2-3 元カップルは留守番する 「ここは私の家なんだから、別に普通でしょ?」
「――――えぇええええええええええええっ!?」
そして復活すると同時に、立ち上がりながら絶叫した。
「じゅっ、準備!? ビビッて!? なっ、なっ……それ、どういうこと!? わ、私はあの日、覚悟決めてたのに何にもなかったから、独り相撲だったんだと思って……!!」
「は? い、いやだって、君、めちゃくちゃガチガチになって、すごい警戒してたから、だんだん気が引けてきて……」
「そ・れ・は! 緊・張・してたのっ!!」
「はああぁああああああっ!?」
水斗も目を剥いて絶叫した。
「嘘だろ!? あのとき、そっちもやる気満々だったのかよ!?」
「満々だったわよっ!! あの部屋を一生の思い出にする気でいたわよっ、完全にっっ!!」
「ま、マジで……? じゃあ、部屋の中で後悔に打ちひしがれたあの日々は一体……」
「こっちこそ! そんなに魅力ないのかって悩んでた時間返して!」
「知るかぁーっ!! 君があんなにガチガチになるのが悪い!!」
「悪いのはあなたでしょ!! このヘタレっ!!」
「なにおう!?」
「なによっ!?」
その後はもう、筆舌に尽くし難い大罵倒大会と化した。
互いの悪口を言って言って言いまくり、ついには取っ組み合いになって、どたどたとソファーの上で暴れまくった。
やがて体力も悪口も尽きて、ただただ肩で息をしながら、互いに睨み合うだけになる。
「……はあっ……はあっ……」
「はあっ……んっ……はあ……」
水斗に組み伏せられるような格好で、私たちは互いの息をぶつけ合った。
ほんっと……気に食わない。
本の趣味も合うようで合わないし、何かといえばすれ違いになるし、果てにはきょうだいなんかになっちゃうし……。
「……ううっ……」
なんだか泣けてきた。
どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
あの日、もし私があんなに緊張してなかったら、あるいは、今も――
「……喧嘩で泣くのは禁じ手だぞ」
「うるさいっ……! わかってる……!」
ぐじっと滲んだ涙を腕で拭う。
この男に頼ってばかりいた、一年前までのか弱い私は消えたのだ。
それが終わりの切っ掛けだったんだとしても、私は成長したことに後悔なんかしない。
だから、私は悪くないんだ。
この男が悪い! 全部全部!
「……なあ、綾井」
心臓がドクッと跳ねた。
綾井。
それは、私の旧姓であり――中学の頃、彼が使っていた私の呼び方。
私は太股を擦り合わせた。肩に被せてもらった上着は、喧嘩しているうちにどこかにいってしまって。私は今、バスタオルを一枚巻いただけのほとんど裸。そのバスタオルすらだいぶ乱れて、今にもはらりとほどけてしまいかねない。
私をソファーに組み伏せた格好のまま、伊理戸くんの白い手が伸びてくる。男にしてはしなやかで細い指が、私の額にかかった前髪を横に払った。
それは――私たちが、あることをするときの手続きだった。
自分に自信がなくて、人に見られるのが怖くて、前髪を長く伸ばしていた当時の私の、顔が、よく見えるように――と。
彼はいつも、それをするときには必ず、私の前髪を横に払うのだ。
遮るものがなくなった私の瞳を、伊理戸くんが覗き込んでくる。胸の中、お腹の底まで見透かされるようで、私は右手で顔を隠そうとした。
その手首を伊理戸くんが優しく掴んで、私の顔の横に押さえつける。
まっすぐな視線が逃がさないと言っていた。だから私にできるのは、口で――唇で、弱々しく言い訳を零すだけ。
「だ……だめ……ルール……」
これは、完全に、アウトだ。
義理のきょうだいは、絶対に、こんなことは、しない。
……なのに、私の言葉が、こんなにも弱々しいのは――
この程度じゃ止まれないって……経験上、知っているから。
伊理戸くんが、低い声を、私の胸に響かせる。
「――今日は、僕の負けでいい」
視線がぶつかった。
顔が赤いのは、喧嘩で体力を使ったから――というだけでは、ない。
伊理戸くんの瞳の中に、意識が吸い寄せられる。
その温もりを、息遣いを、鼓動を、何もかもを全身に感じられるようになる。
いつしか、私は瞼を閉じていて。
静かな息遣いが、唇に当たるのを感じた。
……あ。
キスするの、久しぶり――
「ただいまぁー!」
玄関から声が聞こえた瞬間、私たちはビクーンっ! と身体を跳ねさせた。
「水斗ー! 結女ちゃーん!? リビングにいるのかー!?」
お、お母さんたち……!? もう帰ってきたの!?
「げっ……! もうこんな時間!?」
水斗が慌てて身を離しながら、時計を確認した。
うわ……! いつの間にかだいぶ遅くなっていた。どれだけ喧嘩してたの……。
「おい! 早く服着ろっ! マズいだろ、この状況は!」
ほぼ裸の私と、衣服を乱した水斗が、ソファーの上で絡み合っている――それが今の状況だった。
確かにお母さんたちには仲のいいきょうだいを演じているけれど、ものには限度というものがある。そこまで深い仲だと思われるのはいろんな意味でマズい!
「で、でも、着替えが……」
「あ、そうか。着替えを取るために外に出たら……。ああくそっ! じゃあ隠れろ! ええっとええっと――そうだ、ここだ!」
「うきゃあっ!」
水斗は私を床に転がり落として、ソファーの座面をパカッと開けた。収納付きだったらしい。
「ほら、入れ! 急げっ!」
「ちょ、ちょっと! そんなに押さなくても自分で……! いたっ!? いま蹴った! 蹴ったでしょ!」
「喋るなよ、いいな!」
ソファー内の収納スペースに私を押し込むと、水斗は座面を閉じた。
私の視界は真っ暗になる。
『――ん? 水斗一人か』
『結女の声も聞こえたと思ったんだけど……』
『おかえり。父さん、由仁さん。結女さんなら先に寝たけど――』
お母さんたちに言い繕う水斗の声を聞いて、私はさっきのことを思い出してしまった。
さっき……もし、お母さんたちが帰ってこなかったら。
私……何してた……?
「……ううううう……!」
おかしい。こんなのはおかしい!
もう別れたんだ。嫌いになったんだ。彼はもう、何もかも癪に障るいけ好かない義弟であって、彼氏なんかじゃない! なのに、なのに……!
バクバクと鳴る心臓を押さえる。
どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
ようやくちゃんと終わらせたのに――ようやく楽になれたはずなのに。
きょうだいなんかになって、誘惑なんかして、今更お互い様だったのがわかって!
「……ああ、もう……!!」
そういうところが、嫌いなのよ!!
◆
翌日、私は勝者の権限を行使した。
「負けでいいって言ったわよね、水斗くん?」
「……まあ、確かに、言ったけど。でもあれは君に言わされたっていうか――」
「というわけで弟くん、姉としての命令よ。ちょっと部屋から出て」
水斗を彼自身の部屋から叩き出すと、私は家探しをした。
昨日、水斗は『一年前、私を家に呼ぶに当たって諸々準備を整えた』と証言した。……だとしたら、アレがあるということだ。見つからないならないで別にいいけど、もし現存するのなら処分しなければならない。
ベッドの下から本棚の裏まで引っ繰り返すつもりでいた私だったけど、真っ先に調べた机の引き出しから目的のものが見つかってしまって拍子抜けだった。……妙に手の込んだ隠し方をしないところが、あの男らしいけど。
私は見つけ出したそれを持って、水斗の部屋を出る。
と、廊下で待っていた水斗が、死んだあと放置されて腐った魚のような目を私に向けた。
「いったい何を探してたんだよ」
「『お姉ちゃん』は?」
「……姉さん」
「義理のきょうだいには必要のないものよ」
一ダース十二個入りと書かれた小箱を後ろ手に隠して、私は素知らぬ顔で言った。……十二個って、意外とお盛んっていうか、えー、その……たまたま十二個入りだっただけよね? 一回で全部使い切らなきゃいけないルールなんてないものね? たぶん。
私はそれを水斗の目に触れないようにしながらすれ違い、一階への階段に向かった。
「おい、姉さん」
背中に不躾な声がかかり、私は首だけで振り返る。
「何かしら、弟の水斗くん?」
「義理のきょうだいってさ――」
そこまで言って、水斗は誤魔化すように目を逸らした。
「――いや、なんでもない」
私は鼻を鳴らして、階段を降りる。
玄関に出してあるゴミ袋に向かうと、小箱をその中に放り込み、厳重に口を縛った。
あとはゴミの日に出してしまえば始末は完了だ。これできょうだいとして不適切な間違いは、万が一にも起こることがない。
息をついて、玄関のドアを見て、……階段の上を振り返って。
届かないと知りつつも、私は答える。
「……私だって、そのくらい知ってるわよ」
だけど、こんな雑学、何の役にも立ちはしない。そうでしょう? 覚えているだけ無駄。知っているだけ無為。……いわんや、口に出す意味なんて豪ほどもない。
だから、彼は口にしなかった。
だから、私も口にすることはない。
義理のきょうだいは結婚できる――なんて、どうでもいい雑学は。