裏 岸川先生は甘やかしたい 1
プールの外でどんなことがあっても、部活の時間は私情を持ち込まない。
それを自分の中で決めたルールとしているが、今日は少し指導に余計な力が入ってしまっている。
「そこ、遅れてきているぞ! 呼吸のタイミングがずれないように意識すること!」
「は、はいっ……!」
姉ヶ崎高校には温水プールがあり、年中練習をすることができる。夏の全国に向けて最初の試合となる地区大会の期日が近づき、連日部員たちは練習に励んでいた。
選手たちのタイムは伸びてきていて、三年の空野は部全体を牽引してくれている。背泳ぎのタイムは県大会でも優勝を狙えるし、平泳ぎも地区大会突破は間違いない――彼女に影響を受けて、今年入った一年生も向上心を持って毎日練習に取り組んでいる。
その空野について、私は教師として過干渉はいけないと思いながら、どうしても気になってしまうことがあった。
「――よし、良く頑張った! 休憩を挟んで、タイムの計測を行う! みんなプールから上がって給水をしておきなさい!」
「「「はいっ!」」」
笛を吹いて呼びかけると、部員たちが返事をしてプールから上がってくる。
私はプールの時計を見る――今が七時で、練習終わりが七時半。うちの学校では六時半に終わる部活が多いので、帰る時には辺りはすっかり暗くなっている。
「……ふぅ……」
部活の間は別のことを考えないことが、部員たちへの誠意というものだ。
しかし、休憩の時間になると、やはり考えてしまう――海原涼太のことを。
海原と知り合ってから一年になるが、彼の生活の実態を知って、家庭訪問をするようになってからは半年ほどになる。彼が毎日一人で焼きそばパンばかり食べていたので、炭水化物以外も摂るようにと言ったのだが、なかなか改善されないことに痺れを切らして、私は自分で弁当を持参し、海原に食べてもらうという行動に出た。
あのとき、ありふれた煮物を口にした瞬間に、海原が突然涙をこぼしたことが忘れられない。
――す、すみません。俺、なんで泣いてるんだろ……変ですよね、急にこんな……。
生まれて初めてだった。私の料理を食べて、誰かが泣くところを見たのは。
自分の料理が美味しくなかったのではないかと心配したが、海原は首を振った。私は彼の眼鏡を取って、どうするべきかも分からず、彼の涙をハンカチで拭った。
ただの教師と生徒の関係で、そこまでするのはおかしい。過保護すぎると、世間的に見ればそう言われてしまうと分かっている。
でも、海原がお腹を空かせているとか、家庭の味を求めていると思うと、とても放ってはおけない。放っておけばカップ麺や、それこそ焼きそばパンばかり食べているあの少年は、もっと自分の身体を大切にすべきだ。
しかしそれも、今の海原にとって本当に必要なことなのだろうか。あんなふうに、朝から一緒に空野と仲良くしているのなら、私がお節介をするとかえって迷惑なのではないか。そんなことはないと思いながら、頭にどうしてもそんな考えが浮かんでくる。
空野の自転車に乗って、背中を押して学校に向かう二人を見て、私は胸がギュッと締めつけられるように感じた。最近買ったブラのサイズが合っていないとか、そういうことではない。確かに少し小さかったが、それは関係ない。
私は自分がどんな感情を抱いて胸の痛みを感じているのか、家で風呂に浸かっているときなどに考えた。そしてとことんまで向き合った結果、しっくりくる答えを導き出すことができた。
私は海原のお姉ちゃんとしての役割を、空野にとられてしまったらどうすればいいのかと思っている。
空野は部のエースで、練習も真面目に出ているし、成績にも問題はない。非の打ち所もない生徒で、海原の一つ年上で、料理が上手いかどうかはわからないが、両親が不在のとき、妹のために料理をすることがあると言っていた。
考えてみると、空野の家は海原の家とも近い。小学校の頃から同じ場所に住んでいたなら、幼馴染みの関係ということは考えられる。
学校にも一緒に通う関係だとしても、何もおかしくはない。しかしそうすると、出会ってから一年以上も海原と接してきたのに、一度も空野との関係について触れなかったことが逆に気になってくる。
――昔知り合いだったこともあり、最近急速に距離が近づいた。
――元々仲が良く、一緒に登校するところを偶然見ていないだけだった。
海原と空野のことを邪推するようなことをしてはいけない。
元から知り合いだったとしても、海原は私に秘密にしていたわけではなく、ただ言わなかっただけと考えるのが普通だ。
海原を最大限に信じるなら、この推論が適切だと思う。そう、あの素直な海原が、私に内緒で空野と秘密の関係を結んでいるとかそんなことは、
「……岸川先生」
声をかけてきたのは、当の空野本人だった。休憩中は脱いでいた帽子をもう一度かぶっている。
「さっきのバックですが、少しキックがしっくりこないので、後で見てもらってもいいですか」