4-2 元カノは測定する「……汗の匂いがする」

 常々疑問だった。

 どうして体力測定ってやつは身体測定のようにプライバシーを尊重してくれないのだろうか。どうして人前で運動音痴をさらすことを強制されるのだろうか。これではまるで晒し者だ。世界はすべての運動音痴にピエロになれと言うのか。そんな世界は滅んでしまえ。

 ──などというじゆを繰り返しながら、私は体育館に足を踏み入れた。

「おっ、まだ男子もいるね」

 南さんはそう言って、ぴょんっと体育館の敷居をまたぐ。

 身体/体力測定の時間は男女と学年に分けてずらされている。私たち一年女子の一つ前が一年男子で、その内、先に屋外種目を済ませた組が、屋内種目をこなしているところのようだった。

 その中に、私はよく見知った──というか、毎日自分の家で見ている顔を見つけたけれど、気付かなかったふりをする。

「じゃ、伊理戸さん、ちゃっちゃと終わらせよっか~」

「ええ、そうね……」

 他の女子があまり来ないうちに。

 ……私は伊理戸結女。同じ学年の誰もが知る、才色兼備の完璧女子高生。

 せっかく確立できたそのイメージをぶち壊しにするわけにはいかない──せめて人並みになろうと、私は秘密裏に特訓した。

 もちろん、一〇年もののガラケーよりポンコツな私の運動神経が、付け焼き刃の特訓で直るわけもない。しかし、体力測定の数少ない種目に限ってならやりようはある。学年トップというわけにはいかないにしろ、一般的女子として恥ずかしくない記録なら出せるはずだ。

 あとは私みたいな運動音痴が他にもいることを願うばかり。その点で、運動が苦手だという南さんと行動を共にできたのはすごくラッキーだった──

 ──と、思っていたのに。

「おい、見ろよあれ!」「南? やっべえ!」「なんだよあの機敏さ!」「ウサギだよウサギ!」「反復横飛び55回?」「うっわ、俺負けたー!」

「くっそぉーっ! もうちょっと行けると思ったのにな~」

 息も切らさず戻ってきた南さんを、私は完全な無言をもって迎えた。

 ──うそつき!!

 それの何が運動苦手!? よくも吹いてくれたわね! その抜群の運動神経で、この本家本元の運動音痴の前で!!

「み……南さん? 運動、苦手って言ってなかった……?」

 内心に吹き荒れるハリケーンをひた隠しにしながら尋ねると、南さんはきょとんと首をかしげた。

「気が重いとは言ったけど苦手とは言ってないよ? ほら、こんなちんちくりんの、しかも女子が、なまじ男子より運動できちゃうとさ、からかわれたりしちゃうでしょ?」

 叙述トリックだった。

 しちゃうでしょ? じゃないのよ! 異世界の常識を当然のように話さないで!

 間違いない。この南暁月という女子、持久走で『一緒に走ろ~』などと提案しておきながら置き去りにするタイプ! おのれ……やはりコミュ力を生まれ持った人間のことなど信用するべきじゃないのだ……!

「次、伊理戸さんの番だよっ。がんばってね~」

 この小動物然とした笑顔の裏にどんな打算を隠しているのか。もしや私が運動音痴なのも見抜いているのでは? ううう、怖いよぉ……リア充怖い……。

 内心、それこそ小動物のようにおびえながら、反復横跳びの三本のラインに入る私。すると、ステージ手前で実施されている上体起こしの中に、私の義弟(と、最近ヤツとよくつるんでいる男子)の姿を見た。

「始まるぜ伊理戸! せーの、い~~~~~~~────」

「ギブアップ」

「そういうルールねーから!!」

 ……やる気なさすぎるでしょ、あの男。

 当然、周りの生徒にはくすくすとせせら笑われ、監督役の体育教師にもにらみつけられていた。だというのに本人は素知らぬ顔で寝そべっているので、足を押さえる役の男子(かわなみくんだっけ?)が見かねて腕を引っ張り、無理やり身体からだを起こさせる。上体起こしならぬ上体起こさせである。あれじゃ川波くんの体力しか測定できないのでは。

 ……あんな風にはなるまい。

 私は心の中で固く誓った。そのためにここ数週間、慣れない筋トレにいそしみ、スポーツ科学の本を読み込んできたのだ。昨夜も夜更けまで復習していたから、実は今、疲れと睡眠不足でちょっと頭がぼーっとしている。

 よし!

 義弟の醜態を見て気合いを入れ直した私は、反復横跳び、長座体前屈、上体起こしについて、そこそこの記録を出すことができた。まあ握力は筋力の問題だからあんまりだったけど……。

「おー! 伊理戸さん、すごーいっ!」

「ま……まあ、ね……」

 むやみに怪しんでいた自分が恥ずかしくなるくらい、南さんは素直に私を称賛してくれた。ぎこちない笑顔しか返せないのが心苦しい。

 ……つ、疲れた……。

 寝不足のまま気を張り続けたせいか、やたらと体力を使ってしまった。まだ屋外種目があるのに大丈夫だろうか。

 なんとかもう少しだけ頑張って、終わったらすぐ帰って寝よう……。

 少しおぼつかない足取りで体育館を出るとき、結局上体起こしをやり直しになっていた義弟が、ちらりとこちらを見た気がした。



 立ち幅跳び、ハンドボール投げ、そして50メートル走。これが屋外種目である。

 シャトルランなんていう拷問もあるけれど、これはまた別の日に実施予定。アレについては、あの無慈悲な電子音を聞くだけでも吐き気がするので、早々に脱落する気満々である。

 立ち幅跳びは尻餅だけつかないように、ハンドボール投げは遠心力を利用して、それなりの記録を出すことができた。南さんはどっちも男子顔負けの好記録。体力測定で周りから歓声が上がるってどういう気分なんだろう。想像もつかない。

 寝不足のまま春のしの下を歩き回った私の疲労は、いよいよピークに達していた。今すぐベッドに飛び込んで眠りたい。その欲求を冷水機での水分補給でしつつ、ついにメインイベント、50メートル走の列に並ぶ。

「じゃ、行ってくるねっ」

 前に並んだ南さんが、私とは対照的な弾んだ足取りでスタートラインに立った。見事なクラウチングスタートで並走者を一瞬で置き去りにし、一人でゴールラインを駆け抜ける。

「な、7・3秒ーっ!!」

 計測係の女子が叫ぶと、わっと周りが盛り上がった。堂々の最高得点である。ホントにどの顔で気が重いとか言ってたの? 女って信用できない……。

 ゴールの向こうで、南さんが陸上部らしき上級生に囲まれているのを見やりながら、私は位置についた。

「ふう……」

 とにもかくにも、これを済ませばおしまいだ。もうひと踏ん張り。息を整えて、練習したことと覚えたことをはんすうする。

「位置についてー。よーい──」

 私は地面を蹴った。

 フォーム。腕の振り。足の接地の仕方。すべてに意識を回し、脳内にある理想のそれを再現する。

 一年前には考えられないスピードで身体が進むのを感じた。やればできるのだ。たとえ付け焼き刃だとしても。やろうともしないあの男とは違う。

 もう私は、あの男と『一緒』ではない。

 もう私は、あの男よりも優秀なのだ。

 並走者が視界の端から消えた。ゴールラインが近付く。残り一〇メートル。前のめりになっていっそう強く地面を蹴った。もう少し、もう少し、もう少し……!

 ゴールラインを駆け抜ける。

 限界を超えて動かしていた足を、ようやく緩めた。息が切れていた。何もしやべることができなくて、ただ酸素だけを求めながら、計測係のほうを見た。

「8・5秒ーっ!」

 高らかに読み上げられたその記録は、私の人生において最速のそれだった。いや、でも、今は、そのことに対する喜びよりも──

「……終わっ、たぁ……」


 瞬間、上下がわからなくなった。


 ……あ、れ?

 うそ。

 まずい。

 まいが。

 地面、どっち──


「──おっと」


 上下の感覚を取り戻したとき──私の身体は、一本の腕に支えられていた。

 筋肉なんて少しもついていない、細っこい腕。

 それでも私の肩を抱き支えたまま小揺るぎもしない、力強い腕。

「(……お疲れ)」

 耳元で、聞き慣れた声がささやいた。

「(だけど、無理はこれっきりにしろ)」

 まだ少しチラつく視界を持ち上げると、間近にいつもの仏頂面がある。でも、それがちょっと怒っている風にも見えて、私は途端、ただただ彼の肩に顔をうずめることしかできなくなった。

 子供をあやすように、ぽんぽんと軽く背中をたたかれる。まるで『頑張ったな』と言われているみたいで、私はますます、顔を上げられなくなった。

 身体が熱い。……汗の匂いがする。

「伊理戸さーんっ! 大丈夫ーっ!?」

 南さんの声がした。と、さっきと打って変わって乱暴に、私の身体が放り投げられる。

「うわわっと!?」

 再びふらついた私の身体を、どうやら南さんが支えてくれたようだった。

 私を雑に投げやがったその男は、

「あとはよろしく」

 と適当な口振りで言い残すと、くるりと背を向けてすたすた校庭を去っていく。

 私も、南さんも、一部始終を見ていた他の生徒も。

 その背中を──伊理戸みずを、ぼうぜんと見送ることしかできなかった。

「……伊理戸くん、先に屋外種目終わらせてたんじゃ……?」

 水斗の姿が完全に消えてから、南さんがつぶやく。

 男子のほうが先に体力測定を始めていたのだから、体育館で鉢合わせたのは、私たちと違って屋外種目を先に済ませたからに違いない。

 だとしたら、今、ここにあの男がいた理由は。

 ……伊理戸水斗は、間違ってもヒーローではない。

 絶体絶命の危機から生還するようなことはできないし、見ず知らずの誰かを助けるようなことはしない。

 何度でも、何度でも繰り返そう。

 伊理戸水斗は、間違っても、ヒーローになどならないのだ。

 少なくとも……私以外には。

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