その3
灰色の曇り空の下、森の中は早くも夜が訪れたかのように翳っていた。奥に進むにつれて土は柔らかく崩れ、靴底に張りつくようになっていく。水っぽい不吉な冷たさが森全体を包みこみ、白い霧が重く視界を漂い始めた。枝の張り巡らされた白い世界は何もかもが危うく不確かだ。乳白色の霧の中では、人の影も木々の影も容易には見わけがつかない。
それでもフェリは必死にバーナードの背中を追った。だが、ふっとそれは視界から消えた。続けて軽く跳躍した老犬も霧に飲まれてしまう。ふたつの水音が連続した。
「…………湖?」
フェリは急いで彼らが消えた位置へ駆け寄った。張りだした木々の根を踏み、彼女は前へ出ようとする。だが、同時に後ろから影に腕を引かれた。立ち止まったフェリの足先から、ぱらぱらと小石が霧の中に落ちていった。数秒後、水音が聞こえた。
「………ありがとう、クーシュナ」
『なに、こんな視界の悪い場では、我のお前の代わりに目を果たすのが我の義務故な』
見れば途中から地面は崩落していた。その下には湖が広がっているらしい。霧の中に目を細めると、小石の散らばる薄く濁った浅瀬が見えた。身構えずに落ちてしまえば危険だろうが、距離はそれほどない。恐らくひとりと一匹はここから飛び降りたのだろう。
『主よ、足を』
「ありがとう、クーシュナ」
フェリはクーシュナの作った影の足場を進んだ。最後の一歩を省略して浅瀬に飛び降りると、底の厚い革靴が水草を含んだ泥にめりこんだ。雲のように水面を厚く漂う霧の中、彼女はバーナードの背中を探し求める。
――――――バシャンッ、バシャンッ
少し先で、派手な水音が聞こえた。音を頼りに、フェリは湖を渡る男と老犬の姿を見つけた。バーナードは老犬と共に、湖の中州に辿り着くと鞄を降ろした。
フェリも慌てて追いつき、その隣にしゃがみこんだ。
バーナードは鞄の中から小さなシャベルを取りだし、穴を掘り始めた。穴が十分な深さに達すると、彼は大きく平らな石を川辺から運び、その両端に置いた。次に、鞄から紙に包まれた石炭を取りだし、乾いた木材と共に穴の底に詰めた。マッチで紙に火を点け、彼はその中に放りこむ。
炎が勢いよくあがると、バーナードは老犬の背中から子羊を降ろした。鉄の鉤の中から一本を選びだし、彼は柄の方から羊に突き刺していった。嫌な音をたて、貫かれた肉から血が滴り落ちる。半ば無理やり肛門から口までを貫き通すと、彼は鉤の両端を石の上に置いた。
不安定ながらも、子羊は炎にあぶられて焼け始める。
バーナードは残り二本の鉤を火の中に入れ、鞄から取りだした鞴で空気を送りこみ、強く熱し始めた。彼は真剣な眼差しで子羊と鉄の鉤を焼いていく。
汗を拭い、彼は掠れた声で囁いた。
「怪物退治には鉄の武器が一番だ。俺のじいさんが昔話でそう言ってたんでな。こいつは友人の鍛冶屋に頼んだ特注品さ。娘が死んだ夜から今までに作りあげてくれたんだ」
子羊の焼ける匂いが湖に広がった。毛も内臓も取っていない、血抜きも完全には終わっていない肉の焼ける匂いは悪臭に近かった。だが、同時に強く獣性に訴えかける匂いでもある。羊の毛が一部燃え、内臓から垂れた脂が炎に落ち、ジュッと音をたてた。
―――――――――――――――――――――パシャッ、パシャッ
その時、軽い水音がした。バーナードは弾かれたように顔をあげる。フェリも音の方向に目を凝らした。霧の中には何も見えないが、彼女は緊張を解かなかった。
バーナード達が湖を渡ったときは、もっと派手な水音がしたはずだ。今の音は、音の主が軽やかに水面を歩いているとでも考えなければ説明がつかない。すぐに、場の緊張に応えるように水音は再開した。
パシャッ、パシャッ、パシャ、パシャッ、パシャパシャパシャッ、パシャンッ
最早間違いなかった。何かが湖面を走り回っている。
「………来たか」
「………エッヘ・ウーシュカ」
不意に、沈黙が訪れた。白く幻想的な霧の幕は動かない。やはり何もいないのかと錯覚しそうになるほど静寂は長く続いた。だが、不意にブルルッと短い鼻息の音が響いた。
霧を蹴散らして、何か大きな塊が駆けてきた。水面を蹴散らす蹄の音が、大地を蹴るものに変わる。中州に昇った異形は羊へ突進してきた。炎の前で、それは強く地を蹴る。
フェリは思わず息を飲んだ。
燃える炎に、長い毛を絡ませた醜い馬の姿が照らしだされた。
美しい姿で人を惑わす必要がないためだろう。怪物そのものと化した
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
怒号と共に、彼は水棲馬の毛皮と筋肉を裂いた。ドッと溢れだした黒い血が地面に降り注ぐ。生臭い匂いが鼻を突いた。水棲馬は苦しげないななき声をあげると、カッと地面を蹴った。弱った様子もなく、それは高々と跳躍する。血を辺りに撒き散らしながら、水棲馬は霧の中に飛びこんだ。
「やったか?」
「駄目ですっ! 彼はまた来ますっ!」
フェリが叫んだ瞬間、燃えるような憎悪を宿した目が霧の中に光った。夜に輝く星のようにそれは紅い尾を引きながら近づいてくる。
霧が爆発的に割れた。そこから海藻のごとくもつれた毛をなびかせ、醜い馬が飛びこんできた。水棲馬は長い腸を引きずりながら、バーナードへ飛びかかる。その鼻面に脇腹を突かれ、彼は湖へ倒れこんだ。水飛沫があがる。水棲馬はバーナードを更なる深みへ蹴り落とそうとした。そのまま、水中に引きずり込まれてしまえば命はない。
フェリがクーシュナへ指示を出そうとした瞬間だった。
ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!
時が、止まった。少なくとも、フェリにはそう感じられた。
それは憎悪の声だった。殺意の声だった。
同時に、鬨の声でもあった。
老犬が吠えている。フェリは呆然とその様を見つめた。
今まで一言も鳴かなかった、言葉を失っていたはずの老犬は高々と咆哮し、地面を蹴った。口を大きく開け、彼は水棲馬の喉笛に鋭い牙を食いこませた。水棲馬は空中を仰ぐと血泡を吹き、たくましい首を狂ったように振った。だが、老犬は決して牙を離そうとはしない。その目の中には、水棲馬の怒りに負けない炎のような憎悪が燃えていた。
水棲馬は必死に暴れ、老犬を中州に叩きつけた。だが、背骨を強打されてもなお老犬は顎を噛み締め続ける。そのまま二匹はもつれあうようにして湖の中へ転がっていった。
派手な水音が響き、静かになった。後には濃厚な霧だけが広がっている。
フェリは一瞬迷いながらも、バーナードに駆け寄った。だが、腰から下は水に浸かったまま、彼は脇腹を押さえ、首を横に振った。
「俺は、大丈夫だ………それよりアイツの、アイツのところへ行ってくれ。骨がやられちまったらしい、俺は動けないんだ」
彼の言う『アイツ』が老犬のことを指しているのか、水棲馬のことを指しているのか、フェリにはわからなかった。だが、確認することなく、彼女は湖へ駆けだした。
湖の深みに、フェリは躊躇いなく入っていく。沈みかけたその足を、闇の蔦が下から支えた。彼女は闇の足場を踏みながら湖上を駆け回る。だが、二匹の姿はない。トローも鞄の中から滑り出てくると、加勢するように辺りを飛び始めた。フェリは更に急ごうとして貫頭衣の裾をもつれさせ、転びかけた。邪魔な服の裾を乱暴にめくり、彼女は走り続けようとする。
「ええいっ、まだるっこしいっ! こうした方が早かろうっ!」
「クーシュナ?」
「それに淑女たるもの、それは流石にどうかと思うぞ我が花よっ!」
「いいから、お願い、探してっ!」
クーシュナはフェリを姫抱きにすると湖上を走った。やがて、フェリは浅瀬に動く影を見つけた。一瞬白色の中にちらりと覗いた黒い影に向かって、フェリは指を伸ばした。
「クーシュナっ!」
「うむ」
彼女の指示を受け、クーシュナは走った。やがて、霧の向こうに老犬の姿が見えた。
老犬は震えながら、何かを地面に吐きだした。毛の生えた馬の喉笛らしき肉がべしゃりと地面に落ちる。だが、それはすぐに透明に崩れ、クラゲに似た物体に変わった。
クーシュナの腕の中から飛び降りると、転びかねない勢いで、フェリは老犬に駆け寄った。だが、途中で彼女はハッと足を止めた。
老犬の腹には大穴があいていた。
噛みちぎられたらしい傷口からは内臓が覗き、大量の血が湖へ流れ続けている。
もう、絶対に助からない傷だった。だが、死の恐怖に晒されてもなお、老犬は自分のためには鳴こうとしなかった。再び声を失ったかのように、老犬はただひゅーひゅーと荒い息を吐き続けている。その目は涙に濡れているが、不思議と何かをやりとげたとでも言いたげに澄んでいた。
フェリはふと先ほどバーナードから聞いた言葉を思いだした。
大事なものを殺された憎しみは、誰かに託して晴れるものではない。
殺された娘は墓守犬をかばって、自分が墓守人になると言ったという。
「お前も…………………………………………………………憎かったの?」
老犬はぼとぼとと大粒の涙を落とした。その目は更に濁り、焦点を失っていく。不意に、彼はフェリを見つめ直すと、何かに気づいたかのようにゆっくりと瞬きをした。
老犬は鼻から息を吐き、大量の血を流しながらよろよろと前へ進んだ。フェリは慌てて泥の中に膝を突き、彼を抱きとめた。その血でフェリの全身は真っ赤に染まっていく。
老犬はフェリの服の裾を噛み、ぐいぐいと引っ張ると、地面に落ちた水棲馬の残骸を示した。その様はまるで自分はやったと、やりとげたと主に報告するかのようだ。
そこでフェリは気がついた。彼は混濁した意識の中でフェリを誰かと勘違いしている。
少女の白い手に、老犬は何度も鼻先を擦りつけた。子犬が飼い主に甘えるような仕草を見て、フェリはその頭を何度も撫でた。そこで、やっと安心できたかのように、老犬は小さく鼻から息を漏らした。最後の力を振り絞るように、老犬はゆっくりと尾を振る。
何度も、何度も、尾を振って。
老犬はドサッと、その場に崩れ落ちた。
フェリはそっと手を伸ばした。彼女は開かれたままの犬の瞼を閉じてやる。
クーシュナはその隣で山高帽をだすと胸に押し当てた。追いついたトローがひらりとその肩に止まる。何かを尋ねるように顔を寄せてきたトローに、クーシュナは囁いた。
「珍しいことをする、か? まぁ、な。同じ従者として敬意を表すべきだと思ってな」
彼の隣でフェリも手を組みあわせ、目を閉じた。彼女は赤く染まった服が更に汚れるのにも構わずに、血溜まりにひざまずいて祈り続ける。やがて彼女は小さく呟いた。
「バーナードさんに教えなくては。この子が彼女の守る墓地に埋めてもらえるように」
「我が花よ。墓守人とこの老犬は、果たして再会できると思うか?」
「わからない。今、彼女の魂がどこにあるのかも、誰にもわからないもの。けれど」
フェリはそっと手を伸ばした。ゆっくりと、彼女は犬の頭を撫でる。復讐を果たした犬の魂は今どこにいるのだろうか。それは誰にもわからないことだろう。それでも。
「彼らはもう、きっとどこにでも行けると思う」
二人の再会を願い、もう一度目を閉じ、開き、フェリは立ちあがった。
周りには静謐な湖が広がっている。そして、森からは霧が晴れつつあった。