その2
「『水に棲む馬、
「いや、必要ない」
バーナードの返事に、フェリは思わず瞬きをした。彼女はこてんと首を横に傾げる。フェリは心の底からわからないという表情で、バーナードに尋ねた。
「何故ですか?」
「娘の敵は俺が討つ」
そう言い、バーナードは先ほど地面に置いた鉤を持ちなおした。彼はそのうちの三本を選びとると肩に担ぎ、歩きだした。その背中をフェリは追いかける。
「危険すぎます。それに幻獣調査員として被害者による敵討ちを推奨は」
「なんとなくわかるんだが、調査員さん。アンタはなるべく殺さないで済ますつもりだろう? そういう目をしている」
「………確かに、私は幻獣の処分は好みません。ですが『第一種危険幻獣』は速やかに捕獲、人家のない『保存地域』への移動、または『駆除』を行わなければならない存在です。
「そうかい。それじゃあ、調査員さんは俺が死ぬことがあったらアイツを殺してくれ」
「私が殺してもあなたが殺しても結果は同じです。そうは思いませんか?」
「思わないな、これは俺の問題だ」
バーナードは足を止め、フェリを振り返った。その目には強情な彼女に対しての怒りが鮮やかに浮かんでいる。フェリは蜂蜜色の瞳で、燃えるような目を静かに見返した。
「娘を、大事なもんを殺された憎しみは、誰かに託して晴れるもんじゃねぇ。わかってくれ。もしも、ここでアンタに敵を譲ったら、俺は一生後悔することになる」
「あなたのお嬢様なら、きっと優しい方だったのでしょう。獣害の被害者の多くは、自身の復讐が果たされることよりも、遺族の身の安全を望むものです。たとえ、死んだ彼女が敵討ちを望まなくとも………それでもやるのですか?」
「あぁ、その通りだ。俺はな………俺はただ、憎いんだよ」
バーナードはぽつりと呟いた。彼は憎いという言葉には似つかわしくない、どこか空っぽな表情で独白する。
「娘を殺した怪物が、俺は憎くて憎くて仕方がないんだ」
幻獣には人のような善悪はない。その生態が動物に近い種族ならば尚更だ。彼らはふらりと現れた先で、人間という肉を悪意なく貪る。だからこそ、御伽噺や伝説には人と幻獣の戦いの逸話が散見されるのだ。
娘を食われた父親の憎しみに、フェリはもう何も言わなかった。
バーナードは納屋の扉を開いた。そこには一匹の子羊が背中にフックを刺され、天井の梁に渡された縄で吊るされていた。首元を掻き切られた子羊の足元には、どす黒く、粘つく血溜まりが広がっている。
小蠅を払いながら子羊の死体をフックから降ろすと、バーナードは分厚い毛布で包んだ。大人しくついて来ていた老犬の背中に、彼は縄でそれをくくりつける。血の匂いに興奮することなく、老犬は死体を背負った。
更にバーナードは既に荷詰めの済んでいた重そうな鞄を担いだ。左肩に鉄の鉤、右肩に鞄をかけ、彼は老犬を伴って歩きだす。雷に怯える羊達を小屋へ戻す暇も惜しみ、彼は村へ続く道を進んだ。フェリは無言で、その後を追いかけていく。
「ついて来るのはいいが邪魔だけはしてくれるなよ。どうやって非力そうなアンタが化け物退治をするつもりなのかは知らんが、調査員さんの出番は俺が死んでからだ………もしも邪魔をすれば、容赦はできない。頼むから止めてくれ」
バーナードは暗く沈んだ声で断言した。同時に、フェリの足元の影がざわついた。低く陰鬱な声が、そのままの響きでフェリに問いかける。
『どうする、我が花よ? あの人間が馬鹿げた敵討ちを始める前に、見つけ次第水棲馬を串刺しにすることも、我にはできるが?』
「だめ。あの人は本気だから。ここで私が無理に手をだせば、本当に一生引きずることになってしまうと思うの。獣害による被害者の精神的負荷の軽減も調査員の責務………『駆除対象』の処罰については、彼の希望に従います。あの人が危なくなったら、あなたはすぐに出て」
『それがよかろう。あの男、敵を奪われてはお前の方を殺しかねん。さすれば、我があの男を殺すことになろうよ。毒虫の一匹程度、潰すのは別に構わんが、我のお前は嫌だろう?』
「それは絶対にだめ。たとえ、私が死ぬことになってもだめだから」
『馬鹿を言え。我が殺すのなら相手が殺意を向けてきた瞬間、お前の殺される遥かに前だ。お前を誰にも殺させはせぬ………絶対にだ。それだけは、我のお前の頼みとしても譲ってはやれぬな』
「クーシュナの馬鹿。頑固。意地っ張り。わからずや」
『何故そこで迷いなく悪口を返されねばならぬのか、我は途方に暮れるのだな』
何を言ってもクーシュナは聞きいれないとフェリにはわかっている。彼女は頬を膨らませ、ただ怒りの言葉を投げた。なんだなんだと戸惑うクーシュナにフェリは続ける。
「かっこつけたがり。寂しがりや。尻尾の手入れしすぎ」
『尻尾はふわふわであるに越したことなかろぉっ?』
クーシュナは悲痛に訴えた。同時に囁き声が聞こえたのか、バーナードが不思議そうに振り返った。クーシュナは黙りこみ、フェリの影は波打ちながら平坦に戻った。老犬は再びじっとそれを見つめる。フェリは体を屈め、忠実に子羊を運ぶ老犬に尋ねた。
「お前は本当にこれでいいの?」
「…………………」
「ソイツは鳴かんよ、嬢ちゃん」
フェリが老犬に話しかけると、バーナードは前を向いたまま声をあげた。その返事に、フェリは首を横に傾げた。彼女は老犬に顔を向けたまま尋ねる。
「鳴かない? 何故ですか? もしかして発声器官に傷が?」
「ソイツはな真っ黒で不吉だってんで、できたての墓地に生きたまま埋められる予定だったんだ。墓を守護する墓守犬としてな。だがな、それをうちの娘がかばったんだよ。私が死んだら魂は墓守人になる。だから、この子を埋めないで許してやってくれってな。以来、ソイツはうちの犬になったが、よっぽど怖かったのか一言も鳴きやしねぇんだ」
「犬の、代わりにですか」
フェリは呆然と繰り返した。墓地の守護のため、まだ死者のいない土地に獣を埋めるのは残酷だがよくある風習だ。埋められる生け贄は子羊や豚のこともある。その代わりになろうと誓い、死後も拘束される道を選ぶとは並大抵の覚悟ではなかった。
フェリは勇敢な少女の姿を思い描こうとした。だが、棺桶に転がる肉片だけが瞼の裏に浮かんだ。
「あぁ、だが、娘は肝臓しか戻らなかった………アイツの魂が一体今どこにあるのか、本当に墓守人になったのかどうか、それすら俺にはわからんよ」
再び虚ろな声でバーナードは囁いた。そのままひとりと一匹は何も喋ることなく道を進んでいく。だが、彼らは特に打ちあわせた様子もなく、村への道を半ばで逸れ、森へ入っていった。その背中をフェリも追いかける。