保健室のミューズ 4
先生の処置が適切だったからか、放課後には普通に歩けるくらいにはなっていたのだが、俺は普通に一人で家に帰る途中で、車で追いかけてきた先生に捕まった。
図書室で勉強をしてから帰るという時間差攻撃に出たのが、結果的には裏目に出てしまった――杜山先生も退勤できる時間になり、
「すみません、病院まで乗せていってもらって……お手数をおかけしました」
「ふふっ、そんなにかしこまらなくていいのよ。もう
助手席に座っている俺に、先生は運転しながら話しかけてくる。ちゃんと前を見て慎重に運転しているし、それについては全幅の信頼を置ける。
乗せてもらって偉そうに考えることではなく、運んでもらえているだけで本来は感謝しなくてはいけないところなのだが――。
「先生、お世話になったことには本当に感謝してます。してるんですが……」
「いいのよ、乗せていってあげたから部活を見に来てなんて言わないわ。少しだけ期待はしてるけど、ちょっぴりだけだから」
「そ、そうじゃなくてですね、俺の家じゃない方向に向かってるみたいなんですが……」
最初に俺の家がある場所については伝えて、先生もカーナビに登録していたのだが、今はなぜか『自宅』に向かってまっしぐらに進んでいる。この場合の自宅とは、杜山先生の家のことだ。
信号待ちをしている間に、先生がこちらを向く――例のごとく、女神の微笑み。しかし俺は、この笑顔を前にしても、素直に心を許すわけにはいかないと感じた。
「海原くんのことを偶然見つけて、バイトをしてるところを見てたのはね、謝らないといけないと思ってるの。でもね、やっぱり見ちゃったから、海原くんの担任の藤田先生に聞かなきゃいけないと思って」
「聞くって……ま、まさか……」
「そう。海原くんがどうしてアルバイトをしてるのか……そうしたら、お父さんの単身赴任でご両親が留守にしてるから、海原くんも自立心が強いんじゃないかって教えてくれたの」
まだ藤田先生には、この春からの二週間しか受け持ってもらっていない。しかし俺の家庭の事情を知ると「何かあったら先生に相談しなさい」と言ってくれていた。
純からすると「オカンみたいな先生」とのことだが、まだそんな年齢ではなくて、岸川先生より幾つか年上というくらいだ。そんな先生同士のネットワークで俺の事情が伝わってしまったと思うと、仕方ないことではあるが無性に恥ずかしいものがあった。
「それで、ずっと気になってたの。私も先生になってから一人暮らしなんだけど、一人でお夕飯を食べてるときに、海原くんは同じようにしてると思うとね……」
それは普通のことというか、あまり気にされても申し訳なくなってしまう。俺はただでさえ、岸川先生に餌付け――もとい、弁当のお裾分けをされているのだから。
「先生の家に俺を招いてくれて、夕食を作ってくれる……っていうことですか?」
答えは出ているのだが、半分くらいは否定してほしいという思いがあった。
学校の先生に招かれて家で食事をするなんて、それは先生と生徒の関係性として、壁を超えてしまっている気がする。岸川先生もまだ俺の家に来たことはないし、彼女を差し置いてというのも言い方としてどうかと思うが、杜山先生の家に行くのは後ろめたさが無視できないほど大きい。
「大丈夫よ、海原くんがお腹いっぱいになったら、ちゃんとお家まで送ってあげるから。先生、送り狼さんにはならないわよ」
先生はキリッとして大人のジョークを言っているつもりなのかもしれないが、それを生徒に言うのもどうなのか。女性が送り狼になるというのはまず聞かない話なので、俺もそれを心配してはいない。足を挫いたくらいで女性に屈服させられるほど、俺は弱くはない。何かが起こることを期待しているなんてことはない。断じて。
「俺はもう普通に立てますし、これ以上お世話をしてもらうと、サポートをしてもらっているというか、過保護になってしまうと思うんですが……」
「遠慮しなくていいの、二人分作る方が楽なんだから。お姉さんに任せなさい」
理詰めで説得を試みても、普通に押し切られてしまう――こうなってみてわかったことだが、杜山先生はこういうときに押しが強いのだとわかった。
しかし岸川先生に知れたらというのは、どうしても気にかかる。彼女がお姉ちゃんを自称しているからといって、ここで俺は岸川先生の弟のようなものだと主張し、芽瑠お姉ちゃんに操を立てているのですと言ったら、さすがに杜山先生もちょっぴり引いてしまうだろう。そして岸川先生を大いに喜ばせてしまうか、杜山先生にはそういうことを言ってはいけないとTPOをわきまえて俺をたしなめることだろう。
杜山先生も岸川先生と似た方向の理由で俺の面倒を見ようとしてくれているという可能性も否定はできない。別に俺は、誰彼構わず年上の女性を惹きつける弟体質というわけではないはずなのだが。そんなことを自認していたら勘違いもいいところだ。
「怪我をしてないときでも、いつでも遠慮しないで、何でも言ってくれていいのよ。私は海原くんに感謝してるの。あのとき吹奏楽部を助けてくれたこと」
「俺は……恩義に感じてもらうほどのことは、してないですよ」
あのとき俺は、何を思っていただろう――久しぶりに楽器に触れられることを、どう思っていたのか。
それを思い出すことから、今は意識をそらす。
俺は中学最後のコンクールで、もう楽器はやめると決めた。嫌気がさしたわけでも、部活が面倒だというわけでもない。十分にやりきったと、そう思っているから。