拝啓
親愛なるお父様、お母様。
親不孝な私をどうか許してください。
私、セシリア・シルビィは、これからも平和にのほほんと生きていくため……
思いきって、男になることにいたしました!
公爵令嬢セシリア・シルビィがそのことに気がついたのは、僅か五歳の時だった。
それは世の理を根本から覆すようなことであったし、この世界の真理に触れるようなことでもあった。おいそれと口にすれば、心配性の母親と侍女が真っ青な顔で医者を連れてくるということは、五歳のセシリアでも容易に想像できたので口はつぐんだが。それでも、この世界の歪さと真っ黒な未来に、平気なふりなどできず、熱を出し一週間ほど寝込んでしまった。
セシリアが気付いた真実。それは……
ここが乙女ゲーム『ヴルーヘル学院の神子姫3』の世界で、自分は転生者なのだ、ということだった。
そして、セシリア・シルビィは主人公リーンの恋敵役。いわゆる悪役令嬢と呼ばれるポジションの人間だったのだ。
そんなことに気付く前から、おかしいな、とは思っていた。
自分にセシリアとは違う人間の記憶が混じっているような感覚があったり、初めて会う人間をなぜか知っていたり、食べたこともない『カップラーメン』なる空想上の食べ物を想像しては、そのやけにリアルな食感と味に涎を垂らすことがあったからだ。
そんなこともあり、両親はセシリアをちょっと特殊な人間だと思いつつも、それでも愛してくれていた。というか、一人娘ということもあり、デロデロに甘やかしていた。欲しがるものはなんでも買い与え、使用人や侍女にはセシリアを何よりも優先するようにと言い含め、彼女が望みそうなものはなんでも先回りして用意させていた。
それこそ、セシリアが甘えん坊の末路、思慮の浅い我が儘娘に育ってしまうようなダメ親っぷりだった。
現に、それまでのセシリアはとんだ我が儘娘だった。
自分が世界の中心だと考えて憚らなかったし、『もったいない』という感覚がまったくわからないほど金銭感覚は緩かった。泣いて喚けば、叶えられない願いなどないと思っていたし、自分の未来は輝かしいものだと信じて疑わなかった。
そんな性格ががらりと変わったのは、彼との出会いがきっかけだった。
ギルバート・コールソン。現、ギルバート・シルビィ。
遠縁のコールソン家から引き取られ、セシリアの義弟になった、一歳年下の少年である。
セシリアは彼を見た瞬間、雷に打たれたような強い衝撃を受け、固まってしまった。
彼女は少年を確かに知っていたからである。
ギルバート・シルビィは『ヴルーヘル学院の神子姫3』の攻略対象として登場する青年だった。
シルビィ家の跡取り息子であるにもかかわらず、義理の姉であるセシリアに小間使いのように扱われたためか。彼は根暗で大人しい、ひきこもりの青年として登場する。
記憶の中にある彼とは年齢も顔つきも表情も違ったが、濡れた烏の羽根のような黒髪と黒曜石のような色の瞳は間違いなく彼のものだった。
そして、次々と蘇る前世の記憶──……
しかし、そこでセシリアは、そんなまさか、そんなことあるわけがないと、思い直した。
それもそうだろう。普通はこんなこと、なかなか信じられるはずがない。けれど、抗いようもない前世の記憶に、彼女の我が儘はそこでピタリと鳴りを潜めたのだ。
形を持った違和感が確信に変わったのは、ギルバートがシルビィ家にやってきた翌月のこと。父と一緒に初めての社交界へ出かけた時だった。
そこで彼女は出会ったのだ。もう一人の攻略対象に──……
オスカー・アベル・プロスペレ。
プロスペレ王国、国王の長子。つまり、この国の王太子であり、二年後にセシリアの婚約者になる予定の男である。
赤髪の生意気そうな少年の正体を知った瞬間、セシリアは泡を吹いて倒れてしまった。
非現実的な現実を目の当たりにしたということもあるのだが、己の行く末に絶望したというのが最も正しい理由だろう。
『ヴルーヘル学院の神子姫3』のセシリア・シルビィにまっとうなエンディングなどは存在しない。
彼女に待ち受けるのは『苦しみながらの死』か『一瞬の死』だけである。
十七歳の若さで死ぬかもしれないと悟った彼女は、来る十二年後の未来に備えて、ある大きな決断を下した。
「よし。男になろう!」
そう、セシリア・シルビィは悲惨な未来を回避するべく、男装することにしたのである。