3-1 元カップルは入学する「寂しかったか?」


 今となっては若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学二年から中学三年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。

 人に歴史ありとはよく言ったもので、今ではこうしてニヒルに過去を語っているハードボイルドな僕にも、右も左もわからない初々しい時代があった。

 例えば、中学二年の二学期初日のこと。

 その日、僕は近年まれに見る寝ぼけまなこで、ベッドからのそのそと起き出した──寝不足の理由を説明するのは、今の僕にとっては痛恨の至りだし、当時の僕にとっても羞恥の極みだったが、それらを忍んで解説すると、その理由は前日に起こった出来事にあった。

 あやから告白を受けたのだ。

 彼女から手渡されたラブレターを、僕はその場で読み、その場で返事をした──してしまった、と言ったほうが正しいかもしれないが、ともあれ、その前日から僕は、晴れて彼女持ちの身の上となったのだ。

 人生初の彼女である。

 多少浮かれてしまっても、テンションが上がってしまっても、特に意味もなくベッドの上でじたばたしているうちに夜が明けてしまっても、それは自然なことと言えよう──決して僕が、現実のほうで夢見心地になってしまったがために本当の夢を見る気がなくなったわけではない。飽くまで生理的かつ自然的な現象によって、貴重な睡眠時間を奪われてしまったというだけである。綾井許すまじ。

 とにかく、彼女を持って初めての朝だった。

 そして、一度しかない中学二年生の二学期の、一度しかない初日の朝でもあった。

 僕は急いで支度をして家を出た。

 始業式から遅刻をするのはうまくない、と思ったからではない。待ち合わせをしていたからだ。

 後にファーストキスの場所にもなる通学路の分かれ道で、お下げ髪の小柄な女子が、自分のかばんを膝の前に提げ持って待っていた。

 綾井結女。

 僕の彼女である。

 ──ご、ごめん! 寝坊した……!

 ──う、ううん……。まだ、間に合うから……

 当時の綾井はまだまだ口下手で、僕としやべるときですら言葉がたどたどしかった。これがどうやったら悪口ばかり並べ立てるあの忌々しい口になるのかと思うと腹が立って仕方がなかったが、ひとまず今はおこう。

 綾井はちらっと僕の顔を見上げると、ほのかに口元を緩ませた。

 ──もしかして……昨日、眠れ、なかった?

 ──ああ、うん……まあ、ちょっと……ね

 ──……そっ、か……

 綾井は長い前髪を指でいじりながら、さりげなく目をらして、それとなくほおを染めて、風に吹き散らされそうな小さな声でささやいた。

 ──わ、私も……昨日は、ぜんぜん、寝れなかった……

 当時の僕は何せ愚かだったので、そのやりとりですっかりやられてしまった。心臓はばくばく。舌は綾井の五倍くらい回らなくなり、あたかも油をし忘れたロボットのごとき有様だった。

 僕たちはあーだのうーだの会話ともつかない会話を交わしながら、肩を並べて通学路を歩いた。互いの距離はおよそ半歩分。歩くたびに揺れる手の甲が、触れるか触れないか、ギリギリの間合いである。

 恋人になったんだし、手とかつないでもいいんだろうか。

 昨日の今日だし、まだ早いんだろうか。

 まあそんなことを考えていたわけだが、その前日までほんのちょっと指先が触れただけのことを大事に記憶していたようなクソバカ童貞野郎には、手を繫ぐなんてベリーハードが過ぎた。

 気付けば、学校が五〇メートル先に迫っていた。

 登校中の他の生徒たちもちらほらと見え始めて、ああ、もう終わりか、と──ハハハ、お前の人生が終わるがいい──名残惜しく思ったとき、綾井が挙動不審にきょろきょろした。

 ──あ……ちょっと……ここで……

 ──え?

 ──教室、一緒に行くのは……は、恥ずかしぃ……

 消え入るような声で言った綾井を、不覚にも可愛かわいいと思ってしまったのが運の尽き──この瞬間、僕と綾井との関係は、僕たち以外の誰にも明かされない運びとなった。

 もしこのとき、二人そろって教室への堂々たるエントリーを果たし、付き合い始めましたアピールを盛大にぶちかましておけば、僕も変な独占欲をこじらせずに済んだかもしれないし、綾井もおかしな言いがかりをつけてこなかったかもしれない──ひいては、僕たちが別れることもなかったかもしれない。

 すべては後の祭りだ。

 僕たちはよしやまかずでもなければナツキ・スバルでもないのだから、たらればを考えたところで、想像遊び以外のものにはならない──でも、そう、だからこれは、想像遊びとして言うのだが。

 もし、仮に。

 あの日、僕と綾井が、最後まで二人で連れ立って登校していたら?

 ……まさか、そのイフを実演する日が来ようとは、さしものハードボイルドといえども予想できなかった。



 僕の人生で最も忌々しい期間となった高校入学前の春休みが、ついに終了を迎えた。

 そのこと自体は心からことぎたいところなのだが、僕の前には新たなる、そして巨大なる問題が立ちはだかっていた。

「……………………」

「……………………」

 洗面所から姿を現した我が義妹・結女と、僕は出会い頭に無言でにらった。

 眉間にしわを寄せて睨んでいるのは、正確にはお互いが着ている制服である。

 紺色を基調としたブレザー。真面目ぶった印象を持たせる落ち着いたデザイン。赤いネクタイやリボンは新一年生のあかしだ。

 僕と結女が着ているのは、同じ高校の制服だった。

 これには、僕とこの女がきょうだいになってしまったことに次ぐ、悲劇的な神様のトラップが関わっている。

 去年、高校受験に向けて本格的に動き出した秋頃──僕と結女の仲は、もうすっかりぎくしゃくしてしまっていた。

 もちろん志望校の相談なんてじんもしなかった。むしろ僕は彼女と同じ高校になるのを避けるべく、僕たちの中学からは進学実績皆無の、私立の進学校を第一志望とした。

 片親である僕には学費の問題もあったけれど、その点は特待入試をパスすればクリアできる──この女も母子家庭だと聞いていたから、もしここに入ることができれば絶対に別の高校になるはずだと踏んで、僕は受験勉強にいそしんだ。

 そして見事、特待生として合格することができたのだ。


 結女と一緒に。


 ……そう。

 この女も、僕とまったく同じことを考えていた。

 僕と同じ高校に行きたくない一心で、僕が絶対に行けなそうな高校を志望校に選び、受験勉強にまいしんしたのである。

 結果、数少ない特待生枠に、同じ中学から二人も滑り込むという快挙が達成された。

 二人して職員室に呼び出され、『お前たちは我が校の誇りだ!』とたたえられた僕たちの絶望が、果たしてわかるだろうか──正直、落ちるよりもショックだった。ショックすぎて、ひたすら愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 世の中、同じ学校に進学したくて勉強するカップルは数あれど、絶対に同じ学校には行きたくないというモチベーションで勉強したカップルは、きっと僕たちくらいのものであろう──しかもその結果、結局同じ高校に進むことになってしまったのだから、なおさらレア度は跳ね上がる。

 神様てめえ。

 ……いや、これについては、情報収集を怠った僕たちがアホだっただけだな。

 そういうわけで、僕たちにとって、お互いに同じ制服を着ているという事実は、それだけで憎悪の対象なのである。

「……似合わないわね、その制服」

 結女は冷たい声と暗い目で言った。

「……君こそな。プリーツスカートが特に似合わない」

 僕は極寒の声と暗黒の目で言った。

「制服は大体プリーツスカートでしょ」

「言い間違えた。高校生が似合わない」

「ああそう。そう言うあなたは人間が似合ってないわよ」

「なら君は地球が似合ってないな」

「じゃああなたは太陽系が似合ってない!」

「それなら君は天の川銀河が──!」

 その後、宇宙、三次元と概念を拡大させていった僕たちの似合ってない論争は、リビングから顔を出した女性によって中断された。

「あら~! 二人とも、似合ってるじゃない!」

 僕の義母であるさんである。

 いつになくはつらつとした由仁さんは、険悪さ絶好調の僕たちを無理やり隣同士に並べて、うんうん、とうれしそうに童顔をうなずかせた。

「やっぱり進学校は制服も違うわね~! 二人とも、本当にすごいっ! あんなに難しい高校に受かっちゃうんだもの! さすがわたしたちの子供!」

 ……僕たちが、互いの制服姿をけなし合いつつも、決して『違う高校に行け』とは言わないのには理由がある。

 僕たちの親が、僕たちの合格を非常に喜んだのだ。

 僕も結女も、家庭環境については似たものがある──だからお互い、その点がアンタッチャブルであると、言わずとも察しているのだ。

「そうだ、写真撮ろう! ほら二人とも、近付いて!」

 冗談じゃない。

 と言いたいのは山々だが、うきうきとスマホを構える由仁さんの嬉しそうな顔と言ったら、義理の息子である僕ごときには到底邪魔できるものではないし、実の娘である結女にしても同様のようだった。

 肩を並べ、笑顔を顔面にり付けて、写真に収まる。

 我ながら作り笑顔がうまくなったものだ。人間、何事も慣れだな。

「──ふふっ。こうして見ると、なんだかカップルみたいね?」

 などと思っていたら見事に不意打ちをらった。心臓が跳ねる。

 ……大丈夫か。顔に出てないか?

「なに言ってるの、お母さん。私たち、まだ会ったばっかりでしょ?」

 結女が平然と言いながら、僕のふくらはぎをげしっと蹴ってくる。出てたか、顔に。

「でもほら、結女はわたし似だし、みずくんはみねくん似でしょ? わたしたちが高校生だったら、こんな感じだったのかな~ってね」

「……子供を使ってのろないでよ。というか私、別にお母さん似じゃないし」

「ごめんごめん」

 峰くんというのは僕の父親のことだ。本名・伊理戸みねあき

「二人とも、先に車に乗っててくれる? わたしたちも支度が済んだらすぐに行くから」

 そう言い置いて、由仁さんはリビングに戻っていった。

 今日は入学式だ。新入生である僕たちのみならず、保護者である父さんや由仁さんも学校に来る。──これが一体、何を意味するか?

「……はあ」

いきつくなよ。僕にも移る」

「つかないでいられる? ただ同じ高校に受かってしまっただけなら、知らないふりをすることもできたのに……」

 高校には僕たちを知る人間はいない。

 だから、まったくの赤の他人を演じることだって簡単だったはずだ。

 ところが、僕たちはきょうだいになってしまった。同じ親と、同じ車に乗って、一緒になって登校する。せざるを得ない。

 この条件のもとで赤の他人のフリをするのは、さすがに難易度が高すぎた。

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