【大増量試し読み】お姉さん先生は男子高生に餌づけしたい。1巻

朝帰りの登校風景 5

 先輩は自転車置き場まで俺を降ろしてくれなかった。昇降口に行くところで降ろしてもらっても大丈夫だったのだが。

「……せ、先輩。大丈夫ですか」

「……大丈夫……水飲みたい……」

 校舎裏には憩いのスペースという場所があり、そこに水飲み場がある。先輩はおさげが濡れないように押さえつつ水を飲む。何か見ていてはいけない気がするくらい、ただ水を飲んでいるだけでも絵になっていた。

「んっ、んっ……はぁ。落ち着いた……」

「先輩、本当にありがとうございました。じゃあ、また……」

 ハンカチで口を拭いて、先輩はリップクリームを塗る。そしてブレザーを脱いで手に持つ――やはり暑いのだろうと思っていると。

「……海原、岸川先生とはどういう関係?」

 ここで来るとは思わず、完全に虚を突かれた。こうやって答えに詰まることが、答えになってしまうような話題なのに。

「岸川先生とは、普通に先生と生徒っていうだけだよ」

 辛うじて答えられたのは、いつ聞かれてもそう答えられるように心がけているからだった。一番勘違いをしてはいけないのは俺だが、人を誤解させてもいけない。

「……岸川先生は、海原を気にかけてるみたいだけど」

「それは、俺が昨日怪我をしたからで……一年の時から良くしてもらってはいるけど、それでも先生と生徒っていう以上のことはない」

「一年生の時から……」

 空野先輩が俺のことを聞いてくることなんて、高校に入ってから一度もなかった。

 岸川先生と俺の関係が怪しいと思われているなら、しっかり説明しておきたい。

空野先輩は噂を広めたりしない人だと思っているが、先輩自身が気になっているなら、その疑念はそのままにしておけない――と、思考がどんどんシリアスに傾いていきかけたところで。

 先輩は少し長めのカーディガンの袖に半分手を引っ込め、きゅっと袖口を握りしめて言った。

詮索せんさくするようなのは、趣味がよくなかった。海原のこと疑うみたいにしたら、本当に性格悪いって思われる……」

「っ……い、いや。確かに俺は岸川先生には凄くお世話になってるし、空野先輩がいぶかしむのも無理ないと思う。俺だって、自分でもどうかと思うくらい、先生に甘やかされてると思うことはあるから……って、何言ってんだ俺っ」

 思い切り口を滑らせてしまって、頭を抱えたくなる。

 俺が先生にされている甘やかしは、まさに先生と生徒でしてもいいのかと思うようなことばかりで、俺の中でのルールを日々揺さぶっているというのに。

 先輩も、俺がただ誤魔化しているだけだと思ったかもしれない。信用を失ってしまったら、それこそ昔みたいな幼馴染みの関係には戻れなくなる。

戻りたいのか、俺は。自分がどうしたいのか、分からなくなる瞬間がある。

 空野先輩と離れたことには理由がある。俺から離れたわけではなくて、けれど空野先輩が悪いというわけでもなかった――幼馴染みとずっと仲良くなんて、そうしなければいけないルールはどこにもない。

 わだかまりが今でも残っていても、こうして話せるだけでそれでいいと思っている。先輩が足を痛めた俺を心配してくれただけでも、奇跡みたいなことだ。

「……また、いっぱい考えてる。ごめんね、変なこと聞いて」

「あ……い、いや。俺こそ、はっきりわかりやすく喋れなくて……何言ってるか分からないよな、これじゃ……」

「そんなことない、よくわかった。海原は真面目だっていうことと、岸川先生もそうだっていうこと……たぶん、杜山先生も」

「真面目……それは、悪い意味じゃなくて?」

「少なくとも、私にとっては良い意味……かな」

 先輩も少し言いにくそうにしている。落ち着かないときにそうするのか、カーディガンの袖に半分手を引っ込めたままだ。

「……ホームルーム、始まっちゃうから。転ばないように気をつけてね」

 先輩は教室に行く前に髪を解く。振り向いて歩いていくときに、今までしっとり汗ばんでいたとは思えないくらい、胸のすくような良い香りがした。

 先輩は袖から手を出すと、手を上げて小さく振る――それは後ろにいる俺に向けてのものだった。

「先輩、送ってくれてありがとうございました」

 先輩は親指と人差し指で丸を作って、返事の代わりにしてくれる。

 昨日から、先生や先輩にお世話になりっぱなしだ。自立して生きていこうと思っているのに、こんなに甘やかされていてはいけない。

 ホームルームの予鈴まではまだ余裕があるが、悠長にしてもいられない。歩き出そうとしたところで、ポケットに入れているスマホが震えた。


岸川先生:松葉杖はちゃんと受け取ったか。教室まではちゃんと行けそうか?


 岸川先生が心配してくれている顔が思い浮かぶ。その厚意に甘えてはいけないと思いながら、文面を見ただけで安心している自分がいる。

 人目につかない場所にいるうちに返信をしようとしたところで、さらに通知が届いた。


『お友達申請が届いています』


 杜山もりやま先生が、俺のアドレスをチャットアプリに登録してくれたらしい。

 システム上の表現とはいえ、明確に『友達』と表示されていると、受け入れれば俺の中でのルール違反になるのではと思えてくる。その葛藤を経て、岸川先生も友達として俺のスマホに登録されてはいるのだが。

 自立したい、硬派に生きたいと思っている俺は、そんなに甘やかされてはいけない気がする。空野先輩には、俺に対して適度に厳しくする距離感を保ってもらいたい――そう思いながら、俺は杜山先生の申請を受け入れ、最初の挨拶を打ち込み始めた。

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