水に棲む馬

その1

 灰色の丘の上を葬列が行く。


 夏の空には暗い雲が幾重にも広がっていた。

 濃淡の違う灰色に塗り潰された空は重く、今にも全体がたわんで泥のように落ちてきそうだ。雲の内側で雷の鳴る音が響き、一部がぼんやりと光った。

 

 だが、不思議と雨の降りだす気配はない。曇り空の下、無彩色に染まった枯草の生える丘の上を、葬列は雷鳴に追われながらゆっくりと進んでいく。


 フェリはそっと道を横に避け、躊躇ためらうことなく地面にひざまずいた。

 彼女は胸の前で手を組みあわせ、頭を下げると死者のために祈り始める。その前を葬列は無言で進んだ。


 参列者は頭から足先までを黒く長い布で覆い、手に細い鎖でカンテラを吊るしている。灰色の世界に橙色の灯りが揺れた。その火は死者の魂を正しく墓まで連れていくことだろう。途中で声をかけてくる悪霊の誘いも払う力があるに違いなかった。


 頭から黒布を被った参列者達はまるで彼ら自身が死者であるかのようにも見える。 だが、不意に中のひとりが足をもつれさせると転んだ。布がめくれ、中から幼さの残る少女の顔が露になる。フェリは慌てて立ちあがり、彼女に手を貸した。その時、フェリの目に棺桶が映った。墓地に安置して初めて釘を打つものらしく、その蓋は開いている。



 中を見て、フェリは目を細めた。

 棺桶はほぼ空だった。



 血まみれの包帯を巻かれた肉片がひとつだけ転がっている。小蠅が音をたてて、その周りを飛んだ。

 少女はすみませんと震える声で謝り、立ちあがろうとした。その頬は涙で濡れている。彼女の祖母だろうか。ひとりの老婆が近づいてくると、彼女の肩を抱きかかえるようにして支えた。


 老婆はフェリの視線に気がつくと、か細い声で囁いた。


「この子の親友だったんですがね。湖の畔で行方不明になりまして、肝臓だけが岸辺に打ちあげられたんですわ。同じ死に方をした子供がもう何人も………惨いことですよ」


 軽く頭を下げ、老婆は歩き始めた。少女もふらふらと揺れながら葬列に加わる。誰かが手にした鐘を打ち鳴らした。雷鳴と重なって、陰鬱な音が灰色の世界に長く尾を引く。


 黒い葬列は遠ざかった。残されたフェリは小さく呟く。



「…………エッヘ・ウーシュカ」



 彼女は地面に降ろしていた杖を持ちあげ、強く掴んだ。

 そして、フェリは葬列とは逆方向、村の方へと歩きだした。


               ***


 緑の牧草の生え揃う平原に、白い囲いが設けられている。その中では羊達が隅の方に身を寄せあい、メェメェと忙しなく声をあげていた。雷の音に怯えているのか、彼らは落ち着きなく芝生を蹴っている。


 辺りは空気を細かく震わせる鳴き声と濃い獣臭で満たされていた。トローは鞄の中から顔をだすと鼻をひくひくさせ、小さくくしゃみをした。


 羊が直接入れるよう、囲いには鮮やかな朱色の建物が隣接されている。フェリは柵に沿って歩き、煉瓦で造られた羊小屋を目指した。今は閉じられている両開きの扉の前では、つなぎを着た顎髭の似合う男が何かを運んでいる。


 彼は地面の上に、何本もの鉄の鉤を転がした。持ち手が槍のように長く、先端が凶悪に反り返った鉤は羊を扱うための農具には到底見えない。出来を吟味するかのように、男は鉤を一本一本手に取った。

 作業に集中している彼に、フェリは近寄っていく。



 その時、男の足元で影のような何かが動いた。フェリは思わず目を見開く。



 それは黒い老犬だった。

 子牛ほどもある立派な体躯をした老犬が立ちあがると、じっと彼女を見つめる。

 

 今まで様々な獣や幻獣と会ってきた経験があるにも拘わらず、フェリは老犬が動きだすまでその存在に気づくことができなかった。驚くフェリの耳元で、クーシュナも短く口笛を吹いた。


『これは驚きだ。我にもまるで気配が読めんかったぞ。人のもとで番犬を務めて何年になるのかはしらんが、いやはや大したものだ。これぞ老兵といった面がまえだな』


「こんにちは。私は決して怪しいものではありませんよ?」

 

 頭を下げ、フェリは小声で老犬に話しかけた。犬は差しだされた彼女の掌の匂いを嗅ぎ、僅かに警戒を解いた。だが、完全には納得していない顔でフェリの影に視線を移す。


『ほうっ………わかるものか?』

「大丈夫です。クーシュナも怪しいものではありませんから」


 老犬は返事をしないまま、身体から力を抜いた。彼は前足に頭を載せて再びうずくまる。その頭を大きな掌で撫で、男は掠れた声でフェリに話しかけた。


「グリムが認めたってことは、悪い人間じゃぁなさそうだが………アンタ、何者だ?」


「突然失礼しました。私は旅の幻獣調査員、フェリ・エッヘナと申します。お嬢様のこと、深くお悔やみを申しあげます」


 膏薬入れを取りだし、紋章を示すとフェリは深々と礼をした。

 男は納得したというように頷き、フェリに手を差しだした。皮の厚い大きな掌をフェリはしっかりと握り返す。


「バーナードだ。葬列にも加わらん駄目親父のところにわざわざ来たってことは………うちの娘の死に方を聞いたんだな?」


「えぇ、湖畔で姿を消し、肝臓のみが岸に打ちあげられたと。水棲馬エッヘ・ウーシュカですね?」


「そうか………あの怪物はそういう名前なのか」


「目撃されたのですか?」


「いや、俺は見ていないんだが………ひとり、生存者がいてな」


 バーナードは暗い表情で首を横に振った。彼は生存者から聞いたという話を語りだす。



 ある暑い日の午後、六人の少女と少年が湖に水遊びをしに出かけた。

 すると岸辺で愛らしい仔馬に出会ったのだという。


 仔馬は背中に乗れというように擦り寄ってきた。

 可愛らしい誘いに応え、少女がひとり、またひとりと乗ると、仔馬は嬉しげに鳴いた。だが、そこで少年はおかしなことに気がついた。


 どうしたら、仔馬に六人もの人数が乗れるというのか。

 よく見れば、その胴は少しずつ伸びているではないか。


 これは仔馬などではない。

 そう気がつき、少年は逃げだそうとした。すると、仔馬はいななき、少年が森の中に逃げこむのを遮ると、水面を走りながら後を追いかけてきた。その間、六人の少女は怯えて泣き叫んだが馬の背から降りることはできなかった。少年が湖に張りだした枝によじ登り、上まで逃れると、仔馬は彼を諦め、湖水に飛びこんだ。



 その後、湖の岸に六つの肝臓が打ちあげられたという。



 少年の話はあまりにも想像の範疇をこえすぎていたため、村人は誰も信じなかった。幻獣の被害の噂は余所では聞いていたものの、この村に現れたことは百年の間一度もなかったのだ。だが、森で迷った子羊を探し、すぐ戻るからと老犬の護衛を断って湖へ向かったバーナードの娘が同じように姿を消した。



 翌日、岸には肝臓が打ちあげられた。



「馬鹿をやっちまった。俺達も村の連中も、みんな怪物なんているわけがねぇって考えてたんだ。娘達の死に方は確かに異様だが、恐らく悪ふざけがすぎて溺れた挙句、死体は狼にでも食われたんだろうと思ってた。坊主は仲間が死ぬのを見て、錯乱したんだろうってな。肝臓だけ残ったってのは随分と変な話だが、まさか同じことがまた起こるなんて夢にも思わなかった………あの時、俺が信じてりゃ、娘は死なずに済んだんだ」


「ご自身を責めないでください。仕方のないことです。幻獣の被害には、その内容があまりにも突飛すぎて、最初はそうと気づかれない事例が多々あります。特に、水棲馬エッヘ・ウーシュカは有名な幻獣ではありません」


 そう語ると、フェリはその場にしゃがんだ。いつの間にか、彼女の足元には一冊の本が置かれている。旧く分厚い本を彼女は白い指で抱えあげた。バーナードは一瞬疑問に思ったのか眉をひそめたが何も言わなかった。彼女はぱらりと黄ばんだページをめくる。



「幻獣書、第二巻五十六ページ――『水棲馬エッヘ・ウーシュカ』――『第一種危険幻獣』」



『第一種危険幻獣』その言葉を、フェリは緊張した声で読みあげた。フェリの参照した水棲馬すいせいばの欄にはいくつかの項目が設けられている。その中で、水棲馬エッヘ・ウーシュカだけが『第一種危険幻獣』として認定されていた。




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