裏 岸川先生は甘やかしたい 2
バックとは背泳ぎのことで、キックというのは泳ぐときの足の動きだ。それがしっくりこないというのは、上手く水を蹴れていない気がするということになる。
「タイムは順調だが、気になるのなら確認しておいた方がいいな」
「よろしくお願いします。それと、飲み物どうぞ。ずっと声を張っていて、大変だと思うので」
「ドリンクは練習をした者が飲むものだ。気持ちだけ受け取っておこう」
水泳は水中で活動しているので脱水などを起こしにくいと思われやすいスポーツだが、実際はそうではない。スポーツドリンクなどで適宜補給する必要がある。
部の予算を試合の移動費などに当てるとドリンク代は賄えないので、私を含めたコーチと、生徒たちのカンパで賄っている。私は家から
「あの、先生。一昨日の朝、海原の
「海原の足はもう治ったと聞いたから、私も安心していた。空野は……」
「私は、海原と家の方向が同じなので、通学路で偶然見かけました」
「そうか、偶然……家の方向が同じなら、そういうこともありそうだな」
安堵を顔に出しすぎないようにするが、顔は少なからずほころんでしまう――空野から説明してもらえるとは思っていなかったし、偶然ということなら、とても親しい関係に見えたというのも私の考えすぎだろう。
そんな私を見て、空野は少し目をそらして何かを考えているようだった――そして。
「海原、
「……杜山先生の……あ、朝から、迎えに行っていたということか……?」
空野と二人でいる時も睦まじそうだったのに、もっと衝撃を受けるような事実が明らかになってしまって、頭の中が
杜山先生と、海原。保健室の先生だから、接点はあるのだろう。
確か去年の文化祭で、海原が
「し、しかし、それならもう半年も、二人の関係は続いて……」
「……先生、考えてることが口から出てます」
「っ……!?」
動揺のあまりに、考えを声に出してしまっていた。それを指摘された私は、思わず大きく反応してしまう――そして、胸からばつん、と音がした。
「……凄い……先生、ジャージの胸のファスナーが開いちゃってます」
「くぅっ……最近は大丈夫だと思っていたのに。お気に入りのジャージが……」
私はいつも水着の上からジャージを
「……私、海原とバイト先が同じなので、少し話したんですけど。たぶん、海原は真面目だから、杜山先生と一緒にいたのも、先生が海原を心配してくれたんじゃないかと思います。一人暮らしだから、足の怪我をしたら大変だって」
空野は海原と杜山先生のことを言ったら、私が驚くだろうと思って伝えたわけではないようだった。
私と海原が、先生と生徒とはいえ、親しくしていることを知っていて、杜山先生のことを伝えておくべきだと思ったのだろうか。海原について何もかもを私が知る権利はないと思うし、海原にも知らせる義務はない。
だが、知らないよりは知っていた方が、安心できる。
そして同時に、海原が怪我をしていると知って彼を心配してくれる人が私以外にもいるということが嬉しく――正直なところ、焦ってしまう部分もある。
海原のお姉ちゃんとして、お弁当を食べさせる機会が減ってしまう。ただでさえ、最近学校で姿を見てもいない。体育の授業で必ず見られるが、それだけでは全く足りていない。
「……あの。岸川先生は、海原に時々、お弁当を分けてあげてますよね」
「うっ……そ、それは……」
またも、ギュッと心臓にくるようなプレッシャーがかかる。空野は思っていることをあまり顔に出さないので、指導にあたっても少し戸惑うところがあったのだが、今回はその表情の変化の少なさが、先生としては言ってはいけないことだが、恐ろしいと感じてしまう。
「海原と二人で屋上にいるところを見ちゃったので、やましいことをしてたら注意しなきゃと思ったんですけど、そんなこと無かったみたいなので……変な勘違いをしそうになって、すみませんでした」
「や、やましいことなどはしていない……それは間違いない。今後も海原と昼食を摂ることはあるかもしれないが、あくまで彼の食生活を鑑みて、栄養指導の一環として行っていることだから、誤解のないようにお願いする。彼にも迷惑がかかってしまうからな、親しい先輩からそんなふうに見られていると知ったら」
「……親しいっていうほどじゃなくて、会ったら少し話をするくらいです。海原は、私のことを良く思ってはいないと思います」
空野は言うつもりのないことを言ってしまったのか、言い終えてからはっとしたような顔をする――わずかな変化だが、今こうして話していて、一番はっきりと感情が表れた瞬間だった。
彼女も海原のことを気にかけているが、何かわだかまりがあるのかもしれない。
私が見た海原は、空野と一緒にいる時に表情を曇らせたりはしていなかった。しかしまだ事情を深く知らないままでは、軽々しいことは口にできない――それでも。
「海原は、空野に助けてもらって感謝をしていた……と思う。少なくとも、私にはそう見えていた。良く思っていないということは、無いと思う」
空野は何かを言おうとする。私も、知ったようなことを言わないでほしいと言われることを覚悟していた。
しかし、そうはならなかった。空野は休憩の時間が終わりに近づいていると確かめると、小さな声で言う。
「……ありがとうございます」
空野が海原のことをどう考えているのかは、その一言である程度察することができた。
何か、海原に対して引け目があるのかもしれない。その事情について私が知ることがあるのかはわからないが、悩んでいることがあるのなら相談に乗ることができればと思う。彼女が優秀な選手だからというだけではなく、私の個人的な思いとして。
「――よし、休憩終わり! タイムを計測する者はコース前に集合! 選手以外でも、測っておきたいと思う者は並ぶこと!」
「「「はいっ!」」」
クロールで選手になれるかどうかという位置にいる吉田も、三年生で高校最後の大会ということで練習に頑張って打ち込んでいる。
去年の今頃、私の指導方針は吉田に受け入れられず、保護者からの叱責を受けたこともあった。しかし海原が助けに入ってくれたあと、吉田とは練習方針について互いに納得がいくまで話し合うことができた。
結果として、選手から外れたことで一度は退部を考えた吉田は、今でも部活を続けている。
「芽瑠っち、ちゃんと見ててよね。あたし、今すごい調子いいから」
「その呼び方はやめなさい、と言えるのもいつまでになるか。タイムが目標に届いていなかったら、今後は朝練に出てもらうぞ」
「ひぇ~、あたし朝弱いから無理だよ。家で筋トレしてるんだから大目に見てよね」
吉田は私が現役の学生だったころでいうと、いわゆるコギャルと呼ばれるようなタイプの生徒で、運動神経はいいのだが部活よりも遊びが楽しいという時期もあった。
そんな彼女が試合に向けて気合いを入れているところを見ると、色々な生徒がいても一つの目標に取り組むことができる部活は、やはり素晴らしいものだと思う。
「あ、ひさびさに芽瑠っちのジャージが全開になってる。男子いないのつまんないと思ってたけど、こういうときは女子だけで良かったって思うよね」
「っ……そ、そんなことはいい。お喋りをしていないで集中しなさい」
私は男子についても分け隔てなく、教師として接しているつもりだが、学校の中で気を許すことができるのは海原だけだ。
――私の方が、海原のことばかり考えて集中できていない。明日あたり、どこかで声をかける機会がないだろうかと期待しながら、今は計測のことだけに意識を向けた。壊れたジャージのファスナーだけ交換することはできるだろうかと考えながら。