5-1 元カレは看病する「お安い御用だ」
今となっては若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学二年から中学三年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。
という回想をするたびに思うのだが、人間が持つ忘却という素晴らしい機能には、しかし運用面において見逃し
何かの不具合であるとしか思えない。生き物が異常をきたした状態を病気と呼ぶのなら、人は生まれながらにして病魔に侵されているのだ──と、なんだか昔の哲学者みたいなことを言ってみるけれど、そう、今回は要するに、病気の話なのだった。
病気。
と言っても、僕が昔、命を危ぶまれるような難病に侵されていたわけじゃない。そういうのは一見元気だけどどこか
あれは中学二年の十一月か。冬の足音が忍び寄る肌寒い朝、いつもの待ち合わせ場所に、
当時の僕は、それはもう心の優しい男だったので、心配になってスマホで連絡を取ってみると、風邪をひいたので休むという返事が返ってきた。なるほどお大事に、とメッセージを送り、僕は久しぶりに一人で登校したのだった。
そして放課後──
学校というのは前時代的な組織であるため、
──休んだ綾井にプリントを届けてくれる
当然、名乗り出る者はいなかった。こういうときはクラス委員長という名の雑用係が駆り出されるのが常だが、今回ばかりはその役目、ただの雑用とは言い切れまい。
僕は刹那の間に言い訳を絞り出した。綾井にプリントを届ける役目に僕が立候補してもおかしくない言い訳だ。
普段から関係をひた隠しにしているのが裏目に出た格好だったが、さすがは腐っても僕である、一瞬にして完璧な言い訳を案出することに成功した。
──あの……同じ方向なんで……
改めて思い出してみると何の才知も感じない凡庸そのものの言い訳だったが、とにかくこうして、合法的な綾井家訪問が可能となったのである。
お見舞いイベントの発生だ。
担任教師から聞いた住所にあったマンションの、担任教師から聞いた部屋番号を見上げて、僕は緊張した。家の人が出てきたらどうしよう。プリントを渡してさっさと帰るか。いやいやいや、綾井は母子家庭だ。今の時間は家に綾井しかいないはず──
寂しいだろうな、と思った。
僕も風邪をひいたときは、家に一人きりだった──だから今の綾井の気持ちが痛いほどにわかったのだ。
いきなりインターホンを押して驚かせてみたい気持ちもあったけれど、病人にサプライズは必要あるまい。僕は先んじてスマホで連絡を入れた。
──うえっ!? い、伊理戸くん!? 来てるのっ? 家の前に!?
スマホでも普通に驚かれてしまった。
まあ驚く気力と体力があるのは喜ばしいことだ。ついでに玄関の鍵を開けてもらおうと思ったが、
──ちょっ、ちょっと待って……! 少しだけでいいからっ!
──……もしかして、着替えようとしてない?
──だ、だって……!
──熱あるときに見た目のことなんか気にしなくていいよ。僕も気にしないから
パジャマ姿が見たい。僕の
死に晒せ、思春期。
説得の
もちろんプリントを届けるだけで終わるはずもなく、僕は病床の綾井にいろいろと甲斐甲斐しく世話をした。
いろいろと言っても、リンゴを
特にやることがなくなると、僕はベッドの横で座っているだけになる。
今日は綾井の母親も早めに帰ってくるだろうし、そろそろお
──……伊理戸くん
──ん? 何かしてほしいこと、あるか?
──えと……あのね……
ごそごそ動いたかと思うと、綾井は布団の中からちょこんと右手を出す。
──手……握ってくれると、
もちろん僕はこの程度のことでドキドキなどしなかったのだが(しなかったのだが!)、彼女の気持ちはなんとなくわかった。
風邪のときは、妙に弱気になるものだ。家の中に他に誰もいなければ
──お安い御用だ
僕は綾井の右手をきゅっと握った。
熱くて、小さくて、まるで赤ちゃんみたいだと思った。
──ふふっ……
綾井は嬉しそうにはにかむと、やがてうとうととし始めて、静かに寝息を立て始めた。
こうして、ずっと手を握っていたい、と──ああ、言い訳はしないさ。そのときの僕は、確かにそう思った。
だけど実際問題、このまま家に居座っていると、綾井の母親と鉢合わせることになる。風邪をひいた娘がいる家に男が侵入しているというのはマズい状況だろう。
僕は三〇分ほど寝息を聞いた後、名残惜しく思いながらもそうっと手を放して、綾井家を後にしたのだった。
思い返してみると、あのとき、帰り道に
◆
「あれ? そういや今日、伊理戸さんは?」
と、当然のように僕の机にやってきた
どうせ
「奴は風邪だ。家で寝てる」
「え、マジか?」
「マジだ。……まあ、いろいろと環境が変わったから、疲れが出たんだろ」
「えーっ? 結女ちゃん、今日は来ないの~っ?」
やたら大きな声が、僕の後頭部をしたたかに打った。
反射的に意識をシャットアウトしかけた僕だったが、その前にちょこまかと小柄な女子が視界に入ってくる。ポニーテールがぴょんぴょん跳ねていた。
中二の頃の結女と同じくらい小さいくせに、妙に動きが多くて目につく女子だ──そのせいもあってか、あるいは結女の奴とよく一緒にいるからか、僕にしては珍しく彼女の名前を覚えていた。
南さんは僕の机にぐっと身を乗り出す。
「風邪って大丈夫なのっ? 何度くらい!?」
「さ……38度って聞いたけど……」
「38度っ! 重病じゃんかあーっ!!」
「南、落ち着け。伊理戸がひいてるぜ」
川波が南さんの首根っこを猫みたいに引っ張って、僕から引き離してくれた。助かった。距離感が妙に近い人間の相手は苦手だ。
「なによう、川波っ! 猫みたいに扱わないでよおっ!」
「へいへい」
「んにゃっ!」
川波がパッと手を離すと、南さんはぼてっと床に落ちた。本当に猫みたいだ。
しかし気安いやり取りだったな。僕は川波の顔を見た。
「君、南さんと知り合いなのか?」
「あー? いやー……まあ、一応知り合いだぜ。中学んとき塾が一緒でさ」
「そうそう。コイツがこの高校受かるとは思わなかったけどね!」
「そりゃお互い様だぜ」
なるほど。こういう進学校を目指す中学生は、似たような塾に通うものなのだろう。僕と結女は完全に独学だったが。
二人とも真面目に塾通ってそうなイメージは全然ないけどなあ。
「それより!」
びょーんとバネでも仕込まれているような動きで、南さんは立ち上がった。
「もしかして結女ちゃん、今、家に一人だったり!?」
「あ、ああ……そうだな。父さんも由仁さん──母親も働いてるし、僕も学校休むわけにはいかないし」
学校を休めたとしても、一日中あの女の看病なんてまっぴらごめんだけどな。
「えー! かわいそうー! 結女ちゃん、寂しがってないかなあ……」
……僕の脳裏に、ある光景が
僕に手を握っていてくれと頼んだ、伊理戸結女とは似ても似つかない女の子の顔が。
「よし決めたっ!」
南さんは突然、バンッと僕の机を
「学校終わったらお見舞い行く! いいよねっ、伊理戸くんっ!」
「ええ……」
「あからさまに面倒臭そうな顔しないでよお!」
「おっ、面白そう。んじゃあオレも──」
「あ、川波はいいから」
「なんでだよっ!」
……まあ、父さんや由仁さんが帰ってくるまでは、僕があいつの世話をしなきゃならないわけだからな……。それを南さんに代わってもらえるなら、願ったり
そういうわけで、放課後、南さんを我が家に招待することになった。
もちろんのこと、川波は仲間外れである。