「こいつ──ッ」
《羽根狩り》──狼士は己の心拍数が跳ね上がったことを自覚した。背中を駆け抜けるような怖気は、本能が鳴らした警鐘だ。銃把を砕けそうな程に強く握り締め、狼士は走る。
「逃さない」
入り組んだ路地の奥、ビルとビルの壁を蹴り跳んで迫る《白魔》。以前の交戦とは明らかに動きが違う。野良猫が山猫にでもなったと言うべきか。しなやかな動きに、圧倒的な鋭さ。
何故彼女がそうなったのかは、交戦して数秒ですぐに解せた。
(得物……刀が以前と異なる。それだけでこうも動きが変わるのか──)
武器を替えて攻撃力に変化が出ることは当然だとしても、動きまで格段に良くなる、というのは不可解ではある。ただ、別段これは武器が《白魔》に力を与えているというよりかは、そもそも彼女が持っている実力に武器が最適化していると狼士は感じた。
(これまで奴が使っていた武器は、そもそも手枷にしかなっていなかったと見るべきか。いずれにせよ厄介だな。地の利も相手にある)
威嚇射撃をしても飛礫による自動迎撃で通じない。距離を取ろうとしても、《白魔》は壁を氷結させ、それを滑り降りるようにして一気に距離を詰めてくる。面さえあれば、彼女にとってはそれが壁だろうと天井だろうと、スケートリンクのように機能する。
(全く以て《痣持ち》は非常識だ。無能力で挑むおれの身にもなれ)
狼士は足を止める。眼前にあるのは高い壁──袋小路に追い詰められていた。無理をすればよじ登れなくもないが、《白魔》に背中を向けてそれが出来るとは思えなかった。
「──追い詰めた。《落とし羽》を渡しなさい」
「渡すと思うか? 力ずくで奪え」
「交渉してあげたのよ。後から恨まれても嫌だから」
ここに誘い込んだならまだしも、追い詰められたとなっては打つ手もない。己の懐に《落とし羽》があることを狼士は確認したが、しかし渡す気は元よりなかった。
「心配するな。恨むのは──お前の方だ」
黒衣の外套をはためかせ、狼士はそこに仕込んでいた短機関銃を抜き放った。弾丸一発一発に狙いはない。群れを成す数十発が、面を舞う得物をその面ごと制圧する。
飛礫の迎撃には限度がある。弾丸の嵐を自動で全て防げるわけがない。狼士のその考えは正しい──が、《白魔》は姿勢を限りなく低くし、地を蹴って滑り疾走する。的を小さくした上で高速移動し、更に己に当たる可能性が高い弾丸だけを選んで飛礫は迎撃しているのだ。
(山猫? 違うな。こんなもの豹か、もしくは化け猫──)
刀が翻る。元来、狼士と《白魔》の実力差は、《白魔》側が勝っている。狼士はこれまで手練手管でその差を埋め合わせ、五分にしていたが、今回ばかりは違う。
新たな刀を手にした《白魔》に対し、狼士は追い付けていない。完全に上回られた。
「斬獲った」
──《白魔》が呟いたその瞬間、狼士が背にしている壁が、爆ぜた。
高い金属音が一帯に響く。鉄で鉄をぶっ叩いたかのような音。
「無事か、《羽根狩り》ッ!!」
「《天鎧》……随分派手な登場だな」
「憎まれ口を叩けるなら大丈夫そうだなッ! 安心した!!」
壁をぶち破って登場したのは、赤毛の偉丈夫だった。狼士と同じ黒衣に身を包み、しかし彼よりもかなり生気溢れる顔をしている。通り名は《天鎧》、《志々馬機関》の一員。
「こいつ……! 《祝福者》か……!」
歯嚙みして《白魔》は後退する。《羽根狩り》に振るった刃は、寸前で受け止められた。《羽根狩り》ではなく、《天鎧》の腕に。籠手か何かの防具を疑った《白魔》だったが、しかし《天鎧》は腕まくりをして地肌を露出させている。
それだけで彼が《祝福》を持つ者であることは分かったようだった。
「初めましてだなァ、《白魔》! 俺は《天鎧》! 本名じゃないぞ!!」
「なんなの? この男……」
「おい。悠長に何やってる」
「最近まで盲腸で入院していたから戦線復帰出来ていなかった!! だが俺が戻って来たからには、もうお前の好きにはさせんッ!! なあ《羽根狩り》!?」
「…………。《白魔》ならもう逃げたぞ」
「なんとぉ!?」
想定外の増援、更にデータにはない異能力者。《白魔》は向こうの通信手と小声でやり取りをし、すぐに撤退した。迅速な判断は、本人と通信手の連携が良く取れている証拠だ。
《天鎧》のある意味常識外れな名乗りは、結果として相手を威圧したらしい。そしてそれは、《羽根狩り》の久方振りの危機を救ったということでもあった。
「残念だ! あの《白魔》とようやく闘り合えると思ったのにな! まあ、労せずして《落とし羽》をゲットと考えればいいか! ははははははは!」
「……合流時間から遅れ過ぎだ、健剛。何をしていた」
《天鎧》──もとい、《獅子鞍健剛》。狼士の同期である。年齢は健剛の方が僅かに上だが、幼少期から共に訓練をした中だ。我々は親友……とは健剛側だけの談である。
本来、今回の任務は狼士と健剛の二人で行うはずだった。が、いつまで経っても健剛が現れないので、狼士単独で進めた結果、危機に陥ったのである。
「ちょっと美味そうなラーメン屋があってな! 食ってきた!!」
「……馬鹿かお前は。命令違反だ」
「だがタイミングはバッチリだったぞ! 結果オーライ!!」
「はあ……」
健剛は我が道を地で行くタイプだ。己の本能に忠実とも言える。裏表がなく、親しみやすい男なのだが、自分の欲望を優先するあまりに命令違反を何度も重ねる問題児でもあった。
「おし! そこまで言うなら二人でもっかいラーメン食い行くかぁ!」
「何も言ってない。行くわけもない。いいから報告に戻るぞ。そこまでが任務だ」
《志々馬機関》では数少ない、《祝福》を持つ《痣持ち》であり、単純な戦闘力なら狼士にも引けを取らない健剛だが、機関から重用されない理由は、この圧倒的な扱いにくさにある。
何せ、どれだけ上官に𠮟られたところで、全く反省しないのだから。
「駄目だぞ、狼士! 任務とか命令とか、そういうのは自分の次にあるものだ! 俺達は人間、お手と言われて素直にお手をする犬じゃない! 自分こそ全て!」
「犬の方がお前よりマシだ。命令を聞くわけだからな」
「悪いが俺は猫派だ!! 猫は自由だからな!!」
「……。付き合ってられん。ならおれ一人で戻る。命令に背きたいなら勝手にしろよ」
「そうツれないことを言うな狼士ィ! 奢ってやるから!」
騒ぐ健剛を無視して、狼士は歩き出す。もし、健剛が大真面目に取り組めば、無能力者の狼士ではなく《痣持ち》の健剛こそが《羽根狩り》と称されただろう。そうはならなかったことが全てなのだが、しかし狼士は内心で健剛の言葉を反芻する。
(犬、か)
狼、という文字が己の名には刻まれている。しかし、それが命令に忠実な理由ではない。
単に、狼士にとっては与えられた命令が全てだ。備え、従い、こなし、また備える。
(別に構わない。犬でも何でも)
その繰り返しの先に、《濡羽の聖女》が居るのなら、何も問題はないのだから。