ライカンスロープ

その3

              ***


 夜闇の中、娘は無人の葡萄畑ぶどうばたけを逃げていた。


 朝の気配はすぐそこまで迫っている。黒さを忘れた空は濃紺に変わり始め、見張りも既に村の中ほどへと移動した時間帯だ。そうでなくとも、見回りの範囲から外れた畑に最初から人の姿などない。自分がひとりきりである事実に、心臓を握り潰されるような絶望を覚えながらも、娘は後ろから迫りくる死から必死に逃亡を続けていた。



 夜露に濡れた葉に体を何度もかすめられながら、娘は葡萄畑を走る。


 その背中には、地面を重く揺らして、巨大な獣の牙が追りつつあった。



 十数分ほど前、家の中で娘は奇妙な音を聞いた。ギーッギーッと壁を引っ掻くような音を、娘は最初猫の仕業かと思ったが、それは徐々に激しくなり、家全体を震わせるようになった。おびえた彼女は外に逃げ、待ち構えていた巨大な獣と出会ってしまったのだ。娘は人のいる方角へ逃げようとしたが獣に追われ、方向転換する余裕もなく死に物狂いで柵を越えた。無人の葡萄畑に入り、彼女はやっと自分のした取り返しのつかない過ちを悟った。村は既に遠く、叫んだところで声は誰にも届かない。


 以来、娘はずっと逃げ続けていたが、そろそろ限界が近かった。彼女は疲労で軋んでいる足を必死に動かす。だが、地面の僅かなくぼみにつまずき、ついに転んでしまった。



 娘に襲いかかろうと、獣は高く跳躍する。その瞬間だった。



「―――――よう、小童こわっぱ



 獣の悲鳴を聞き、娘は振り向いた。涙と鼻水を思わず引っこませ、彼女は信じられない光景をまじまじと見あげた。百頭の蛇のような黒い蔦に、獣は絞めあげられている。


 獣は狂ったように身をよじるが、暴れれば暴れるほど、蔦は強くその体に食いこんだ。逃げることも忘れて、娘は呆然と口を開いた。その前に、するりと黒い影が立った。


 山高帽をかぶり、分厚い黒布で顔を隠した人物は、ひょいっと帽子の端を傾けた。


「何をしておる、小娘。お前はそのまま逃げるがいい。あぁ、そうだな。お前を救ったのはとっときの美形だったと、村人達に話してもよいぞ。まぁ、我は我の花以外の賛辞はどうでもよいし、人の美醜の感覚で、我を正しくはかれるとも思わぬがな。だが、愉快な言い伝えのひとつやふたつ、残れば面白いと言うものだ。ハッハッハッ」


 男は陰鬱な声で朗らかに笑い、長い指を指揮者のように振った。その動きに従って、黒い蔦は踊るように獣の全身を絞めあげていく。不意に、娘の胸を獣に感じていたものとはまた別の冷ややかな恐怖が満たした。巨大な獣を弄べる男が急に怖くなり、彼女は弾かれたように立ちあがると一心不乱に村へ駆けだした。それを見送り、男は頷いた。


「………やれやれ、ようやく行ったか。おっと、動くなよ。我が花から、殺すなと命令されておるのでな。物凄く冷静かつ的確に締めあげておる故、命に別状はないはずだが、うっかりということもあるのでなぁ」


 パチンと指を鳴らし、男は顔の前の黒布を消した。彼は続けて帽子を宙に投げ、指を鳴らして爆散させた。降り注ぐ黒い滴を影で受け止め、彼は兎の耳をぴこぴこと振った。クーシュナは踊るような足取りで獣に近づく。見開かれた灰色の目を覗き、彼は呟いた。



「――――なるほど、コイツが」



                   ***



「――――ライカンスロープ。ワーウルフとも言う」



 フェリは見開かれたレオナルド公の目を覗き、そう断言した。


 それこそが―――狼にしては明らかに体格が大きく、時に二本の足で立ち、人の行動を読みつつも鳴き声や習性は狼とほぼ同じな―――獣の正体だった。



「幻獣種の中でも、分類の難しい種――――――人狼」



 人狼は幻獣書にはしるされていなかった。呪いで狼に変えられたわけではなく、生まれながらに狼に変貌可能な人間は数件確認されているが、その存在―――人狼を―――人と幻獣のどちらに定めるかは、幻獣調査官の間でも意見がわかれ続けている。人の理性と獣の本能、両方の体を併せ持つ存在は、第三者の判断で定義づけることが難しい。



 幻獣か人間かは、容易に決められることではなかった。

 

 昨日の昼の光景を思い描きながら、フェリは静かに言葉を続けた。


「あなたの子息―――レナード殿は、人狼なのでしょう?」


「そこまでわかるとは流石は幻獣調査員か。一応、今後の参考にするためにも聞いておこう。いつからそう思ったんだね?」


「昼間に森で会った際、レナード殿は革手袋をしていた。あれは人狼の特徴である、鉤状かぎじょうに伸びた爪や掌の毛を隠すため。手袋越しでも、私の掌には彼の鋭い爪が食いこんだ。それに、長い髪が乱れたとき、彼はまず慌てて耳を隠したの。尖った耳も人狼の特徴。昼間、彼は『獣狩り』の陣頭指揮をとって見回りの範囲を定め、夜は城に帰った振りをしてその裏を掻き、村を襲っていた………そう考えれば、何故、村人の努力が実を結ばなかったのかもわかるわ」


「ほうっ、そこまでわかっているのなら、あなたにも理解できるだろう、調査員殿?これは仕方がないことなのですよ」


 急に猫撫で声をだし、レオナルド公はレイピアの切っ先をフェリから外すと、数歩前に出た。彼は左腕で、娘の無残な死骸を押す。血抜きを終えられた死体は、まるで肉屋の店先に吊るされた肉塊のように、ギシギシと重く揺れた。


「かつて、私が森で見つけて保護したレナードは、成長に伴い人の血を求めるようになった。息子を殺すことなく生かしておくには、娘を狩るしかなかったんだよ………あの子が持ち帰った獲物を私が管理し、なるべく長く生かすことで必要以上の犠牲をなくし、息子の正気を保つ………全てはレナードのためなんだ」


 彼は悲しげな顔をして一際強く死体を押した。ギッと音をたてて娘は揺れ、元に戻る。


 レオナルド公は死んだ娘の肌から掌を放し、そっとそれをフェリの喉に押し当てた。温かな血の伝う白い喉をあやすように撫で、彼は微笑みを浮かべる。優しい指先の感触を確かめようとするかのように、フェリは瞼を閉じた。レオナルド公は温かい声で囁く。


「わかってくれるね、父親の気持ちを。それで、だ。もしも、今後幻獣調査官の調査が入った際、あなたが幻獣調査員としての権限を活かし、私に協力してくれると言うなら、この地下室に閉じこめさせてはもらうが特別に生かしておいても」


「そうやって――――彼のこともだましたの?」


 室内に再び重い沈黙が落ちた。レオナルド公は微笑みを口元に張りつけたまま、フェリの喉に手を当て続けている。フェリは瞼を静かに開き、問いかけるような眼差しを、横目で彼に投げかけた。


人狼ライカンスロープは獣の本質から血を求める。けれども、生きていくためには必ずしも人の血が必要なわけじゃない。鳥や獣でも十分。それに今まで人の血を求めていなかった子が、急にこれだけの狩りを行うようになるのはおかしいわ」


 レオナルド公は無言のまま、指先に僅かな力をこめた。それを無視して、フェリはこの村に来てから、幻獣調査員の視点で気づいた妖精の異変についての言及を始めた。


「数か月前から娘達は姿を消すようになった―――バン・シー達もちょうどそのころから泣き始めている。森に棲む妖精達も『顔のない人形』を埋葬し続けているの。彼らは予言の相手が死ねば終わるはずの行動を繰り返している。つまり、死の運命を捻じ曲げて、生き続けている人間がいるはず………触れられてようやく確信ができたわ。ねぇ」


 突然、白い手を伸ばし、フェリはレオナルド公の手首を強く掴んだ。びくりと彼の腕が震えても、彼女は何かを確かめようとするかのように掌に力をこめ続ける。


 振り払われる前に、フェリは手を放し、豪奢な上着に包まれたレオナルド公の胸に、そっと細い指先を押し当てた。



 その胸には鼓動がない。



「あなたの心臓はどこにあるの?」

「私に触れるなっ!」



 鋭く叫び、レオナルド公はフェリから離れた。彼は動揺のあまりレイピアを取り落としかける。剣先を慌てて彼女に向け直しながら、彼はひりつく喉を震わせた。


「なんなのだ………お前は。一体どこまで知っているんだっ!」


「私はただの幻獣調査員。皆があなたの死をいたんでいるのにあなたが生きていることが不思議なだけ……そう、あなたには心臓がないのね。ひとつ思い当たることがあるの」


 フェリは淡々と続けた。静かな口調に似合わない幼い顔立ちの中では、篝火に照らされた蜂蜜色の瞳が光っている。それをレオナルド公は奈落を覗くような目で見つめた。


試験管の小人ホムンクルスの製作技術………主に肉体の培養に関することを学んだ際、ある外法を目にしたことがあるわ。自分の心臓を取りだして、人の血で満たしたフラスコの中に入れ、別の生き物のように育てるの………そうすれば心臓が動いている間は、その持ち主は本来の寿命が来ても死なない」


「止めろ、止めろ、止めろ、止めろっ。うるさい、黙れ。それ以上、私を暴くなっ!」


「この部屋の入り口には、錯覚の幻術がかけられていた。あなたは人の感覚を狂わすことに長けている。あなたはきっと自分の息子に呪いを―――人の血を取らなければ死ぬという『錯覚』の呪いをかけた。そうでなければ、人狼がこれほどに血に飢え、人だけを狙って狩りを行う理由なんてない」


 フェリは一歩前に出た。相手はただの少女だというのに、レオナルド公は怪物に対峙しているかのように後ろに下がる。フェリは前に進みながら、張りのある声を響かせた。


「あなたは息子には僅かな血を与え、残りの血で毎夜、フラスコの中の心臓の渇きを止めていたのでしょう? 血がなくなればあなたは死ぬ。だからあなたは、定期的に狩りを行わざるをえなかった。そのために、人狼である彼を利用した」


「黙れと言っているのがわからないのかっ!」


「死は、そんなに怖いもの?」


「黙れ、小娘!」


「自分のいい子を、人を、獣を、傷つけて、殺してでも避けなくてはならないもの?」


「黙れ!」


「私なら」


 花嫁にも似た白いヴェールが揺れた。フェリはレオナルド公のレイピアの切っ先の直前で足を止める。もしも、彼が一歩前に出れば喉を刺し貫かれる位置で、フェリは今までにない怒りを蜂蜜色の瞳に浮かべた。彼女は悲しみと非難を強くこめて、断言する。



「そうまでして、生きる私はいらないわ」



 その言葉は強かった。彼女の声には子供を守る雌の獣にも似た、自身の本質に根づいた力強さが溢れている。


 気圧されたように、レオナルド公はレイピアを進めることを忘れ、数歩後ろに下がった。壁に肩をぶつけたところで彼はハッと我に返った。手の中の武器をやっと思いだしたのか、彼は怒りに満ちた形相でフェリにレイピアを向け直した。


「うるさいっ。うるさいっ、うるさいうるさいっ、黙れ、小娘がっ! それがわかったから、なんだと言うのだっ! お前はここで死ぬ運命なのだ。あぁ、今すぐその首を掻き切ってくれるっ! そして、その血を我がかてとしてくれるわっ!」


「残念だけれど、それは無理ね」


「なんだと」

 

白いヴェールをさらりと揺らし、フェリは空を見上げるかのように、暗い天井を仰いだ。その口元に誇らしげな微笑みが浮かぶ。彼女は緩やかに目を閉じ、甘く囁いた。



「――――だって、あの子は私のことが大好きだから」


 次の瞬間、その足元で闇が爆発した。



 実体を持つ、幅広い布に似た黒色の風が、フェリの白い姿を中心に、花開くように広がった。それに弾き飛ばされ、レオナルド公は壁に叩きつけられた。何度も風に殴られ、彼は全身の骨を軋ませる。だが、猛烈な嵐の中でも、フェリのヴェールはなびいてすらいなかった。子を守る狼のように、黒色は彼女の周囲をぐるぐると獰猛に回っている。


 不意に、黒い風の合間から、二本の細い腕が伸びた。案山子かかしにも似た腕は、そっと背後からフェリの小さな背中をヴェールごと抱きしめた。


 瞬間、嘘のように嵐は晴れた。静まり返った部屋の中には、兎の頭を持つ異形が立っていた。彼はそっとフェリに顔を寄せる。その頭をいい子、いい子と、フェリは撫でた。



「お帰り、クーシュナ」

「あぁ、ただいま帰ったぞ、我が花よ」



 クーシュナは黒く細い指で、ついっとフェリの首筋の傷を撫でた。血が僅かに指先を濡らした瞬間、彼は兎の目をぎょろりと歪に見開いた。彼はそれを異様な動きでレオナルド公に向ける。レオナルド公はひっと息を飲み、腰を抜かしながらも己を鼓舞するように叫んだ。


「なっ、なっ、なんだ、なんだぁっ、その目はっ! いっ、いいか、どっ、どうせ、お前達に私を殺せはしない。私の心臓の場所は誰にも」


「――――父さん」


 押し殺したような声を聞いた途端、レオナルド公は表情を凍らせた。彼は壊れかけた人形のような動きで入り口を振り向く。そこには、巨大な獣がいた。手足だけは人間の形に近い、黒く艶やかな獣が二本の足で立っている。彼は手にした丸底フラスコを高々と掲げた。その中では、瓶の中に入れられた船のように、フラスコの入り口よりも遥かに大きい心臓が、残り僅かな血の中で身悶みもだえるように脈動している。


「………貴様ァ………レナードぉ」


「父さん、彼から全てを聞きました。父さんが僕を騙していたこと、僕は人の血をとらなくても死なないこと。父さんは僕のために、人を殺す道を選んだわけではなく、ただ………ただ、僕を利用していたんだと」


「黙れ、黙れ、黙れっ! お前も自分が生き伸びるために、人を殺すことに賛同しただろう? それなのに、そうでないとわかった途端に裏切るのか? お前は父が死んでもいいというのか? えっ、自分は死にたくないくせに、俺が死ぬのは構わないのか? 薄情な奴だなぁ、この恩知らずがっ!」


「父さん」


「長く貴様のような怪物を育ててやったのは、なんのためだと思っているっ! どいつもこいつもいい加減にしろっ! 俺は、俺はぁっ」


 レイピアを振り回し、レオナルド公は吠えた。その顔に以前は満ちていた貴族然とした余裕は欠片もない。フェリを背中から抱きしめたままクーシュナはレナードに尋ねた。


「で、どうする小童? 今、その毒虫の心臓はお前の手の中にあるわけだが?」


 レナードはフラスコに目を向けた。その手の震えにあわせ、中の心臓も躍るように揺れている。自分の心臓がガラスにぶつかる光景に、レオナルド公は目を剥いた。


 酸欠の魚のように口を開いては閉じる間抜けな顔を見て、レナードは歯を噛みしめ、腕を振りあげた。だが、その手からフラスコは離れなかった。どんなに腕を振っても、彼の指は頑なにフラスコを放そうとはしない。諦めて、レナードは乱暴に腕を降ろした。


 その瞬間、レオナルド公はレイピアを捨て、前のめりに駆けだした。


「あっ」


 彼はレナードの手からフラスコを奪い、一気に廊下を走り抜け、螺旋階段を駆けあがった。クーシュナは舌打ちし、追跡の影を伸ばしかけたが、ふと思い直したかのようにそれを止めた。彼は長い耳を左右に動かし、何かを悟ったかのように薄く笑った。


「城の背は山肌よな。逃げるのならば、まずは森を抜けるか………ならばよかろう」


「やめて、そんなことをしてはだめよっ!」


 急に鋭い声をあげ、フェリはクーシュナの腕の中から抜けだした。彼女は顔を掻きむしっているレナードに駆け寄り、慌ててその腕を掴んだ。頬から鉤爪を引き抜かれても、彼は反応しない。レナードは頬から血を吹きだしながら、娘の死体を見つめていた。


 全身を切り裂かれ、苦悶の表情を浮かべた娘を前に、彼は愕然と声をあげる。


「まさか………こんな、こんな残酷な殺し方をしているなんて………そんな、嘘だ」


「この部屋には来たことがなかったの?」


「さらってきた子を届けた後は、父さんに任せ………嘘、嘘だっ、いやでも………これは全部、僕が………僕は自分のために殺すと決めて、それがこんな、僕、は」


 レナードはその場に膝を突いた。震える手で彼は獣の頭を覆う。鋭い鉤爪がその黒い毛皮の下の肉に食いこんだ。血を滲ませ、涙を流しながら、彼は怯えるように尾を股の間に挟み、大きな体を丸めた。彼は狂ったように後悔と恐怖の滲む呟きを繰り返した。



「ごめんなさい………ごめんなさい………ごめんなさい………ごめんなさい………喉が、乾いて、………ごめんなさい………ごめんなさい………僕は………僕は、死にたく………死にたくなかったんです………死にたくなくて、ごめんなさい………ごめんなさい」



 フェリはゆっくりと彼の背中を撫でた。だが、謝罪に応える声はどこにもない。


 そのまま、レナードの泣き声は長く、長く、部屋に響き続けた。


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