ライカンスロープ

その1


 鏡のような満月の下、影絵のような黒い城の中で女性の泣き声が響いている。


 世にも悲しげな声を聞き、フェリは足を止めた。その白いヴェールを、晩夏にしてはあまりにも冷たすぎる風が揺らす。


 彼女はえと輝く月から視線を落とし、山間にたたずむ黒い城を見つめた。切りたった山肌に背を守られた堅固な城は、心地よく棲むためではなく、戦いに抵抗するためだけに造られた場所に見える。四方を囲む分厚い壁は高みを吹く風を跳ね返し、来客を拒むかのように、その前に立つ旅人達に送りつけてきた。

 

 びょうを打たれ、鎖の巻きあげられた表門は井戸の底のような沈黙の中にいる。分厚い木戸の向こう側で、泣き声は続いていた。普通の旅人ならば、城の中で一人の女性が悲しみに暮れているのだと思うことだろう。主人か我が子が死んだのかと、その切実な泣き声に胸を打たれさえするかもしれない。だが、フェリは知っていた。


 止むことのないこの声は、人間のものではないのだ。



「…………バン・シーだ」



 彼女は小さく呟いた。その足元の影が解け、細い案山子かかしのような人の形をとった。泣き声を追うかのように兎の耳を左右に動かし、クーシュナはフェリに尋ねた。


「バン・シーは妖精種に属する幻獣だったな? なかなかに胸打たれる切実な声ではないか。一体何故、こ奴らはこんなに激しく泣いておるのだ?」


「バン・シーは旧家の誰かが死ぬ時に、泣くと言われているの。彼女はもうすぐ死ぬ人のために泣いている………一体、誰が死のうとしているのかしら」


 フェリの呟きに答えはない。彼女はしばらく城を見つめていたが、ふっと視線をらした。荒涼とした丘からはのたうつ蛇の腹のような白い道が伸びている。木々に隠されながらも道は山を下りきり、何百もの小道と階段の連なる葡萄畑まで続いていた。タイル状に広がる葡萄畑の先には、薄い木片で造られた白い家々が羊の群れのように身を寄せあっている。その合間にいくつかの小さな炎が灯り、ゆらゆらと揺れ動いていた。


「………あれは松明たいまつか。起きている人間が複数いるな。これはいよいよ本当らしい」

「えぇ、そうね………でも、まずは行ってみなくては」


 浮かない顔で頷き、フェリはゆっくりと歩きだした。


 泣き声の響く城に背を向け、彼女は山に入っていく。日頃から往来が多いためか、道は暗がりでも慎重に歩けば問題ない程度に整えられていた。頭上に密に張り巡らされた枝の隙間から零れ落ちる月光も、無数の円となって灰色の道を照らしだしている。冴え冴えとした光の一筋一筋は、銀の針にも似て見えた。


 フェリは急ぐことなく、小さな明かり達を頼りに歩を進める。



 その時、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。

 


 無人の道に、ゆったりとした手拍子と悲しくも優しい挽歌ばんかが響く。それに規則正しい足音も重なった。どこかおかしなリズムにフェリは眉根を寄せる。足音は軽く、音の主の歩幅は狭いように思えた。まるで闇の中をたくさんの子供達が歩いているかのようだ。


 フェリは足を止めた。やがて、ゆるやかにうねる道の先に、人の背よりも遥かに小柄な影の並ぶ異様な列が見てとれた。


「あれは――………クーシュナ」

「了解した」


 フェリの意図を素早く察し、クーシュナは影を伸ばした。しなやかな闇の蔦に足裏を支えられ、フェリは大振りの木の枝にしがみついた。大きく揺れた鞄から、驚いたトローが顔をだす。フェリは木に登るとその頭を撫でてやり、息を殺して道を見つめた。



 そこに小さな葬列がやってきた。



 紅い帽子をかぶり、黒い服を着た小人達が、列の中心に棺桶を捧げ持って歩いている。子猫のようにその背は小さいが、顔は成人している。そんな彼らが足並みを合わせて進む様子は、まるで人間の葬列をそのまま縮めたかのようにも見えた。


 厳おごそかな列は声もなく続いた。フェリは彼らには聞こえないよう、小声で呟いた。


「…………妖精の葬列だ」


 月光が彼らのうやうやしく捧げ持つ棺桶の中身を照らしだした。その中には木彫りの男性の人形が入れられている。だが、人形の顔は潰されていて誰なのか判別できる状態ではなかった。無残に潰された目鼻立ちを、白い月光が残酷なほど冴え冴えとあらわにしている。


 やがて妖精達の葬列は過ぎ去った。フェリはクーシュナに抱きあげられ、木の上から降りた。何かを考えこむフェリを抱えたまま、クーシュナは怪訝そうに呟いた。


「『妖精の葬列』とは、また珍しいものに出くわしたな………そもそも奴らに寿命はないはずだが」


「自分達の葬儀ではないの。妖精達は、何故か近日中に死ぬ予定の人間に似せた木彫りの人形を使ってその葬儀を行うことがあって………でも、あの人形には顔がなかった」


 一体何故と囁き、フェリはクーシュナの腕から地面へ降りた。不安になったのか、鞄から滑り出てきたトローが、そのヴェールの上にぺたりと乗る。彼の頭を再びフェリは白い指でくすぐった。クーシュナはピンクの鼻をひくひくと鳴らし、軽く肩をすくめた。


「やれやれ、何が起こっているのかはわからんが、幻獣による『死の予言』がふたつも重なるとは………なんにせよ不吉なのは間違いないな。噂もあながち馬鹿にはできん」


「えぇ、そうね、クーシュナ。何かがおかしいわ。もしかして、本当に」


 フェリは頷いた。彼女は本来の旅の予定を曲げてまで、この村に立ち寄る決め手となった、近隣の街で聞いた噂について呟く。



「幻獣が、人を殺しているのかもしれない」



 荒涼とした丘に棲む領主の地にて、若い娘が次々と行方不明になっているという。


 その犯人は、誰も正体を知らない、大きく凶暴な獣だということだった。


                ***


 葡萄畑に網の目のように走る階段を降り、フェリは村へ辿り着いた。


 夜闇に浮かびあがる薄い木材を加工した家屋や砂利の敷かれた道からは、日々を生きることに対する金銭的な余裕が感じられる。重税を課されている様子もなく、村は十分に裕福に見えた。だが、村内はひどく緊迫した空気に満たされている。


 村を囲む高く古びた柵の入り口には、松明を掲げた青年が立っていた。夜でも油断なく出入りを見張る様はまるで高貴な人間が死んだか、流行はやり病でも始まったかのようだ。


 訝いぶかしげに自分を見る青年に近づくと、フェリは襟元から取りだした銀の膏薬入れを示した。彼はフェリの幼い顔立ちと古竜の紋章、そしてヴェールの上に乗った蝙蝠こうもりを交互に眺め、思わずといった様子で目を見開いた。


「その紋章、そのヴェール、蝙、蝠?………あなたは幻獣調査官? 何故、この村に」


「夜分遅くに失礼します。頭の上の子のことは、どうかお気になさらず。私は幻獣調査官ではありませんが、同等の権限を持つ幻獣調査員のフェリ・エッヘナと申します。旅の途中、若い娘が次々と行方不明になっているとの噂を聞き、何かお役に立てるかもしれないと参りました。私にお手伝いできることはありますでしょうか?」


「ありますっ! ありますとも。幻獣調査官………いえ、調査員の方に来ていただけるとは、実にありがたい。俺達も獣が幻獣である可能性について、長く考えていたのです。さぁ、こちらへ」


 松明を掲げたまま、青年はフェリの先に立った。彼はまだ明かりの灯されている武骨な平屋―――元は村人達の共有の猟師小屋だったのだという―――にフェリを案内した。


 中に入ると壁に複数の猟銃がかけられ、獲物の毛皮や角が飾られている様子が見てとれた。ランプの明かりの中、それらは複雑な陰影を浮かべ、ぬらりと輝いている。

 

 フェリの訪れに、机を囲んでいた男達は訝しげに顔をあげた。獣をさばく台の下で仮眠をとっていた男も、何事かと這いだしてくる。フェリを案内した青年は猟師小屋に詰めている様々な年齢の男達に幻獣調査員の訪れを告げた。好意的なざわめきの起こる中、特に体格のよく、堂々とした若者が前に進み出た。


「はじめまして、俺はフィリップという。村長の父の代わりに、ここの代表を務めているんだ。本当は、領主のご子息のレナード様が一番の指揮官なんだが、今、彼は城にいる。よかったら、明日にでも紹介させて欲しい。この度は本当によく来てくれた」


「ご丁寧にありがとうございます。私は幻獣調査員のフェリ・エッヘナと申します。早速ですが、この村で一体何があったのかについて、お聞かせ願えませんか?」


「もちろんだ………獣の被害は数か月前の夜から突然始まったんだ」


 フィリップはそう語りだした。獣の襲撃は月の冴え冴えと輝く夜から始まったという。



 森の中に、祖母の見舞い用の花をひとりで摘みに行った娘が姿を消した。



 娘の消えた森の中には、血濡れた衣服の一部と多くの爪痕が残されていた。数日後、今度は別の娘が姿を消した。やはり、その現場には狼に似た獣の爪痕が残されていたという。同様の被害は数日から数週間置きに続いた。そして、ある日、街から帰る途中の兄妹が襲われ、助かった兄がついに獣の姿を目撃した。



 それは狼によく似た、獰猛どうもうな牙をもつ巨大な獣だったという。

 


 以来、村人達は獣を殺そうとあらゆる策を講じてきた。村人の要請に応え、領主も城から人材と武器を出し、領主の息子に陣頭指揮をらせ、獣の対処にあたった。だが、まるで策を読まれているかのように獣は姿を見せず、罠にも何もかからなかった。



 そして、被害は未だ続いている。



「この前は村外れの小屋が破られ、娘の部屋には血痕だけが残されていた………どこまで獣は、俺達の裏をき続ければ気がむのか」


「なるほど………獣には少なくとも、人の行動を読み、裏を掻く知能があるということですね。貴重な情報をありがとうございます。そして………あなた方にとっては辛い話となってしまいますが、獣の歯型や被害に遭われた方の損傷についても、可能でしたらお聞かせ願えれば幸いです」


「いや、それが………噛み痕と言われても、娘の死体はひとつも見つかっていないんだ」


「死体が見つかっていない?」


 フィリップの言葉に、フェリは軽く目を見開いた。その場で獲物の肉をむさぼることなく、全てを持ち帰る獣は少ない。子のいる巣穴に運んでいる可能性もあるが、それにしても被害者が全てさらわれているとは違和感を覚える話だった。


 フィリップは、何故かはわからないと首を横に振り、切実な声で訴えた。


「だから、娘達が生きている可能性も考えて、俺達は捜索にあたっている。幻獣調査員殿も、ぜひ捜査に参加して欲しい。獣が幻獣ならば、俺達には知識がない。もしかして、あなたにしかわからない、獣の痕跡を見つけられるかもしれない」


「わかりました、私も獣の捜索に加わらせていただきます。被害者の方々の無事を祈り、尽力させていただければ幸いです」


「ありがたい。ぜひお願いしたい………だが、今日はもう遅いな。あとは見張りを交代で行うだけだから………この村に宿はないんだが、ぜひ俺の家に泊まっていって欲しい。どうだろうか? 妻も両親もあなたを歓迎する」


「ご厚意に感謝します。そして、もうひとつお聞きしたいことがあるのですが………」


「なんだろうか?」


 フィリップは首を傾げた。フェリは蜂蜜色の瞳を一度閉じ、開いた。彼女は山よりも温い風の吹きこむ窓に顔を向ける。開け放された両開きの鎧戸よろいどの向こうに、遠く影絵のようにそびえる城の尖塔が見えた。それを静かに眺め、フェリは尋ねた。



「城の泣き声はいつから続いていますか?」



 獣と城になんの関係があるのかと、男達は戸惑った顔をする。だが、中のひとり、くたびれた布の帽子をかぶった男が恐る恐る手をあげた。


「城の声………レナード様に聞いた話では、棲みついてる妖精が泣いてるって話だが、あれは確か、数か月前から聞こえていたはずだよ。最初に聞いた時、あんまり不気味だったもんだからよく覚えてるんだ」


「そんなに長く………わかりました。ありがとうございます」


 フェリは深く頭を下げた。応えた男は、やはり戸惑い顔のまま頷く。


 男達に見送られ、フィリップの案内の下、彼女は猟師小屋を後にした。村の中を進んでいると、半ば闇に溶けこみながらクーシュナがフェリの隣に並んだ。


『確か、バン・シーは旧家の誰かが死ぬ時に泣くはずだったな?』


「えぇ、そのはずなの………家の人間が遠からず死ぬ時に………それなのに、ここのバン・シーは数か月もの間、泣き続けている………『妖精の葬列』の人形にも顔がない」



 フェリは軽く唇を噛んだ。そして、彼女はその結論を囁いた。



「何かの理由で――――彼らの『死の予告』は狂っているみたい」



 だが、それが一体なんの意味をもつのか、今の彼女にはわからなかった。


               ***


 男達は昼前に軽い『獣狩り』を行うという。だが、フェリは闇雲に獣を探すにはまだ早いと彼らに自身の方針を説明し、『獣狩り』には参加することなく、被害者家族に娘が行方不明になった直後の状況を聞いて回った。最近押し入れられたという家では被害跡も見せてもらい、爪痕の長さを計り、体格、鳴き声、足跡の大きさを紙に書きつけた。


 情報収集を終え、フェリは頭の中を整理しながら、貰ったパンをかじりつつ道を急いだ。


「狼にしては明らかに体格が大きい………それに二本の足で立ったという情報もある。人の行動を明らかに読みすぎている。でも、鳴き声や習性は狼とほぼ同じ………ここから導きだされる『幻獣』、は」


 考えながら片手間に食事を終え、彼女は狩りを終えた面々の集まる集会所に向かった。


 中に入ると、フェリは固く顔を強張らせた。その蜂蜜色の瞳からふっと表情が消える。



 集会所の床には、大量の狼の死体が並べられていた。



 白の漆喰しっくいで壁と天井が塗られた室内は、広さはあるものの装飾は簡素で空虚な印象があった。だが、祭事にも使用するためか、天窓には濁った色の稚拙なステンドグラスがはめられている。床には不揃いの平らな石が並べられ、隙間は石膏で埋められていた。そこに広い毛布が敷かれ、数十匹に及ぶ狼の死骸が積まれている。


 ある死骸は頭部を吹き飛ばされ、ある死骸は肺を撃ち抜かれていた。天窓から降り注ぐ金や紅の濁った光が狼達の白濁した眼球やまっすぐに突きだされた舌を照らしている。


 むせ返るような濃厚な血臭の中、フェリは歩を進め、フィリップの隣に並んだ。


「………これは一体?」


「獣の正体が全くわからないからな。目につく狼は片っ端から狩るようにしているんだ。この中に、偶然でも獣が含まれていればいいんだが」


「ここに集められた死体は、全て通常の狼の体格をしています。獣はこの死体の中にはいません。何故、こんな無為むいな犠牲を」


「他にやれることもないんだ。もしかして、コイツらのどれかが、夜には体をでかくして娘達を襲うのかもしれん。ここまで捕まらないんだ。そう考えたくもなるだろう?」


「獣型の伸縮自在の幻獣には前例がありません。それに、もしもそんな存在がいるとすれば、人間が縄張りに侵入した段階で変化をするはずで」


「専門家の意見はありがたいが、俺達は可能性を少しでも潰しておきたいのさ」


「ただの狼を殺戮することに、利があると本気でおっしゃっているのですか?」


「利なんてなくてもいい。娘達がさらわれるのを何もできないで待つのには、もう疲れただけだ。やれることは全部やる。あなたには獣を探して欲しいが、俺達のやることは止めないでくれ。それか、さっさと獣を捕まえてくれよ」


 フィリップはそういらいらと言い放つとフェリの傍を離れ、死骸を運ぼうとしている男達に加わった。男達がかけ声と共に毛布を持ちあげると、溢れた血が床にたらたらと紅い線を描いた。彼らは複数の靴底で、落下した毛と肉の塊を石畳みに擦りこんでいく。


 フィリップは布を運びながら振り向くことなく、フェリに声をかけた。


「レナード様は遅れている。午後からの狩りの前に紹介するから、ちょっと待っていてくれ。狩りと………嫌ならば見回りだけでも参加してくれ」


「………なるほど、犠牲が必要というわけですね」


『つまりらしだな。とりあえず森の狼を全て殺しきると定めれば、何か有益なことをやっているような気にはなれるからな。やれやれ、人は常におろかよ。そして、とばっちりを食らうのはいつの世でも武器を持たぬ輩というわけだ』


「………彼らの考えはわかったから、私は私のなすべきことをしないと。行きましょう」


 足元でざわめく影にフェリはそう囁いた。死体を運ぶ男達に続いて、彼女も外に出る。


 荷車に載せられ、狼の死体は森から城へ昇る道を進んだ。荷馬車が跳ねるたび血が路面に滴り落ちる。だが、馬車は途中で止められ、布は再び男達の手で降ろされた。道をわずかに逸れた場所、嵐で木々の倒されたらしい、広場に似た空間に死骸は運びこまれる。



そこには、死体を捨てるための深い穴が掘られていた。



 穴の中には既に古い死体が層を成している。下層の狼の半ば溶けた腐肉は、死骸の重みで毛皮を残してぐずぐずに崩れていた。毛皮を剥げば金になるだろうに葡萄の収穫時期でもある今、狩りにも人手が取られるためか、そこまでの人員をく余裕はないらしい。狼達は理由もなく、なんのえきにもなることなく、無意味にしかばねを積み重ねられていた。


 布が傾けられ、新たな死骸が落とされるたび、肉が潰れ、骨の砕ける嫌な音が響いた。一斉に蠅が飛びたつ様を、フェリは暗い表情で眺めた。彼女の浮かない顔に気づいたのか、ちぢれ毛の男が近寄ってくると穴に死体を捨てる目的について語りだした。


「この穴はいっぱいになったら、火をける予定なんですわ。それまでに、この匂いに釣られて、獣が来てくれないものかと思っとるんですが」


「穴から悪い病が広まる方が先だと思われます………解決を急がなくては」


 フェリはナナカマドの杖を強く握りしめた。困惑したような表情をする男に礼をして、彼女はその場を離れる。フェリは広場の端へ移動すると、人々の目を盗んで木々の間へ体を滑りこませた。彼女は森の深部へ、冷たい暗がりの中を進んでいく。


 分厚い革靴の底で、彼女は腐敗した葉の積み重なる柔らかな地面を踏んだ。人を拒み、植物の種は受け入れる地面は、踏み固められてはいないため歩きにくい。それでもフェリは獣道を探しだすと、慣れた様子で歩を運んだ。


「こんなところまで空気が悪いなんて………本当に早くなんとかしないと」


『確かに、これはひどいな。臭くてかなわん。森の悪意で息が詰まるようだ』


 人に荒らされ、罪なき獣の血が何度も流された黒い森の中は、ひりつくような敵意に満たされていた。木々の間には粘つく死臭と怨嗟えんさの声が渦巻いている。まるで狼の死骸の積み重ねられた穴の底にいるかのようだ。


フェリは銃痕と血飛沫の残る木の幹を撫で、歩を進めた。彼女は自身も一匹の動物であるかのように獣道を辿っていく。だが、不意にその足を止めた。


 ヴェールの上で、トローが警戒の声をあげると同時に、暗い森の中に光る目が灯った。彼女の周りで、低い唸り声が響きだす。



 気がつけば、フェリは灰色の狼の群れに辺りをとり囲まれていた。



「――――――あなた達のおさは誰?」



 おくすることなく、フェリはそう尋ねた。だが、狼達は問いかけに唸り声を返し、頭を下げて獲物に飛びかかろうとした。たくましくしなやかな足で、彼らは地面を蹴ろうとする。その瞬間、森の闇を人形に禍々しく塗り潰し、フェリの横に細い影が片膝を着いた。恐ろしいほどの威圧感を放ちながら、クーシュナは愛らしい兎耳を揺らす。


 狼達はザッと土を蹴り飛ばしながら足を止め、困惑するように鳴いた。ヴェールの上で威嚇するトローを見て、彼らは更に戸惑った様子を見せる。


 そのまま狼達が去ってしまう前に、フェリはまだ若い雄に手を伸ばした。再び狼が唸りだしたのを見て、クーシュナは小さく舌打ちした。


「動かないで、クーシュナ。大丈夫だから」


 そう彼を止め、フェリはそっと若い狼の頭を撫でた。彼は徐々に唸り声を収め、警戒の姿勢を解いていく。不意にぴくっと耳を揺らし、彼は高く頭を掲げた。同時に、ザッと全ての狼達が同じ方向を向いた。


 彼らの視線の先には、鈍く光る曇天どんてんを覆い隠すように、黒い枝が張り巡らされていた。その背後、なだらかに盛りあがった地面の上に、一頭の年老いた灰色の狼が立っている。だまし絵のように空に溶けこみながらも、彼は目を逸らしがたい威厳を放っていた。


 フェリは静かに前に進み出ると、白いヴェールを揺らし、灰色の狼に深々と頭を垂れた。そのまま顔をあげることなく、彼女は狼達の長に語りかけた。


「娘をさらう獣を恐れ、人間は狩りを行っています。このままでは、あなたの一族は狩りつくされてしまうことでしょう。しばらくの間、山の最奥、人の訪れない場所まで逃げてください。数日のうちに、私がなんとかすると約束します」


 ………………………………………………グウウッ


 長い沈黙の後、低い唸り声を残し、灰色の狼は身をひるがえした。ザザザザザッとフェリの周りで音が連なる。素早く地を蹴って、狼達は駆けて行った。



 彼らは森の奥底へ、灰色の風のように消えていく。



 フェリは小さく息を吐き、身体から力を抜いた。クーシュナはピンッとヒゲをひねる。


流石さすがではないか。これで少しは無駄な殺しも減ることであろうよ」


「よかった。伝わって本当によかった………これだけの森の狼の長なら、人の話を聞いてくれると思ったの。だけど、たまに全く聞いてくれない子もいるから」


「………なぁ、我が花よ。もしや、自信がなかったとは言わぬよな?」


「うん、本当はなかったの、ごめんね。いたっ」


 クーシュナは影で軽くその額を小突いた。赤くなった痕をさすり、フェリは森を出るために歩きだす。彼女は明るい方へ木々の間を進んだが、突然足を止めた。


 その前には、血濡れた灰色の毛玉が落ちていた。前足を吹き飛ばされた子狼が、絶命している。地面の上にひざまずくと、フェリは荒れた毛並みをゆっくりと撫でた。


「………かわいそうに。ごめんなさい。あなたが死んでしまう前に間にあわなかった」

 

指を組みあわせ、彼女は目を閉じた。フェリは静かに、子狼のために祈り始める。


目を開くと、彼女は素手で地面を掘りだした。服を泥と血で汚しながら、彼女は子狼を優しく抱きあげ、土の中に埋葬した。その様子を眺め、クーシュナは訝しげに尋ねた。


『珍しいな? 動物の死体をそのままにしてはおかぬのか?』


「普段なら、私が何もしなくともこの子の体は小動物や蟲に食べられて正しく自然に返ることでしょう。でも、今、村の人達がこの子を見つけたら、あの穴に投げ入れてしまうでしょうから………あの死体を積み重ねた穴には、怨みと悲しみしか詰まっていない。それはあまりにも悲しいわ」


 子狼を埋め終えると、フェリは再び祈りを捧げた。血で汚れた服から泥だけは払い落とし、彼女は歩き始める。その傍らで小枝を踏む音が響いた。ヴェールを揺らし、フェリは振り向く。次の瞬間、突進してきた人影に、彼女は地面の上へ押し倒された。



「――――――ッ」

「逃げなさいっ、今すぐにっ!」



 フェリにしかかってきた青年はそう叫んだ。上質な革手袋をした大きな手が、彼女の小さな掌を覆う。手袋越しにも鋭い爪の食いこむ感触に、彼女は目を細めた。だが、次の瞬間、彼は猛烈な勢いで吹っ飛ばされた。


 フェリが起きあがると、幾本もの蛇のような影が、乗馬用の吊りズボンに革ベスト、よく磨かれたブーツという軽装だが上質な身なりの青年を締めあげているのが見えた。

 

 フェリは慌ててびちびちと跳ねる影の端を掴む。


「クーシュナ、クーシュナ、だめっ!」


「安心するがいい、我が花よ。物凄く冷静かつ的確に締めあげておる故命に別状はない」


「冷静って、あなたこれとっても痛いからっ! あっ、トローも駄目っ!」


 クーシュナが渋々影を解いたところに、ヴェールから落とされたトローがトドメとばかりに突っこんだ。翼で顔をはたかれ、青年は癖のある黒髪を揺らしてのけぞった。革手袋をした手で慌てて長髪を撫でつけ耳を隠すと、彼は改めてフェリを見た。浅黒い肌とよく似合っている大きな灰色の目には、明確な焦りの色が浮かべられている。


「君は………君はこんなところにいてはいけない。今すぐ逃げるんだっ!」


「…………あの、あなたは?」


「僕のことなんてどうだっていいっ! 君は幻獣調査員だよね。頼むから、これ以上、巻きこまれてしまう前に」


「レナード様?」


 突然声をかけられ、フェリと青年は顔をあげた。いつの間にか、フェリは道の近くまで来ていたらしい。声をかけてきた老人は荷車を引いて城の方から歩いてきたようだ。彼は背伸びをして、木々の間にいるふたりに戸惑った顔を向けてきていた。レナードと呼ばれた青年は素早く立ちあがり、挙動不審を取りつくろうように空咳をした。


「や、やぁ、どうしたんだい、ジョージ?」


「どうしたもこうしたも………今さっき、城の厨房に頼まれた牛乳をお届けしたんですが、レナード様は狩りの陣頭指揮をとっておられるはずでは? 今頃、みんな探しているんじゃねぇかと思いますよ?」


「いや、うん、それがフィリップに幻獣調査員の方がおいでになったと聞いてね。森の中で見つけたので、危ないから外にお連れしようと思ったんだよ………そうだ、ジョージ。この人を村の門まで連れて行ってもらえないかな? もうお帰りとのことだよ」


「そんな、私は帰りませんよ。あなたは一体何を言っているのですか?」


「君こそ、どうかそんなことは言わないでくれ。いいかい、とにかく帰るんだ」


「レナード様?」


「あっ、あぁ、待ってくれ、今みんなのところに行く。いいかい、君は早く去るんだよ」


 青年は老人の方へ向かいながらも、何か言いたげに何度もフェリの方を振り返った。だが、彼は最後には諦めたように空を仰ぎ、道に飛びだすと、村の方へ駆けて行った。残された老人はフェリにどうすればいいのかと問うような視線を向けてきた。フェリは帰りませんよと改めて彼に念を押した。その耳元に、クーシュナは不機嫌な声で囁いた。


『あの若造………領主の息子のはずだが。急になんなのだ。我が花に狼藉ろうぜきを働くとは、全身の骨を折られなかっただけ、ありがたく思うがよい………だが、逃げろ、とは。これは何かありそうだな』


「あの人の目は優しかったけれど………うん、そうなのでしょうね………それに何かがあるのはもうわかっていることだったから」


 外へは行かなくとも、せっかくだからという老人の親切な誘いで、フェリは彼の荷台に乗せてもらい村へ戻った。老人に礼を言い、森の入り口付近で荷台を降りると、彼女は再び空を仰いだ。灰色の空を背に、山間にそびえる黒い城を睨んで、フェリは続ける。



「だって、獣はかしこくて、バン・シーは泣き続けているんですもの」



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