バイト少年と女神の誘惑 2
忙しい時間を乗り切ったあと、俺はジュースの補充と、ホットスナックの在庫を調べるためにバックヤードに入った。
先輩、あれから一言も喋ってくれないとは。元からそうだったと言えばそれまでだが、やっぱりお節介だと思われたか。
空野先輩は店長や伊角さんの手は借りるが、俺の手は借りない。それは多分、俺は学校の後輩だからということになるのだろう。もしくは、同性でないと遠慮してしまうとか――先輩が俺を異性と認識しているというのは、
そんなことを考えていると、店内の有線が別のチャンネルに切り替わった。
いつもは
マイ・フェイバリット・シングス。ジャズの定番中の定番の曲で、ユーフォニアムのパートがある。その部分がやってくると、勝手に指が動き始めた。
マウスピースに口をつけて練習するときの感覚が、ありありと思い出される。もう
「……お疲れ様」
「うわっ……!」
首筋にひんやりしたものを当てられ、思わず声を出してしまう――誰もいないと思っていたバックヤードに、いつの間にか先輩が入ってきていた。
「せ、先輩。こっちに来たら、誰も表にいる人が……」
「……はい。あげる」
「あ、ありがとう……」
「
「長くても四時間くらいだし、それくらいなら全然大丈夫だ。でも、買ってくれる分にはすごくありがたい」
「……
「っ……ま、まあ、そう言われても仕方ないが。スポドリ一本くらいで心まで買えるとは思わないでくれ」
俺がジュースを飲むところを、先輩は頬に手を当ててにやにやと見ている――喉仏が鳴るのが微妙に恥ずかしい。
「さっきテンパってるときの方が、まだ可愛げがあったんだけどな……」
「……そういうこと言う子は、エッチな本をうちの店でちら見するのを禁止にする」
「み、見てないけど……いや、視界に入ることはあるけど、中を開くことはできないから。成年向けって書いてあるエリアは、足を踏み入れられない聖域だからな」
「もうすぐ、本部からの指示で撤去されちゃうって。そうしたら海原がバイト先を変えちゃうんじゃないかって、店長が心配してた」
「俺が勤労する目的は、店長と先輩が想像するよりも百二十倍は清廉なものだからな。それはちゃんと言っておくぞ」
きっぱりと答えたつもりだが、先輩は依然として楽しそうにしている。こんなに機嫌がいいのは久しぶりというか、ここで働き始めてから初めてだ。
「男の子はみんなそういうことに興味があるから、私はいいと思う」
「そんな、理解のある姉貴分のようなことを言われてもだな……それより先輩、せっかくの休憩時間をここで潰していいのか?」
「休憩しなくても、あと二時間くらいなら平気。海原はもう行っちゃう?」
「やることをやったら行くよ。さっきのお客さんたちが、お酒を結構買っていったから……ああ、これ品切れになってるな。店長に行っておかないと」
手を動かしつつ、やはり立ち仕事なので先輩は休んだ方がいいと思い、椅子を持ってくる。先輩はきょとんとしていたが、少し考えてから座ってくれた。
「……あ、ありがと……」
「先輩は部活で疲れてるだろうし、休むときはしっかり……」
「そうじゃなくて……さっき、忙しかったとき……並んでる人、気づいたら凄く増えちゃって、私のレジ打ちが遅いから……」
「うちの男性客は、空野先輩がいる時間帯は目に見えて増えるっていうしな。それにしても、いくら人が人相悪いからって、全然並ばないのもどうかと思うよな」
普段の俺はこれほど饒舌にしゃべることはないのだが、先輩が落ち込んでしまいそうなので、何とか元気づけたい。気の利いた冗談も何も言えないのだが。
そんな俺の話でも、先輩は笑ってくれた。口元を隠すようにしてくすくすと笑う。その笑い方は昔とそれほど変わっていない。
「海原が自分のところに来るようにお願いしたとき、お客さんたちが緊張してた。普通の男の子なのに」
「お、男の子……はあ。俺はいつまで経っても、空野先輩にとっては……」
子供扱いなのか。そう言いそうになって、昔のことに触れることを躊躇する。
「……せ、先輩は、水泳部の調子とかはどうなんだ?」
「毎日やってるけど、タイムは伸びたり伸びなかったり。県内に速い子がいるから、今年も県までしかいけないかも」
「そうか……それでも凄いよな。県のトップを争うくらい速くて、バイトもしてて」
ジュースの補充は終わり、ホットスナックを冷凍庫から取り出す。そろそろ店内が忙しくなっていないだろうかと、ジュースの隙間から覗いてみるが、幸いにもと言うべきか、混雑はしていない。
「……海原、岸川先生とはどれくらい仲良くしてるの?」
「っ……だ、だから。俺と先生は、そういう関係じゃ……普通に良くしてもらってるだけで、何もないよ」
先輩はすぐに答えない――少しの沈黙でも、とても気まずい。
「先輩……な、何か怒ってないか?」