保健室のミューズ 5
先生の実家も近くにあるらしいのだが、大学の頃から実家を出て暮らしていたそうだった。今のマンションには、姉ヶ崎高校に勤めるときが決まったときに引っ越してきたらしい。
近隣では目立つ、十階建ての九階。セキュリティがとてもしっかりしていて、いかにも高級という感じがした。
先生はもしかして、お嬢様育ちなのではないだろうか――と思っていたのだが、先生の家に入れてもらってから、それはほとんど確信に変わっていた。
モデルルームのような内装――家具も高級そうで、ソファは今まで座った中で最も座り心地がいい。
広いリビングの段差を上ったところに畳が敷いてあって、ちゃぶ台が置かれている。いつもここで食事をしているそうで、俺は手伝うこともしなくていいと言われ、座布団に座ってお茶を飲みながら待っている。
先生のペースに、完全に流されていると自覚はしている。しかし、そろそろ落ち着いて厚意を受け入れた方が、先生に対して誠実なのではないだろうか。
しかし腰を落ち着けると、立ち上がりにくくなるくらい気分が安らぐ部屋だ。広いのに、ここだけ和風のつくりだからか。
ちゃぶ台の下は足を下に出せるようなスペースがある。これが冬には掘りごたつになるそうだ――冬にもお邪魔してみたいと思ってしまう俺を、誰が責められるだろう。
「ふんふん、ふふんふ~……」
キッチンからは、先生のハミングが聞こえてくる。流行りの歌ではない懐メロで、先生のおっとりとした優しい響きの声を聞いていると、ついウトウトとしてしまう。
待っている間に勉強でもやろうと鞄からノートと参考書を取り出したが、図書室ですでにやるべきことは終わっている。今は先の範囲に手をつける気にもならず、ただ待つだけの時間でも退屈を感じていない自分がいた。
岸川先生は家で料理をするとき、やはりエプロンをつけるのだろうか。いや、杜山先生の家で岸川先生のことを考えるのは、いかにも気が多い奴みたいだ。
トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえる。そして、この和風だしの香り――このままではまずいという予感が、脳裏を過ぎる。
俺には一つ、あまり口には出せない弱点がある。
先生が料理を作ってくれるという時点では、そこまで警戒していなかった。杜山先生のイメージでは洋食を作ってくれそうな雰囲気で、岸川先生のように、俺の弱点をガッツリと攻めてくることはないと思っていたからだ。
その認識が誤りだったことを、俺は十五分後に思い知ることになった。
杜山先生が割烹着姿で作ってくれた夕食は、至極一般的な家庭料理だ――肉じゃが、お浸し、卵焼き、なめこの入った味噌汁。
好き嫌いを事前に聞くという配慮もしてもらったが、俺は嫌いなものがない。出されたメニューはすべて、垂涎の出来というしかなかった。立ち上る湯気の向こうに見える杜山先生の優しい笑顔に、全てを投げ出して飛び込みたいと思わされる。
「この割烹着は、うちの母から受け継いだものなの。エプロンでもいいんだけど、これでお料理をするのに慣れちゃってて……やっぱり変だった?」
「い、いえ……そんなことは全くないです。むしろ、似合いすぎてるというか……」
「も、もう……そんなに大げさに褒めても何も出ません……ご飯は出てきますけど」
先生は俺を諭す時は、丁寧な口調になる。不意に出てくるそういう部分に、俺はどちらかというと弱いほうだ――と、考えているうちに冷めてしまってはいけない。
「じゃあ……先生、いただいてもいいですか?」
「っ……せ、先生をいただくのはちょっと……そんなに割烹着が好きなの? 三角巾もつける?」
「い、いや、そうじゃなくてですね……俺がそんなことを言うと思いますか?」
「……海原くんも男の子だし、場合によっては言いそうかなって……な、なんて、先生がそんなこと言ってちゃいけないわよね、生徒を信頼しなきゃ」
胸に手を当てて言う杜山先生――谷間に手が普通に挟まれ、割烹着越しに胸の膨らみが強調される。
先生が俺を信頼しても、俺はその信頼に答えきれるのか。などと弱気になっている場合じゃない。何のために俺はここに来たのか、それを決して忘れてはならない。
夕食を御馳走になりに来ただけのはずが、正念場を迎えている。それもこれも、先生の割烹着姿が似合いすぎているせいだ。
「……あっ。海原くん、可愛い……お腹がきゅるるって鳴ってる」
「……あまりからかわないでください」
「ふふっ、ごめんなさい。海原くん、どれから食べたい?」
先生はそれが当然というかのように箸を手に取る。白くて細い指が、きれいな持ち方で箸を扱うさまは、見ているだけで琴線に触れるものがあった。
「ごはんとお味噌汁とおかずをバランス良く食べるのがいいのよ。最初はごはんから……あーん」
「っ……」
このまま流されていいのか。しかし躊躇する間もなく先生に先手を取られて、逃げることはできない。先生は左手で箸を持ち、右手を受けるように添えながら、湯気の立つ白米を差し出してくる。
「……海原くん、あーんして?」
女神の笑顔と、耳を甘やかすような声。そこには純粋な慈愛だけがある。
もう、どうにでもなれ――我慢は身体に悪いので、そろそろ素直になりたい。
覚悟を決めて口を開ける。そっと白米が口の中に差し入れられ、舌の上で米粒がほろりと崩れる。噛めば噛むほど甘みが広がる。炊き方も硬さも完璧だ。
「おいしい?」
「は、はい……せ、先生、俺、自分で食べられますから……」
すでに頭がぼーっとしてきている。これほど魅力的な年上の女性に懐柔されたら、俺じゃなくても男子高生はみんなこうなるんじゃないだろうか。
「いいのよ、先生がしてあげたいんだから。海原くんは何もしなくていいの、ぜーんぶ先生が食べさせてあげる」
俺を部活に入れたいと言っている先生だから、少しくらい計算もあるのかもしれない。なんて考えを持っていた俺は、汚れていたと思い知る。
「次は何が食べたい? ……卵焼き? ちょっと甘いかもしれないけど、大丈夫かしら……はい、あーん」
卵焼きは、岸川先生も弁当に入れていると言っていた。少しだけ胸が痛む――彼女の卵焼きを差し置いて別の卵焼きを食べるのは、ある意味浮気じゃないのか。
「……どうしたの? 玉子焼きは苦手?」
「っ……い、いえ……かなり好きというか……」
「ふふっ……じゃあ、遠慮なくどうぞ。はい、あーん……」
卵焼きを差し出すときに、杜山先生の胸元が開く――こんなにスキだらけで、大学を出るまで危ないことは無かったのだろうか。俺はとても心配だ。
「んっ……んむっ……」
「……海原くん、可愛い。よく味わって……はい、ごっくんして」
言われるままにすると、童心に返りすぎてしまう。あまりに美味しいので次も食べさせてもらいたくなる――口の中に、ふんわりとしたダシの香りと甘みが広がる。焦げ一つなく均一に焼き上がった卵焼きは、焼き立てということもあって舌触りがとろけるようだった。岸川先生と料理の腕に関しては遜色ない、品目によっては二人の先生のどちらかが上ということもあるだろう。
「よく噛んで食べてね……柔らかいものばかりだといけないから、次はお浸しも食べてくれると嬉しいな」
「……はい……お願いします……」
先生がすぐそばにいてくれて、俺が食べたいものを食べさせてくれる。そして、優しい味付けが味覚までも甘やかして、思考がどこまでも溶けていく。
温かいお湯に浸かっているような安心感。味噌汁は自分で食べたが、合わせ味噌の塩気は強すぎず、ダシがしっかりと効いている。岸川先生の料理を食べたときもそうだが、ジャンクフードに慣らされた味覚が、自然な状態に戻っていく感覚さえある。
気がつくと、目の前の器はほとんど空になっていた。すでに十分満たされているのだが、純粋に先生の料理が美味しくて、もっと食べたいと思ってしまう。
「海原くんは育ちざかりだから、おかわりもあるわよ」
「で、でも、先生の分が……」
「先生は、海原くんが美味しそうに食べてくれるだけでお腹いっぱいだから……っていうも本当なんだけど、少し少なめにしようと思って」
ダイエットでもしているのだろうかと思ったが、先生はキッチンに行くと、少し恥ずかしそうにしながら、徳利(とっくり)とお猪口(ちょこ)を持って戻ってきた。
「ときどきなんだけど、お酒が飲みたくなることがあって……海原くん、ちょっとだけ飲んでもいい? 大丈夫、海原くんに勧めたりしないから」
「は、はい。俺に遠慮しないで飲んでください」
「本当? 良かった……海原くんが来てくれてるのにお酒なんて、先生はだめな大人ですねって言われちゃうかと思った」
「そんなことは無いですよ。あ、そうだ……俺がお酌をしましょうか」
「だ、だめよ、そんな……先生が、生徒にお酌をしてもらうなんて……」
「これも、俺がしたくてしていることですから」
先生は遠慮するが、俺も先生に何かを返したいと思わずにいられないくらいには、彼女のしてくれたことに感謝していた。
先生にお猪口を持ってもらい、徳利からお酒を注ぐ。先生は俺の隣でかしこまって座り、お猪口に口をつけてくいっと飲んだ。
「んっ……ふぅ……美味しい。海原くん、ありがとう」
「これも社会に出たときの、予行演習的なものだと思うことにします」
「ふふっ……海原くんが大人になったら、一緒に飲むのもいいかも……なんて、そのときは海原くんも、色々な人とお酒を飲むようになってるかしら……」
まだ酔っているという感じはしないが、先生は気分が良くなっているみたいだ。
俺だけが先生に色々としてもらって、それだけで終わりというのは申し訳ない。幸い、先生のマンションの近くにはバスが通っているので、帰りはバスで帰ることにしよう。