女は目をぱちくりさせる。思わず黙った娘に向けて、ギルバートは爽やかに歯を見せ、実に熱を込めた口調で続けた。


「僕は人が困っていたら放っておけない性分で、恋人との約束をよくすっぽ抜かすせいで、もう十数回振られています。それに、足も臭い! 僕の妻になった女性は、それはそれは苦労することでしょう」


「それは、そんなに熱弁すべきことなのか」


「クーシュナ、しっ」


「でも、貴方は口が悪いから、僕への不満な点もぽんぽん言ってくれるでしょう? 黙って去られるよりずっといい。性に合っています! それに、貴方は本当優しい人だ」


「なんで、そんなこと………そんなわけないじゃない! 根拠はなによ!」


「貴方の目は、巣穴の中の怯える狸の瞳にそっくりだからです」


「狸って」


「僕のことを甘くみないでください! 本当にいい人間かどうかなんてわかりますよ!」


 ぽかんと口を開いて呆れた後、娘はぐぐっと押し黙った。彼女は無言で下を見る。短くない時間が過ぎた後、娘はどもりながら呟いた。


「か………考えさせて」


「えぇ、喜んで。その前に、一つ聞かせてください」


「なによ?」


「貴方のお名前は?」


 ギルバートは自身の胸元に手を当てて、促すような笑みを浮かべた。

娘は名乗るかどうかを迷った。だが、彼女がいくら視線を反らそうとも、ギルバートに諦める様子はない。やがて、観念したかのように、娘はぼそぼそと早口に応えた。


「じゅ、ジュリエッタよ。似合わない、名前でしょ」


「あぁ、淑やかな本当に似合わない名ですね! でも、いいと思います、可愛らしい!」


「あんた、ほんっとひどいわね」


 思わずといった調子で、娘は吹き出した。


 その顔に、初めて見る愛らしい笑みが浮かべられる。


 手を取り合う二人を眺め、フェリは一つ頷いた後、岩の床に視線を移した。そこには竜の血が散っている。衝撃でへこんだ壁には、削れた肉が残されていた。


 ぎゅっとナナカマドの杖を握り締め、フェリはクーシュナに尋ねた。


「ねぇ、クーシュナ、あなたはなんで、あの子を止めなかったの?」


 彼は応えない。

 悪竜の去った後には、ただ、御伽噺のように幸せそうな恋人達が残されていた。


                ***


 村に帰ると、祝宴が催された。

 最初はあくまでも慎ましやかに行うつもりだったらしい。だが、ギルバートが竪琴を取り出し、愉快な逸話を披露していくうちに、宴席はどんちゃん騒ぎと化した。とっておきの葡萄酒も飛び交い、娘の無事を祝う席はもう何がなんだかわからなくなっていく。


 伝達を受けた領主の迎えが来る頃には、村人達の多くがへべれけになっていた。

その中を、ギルバートとジュリエッタ、フェリ達は静かに抜け出した。


 領主からの館への誘いを丁寧に断り、よろしく伝えてくれるよう御者に頼むと、フェリはギルバート達と向かい合った。涼やかな夜気の中、彼と彼女は再び握手を交わす。


「あの状況では、刺突も止むをえないことでした。国への報告は私がしておきます」


「えぇ、よろしくお願いします。お二人には本当にお世話になりました」


「えっと、その………」


「ほら、ここで言わないともう機会はないよ」


 すっかり仲良くなった様子のギルバートが、ジュリエッタの背中を優しく押した。彼女はおずおずと前に出る。ジュリエッタはフェリを見つめ、口を開いては閉じ、息を整えた。決死の表情で、彼女は改めて言葉を綴る。


「助けに来てくれたんだものね………一応、お礼は言っておかなきゃ。ありがとう」


「いえ、そんな、私は」


 すっと、ジュリエッタは手を前に差し出した。その指先は細かく震えている。ぎゅっと、フェリは躊躇いなくその掌を握り締めた。ジュリエッタは安堵したように微笑んだ。


 彼女の手は温かく、柔らかい。だが、ジュリエッタは微かに目を伏せ、顔を歪めた。


 ぽつりと、彼女はどこか悲しそうに呟いた。


「でもね………私は本当に、あのままでもいいって、そう、思ってたのよ」


 フェリが聞き返す間もなく、ジュリエッタは手を離した。彼女は赤髪を揺らし、後ろを振り向く。ギルバートを―――悪竜に浚われなければ出会わなかっただろう人を――ジュリエッタは眩し気に見つめた。その目が再び寂しそうに陰る。


 ジュリエッタは顔を挙げ、遠く頭上を眺めた。

 何かを探すかのように、彼女は瞳を彷徨わせる。


 やがて、ジュリエッタは諦めたように目を伏せた。拳をぎゅっと握り締め、彼女は首を横に振る。去って行ったものを振り切るかのように、フェリに向き直って、改めてジュリエッタは笑みを浮かべた。


「さようなら。旅を続けるんでしょう、気をつけてね!」


「はい………ありがとうございます」


 フェリは静かに頷き、そう応えた。


 ギルバートとジュリエッタは仲睦まじく、馬車に乗り込んだ。御者が馬に鞭を入れる。遠ざかる馬車に向かって、フェリは手を振った。その後ろでクーシュナが小さく呟いた。


「姫は助けに来てくれた騎士と結婚し、幸せになりました、とさ………めでたしめでたしと言ったところだな」


 フェリはそれに応えなかった。元気がないことを心配したのか、そのヴェールの上で、トローが鼻を鳴らす。彼の頭を撫でてやりながら、フェリは踵を返した。


「行きましょう。もう、私達がここに残る必要はないから」


 クーシュナは何も言わなかった。彼は無言のままするりと彼女の影に戻る。

冴えた月光を浴びながら、フェリがそのまま村から遠ざかろうとした時だった。

木々の間から人が現れた。即座に、クーシュナはフェリを守ろうと前に飛び出した。


「わっ、な、何かと思いましたよ!」


 不気味な彼―――何せ、顔を隠している―――にぶつかりかけ、太った男が驚きの声をあげた。大量の荷物を背負った商人らしき姿を見上げ、フェリは首を傾げた。


「これは失礼しました。あの、あなたは?」


「あぁ、私はその村の出身の行商でしてね。やっと隣町へ注文の品を届け終えたので、両親に顔を見せようと………ん? まだ火が点いてる? なにかあったんですか?」


「実は、竜に領主様の娘が」


 フェリは彼に悪竜退治とその顛末を説明した。商人は彼女の言葉に身を仰け反らせ、驚いたように声をあげた。


「まさか、そんなことがあったんですか! いや、するとあの声は………あれ?」


「あの声とは?」


「いえね、数日前、私は岩山の近くを通ったんですよ。あの辺りは大層不気味ですが、近道になるもんでね。そうしたら、威勢のいい罵声が聞こえてきたんです」


『このオオトカゲ、のろま、うすら馬鹿! 潰れた豚の鼻みたいな顔!』


 誰かが岩山の中で叫んでいた。だが、それに対して怒る声はなかった。大きな罵声以外、どこまでも辺りは静まり返っていた。その事実に、商人は胸を撫で下ろした。


 中に伝説の悪竜がいるのならば、あの暴言に怒らないはずがない。


「それで、私は誰かが岩山の中で遊んでいるんだな、悪竜の伝説は嘘だったんだなって思ったんですよ。まさか、娘さんが浚われていたとは………いや、びっくりしました」


 商人の話を、フェリは静かに聞いた。改めて驚かせてしまった詫びを言うと、彼女は彼と別れた。商人は手を振って、宴に参加したいのか速足で村へと向かった。


 フェリは黙って歩き出した。彼女は霧がかった森を渡り、植物のない道へと辿り着く。彼女はそれを遡り、真っ直ぐに森の奥へ進んだ。


 やがて白く煙る霧の中に、岩山の影が見えてきた。

 その前で足を止め、彼女は物語を綴るように囁いた。


「猜疑心に取り憑かれた賢竜は人々に嘘を吐き、財宝を持って来させてはひと呑みにするようになった。やがて、賢竜は自身の弟にも言葉の刃を向けてしまった。本来の彼ならば思わぬような毒舌で、彼は何度も何度も弟を責め立てた」


 優しき弟は、兄の言葉を苦にして谷間深くに身を投げた。以来、甘んじて罰を受けるように竜は姿を隠した。彼は自身にかけられた呪いを解こうともしなかった。


「山の中の財宝は、伝説で聞くよりも遥かに少なかった………それはきっと彼が捨てたから。だとしたら………毒のある言葉で皆や弟を誑かし、責めて傷つけ、殺してしまったことを後悔していたのかしら」


 それなのに、竜は娘を浚った。

 フェリは目を閉じ、ある光景を思い浮かべる。


 奥深い森の中、ある娘が罵詈雑言を吐いている。彼女は自分でも止められない毒のある言葉に泣き、人々を傷つけてしまうことを悔やみ、当然のように冷たい反応を返す世界を憎んだ。もう誰にも会いたくないと消えてしまいたいと、娘は嘆いていたのだろう。


 彼女はそこで叫ぶのは日課だったと言っていた。


 その声を聴き続けてきた悪竜は、ある日遂に姿を見せた。彼は呪いを解くには不適切であろう、彼女を連れて行った。


 何故、彼は彼女を選んだのか、傍に置いたのか。

 あの時、確かに竜は幼い娘の泣き顔を見るような眼差しを彼女に送った。


「ねぇ、クーシュナ………なんで、あなたはあの子を止めなかったの?」


 フェリは以前と同じ問いかけを繰り返した。その影の中から、再び身を隠していたクーシュナがすらりと現れる。長い二つの耳を揺らし、彼は彼女と並んで岩山を見上げた。


 低く、静かに、クーシュナは答えを囁く。


「あの竜が、そう望んでいたからだ」


 悪竜は倒され、御伽噺は完結した。

 人々は姫を心配し、彼女は無事に、騎士の下へ迎え入れられた。


 フェリはかつて悪竜と娘の棲んでいた山を見上げる。

 そこからはもう何の音も、誰の声もしない。


 傷つき、孤独に飛び立った竜の行方は―――ようとして知れなかった。



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