2-2 元カップルは留守番する 「ここは私の家なんだから、別に普通でしょ?」
なんということだ。
どうして私は、別れて一ヶ月も経っていない元カレと、連れ立ってスーパーになど来てしまっているのだろう。
これじゃあまるで、新婚夫婦か、同棲してるカップルみたいじゃない!
「えーと……おっ、これ安いな」
などと考えている私の隣で、当の元カレがカートにぽいぽいと商品を放り込んでいく。
この男はこの状況に何も感じないの? どれだけ鈍感なのか――あるいは、どれだけ私のことを女だと思っていないのか。……いえ、まあ、私は女ではないし、彼も男ではないのだけど。姉であって、弟なのだけど。
……ダメだ。これじゃ前の二の舞だ。私ばっかり空回りして、私ばっかり損をするだけ。
平常心を保とう。
「……さっきから適当に手に取っているように見えるけど、何を作るつもりなの?」
「んー? いや、わからん」
「えっ……わからんって。料理の材料を買っているのよね?」
「だから、とりあえず安そうな材料を適当に買って、それで作れそうな料理を考えるんだろ? 先に買うものを完全に決めたら、高くなってるのも買わないといけなくなるだろう」
「…………。なるほど」
納得してしまった。
生活の知恵、というやつなのか。……この男に、まさか生活力などというパラメータがあるとは思わなかった。
何こいつ。なんで無駄にスペック高いの?
「最悪、何にも思いつかなくても、全部鍋にぶち込んでカレールー入れたら、大体カレーになるしな。『料理を作る』ことと『食事を作る』ことの違いを理解したまえ、妹よ」
「誰が妹よ。私が姉だって言ってるでしょ」
「はいはい」
……聞けば聞くほど、下手くそなお弁当を食べさせてしまったときのことがみじめになってくる。おのれ……。
「まあ、たまになら下手な料理も可愛いかもしれないけど、毎日はさすがにキツいからな。精進してくれ」
何気ない調子で水斗が口にした一言に、私はにわかに身体と思考を硬直させた。
……か、可愛い?
また、この男はいい加減なことを――いやでも今のは、何も考えずにぽろっと出た感じだったし、本音の可能性も――
「……どうした? 置いていくぞ」
いつの間にか通路の真ん中で立ち止まってしまっていた。私は慌てて水斗を追いかけながら、頭を振って雑念を振り払う。
本当に、これじゃあ以前の二の舞だ。私ばっかり変な風に考えて、この男だけ飄々としているなんて、あまりに不公平だ。
……意識させてやる。
このいけ好かない顔を、血のような真紅に染め上げてやる。
そして今度は、この男に『お姉ちゃん』と呼ばせてやるのだ!
不承不承ながらもキッチンに二人並んでカレーを作り、夕飯を済ませた。
私の包丁捌きを見た水斗が「ちょっと待て。こっちが怖くなる! 指はこうだ、こう!」と無許可で私の手に触ってくるというアクシデントこそあったものの、おおよそ何事もなかった――双方の親がいないので、仲のいいきょうだいを演じる必要もなく、むしろ楽だったとさえ言える。
「風呂湧いたけど、どうする?」
「私が先」
「言うと思った」
「あなたが入ったあとの残り湯になんか入りたくないもの」
「君が入ったあとの残り湯に僕が入るのは構わないのか?」
「……やっぱり後!」
お母さんたちがいたこともあって、今まで気にしていなかったけど、よく考えると私は、この男と同じお湯に毎日浸かっているのだ。
それって……それって、なんか……それって……!
……落ち着こう。
ちょうどいい。水斗がお風呂に入っている間に、精神を整えるのだ。
この後に控える、逆襲のために。
「上がったぞ」
密室殺人ゲーム(私が考案した思考遊び。水斗が密室内で殺害されたと仮定して、それを成立させ得るトリックを考えられるだけ考える)をして精神を統一していると、一〇分もせずに髪を濡らした水斗が戻ってきた。
「うっ……」
「ん?」
……髪を濡らしたら大体誰でもなんとなくカッコよさげに見える。つまりこれはごく一般的な事象。特別な意味はない。特別な意味はない。
「……あなた、お風呂早すぎない? ちゃんと洗ってる? 汚いんだけど」
「答える前に決めつけるな。洗ってるよ。風呂に入ってる時間が勿体なく感じるだけだ」
忙しのない……。そういうところが嫌いだったのよ。最初の頃は私のペースに合わせてくれてたのに。
ともあれ、時は来た。
私は脳内に広げた密室と水斗の死体を片付けて立ち上がった。
「じゃあ、入ってくるわ。……覗いたら殺すから」
「殺されるまでもなく死ぬね。目が腐って」
……そんなことを言ってられるのも今の内なんだから。
私は一応、ちらちらとドアを警戒しつつ脱衣所で服を脱ぎ、入浴を始める。
お母さんたちがいたときはあまり気にならなかったけど……私、あの男がいる家で、裸になってるのよね……。もし、今この瞬間、あの男がお風呂に乱入してきても、誰にも助けを求められないわけで……。
「……………………」
……あのもやし男に限って、そんなことは有り得ないと思うけど、もしそうなったら、いろんなところを噛みちぎってやる。
私はしっかり身体を清めて温めてから、浴場を出た。そして乾いたバスタオルを裸身に巻いて、ドライヤーで髪を乾かす。
……ここからだ。
バスタオルの結び目をぎゅっと握った。
――私は、脱衣所に、着替えを持ち込んでいない。
あえて退路を断つためだ――背水の陣をもってして、あの男の冷徹な顔を崩してやると決めたのだ。
そう。着替えを持ち込まなければ、私はこのまま、バスタオル姿であの男の前に出るしかない!
「…………っ」
鏡に映る私の身体は、あの男と仲が良かった頃に比べると、だいぶ女性らしく成長している。特に胸に関しては、この一年で見違えた――お母さんやクラスメイトに羨ましがられたくらいだ。
露わになった胸元は、お風呂上がりだからほのかに上気している。それは我ながらなかなかに艶めかしい光景で――こ、これをあの男に見せるのか……。
下着くらい用意しておけばよかったという後悔が首をもたげた。けれど、きっとこのくらいでないと、あの朴念仁には通じない。
「……よし」
意を決して、脱衣所を出る。
ぺたぺたと裸足で、リビングに戻った。
「あ……あがったわよ」
「ん――ごぼふぉっ!?」
私を見た瞬間、水斗が飲んでいたお茶を噴き出して咳き込んだ。
予想以上の反応!
私は顔を逸らして、緩みかけた表情を隠す。
「ばっ……き、なんで?」
「ここは私の家なんだから、別に普通でしょ?」
努めて平然と返しながら、私はL字型のソファーに座る水斗の斜め前に腰掛けた。
水斗は明後日の方向に顔を向けながら、ちらちらとこっちを見る。
「いや、でもな……一応、僕がいるんだし……」
「きょうだいがいるから、なに? ……もしかして――」
私は笑みを作って、戸惑った顔の水斗に流し目を送った。
「――水斗くんは、ただの義理のきょうだいをいやらしい目で見てしまう、悪い子だったのかしら?」
「ぐっ……!」
あはははははははは!!
赤くなってる、赤くなってる!! ざまあみろ!!
水斗は私を視界から逃がすように顔を背けるけれど、見てる見てる、視線を感じる。バスタオルから見切れた胸元や太腿に、ちらちらと。
ふふん、ちょっと刺激が強かったかしら? 何せあなた、チビだった私しか知らないものね! ああ可哀想。幼児体型の女としか付き合ったことがないから、私のような大人の女には慣れていないのね! 誰が幼児体型だ。
どれ、足を組み替えてみよう。
「…………っ!!」
あっ、見た。完全に見た。わっかりやすっ。
いつもクールぶっているこの男が、こうまで平静を失うなんて――ふふふ! すごく楽しくなってきた。
私はテレビのリモコンに手を伸ばす振りをして、胸元を見せつけてみる。
「~~~~っ!!」
あー、見てる見てる見てる。完っ全に見てる。
顔が緩まないようにするのに、だいぶ頑張らなければならなかった。今日だけじゃなくて、一年前の雪辱も果たせたような気分だ。あのときはこれっぽっちも私を意識しなかったこの男が、今はこんなにも私に目を奪われている。
これが女のプライドというやつなのか。胸の中の何かが満たされていくような気がした。
……とはいえ。
そろそろ、その……恥ずかしくなってきた。
思ったよりも見てくるし……バスタオルがズレるか、足の閉じ方を少しでも油断したら、即、見えてはいけないところを見られてしまうし。
……というか、私は何をしてるんだろう?
もしかしなくても、私がやってることって、誘惑以外の何でもないのでは……?
仮に今、この男に押し倒されたとしても、私に文句を言う権利はないのでは?
「……………………」
急に冷静になってしまった私がいた。
バスタオルをずり上げて胸元を隠そうとしたけど、そうすると今度は下のほうの防御力が下がってしまう。下手に動いたら取り返しのつかないことになりそうな気がして、私は硬直するしかなかった。
……ちょ、調子に乗った……。
どうして調子に乗るとこうなるんだ、私は……。
「…………はあああ……」
水斗が深めの溜め息をついたかと思うと、不意に立ち上がって、私のほうに歩いてくる。
え、え、え? ま……まさか、本当に……?
バスタオルをきゅっと握って、全身を石のように強張らせた私の前で、水斗は羽織っていた上着を脱ぐ。
心臓が跳ねた。え、うそ。ほんとに? や、ちょ、そ、そこまでするつもりじゃ――!
思わずぎゅっと瞼を閉じた、私の肩に。
――ふわりと、布の被さる感触があった。
……あれ?
「どうせ、僕をからかってやろうとか思ってたんだろうけど……後悔するってわからなかったのか、馬鹿」
恐る恐る瞼を開けると……私の肩には、さっき水斗が脱いだ上着が。
そして当の水斗は、呆れた顔で私を見下ろしていた……。
「普段は大人しいくせに、たまに勢いでとんでもないことするよな、君は……。直せよ、その癖。もう僕はフォローしてやらんからな」
ぶっきらぼうで、見下げ果てたかのような響きさえ伴った、その言葉は。
それでも、中学の頃、幾度となく救われたそれと、同じ響きを含んでいて。
私は、彼の温もりが宿った上着を、胸の前でかき寄せる。
その言葉と、その暖かさとが……思わず、私の意識を、一年前まで遡らせた。
「……一年前」
「ん?」
「私が前に、この家に来たとき。……どうして、何もしなかったの」
私たちの仲がおかしくなり始めたのは、そのすぐあと――中学三年に入ってからのこと。
だから、もしかしたらあの日、私が何か変なことをして、彼を幻滅させてしまったんじゃないかと、そう思っていたこともあった。
結局、それは私の勘違いで、理由はまったく別のことだったのだけど――
「君……今更それ言うか!?」
えっ。
水斗は意外な顔をしていた。
恥ずかしい過去を掘り返されたかのような、苦渋と羞恥に満ちた――
「ハッ。笑いたきゃ笑えよ!」
水斗は開き直ったように言う。
「諸々の準備を万端整えて彼女を家に呼んだのに、結局ビビッて何もできなかったヘタレ野郎をな!」
約五秒。
私の思考は停止した。