4-1 元カノは測定する「……汗の匂いがする」

 今となっては若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学二年から中学三年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。

 クールで知的で優しくてカッコいい推理小説の名探偵みたいな人、という評が私の記憶には残されているけれど、おそらく何らかの叙述トリックであろう。あの男の名探偵らしさと言ったら、頭をいたらフケが飛びそうなところくらいで、間違ってもライヘンバッハの滝から奇跡の生還を果たしたりはできようはずがない。

 奴のしょうもなさをあかす、こんなエピソードがある。

 当時の私──すなわち天下に並び立つ者なきぼっち女・あやは、週に数回、必ず定期的に精神的な拷問を受けていた。そう、体育の時間である。

 はーい、二人組作ってー、という悪魔の指令が終末のラッパのごとく響き渡るや、みじめにあたふたと亡者のように右往左往し、挙句の果てには、友達と組めずにあぶれてしまった誰かにあてがわれるという、あの時間である。思い出すだけでムカついてきた。

 中学二年の頃、私とあの男は同じクラスだった。けど、体育というのは男女で分かれることも多いので、彼氏彼女になるまでは、あの男が体育の時間をどう過ごしているのか、意識して見たことはなかった。授業中や休み時間は前々から観察してたけど──あ、今のなし。

 ……と、とにかく、付き合い始めて最初の体育のとき、私は気になったのだ。

 あれほど頭が良くて、優しくて、頼りがいがある(とだまされていた)彼の運動神経は、一体いかほどのものなのだろう、と。

 何でもそつなくこなせる彼のことだから、運動もできるに違いないのでは、と。

 見たい。

 彼氏がスポーツで活躍する姿、見たい。

 そういうわけで、その日はサッカーだった。

 男子が二チームに分かれて紅白戦をしていた──女子のほうはといえば、カリキュラム上はテニスの時間だったけど、コートが空くのを待っているという言い訳のもと、群れを成して男子のサッカーを観戦し、マネージャー気取りで声援を送るという、発情期そのものみたいなをしていた。

 なーにが『せーのっ……がんばってー!』だ。何を頑張らせるんだ、たかが体育で。彼氏でもない男に甲高い声出しやがって洒落しやらくさい。

 その中でも最も洒落臭い女が、何を隠そう私であった。

 何せこっそり付き合っている彼氏をこっそり応援していたのだから、洒落臭さでは一線を画している。脳内では白いタオルを彼に渡しに行く妄想がとどまるところを知らず、汗臭いままの彼に校舎裏で壁ドンされるところまで進行していた。そういう青春青春した青春を憎んですらいた私はどこに行ったのか。

 だけど。

 残念ながら──いな、幸いなことに、その妄想は実現されることがなかった。

 あの男が。私の彼氏が。

 ……一瞬たりとも、活躍しなかったからである。

 試合を終えたあの男の顔には、一滴たりとも汗がなかった──それも当然だ。何せこの男、コートの右端でじろぎ一つすることなく、全身からあふれる『近付くなオーラ』のみをもってしてディフェンスと成すという、サッカー界に革新をもたらすプレイを披露していたのだから。

 何事もなかったかのようにすたすたと人の輪から外れ、グラウンド脇の木陰に座り込んだ彼の背中に、私はひっそりと近付いた。

 ──もしかして、くんも運動苦手?

 びくりと、彼の肩が跳ねて。……ゆっくりと、私のほうに振り返った。

 ──……見てたのか?

 ──……ダメだった?

 ──…………どっちかといえば

 目をらした彼の表情に羞恥らしきものを見て取って、私は思わず、口元を緩ませた。

 ──そっかぁ……。伊理戸くんも、運動ダメなんだ~

 ──……なんでうれしそうなんだよ

 ──なんでかな。……一緒のところがあったのが、嬉しいのかも

 実情はともかくとして、このときの私は、自分の彼氏のことを『孤高の完璧超人』みたいな風に思っているところがあった。

 それはたぶん、あの男が私に弱みを見せまいとしていたからなのだろう。おそらくは、男としてのプライドというやつで。

 ──伊理戸くん、可愛かわいいね

 それを察した瞬間、私はそう言っていた。

 彼はうつむいて、私に顔を見せないようにした。

 ──『可愛い』よりは、『かついい』のほうがよかったよ、僕的には……

 どれだけ顔を隠したって、背後にいる私には見えている。

 明らかに、普段より赤く染まった、形のいい彼の耳が。

 冷血で表情に乏しいこの男とて、しょうもないプライドでを張る、一介の男子に過ぎない。間違ってもシャーロック・ホームズのようなヒーローではなく、私と同じ欠点を抱えた、ただの、普通の、……私のことを好きになってくれた、人間なのである。

 それが、当時の私にとっては、妙に嬉しかったのだった。

 運動不足のもやし男が好みとは、この女、性癖を矯正したほうがいいと思う。



「──えーっと……八一センチ? うわーお」

 私の胸に回したメジャーの目盛りを読み取って、女性の養護教諭が感嘆の声を上げた。

「長年、女子高生のスリーサイズ測ってるけど、ここまで羨ましくなったのは初めてだわ。なんという美乳。あやかりたい……」

「……あの、もういいですか?」

 なぜか私に向かって二礼二拍手一礼を始めた養護教諭から逃げるようにして、私はカーテンの外に出る。

 身体測定は昔から苦手だ。身長が低いのが長年コンプレックスだったから、今でも自動的に憂鬱な気分になってしまう。

 思わずいきをつきながら、私は保健室の端に置いておいたジャージを手に取る。

 ……ダメね、このくらいでストレス感じてたら。この後、もっと厄介なことが待ってるんだから……。

 いそいそと体操着の上にジャージを着ようとした私は、そこで動きを止めた。

 じぃぃぃぃぃぃぃっ、と。

 ポニーテールの、私より一〇センチほど背の低い小柄な女子が、至近距離から私の胸に熱視線を送っているのだ。様々な角度からめつすがめつ、目を皿のようにして。まばたき一つしないのが怖かった。

 知らない顔だったらいくら同性とはいえ通報ものだったけれど、幸いと言うべきか、私はその子の顔を知っていた。

「み……みなみさん? な、なに……?」

 私は身をひねって胸を隠しつつ、その子から一歩距離を取った。

 彼女は我に返ると、「あははっ」と困ったように破顔する。

「いやぁ、伊理戸さんって、きやしやなのに胸はけっこーあるよな~って思ってさっ! ほら、あたしはこんなんだから~」

 起伏に乏しい胸を、自分のとはいえ無遠慮すぎる手つきでバシバシたたく彼女は、南あかつきさん。入学以降、特に仲良くしている友達の一人だった。

 明るく社交的で、小動物めいた可愛らしさも併せ持つ、ナチュラルボーンの陽キャラ。中学の頃の私なら、一方的に優しくされることはあっても双方向的な友達関係になることはできなかっただろう。

 彼女は大きな目をリスのようにくりくりさせながら、

「毎年ね、今年こそは! って思うんだけど、全然身長伸びないんだよね~。はぁ~。だから身体測定はいつもユーウツで……」

「そうよね。そう。わかるわかる。私も去年まで全然成長期が来なくて……」

「えっ? 伊理戸さんもちんちくりん仲間?」

「去年の今頃は、南さんと同じくらいの背丈だったわよ?」

「ええ~!? 一年でこんなんになったの!? ……ち、ちなみに、おブラのおサイズのほう拝聴させていただいても……?」

「急に卑屈に……。ええと、そんなに大きいわけじゃないけど……」

 腰をかがめて、こしょこしょと南さんに耳打ちする。と、ただでさえ大きな目がさらに見開かれた。

「……でぃ、でぃーですと……?」

「い、言っておくけど、大きめのを着けるようにしてるだけだからね……!?」

「伊理戸さんはあたしの希望だっ!」

 がばーっと首に飛びつかれて、私はあたふたする。南さんはスキンシップが激しい。いくら性格を改造しても、私では絶対こうはなれない。

「朱に交われば赤くなるっていうし、こうして伊理戸さんにくっついてたらあたしの背も伸びるかな~?」

「うん、申し訳ないんだけど、そのことわざにそういう意味はないから離れてくれる?」

 赤くなるのは私の顔だ。

 懐いた猫みたいに顔をこすりつけないでほしい。

 それにしても本当、どうしていきなり成長期が来たんだか。女性ホルモンが何かしら作用したとか? ……背が伸び始めた頃は、人生で一番分泌してたと思うし。

 身体測定トークで盛り上がった私と南さんは、二人そろって保健室を出ると、体育館に足を向けた。

 これから同時実施の体力測定に向かうのだ。

 なんとなく行動を共にする形になった南さんは、ぴょこぴょことポニーテールを揺らしながら「うーむ」とジャージを着た私を観察する。

「腰も足もほっそ~い。伊理戸さん、その体型維持するの大変でしょっ? 放っとくとどんどんお肉ついちゃうもんねぇ」

「そ……そうね」

「あ、じゃあ何かしてたんだっ。スポーツとかっ?」

「まあ……ね?」

 私はハリボテの笑顔を顔面にり付けた。ここ一年は栄養がことごとく身長と胸に回ったから何もしてないなんて言うと自慢になってしまう。『何あの子、調子乗ってない?』と言われてしまう。

「あたし、体力測定も気が重いんだよね~。伊理戸さんはいいな~。きっとカッコいいんだろな~」

「そ……それほどでも……」

「そんなことないよ~! あー、なんで進学校まで来て体力測定なんてやんなきゃなんないんだろうね~。ちんちくりんには厳しい世界だー」

 適当なあいづちを打ちながら、私は内心、だらだらと冷や汗を流す。

 性格を変えた。見た目を変えた。

 かつての自分から脱皮するため、あらゆるものを改造した。

 ──ただひとつ、運動神経を除いて。

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