ライカンスロープ

その2


                ***


 午後からの狩りは狼を一匹も見つけられずに終わった。獣達の消失に、男達は不気味なものを覚えつつも、それが何らかの吉報である可能性も捨てきれないらしい。彼らはレナードの指示の下、特に念入りに見回りの経路を定め、微妙な顔のまま一日を終えた。


 山に食われるようにして太陽が消え、大きな月が昇ると、村は水のように澄んだ闇の中に沈んだ。砂利の敷かれた白い道を、男達は松明たいまつを掲げて見回り始める。彼らは被害を防ぐべく、毎日欠かさず努力を重ねているが犠牲者は後をたない。その事実について、フェリは松明の代わりに渡されたランタンを手に、村を回りながら考え続けた。


「前の娘は、数週間前にさらわれた。そろそろ、次の被害者が出る頃合いのはず」


『あぁ、そうだな。調査員が来たところで止まることはあるまいよ。止まることができることならば、最初からこれほどの被害は出てはおるまい』


 クーシュナの言葉に、フェリは短く頷いた。彼女は見回りの男達の隙を横目でうかがいながら、わざと本来の順路をじりじりと逸れていく。



 辺りから人気が途絶えたところで、フェリはランタンの明かりを服の袖で隠した。


 そのまま、彼女は闇にまぎれて、森の入り口へ走りこんだ。



 昨日ほどではないが、月は明るく視界は明瞭だ。灰色の道には、点々と月光が落ちている。彼女はランタンの明かりを解放すると、道を橙色に塗り潰しながら森の中を歩き始めた。その耳元に、クーシュナは低く忠告を囁く。


『よいのか、我が花よ。獣の牙は我のお前の言った通り、次の犠牲を求めているはずだ。そして、うら若き娘がちょうどここにひとりいるわけだが?』


「それなら大丈夫よ。心配いらないわ」


『随分と大層な自信よな。我のお前はか弱き花だが、その根拠はどこにある?』


「夜に一番強いのはあなただから」


『………なるほど? うむ、我を信じるのは当然のことだが、くれぐれも油断はするでないぞ。お前に何かあってからでは遅いからな………あぁ、それでは遅すぎるのだ』


「うん。ありがとう、大丈夫よ………それに、私にはトローもいるものね?」


 フェリは鞄から顔をだしたトローの顎をくすぐった。トローは彼女を安心させるように大きく頷く。クーシュナはふんっと鼻を鳴らしながらも、再び影の中に溶けこんだ。


 しばらく、フェリは無言で歩いた。ランタンの火でおばけのように長く伸びた木々の影を連れ、彼女は進んでいく。狼達の去った森の中はひどく静かだ。木の葉の鳴る音だけが、優しく空気を掻き混ぜている。だが、そこに再び異質な音が混ざり始めた。



 優しくも悲しい挽歌ばんかと歩幅の狭い足音が、道の先から近づいてくる。



 クーシュナはランタンに闇を素早く巻きつけて火を隠し、フェリを木の上に押しあげた。彼女が息を殺していると先日と同様に『妖精の葬列』がやって来た。行列は厳かに進んでいく。気づかれないようにその棺の中を確認して、フェリは小さく呟いた。


「……………やっぱり、顔がない」


 今日も人形の顔は潰されていた。恐らく、この『妖精の葬列』はバン・シーの泣き声と同様に、毎夜繰り返されているのだろう。死ぬ予定の人物の葬式を正しく執り行えないせいで、妖精達は葬列を終わらせることができないのだ。


 彼らが通り過ぎると、フェリは地面の上へ降りた。唇を噛み締め、しばらく考えを整理した後、フェリはクーシュナの黒い袖を引いた。


「………ねぇ、クーシュナ。お願いがあるの」

「うん、どうした、我が花よ? 我のお前の望みならば、我はいくらでも聞くが?」


 フェリは彼の長い耳に何かを囁いた。だが、それを遮るように別の足音が聞こえてきた。城の方から、猛烈な勢いで固い蹄の音が近づいてくる。フェリはランタンからクーシュナの影を取り、橙色の火を高く掲げた。


 闇の中に栗毛の馬が照らしだされた。引き締まった筋肉の脈動すら感じさせる至近距離で、馬は足を振りあげ、土を蹴って止まった。彫像のように見事な体躯が間近で跳ね、濃い獣臭が辺りに漂う。緋色の上着を羽織った御者は、急停止に興奮する馬の手綱を引きながら声をあげた。


「そのヴェールっ、もしや、あなたが村を訪れておられる幻獣調査員殿ですかな?」

「えぇ、そうです。幻獣調査員のフェリ・エッヘナと申します」


 フェリは頭を下げ、彼に応えた。ブルルッと馬は首を横に振る。その唾液に直撃されたトローもプルプルと首を振った。馬の首筋をなだめるように撫で御者は顔をしかめた。


「幻獣調査員殿と言えど、夜の森のひとり歩きは危険ですぞ。獣がいつ現れるかわからんのですからな………しかし、行き違いにならずに済んで幸いでした。あなた様が獣の調査を始めたと聞き、領主様がぜひお会いしたいとおっしゃっておいでです」


 御者の言葉に闇に溶けこんだクーシュナはぴくりと反応した。だが、フェリは彼に何も言うことなく瞼を閉じ、開いた。彼女は素早く息を整え、歌うように応えた。



「それはちょうど良かった――――私も今、うかがおうとしていたところです」



 道の先、荒涼とした丘の上に、バン・シーの泣く城がある。


 逃げろと言った、領主の息子の棲む城に、彼女は招かれた。


              ***


 分厚い石壁を隔てた外では、バン・シーの悲痛な泣き声が響いている。だが、大広間には息づまるような静謐せいひつな空気が広がっていた。


 壁越しの濁った悲しみの声を聞きながら、フェリは薄暗い食卓に着いている。

 

 寒々しい石の床の上に置かれた長テーブルには、見事な透かし織りのテーブルクロスがかけられ、金属製の燭台が等間隔に並べられていた。蝋燭の小さく淡い光には、掌ほどの大きさの金の器と杯が照らしだされている。


 既に食事を終えていたフェリのために、そこには蜜をかけられた果物と甘口の葡萄酒が入れられていた。てらてらと輝く果物と、滑らかに紅い酒はまるで本物よりも美しい偽物だ。



 そして、フェリの前の椅子には、城の主が深く腰掛けていた。



「いやはや、こうしてお話しする機会をいただけて嬉しく思いますよ、幻獣調査員殿。あなたのような、人の持ちえぬ知識をお持ちの方と席を共にできるのは光栄なことだ」


「ありがとうございます。私もお会いできて光栄に思います。それで、よろしければ今回の獣による被害について、公の見解をお聞かせ願えませんでしょうか?」


 領主、レオナルド公は白髪の巻髪と、宝石がはめこまれ、金糸の縫いこまれた豪華な上着の似合う、いかにも貴族然とした上品な人物だった。


 深刻な獣害について、彼は村民達と別の意見を持っているのだという。そのため、幻獣調査員である彼女を城に招いたのだと、フェリは聞かされていた。


 フェリの短い返答にレオナルド公は頷いた。その仕草は穏やかで、身分の高い人間につきものの高慢な印象からは遠い。レオナルド公は真剣に自身の見解を語りだした。


「そもそも、私は既に幻獣絡みの事件ではない、と考えているのですよ」


「………獣などいない、ということですか?」


「いえ、獣はいたのです。だが、今はいない。あれほど何度も狩りを繰り返しているのです。該当する獣が既に狩られ終わっていても不思議ではないでしょう。罠にかかった中に、何頭か他より巨大なオオカミがいましたが初期の被害はそれの仕業でしょうな」


「襲われた方の証言では、該当する大きさの獣はまだ捕まっていないとのことでしたが」


「人の記憶はゆがむものですから。実際の大きさよりも、記憶の中の獣はふくらんでしまったのでしょう」


 レオナルド公はそう穏やかに微笑んだ。彼は自らの杯を掲げ、滑らかなベルベッドのような葡萄酒を口に運んだ。この土地で採れる葡萄から造られる酒は香り豊かで味にも深みがあるという。だが、フェリは頑なに杯には手をつけず、固めた拳を膝の上に置いていた。レオナルド公は杯を戻すと、思慮深い声で先を続けた。


「私にも反省する点は数多い。最初に謎の獣などと大騒ぎをしてしまったのが悪かったのです。確かに幻獣の被害は交流のある貴族からも多々耳にしておりますが、元々固有の種がいついているわけでもない地に、滅多に現れるものでもありません」


「珍しい事例ではありますが、ないわけではありません。特に肉食の幻獣は、獲物を求めて、ふらりと遠方に現れる事例が複数確認されています。それに、未だ被害が多発していることについて、公はどのように考えておられるのですか?」


「残念ですが、事件は――――――領民達の仕業でしょう」


 彼は巻き髪を揺らし、恥じらうように首を横に振った。指輪の輝く掌を組み合わせ、レオナルド公は暗い表情で推測を語る。


「若い娘の死が一様に『獣の仕業』として扱われるようになったせいで、全てを獣に押しつけて免罪を得るための仕組みが完成してしまったのです。恐らくその噂を利用して退屈な村の暮らしから逃げだしている娘や、不埒ふらちな考えから人を襲っている者がいるため、獣の被害は終わらないのです。私は自身の領地内の醜聞しゅうぶんを幻獣の仕業として広め、更なる被害を増やす気はありません。故に幻獣調査官にも報告は行っていないのです」


「失礼ですが、素人判断での決めつけは危険ですよ。それに、あなたはご子息に陣頭指揮をとらせ、獣狩りに加勢をなさっているはずでは?」


「今はまだ、領民達が落ち着きませんからね。いずれ機を見て引きあげ、村内に流れる悪しき獣の噂を断ち、秩序を取り戻すつもりでいます。どうかご理解を。最も恐ろしいのは時に人なのです。私は幻の獣をこれ以上この地に根づかせるつもりはありません」


 そうレオナルド公は断言した。彼は決意に満ちた眼差しをフェリに向ける。その緑色の目を、フェリは静かな瞳で見返した。彼は威圧的ではないが譲らない口調で続ける。


「申し訳ありませんが、調査員殿にはお帰りいただきたい。私の領地のことは、私が決着をつけます。せっかくご足労いただき、申し訳ないのですが、この城に一泊後、あなたには明朝に旅立っていただきたい」


 レオナルド公は深く頭を下げた。彼は高貴な身分の人間とは思えないほど真摯にフェリに接する。彼女が黙っているのを見ると、彼はいたわわるような言葉を続けた。


「あぁ、幻獣調査員殿にも生活がおありですか。心配は無用ですよ。私は国の倍額の報酬をあなたにお支払いしたうえで領地の外れの街まで送らせるつもりでいます。もしも次に訪れる土地がお決まりであれば、そこまでの路銀も負担いたしましょう。こちらの都合でお帰りいただくのです。当然のことと考えますが………いかがでしょうか?」


 フェリは黙ったまま、蜂蜜色の瞳で彼のことを見つめ続けた。レオナルド公は優しい微笑みを浮かべる。蝋燭の炎が、その緑色の目を金に照らした。やがてフェリは囁いた。



「そうですね………確かに、娘達の消失は幻獣の仕業ではなさそうです」



 彼女の言葉にレオナルド公は頷いた。炎から垂れた蝋がゆっくりと燭台を濡らす。


 再び沈黙に満たされた部屋の中に、バン・シーの泣き声だけが長く響き続けた。

 

              ***


 しっとりと肌に張りつくような冷たい暗闇の中、フェリは目を開いた。


 四本の支柱と真珠色のカーテンに囲まれたベッドから、彼女はゆっくりと体を起こす。幽玄な影を描くカーテンのひだを慎重に左右に割り開き、フェリは耳を澄ませた。彼女が眠ったかどうかを定期的に確認に来ていたメイドの足音はもうしない。


 フェリは素早く靴を履き、ヴェールを羽織り、鞄をかけ、杖を掴んだ。その頭に、帽子かけにぶら下がっていたトローが静かに着地する。フェリは猫のように足音を殺して、そそくさと扉から広い廊下に滑りでた。灰色狼の見事な絵の描かれたアーチ形の天井の下に立つと、バン・シーの泣き声が今までになく強く耳を打った。フェリは辺りを見回し、高窓の分厚く歪んだガラスの向こうに、長髪の女が張りついているのを見つけた。


 緑の服を着て灰色のマントをかぶった女は声をあげて泣いている。常に涙を流しているその目は、火のように紅い。この城に棲むバン・シーと見つめあい、フェリは呟いた。



「―――――そう、悲しいのね」



 バン・シーは応えない。泣き続ける彼女に礼をして、フェリは廊下を走りだした。


 彼女は深紅の厚い敷布を踏み、狼の彫り物のされた手摺を伝って階段を駆け下りた。


 一階に辿り着くと行きも通った東の回廊へ歩を進める。太い柱の並ぶ回廊を風と共に駆けると、彼女は中庭へ飛びだした。ひんやりと冷たい敷石の上で、フェリは足を止める。

 


 雲ひとつない空には、白い月が冴え冴えと光っていた。


 分厚い石壁に囲まれた正方形の空間は、艶やかな植物達で溢れている。



 四角い植こみは小さな迷路を造りあげ、複雑な影を地面に広げていた。壁際では不自然ではない程度に木々が柔らかく枝を重ねあわせ、石壁の圧迫感を和らげている。月光の下では、彼らは鮮やかな緑を失い、落ち着いた灰色に染まっていた。だが、その中でも夜露を浮かべた薔薇達は鮮やかに紅い。中庭は狭く閉じられた空間だが、来訪者にまるで広い森の中にいるかのように錯覚させる造りをしていた。


 武骨な城の中の『不自然なほど』の憩いの場を見回し、フェリは小さく呟いた。


「多分、この辺りだと思うの………お願いね、トロー」


 パサリと、トローは白いヴェールの上から飛びたった。彼は蝙蝠の超音波と試験管の小人ホムンクルスの感応能力を駆使して、『違和感を覚える場所』を探っていく。


 トローは薔薇の茂みを越え、迷路をさまよい、絡みあう枝葉のアーチを潜った。やがて、彼は木々の後ろに隠された壁の手前で止まった。心臓の形をした葉を持つ蔦で旧く固い石壁は覆われてしまっている。


 トローは滞空したまま、フェリを振り向いた。彼女は頷き、胸元から銀の膏薬入れを取りだした。古竜の紋章の刻まれた蓋をおもむろに開くと中から鮮やかな緑色の軟膏が現れる。フェリはそれを掬いとり、左瞼の上に薄く塗った。



 瞼を開くと、その目に映る世界は一部変化していた。


「………ありがとう、トロー。ここだったのね」



 石壁の一部が縦長に消失している。だが、右目で見ると、そこには相変わらず壁がそびえていた。幻術で造りだされた見せかけの壁が、秘密の入り口を隠しているのだ。


 フェリはトローをヴェールの上に戻し、幻の壁をくぐった。その先には、数歩進めば新たな壁にぶつかるような狭い空間が広がっている。どうやら、中庭の石壁と別の建物の隙間に当たる場所らしい。四角く切り取られた夜空から剥きだしの地面の上へ、月光が雨のように降り注いでいた。それは右手最奥にある古井戸も照らしている。


 井戸に近づき、フェリは苔むした縁に手をついた。まず右目で井戸を覗くと、底の方に百年の時をたたえたような黒い水が揺れているのが見えた。だが、左目で確認すると、乾いた空間に長い螺旋階段が伸びていることがわかる。


 フェリは白いヴェールを揺らし、躊躇いなく井戸の底へ足を伸ばした。カビ臭い冷気を吸いこみ、彼女は表情ひとつ変えることなく、足を滑らさないよう慎重に歩いていく。



 カツーンッ、カツーンッ、カツーンッ、カッ



 乾いた短い音と共に階段は終わった。石畳みの床の上に立ち、フェリは左右を見回した。左には机と椅子の置かれた小部屋があり、右には明るい地下道が伸びている。壁際に篝火が焚かれているが人の気配はなかった。


 フェリは小部屋に何もないのを確かめると、歪に伸びた影を連れ、地下道を進んだ。徐々に、空気は嫌な重さと不快な匂いを帯びていく。


「…………血と腐肉の匂い」


 匂いの正体を、フェリはあえて言葉にした。地下墓地のような空気の中を、彼女は軽く唇を噛みしめて進む。やがて、彼女は棘つきの鉄枠に縁どられた木製の扉に行き着いた。鉄の輪を掴み、フェリは勢いよく扉を引き開ける。室内の空気が動き、壁際で音を立てて炎が爆ぜた。部屋の中心で、彼女以外の人影が揺れる。



 天井から、青ざめた娘の死体が吊り下げられていた。


 ギィギィと軋みをあげ、金髪を揺らしながら、年若い娘は逆さまに揺れている。



 娘は足首に鉄枷をはめられ、鎖で吊るされていた。枷の無残に食いこんだ足首の肉は伸びきり、一部は腐敗して断裂している。その全身はズタズタに裂かれ、変色した肌に乾いた血がこびりついていた。三日月状に裂かれた喉からは血管と骨が覗いている。



 殺された娘は、身体から血を抜かれていた。



 フェリは詰めていた息を細く吐きだし、手を静かに動かした。彼女はヴェールからトローを降ろすと突然鞄の中に放りこんだ。トローが抗議の声をあげる間もなく、彼女は蓋をボタンで留めてしまう。同時に、その白い首筋にレイピアの細い刃が添えられた。


 フェリは動揺することなく、前を向いたまま囁いた。


「………お早い訪れですね。私がいなくなったことに気づきましたか?」


「恥ずかしい話だが、素直に言おう。あなたを追ってきたわけではなく、この部屋には用があって偶然来ただけなんだよ。いや、それにしても驚いた。よく、ここがわかったものだ。まさかあの壁を潜り、階段を降りられる者がいるとは思わなかったよ」


 心から感心したように、レオナルド公は囁いた。異変を察して、鞄の中で暴れ始めたトローを押さえながら、フェリは淡々と応えた。


「私の大事な子が教えてくれました。それに、人の幻術は私には効きません。四葉のクローバーの軟膏を塗った目には、妖精のまじないだって破ることができます」


「なるほど、それであなたは私の秘密の部屋まで辿り着くことができたわけか。好奇心は人を殺すとはよく言ったものだね? そういえば、旅の調査員が事故で死ぬのも、よくある話だとは思わないかな?」


「私を殺して、あなたはこれから先もこんなことを続けるの?」


 突然フェリは敬語を止めた。その乾いた声に、レオナルド公は僅かに眉根を寄せる。


「随分と余裕だね? こんなこと、とは?」

「あなたは身勝手な目的のために、娘を殺した」


 蜂蜜色の瞳に死体を映しながら、フェリは力強く断言した。


 その時、遠くから獣の咆哮が聞こえてきた。通気口から侵入した声は、高く低く、地下の澱んだ空気を震わせる。人も本能的な恐怖を覚える、肉食獣の遠吠えだった。だが、森にはもう獣はいないはずだ。


 フェリが顔をあげると、その動きに合わせ、鋭い刃が更に深く押しつけられた。彼女の首の皮一枚を切り、レオナルド公は首を横に振った。


「調査員殿、あなたは哀れだ。実に哀れだ。せめて、ここを訪れることなく村の方へ向かっていれば、娘のひとりくらい救えることができたかもしれないと言うのにね」


「やっぱり、私が去るのを大人しく待つことすらできなかったのね。あなたは今夜も娘を殺して、私を村に立ち寄らせることなく、何食わぬ顔で帰らせるつもりだった」


「そう、だが、余計な物を見たあなたはここで何もなせずに死ぬのだ。ですが、もうしばらくは生かしておいてあげましょう。急いては、その血がもったいないですからな」


 レオナルド公は、いたぶるようにレイピアをじりじりと進めた。ワインのように紅い血が、フェリの白い喉を鮮やかに伝い落ちる。だが、フェリは痛みを感じていないかのように、恐ろしいほどの苦悶の表情を浮かべた死体へ悲しげな眼差しを向けた。


「傷口が一部塞がっている………この人は、長く生きていたよう」


「あぁ、やはりわかるものかな。毎晩毎晩狩っていては、無駄に量がいるとはいえ、領民も根絶やしになってしまうからね。上手く生かし続けて、節約することは大切だ」


「かわいそうに。とても苦しかったでしょうに」


「あなたもそうなるんだがね。怖くはないのかな?」


「怖いよりも、嫌」


 フェリは急に手を動かした。警告するように、レオナルド公は刃を進める。血が重く量を増し、白い貫頭衣に沁みこむが、フェリは反応しなかった。彼女は飛びだそうと死に物狂いで暴れるトローを、鞄を撫でてなだめ続ける。


「私には弱くて小さな子と、強くて大きな子がいるもの。この子達には私が必要で、私にはこの子達が必要なの」


 そう語る声は奇妙な穏やかさに満ち溢れていた。自然な仕草で、フェリは後ろを振り向く。彼女が動くにつれて、押し当てられたままのレイピアの先端がその肌を裂いた。白い首筋に紅い傷が真横に走る。喉から更に血を流しながら、フェリはレオナルド公を真正面から見すえた。気圧され、思わず一歩後ろに下がった彼に、凛とフェリは告げる。


「大事な家族を、置いてきたくなどないわ」


 レオナルド公は眩暈を覚えたように額を抑えた。地下墓地のような空間で凄惨な死体を前にしてもなお、フェリの声には恐れがない。彼女の穏やかに語る余裕が一体どこからきているのか、彼にはわからなかった。そこで、ふとレオナルド公は辺りを見回した。


「強くて大きな子とは? あなたは………その蝙蝠とふたりきりのようだが?」

「ええ、そうよ。クーシュナなら」


 フェリは目を閉じた。彼女はまどろむような微笑みを浮かべ、自慢するように囁く。



「今、私のために動いてくれているもの」




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