第一章 救いを求めるその手を取って
秋の気配を孕んだ風がカーテンを揺らしながら吹き込んでくる。西に傾いた太陽が照らす校庭を、教室の窓辺の席から頬杖をついて眺めていた。野球部の活気のある声と、橙色に染まった白球が目に眩しい。健康的な汗を流して部活動に励む学生を見ていたら、不意に『青春』という単語が頭に浮かんだ。自分とは無縁の言葉だと思ったが、黄昏時の教室で一人物思いに耽っているこの状況も、傍から見れば充分青臭い気がした。
「
呼び掛けに応じて振り返ると、教室後方のドア付近に見知った顔の女子生徒が立っていた。その後ろからこれまた顔馴染みの男子生徒も顔を覗かせる。
「
「進路相談でちょっとね。憂人君は?」
「俺は……特に何も。もう帰るよ」
鞄を持って席を立つ。今一度窓の外を一瞥してから、二人に続いて昇降口に向かった。
校舎を出ると、沈みゆく陽光が瞼を刺激してきた。並ぶ影が三つ、歩く先の地面に伸びている。雑談しながら歩を進めているうちに、話題は次第に進路の話へと移っていった。
「朔夜は薬学部のある大学で、辰貴は警察学校志望だっけ」
「ああ。憂人は就職するって話だったが、本当に進学はしなくていいのか?」
「大学に行って学びたいこともないからな……」
それに、学生生活は正直もういい。学校という狭い世界は息が詰まる。肩身が狭いし、昔ほどじゃないにしろ針のむしろ感は否めない。できる限り早く自立して稼ぎを手にし、可能なら俺たち家族を知る者がいない土地へと母と共に移り住みたいと考えている。
「そっか……。この三人で一緒に歩けるのも、もうあと少しなんだね……」
「そう落ち込むな。今生の別れというわけでもない。会おうと思えばまた会えるさ」
「俺たちに無事明日が来ればだけどな」
「縁起でもないことを言うな、憂人。……と言いたいところだが、否定しきれないのも事実か」
「確かに、今世の中で起きてることを考えればそうだよね……」
事の発端はひと月ほど前。世界中で、突如として人が死に始めたのだ。
国籍、人種、宗教、性別、その他の一切に関連性は認められておらず、今日までの間に実に八億人もの人間が命を落としている。眠るように、気絶するように、何の前触れもなく急に意識を失い、そのまま二度と目を覚まさない。連日連夜、メディアはこの話題で持ちきりである。冗談や誇張抜きで、誰の頭にも人類滅亡の文字がちらつき始めていた。
さながら魂が抜けたかのような不審死を遂げることから、世間では《魂魄剥離》現象という呼び名が定着し出している。
未知の病気、バイオテロ、異星人による電波攻撃と、様々な説が囁かれ、多くの憶測が飛び交っているが、未だ解明の糸口すら掴めていない。発生する日時にも規則性はなく、何日も空くこともあれば、数日連続で起こる場合もある。人から人へ感染するかも謎ときている。特に訳が分からないのが、同時多発的に死亡するという点だった。
「一番の問題は被害者数の多さだな。億はやばいだろ」
「ああ。昨日はこの近所でも起きたらしい。まだ知り合いに死者が出ていないのは不幸中の幸いだが、いつ出てもおかしくない以上、もう誰にとっても他人事じゃない」
原因が分からないというのがまた怖い。対処や予防のしようがないからだ。素人が考えて答えが出る問題ではないかもしれないが、それでも考えずにはいられない。
陰鬱な面持ちになる俺と辰貴だったが、そんな雰囲気を緩和させる穏やかな声が届く。
「でもさ、分からないことをあれこれ考えても仕方ないよ。たぶん私たちにできるのは、今この時を大切に生きることなんじゃないかな。家族や友達に優しくしたり、一日一日を丁寧に過ごしたり、それこそ明日死ぬことになったとしても、後悔を残さないようにさ」
そう言って、朔夜は柔らかく頬を緩めた。柔和に微笑むその表情からは、何とかなるという楽観的な様子も、投げやりになっているという悲観的な態度も見受けられない。慰めや強がりといった色もない。ただ純粋に、本心から言葉を紡いだのだと分かる。だからこそ、彼女の言は胸に響く。俺と辰貴は互いに顔を見合わせると、同時に小さく笑った。
「朔夜の言う通りだな」
「違いない」
俺たちの会話を聞き、朔夜もまたくすりと笑った。ふと幼い頃を思い出す。この二人とは就学前からの付き合いだが、あの頃も今も関係性はさして変わっていないように思う。対等な、気心の知れた間柄。それは、そうあれるよう努力してきたからに他ならない。
そんな折、斜め前方から話し声が聞こえてきた。見覚えのない二人組の男子生徒がこちらをそれとなく窺いながら歩いている。断片的ではあるが、やり取りの内容を耳が拾う。
「おい、あれ見ろよ。
「さすがはミス北高なだけあるよな。あんな人を彼女にできたら人生超ハッピーだろうな」
朔夜を先輩呼びしていることから察するに同校の後輩だろう。俺たちの方をチラチラと見ながら談笑している。朔夜は器量が良いからこういったことはわりと日常茶飯事だった。
「一緒にいるのって
「あの三人っていつも一緒にいるイメージ。相当仲いいんだろうな」
話題に自分まで出てきたので少し驚く。彼らと目が合いそうになり素早く逸らした。これ以上盗み聞きみたいな真似は止そう。そう思い、朔夜たちの方に視線を戻した時だった。
「……あ、そういえば知ってるか? あの話」
「あの話って? ……ああ、あれか。昔あった事件の話だろ。知ってる知ってる。あんなことがあったってのに、あの三人よく一緒にいられるよな。俺なら気まずくて無理だわ」
「な。特に高坂先輩とかヤバくね? どんな神経してんだろ。逆に尊敬するね」
男子生徒たちからそんな会話が聞こえてきて、心に暗い影が落ちる。陰口同然の言葉だったが反論する気は起きなかった。似たようなことは今までにも散々言われてきたし、何より俺自身もそれが事実であり、同感だと認めてしまっている部分があったから。
だが、隣の二人は違ったらしい。俺が真顔でいる一方、朔夜は唇をきゅっと噛みしめ目を伏せていた。辰貴に至っては彼らの方に向かい始める始末。慌ててその肩を掴む。
「ちょい待て、どうする気だ」
「あの二人の発言はお前に対する侮辱だ。撤回させてくる」
「いやいや、いいって。俺は気にしてない」
「俺は気にする。第一、このまま看過したのでは道理が通らない」
辰貴は俺の手を振り切ると、迷いのない足取りで彼らの所へと歩いていってしまった。
細身だが筋肉質で高身長の辰貴に詰め寄られ、たじたじと畏縮している後輩二人に心の中で合掌する。
「相変わらずだな、あいつは。一本気というか、融通が利かないというか……」
「でも、私も辰貴君と同じ気持ちだよ」
その台詞に少々面食らいながら隣を見る。朔夜の横顔は凛としていて、微塵の揺らぎもない。俺が中傷されたことへの怒りと悲しみが、瞳の奥に透けて見えるようだった。
「憂人君は悪くない。だから、お願い……悪く言われることに慣れないで」
「……ああ、そうだな」
周りから敬遠されることにはもうさほど動じなくなった。朔夜の言うように、きっと慣れてしまったのだと思う。だけど、それより何より、朔夜と辰貴が俺のことを受け入れてくれたから。本当なら、他の誰より拒絶してもおかしくないのに、二人がずっと傍にい続けてくれたから、俺は今日まで孤立せずにいられた。心を強く保ってこられたのだ。
自分がこれまでこの街に留まり続けてきたのは、家庭の経済事情もあるが、それと同じくらい、朔夜や辰貴との関係が断たれるのを恐れたからなのだろう。
万人に優しくてしっかり者の朔夜。曲がったことを嫌う正義漢の辰貴。昔から二人は変わらない。自分の中に確かで強固な芯を持っている。
(だからこそあんな事があったにもかかわらず、俺と一緒にいてくれてるんだろうな……)
不意に思い出す、あの日のことを。俺たちの絆に波紋を投じたあの忌まわしき事件を。
七年前のことだ。とある中小企業を経営していた男が、大手製薬会社の社長である
この事件で亡くなった社長秘書が朔夜の母親であり、犯人を射殺した警察官が辰貴の父親であり、そして、事件を企て実行した男が――俺の父親だった。
「待たせたな二人とも。……ほら、帰るぞ憂人」
親は親で、子は子。独立した別の人間だ。父が犯罪者であろうと俺は悪くない。それは理解している。朔夜たちも同じように考えてくれている。だから今も傍にいてくれている。
だけど、同時に思う。
俺と父さんは家族で、この関係はどうあっても変えられない。だからこそ、いつまで経っても絶対に消せない。水に溶かした絵の具みたいな漠然とした罪悪感が拭えない。
「憂人君……行こう?」
「……ああ」
帰途に就く道中、胸の内にはかすかな後ろめたさが漂っていた。
階段の下から、住み始めて六年目になる安アパートを見上げる。二人と別れ家に着く頃には、空は橙から濃紺へとその色を変えていた。
二階に上がり二〇三号室の扉を開けると、築三十五年という微妙な歴史を匂わせる軋んだ音が俺を出迎えた。一軒家だった頃と比べると狭いにも程があると感じていた2Kの部屋も、今ではこれが当たり前と思えるほど馴染んだ。もはや快適ですらあるのだから、住めば都とはよく言ったものである。
玄関から入ってすぐの所にあるキッチンの水道で手を洗い、リビング兼、母の仕事場である洋室の扉を開ける。母は俺の帰宅にも気付かず、壁際に設置したデスクに向かい、一心不乱にパソコンと格闘していた。
「ただいま」
「あ、憂人おかえりー。帰ってきてたのね――……って、あれ? もうそんな時間?」
「普通に夕方だけど、ひょっとしてまた作業ギリなの? 締め切りいつ?」
「あはははは……今日」
「ギリギリのギリじゃねぇか」
母はWEBデザイナーとイラストレーターの仕事を兼業している。個人や企業から依頼されたものを外部発注という形で請け負っているらしい。俺も高校に上がって以降、時折母からノウハウを教わり、スケジュールに余裕がある時は作業を手伝わせてもらっている。技術も少しずつだが身についてきた。卒業後はその方向で身を立てる道も考えている。
とはいえ、まだプロの域にまでは達していない。数秒思案し、今回は下手に手を出すよりサポートに回った方がいいという判断をつけた。力不足な自分が歯痒いが、足手纏いになるのは一番避けたい。一つため息を零してから、隣の自室に荷物を放り投げる。
「じゃあ夕飯は俺が用意するよ。母さんは片手で摘めるサンドイッチとかの方がいい?」
「うん……。よよよ……デキた息子を持ってお母さん幸せ」
泣き真似をする母に苦笑しつつ、冷蔵庫の中に残っている具材を思い出しながらキッチンに向かった。
完全に日が沈み、一人先に夕飯を食べ終えた俺は、自室で日課の筋トレをしていた。小学六年生の夏から始め、今や毎日の習慣となっている。以前、部活にも入らないのになぜ身体を鍛えているのかと母から尋ねられたことがあったが、その時は咄嗟にごまかしてしまった。
(さすがに言いづらいよな……。喧嘩で負けないようにするためなんて)
あの事件の後、同級生から嫌がらせを受けたり、他校の連中に絡まれたりする事態が立て続けに起きた時期があった。その頃から、俺は泣き寝入りしないで済むように、自分の身と正当性を自力で主張し守れるように、筋力と体力をつけ始めたのだ。もっとも、それですべての理不尽を退けられたわけではなかったが。
「母さん、ちょっと外走ってくるわ」
一応一声かけたが、案の定母からの返事はなかった。凄まじい集中力で残る作業に追い込みをかけている。父が死んでから、女手一つで俺を育ててくれた人。俺はその背中に感謝と敬意を覚えながら、邪魔しないよう静かにリビングの扉を閉めた。
残暑がまだ粘りを見せている九月末だが、涼を含んだ夜風は心地よく、肌で切るたびにどこか爽快感を与えてくれる。近所にある水次公園。園の中央には湧き水による巨大な池があり、周囲には散策路が設けられている。昼間はここで釣りをしている人や、砂場やブランコなどの遊具で遊ぶ子供、木々の緑の中で散歩を楽しむ家族連れが多く見られる。夜になると人も減るので、ランニングコースとしてはわりと最適な場所だった。
フードを被り、イヤホンを耳に突っ込んで園内をひた走る。流しているのは
昔から漫画やアニメが好きだった。創作の世界は自由だから。どんな不幸も不条理も、最後にはすべて解決して幸せになれる。だから、努力や絆や奇跡を信じられた。
正義は必ず悪に勝ち、自分には理不尽をはねのけられる特別な力があり、この世は楽しいことで溢れていて、海の外には幻想に満ちた世界が広がっている。そんな夢を持てた。
けれど、歳を重ねていくうちに次第に気付くのだ。この世に悪は蔓延るし、自分は特別でも何でもなく、幸福の陰にはいつも不幸があり、海の外にあるのは普通の大地だと。報われない努力など山ほどあるし、一瞬で壊れる絆だってごまんとある。奇跡もまず起こらない。ましてや魔法や超能力なんてものもなければ、幽霊も妖怪もいやしない。子供の頃に思い描いていたよりもずっと、この世界は冷酷で味気ないものだと知った。
これから先もきっと退屈な日々が続いていくのだろう。金銭を対価として仕事に追われ、スマホのゲームアプリで一時の娯楽に浸り、世の中への不満を酒と共に呑み込んでは無理やり現実を忘れる。そんな未来の自分が容易に想像できる。
(なーんか、つまんね……)
いつか日常を変える出来事が起きやしないものかと、そんな取り留めのない妄想をこれまで何度したことだろう。無意味と分かっていながらも同じ思考を繰り返してしまうのは人間の性なのか。月と街灯の光により落ちた木々の影を踏みしめながら、俺は今まで幾度となく抱いてきたその下らない期待を、一つ大きく息を吐いて地面へと打ち捨てた。
足を止め、池の周囲に立つ欄干に寄りかかる。水面近くをたゆたう魚影を眺めつつ、イヤホンを外してポケットに仕舞う。ランニングのノルマはすでに達成済み。そろそろ帰るかと、指を組んでぐっと背中を伸ばす。そうして足先を家路に向けようと思ったその時だった。聞いたこともない爆音と共に、背後で巨木のような火柱が立ち昇ったのは。
「っ、なんだ……っ⁉」
現場は対岸。何事かと振り返ると、直径百メートルほどある池の向こう岸から何かが吹っ飛んできた。その何かは水切りの石の如く水面を跳ね、池の中央にある噴水上を一直線に通過し、そして俺がいる遊歩道に至ってようやく停止した。改めてそれに意識を向ける。
女の子だった。
小学校低学年くらいのあどけない少女。銀白色の長髪に、雪を連想させるほど白い肌。アクアマリンのような透明感のある水色の瞳。全体的に色素が薄く、一見して日本人じゃないと分かる。服装は対照的に濃色で、黒い長袖のカットソーに深い臙脂色のミニスカートと、年齢のわりには随分とシンプルな装いをしていた。水に濡れ、土に汚れ、体中傷だらけのその少女は、それでもどこか神秘的な雰囲気を醸しており、俺は暫し呼吸も忘れて見つめてしまっていた。
目と目が合う。小さな唇が戦慄き、縋るようなか細い声が俺の耳朶を打った。
「Помогите……」
聞き慣れない言葉。意味の通じない言語。しかし、その二つの目が、祈りにも似た眼差しが、助けを求めていることを如実に訴えかけてきていた。
「いっけねェ。軽いから飛ばしすぎちまったよ」
今度は頭上から別の声が降ってくる。俺と少女の数歩先、声と共に颯爽と着地したのはスーツ姿の若い男だった。タバコをふかし、赤い髪を逆立て、ピアスやらネックレスやらチェーンやら、全身の至る箇所にアクセサリーをジャラジャラと着けている。頬には鳥の刺青が彫られており、人相が悪く目つきも鋭いため、ただ相対しているだけで睨まれているようにも感じてしまう。顔立ちからして、この男も少女と同じく外国人のようだ。明らかに一般人ではない。ヤクザやマフィアと言われたら迷わず信じてしまう風貌をしていた。
(というか今、どこから降ってきた……?)
まさか池の対岸からジャンプしてきたのだろうか。そんなわけないと思いつつも、男が発する異様な雰囲気がその突飛な考えを完全には否定させてくれない。汗が頬を伝っていく。呼吸音を立てることすら憚られる空気の中、二人の動向にただ目を凝らした。
「お前さァ、あんまチョロチョロ逃げ回んなよ。もう観念して死んどけって。な?」
物騒な物言いにぎょっとする。どう考えても厄介事の気配しかしない。
関わらない方がいい。そう思った。けれど、先ほど少女から向けられた懇願の視線が、立ち去るべきと警鐘を鳴らす心に待ったをかけている。幾ばくかの逡巡の後、決め手になったのは夕方に朔夜から告げられたあの一言だった。
(『明日死ぬことになったとしても、後悔を残さないように』……)
たとえ見て見ぬふりをしたところで、きっと誰にも責められることはない。でも、ここでこの子を見捨ててしまったら後悔を残すことになるという確信があった。だから、震えそうになる膝を必死に抑えて、虚勢で何とか背筋を正し、少女と男の間に割って入った。
「あァ? なんだ、お前?」
タバコを手に眉をひそめる男。眼光で人が殺せそうだ。猛獣の方がまだ可愛げがある。
ほとんど無策ではあるが、蛮勇を振るうつもりもない。あれだけの轟音と炎上があったのだから、おそらく近隣住民か通行人の誰かがもう通報してくれているはず、という密かな打算があった。ゆえに俺が今取れる最善手は、赤毛の男を不用意に刺激しないよう気をつけながら時間を稼ぐこと。声が裏返らないよう静かに息を整えてから、努めて冷静に言葉を返す。
「あの……事情はよく分かりませんが、ひとまず落ち着きませんか? この公園、結構近くに警察署もあるので、乱暴な行動は避けた方があなたにとってもいいかと――」
直後、バチンと額の辺りで何かが破裂したような音がした。
それがデコピンによるものだと理解できたのは、三メートル以上吹っ飛び地面に転がされた後だった。頭が内部から揺さぶられているかのような強烈な眩暈に襲われる。軽く指で弾かれただけなのに、バットでフルスイングをかまされたのと同程度の衝撃を受けた。
「う、ぁ……?」
視界がぐらつく。平衡感覚が狂って立てない。間違いなく脳震盪を起こしている。馬鹿げた力だ。そもそもいつの間に接近されたのか。動きがまるで見えなかった。
男は這いつくばる俺を見下しながら、煙を吐き出し、口の端を邪悪に歪ませる。
「パンピーに用はねぇ。邪魔だからすっこんでろ」
嘲る男を前に、奥歯を噛みしめる。依然として恐れはあった。だが、いきなり問答無用で暴力を振るわれたことに対し、沸々と怒りも込み上げてきた。挑むように睨み返す。
ふざけるなと、そう言ってやりたかった。
しかし、次いで上から落とされた言葉が、己が中に募り始めた戦意を一瞬にして削いだ。
「じゃないとお前も殺すぜ……?」
ぞわっと全身が粟立った。口先から出た冗談や単なる脅しの台詞じゃない。口調や態度は軽薄だが、そこに込められた冷たく明確な意志を、俺は生物が元来持つ本能的な部分で感じ取っていた。初めて他人から向けられたそれを前に身の毛がよだつ。呼吸が乱れる。足がすくむ。指の一本すら動かせない。おそらくはこれが、殺意というものなのだろう。
真冬に頭から冷や水でもかけられたみたいに、身体がガタガタと震え出す。生半可な覚悟や善意で関わるべきではなかったのだという思いが、瞬く間に心の内を占拠した。
「…………っ!」
前方から鈍い音がしたかと思うと、恐怖に支配されている俺の眼前に、銀髪の少女が倒れ込んできた。その頬は赤く腫れていた。
「さァて、手間ぁ取らされたが、ようやくフィナーレだな」
左手の薬指にはめている唯一の指輪。男はその着け心地を一度だけ確かめると、少女に向けて手をかざした。腕の周りの空気が揺らぐ。熱気と共に火花が舞い、夜空を焦がさんばかりの炎が巻き起こった。その現象を目の当たりにし、言葉を失う。手品や虚仮威しの類ではないと自分の五感が告げている。この炎は今、この男自身が生み出したのだ。
人間じゃない――。そう思えるほど異常な光景だった。危険な人格破綻者というだけでは説明がつかない。あの怪力も、この炎も、ただの人間が為せる業とは思えない。ひょっとしたら自分はとんでもない事件に首を突っ込んでしまっているのではないか。これまでとは別種の恐怖心が鎌首をもたげ、心臓の鼓動がうるさいくらいに鼓膜を叩き始めた。
怖い。ひたすら怖い。一秒でも早くこの場から逃げ出したい。
このひと月の間に八億人もの人々が命を落としている今、俺もいつ死ぬか分からない。明日死んでもいいように、後悔を残さず生きたいと思ったのは本心だ。だけど、『死ぬ』のと『殺される』のとでは違う。俺は痛みや苦しみを厭わず人助けに臨めるほど善人じゃない。痛いのも苦しいのも嫌だ。どうせ死ぬのなら心安らかに死にたい。
逃げなければ――。朦朧とする意識を呼び戻し、震える膝に鞭打ち立ち上がろうとする。
その瞬間、少女と再び目が合った。暗い湖の底みたいな、意志の光が希薄な蒼然たる瞳。今、幼い彼女の双眸には、心が折れた情けない高校生の姿が映っていることだろう。
「これで俺の願いも叶う……。んーじゃ、あばよ」
男から放たれる死刑宣告。それだけで肌を焼くような熱風が吹き抜ける。今すぐここから離れなければ、数秒後には消し炭になる未来が訪れる。いや、一瞬で灰になれるのならまだいい。皮膚を、肉を、舌を、眼球を焼かれる苦痛はいかほどのものか。焼身自殺を図ったものの失敗して生き残った人の凄惨な体験談が、こんな時に限って脳裏をよぎった。
「…………」
それほどの極限状態なのに、もう少しで死ぬかもしれないそんな時なのに、俺は赤毛の男ではなく、目の前で倒れ伏している少女の方を見ていた。涙に濡れた瞳でじっとこちらを見つめてくる少女から目が離せなかった。彼女は、今度は何も言わなかった。助けを乞う言葉はなく、ただ弱々しく伸ばされた手が、当てもなく虚空をさまよっていた。
ドクンと、心臓が一度強く脈打つ。暴力に傷つけられ、理不尽に打ちのめされた少女の姿が、不意にかつての自分と重なった。
こんな小さな子が死罪に値するような罪を犯すわけがない。この子がこのまま殺されるのは、俺が最も憎んでいる『不条理』そのものだ。ここで逃げ出すことは、自分の存在意義を、行動原理を、根こそぎ否定することになってしまう。それは命を失うよりつらい。
助けないといけない。その思いだけだった。
そこからは、何かを考えて行動したわけではなかった。身体が自然に動いたと言う他ない。怖いのも痛いのも苦しいのも嫌だけど、でも、それらすべてを加味しても、この子を見捨てる理由にはならないと、自分の中でそう結論が出たから――。
だから、俺は彼女の手を取った。
***
不思議な感覚だった。
少女に触れたその瞬間、今まで感じていた恐れも痛みも一瞬で消え去り、代わりにこの子を守らなければという使命感と、そのためなら何でもできるという全能感が芽生えた。繋いだ手から腕を通り全身へ、ありとあらゆる力が巡り、浸透していく。
赤毛の男の手の平から放出された業火。迫りくる死の熱波が、やけにスローモーションに見えた。少女を引き寄せ、池とは逆側に跳ぶ。軽く地面を蹴っただけなのに、跳躍の距離は五メートルを超えた。それも、人一人を抱えた状態で。
「……は?」と、唖然として口を開ける男。何が起こったのか理解できないといった顔をしている。咥えていたタバコが唇の隙間からぽろりと落ちた。
相手が虚を衝かれている今が千載一遇のチャンス。勝機は今この一瞬しかないと闘争本能が叫んでいた。抱えていた少女をその場に下ろし、男に向かって疾走する。
やるしかない。感情のままに咆え、右の拳を握る。
数瞬の間に男の懐に飛び込み、その腹目掛けて根限りの力を叩き込んだ。
「な――が、ぼっっ……!!」
驚愕して目を剥いた男の足が地面から浮く。鳩尾にめり込む拳から伝わる、筋肉の線維を引き千切り、肋骨を砕く感触。その勢いは男が纏わせていた爆炎を容易に掻き消した。空気の波動は音を超え、舗装された地表を剥がし、池に荒波を生じさせる。男の身体は背後の欄干を突き破り、一度も着水することなく対岸まで矢の如く吹っ飛んでいった。
公園内に落ちる刹那の静寂。風圧で巻き上がった池の水が雫となって雨さながらに降ってきたことで、周囲にようやく音が蘇る。目の前にあるのは、ミサイル発射後のような通過跡。抉れた地面、破壊された欄干、左右にさざ波立つ水面、土ぼこりを上げる対岸、それらが一直線になって続いている。
「……は……?」
今度は俺が口を開ける番だった。自分でやったことではあるが、あまりにも現実離れしすぎていて信じられない。言うまでもなく、こんな怪力を発揮したのは生まれて初めてのことだった。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。いや、それにしたって常軌を逸している。
(というか、あの男ちゃんと生きてるよな? 殺したりしてないよな……?)
その時、ざわざわとした喧噪とサイレンの音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた野次馬と、待ち望んでいた警察が今になってやっと到着したらしい。
内心、焦る。
正当防衛を主張しようとは思うが、色々と説明しがたいことが多いせいで認めてもらえるか微妙な気がした。そもそも俺自身もまだ全容を把握できていない。事情聴取でおかしなことを口走ろうものなら、逆に俺の方に嫌疑がかけられる可能性だってある。当然、起こったことを馬鹿正直に伝えるのも愚策だろう。頭の心配をされるのがオチだ。
――考える時間が欲しい。
短い思惟の末、選んだのは逃走。まずは状況を整理するのが肝要だと判断した。
座り込んでいる女の子に目を遣る。あの男が何者なのか、自分の身体に何が起こっているのか、そのどちらにも関係しているのがこの少女だ。彼女の素性を知ることが今後の方針を決める上で重要になってくるに違いない。何より、このままこの場に放置はできない。
「一緒に来るか?」
尋ねながら手を差し出す。少女はその手をまじまじと見つめた後、俺の顔をぼんやりと見上げてから、そっと手を握ってきた。
小さく、柔らかく、しっとりと冷たい手。その低い体温に、なぜだか物悲しさを覚えた。放さないように、壊さないように、加減しながら握り返す。
今一度俺の顔を見て、何度か瞬きを繰り返す少女。そして、視線を再度手元に戻してから、彼女もまた、その手にかすかに力を込め、ぎゅっと握り返してきた。
水次公園から最短距離で家に向かう。
帰る途中、何度かすれ違った人がこちらを振り返ってきた。やはりこの子の容姿は目を引いてしまう。やむを得ず着ていたトレーニングウェアを彼女に羽織らせ、フードを被らせることにした。多少怪しいが銀色の髪で注目を集めるよりはマシだし、水に濡れた身体を冷やさないためにも着せておいた方がいいだろう。
「あ、憂人君」
家に着くと、アパートの前で朔夜が待っていた。前以て連絡を入れておいたのだ。
「夜遅くに悪い。というか、俺が行くから家にいていいって言ったのに。危ないだろ」
「ううん、近いし大丈夫だよ。それより、『子供の頃の服ってまだ持ってるか』なんて突然言われたからびっくりしちゃった。……その子が電話で話してくれた迷子の子?」
「ああ。何というか……ちょっと訳アリでな。今すぐには警察に連れていけないんだ」
「そうなんだ……。かわいそう、すごく汚れちゃってるね……」
膝を曲げて少女と目線の高さを合わせる朔夜。少女の方は最初一瞬だけビクッとしたが、朔夜に害意がないことが分かったのか、おっかなびっくり上目遣いに見つめ返していた。
「ねぇ憂人君。お風呂借りてもいいかな?」
「構わないけど……まさかこの子を入れてあげる気か?」
「うん。こういう時って心細いから誰かが傍にいてあげた方がいいと思うんだ。それに見たところ外国の子みたいだから、もしかしたら日本のお風呂に不慣れかもしれないしね」
そう言うや否や、アパートの階段をスタスタと上がっていく。本当は少女の着替えだけ受け取ったらすぐに家まで送っていこうと思っていたのだが、告げるタイミングを逸した。朔夜は基本的に物腰柔らかな大人しい性格だが、決断力や行動力がないわけじゃない。たまに押しが強く、そうこうしているうちに話が進んでいる時がままある。
(仕方ないか……)
実際、同性の朔夜がいて助かるのは事実だし、今回は彼女の厚意に甘えることにした。
二人を連れて家の中に入り、改めて少女を見てみる。朔夜が言ったように、汗やら泥やらのせいで全身くまなく汚れている上、衣服も池の水を吸い込み湿っている。
このままでは風邪を引きかねない。本心では一刻も早く話を聞きたかったが、急がば回れとも言う。
それにあんな出来事があったすぐ後に質問攻めにしたところで、こんな幼い子が冷静に答えられるとも思えない。まずは心身共に落ち着かせてあげるのが先だろう。
「それじゃ、すまないけど頼む。タオルとかはこっちで用意しておくから。怪我してるから多少痛がるかもしれないけど――」
と、そこまで言って気付いた。少女の頬、腕、脚に視線を遣り、思わず息を呑む。
(傷が癒えてる……?)
確かにあったはずの痣や擦り傷が跡形もなく消えていた。
「? じゃあ、行ってくるね?」
不思議そうな顔をしつつ、それでも俺の意を汲んで浴室の方へ向かう朔夜。少女も朔夜に手を引かれ、俺の方を振り返りつつも、素直に脱衣所に入っていった。
(いや……うん。ワンパンで百メートル吹っ飛ばす超パワーに、手から炎出すビックリ奇術まで見たんだ。ちょっと傷の治りが早いくらい、今更驚くまでも……)
などと自分に言い聞かせ、無理やりにでも納得しようとしてみる。
「……頭が痛くなってくるな」
いつか何か起きないかと願ってはいたが、いざ実際に非日常的な事態に直面すると戸惑うものなのだと知った。全くわくわくしていないと言えば嘘になるが、高揚感よりも困惑の方が遥かに大きいというのが本音である。
少女が着ていた服を洗濯ネットに入れて洗濯機へと放り込み、洗剤片手にため息を一つ。スピード洗い設定にし、スタートボタンを押す。唸りを上げて回り始めたドラム式のそれを尻目に、短く息を吸い込んでからリビングのドアを開けた。
室内はしんとしていた。時刻は二十三時過ぎ。寝るにはまだ少し早い。デスクの方を見ると、母はそこで事切れたかのように爆睡していた。パソコンの画面を見るに仕事は無事完遂したようだが、作業終了と共に落ちてしまったらしい。今までにも何度か見たことのある光景だった。こうなった母は朝まで何があっても目を覚まさない。現状について相談したかったが、厄介事に巻き込みたくない気持ちもあったので、落胆と安堵が同時に去来した感じだ。とりあえず俺の自室に布団を敷き、そこに母を運んで寝かせることにした。
喉の渇きを覚え、グラスに水を注いで一気飲みする。それで何とか人心地ついた。
しばらくすると風呂から上がった二人がリビングに入ってきた。少女の方は朔夜のお古の白いパーカーを着ている。若干サイズが大きいようだが、一時凌ぎなので我慢してもらおう。彼女たちを座卓の前に座るよう促し、俺もその正面に腰を下ろした。
「それで、何があったの? 憂人君、何だかずっと思い詰めた顔してる。言いづらいことなら無理には聞かないけど、私で良ければ話してほしいな」
不安げに揺れる朔夜の双眸がまっすぐに向けられ、俺の心に葛藤を生む。
母と同様、朔夜を巻き込みたくない気持ちはあった。しかしその反面、一人で抱え込むのが少々限界に達しつつあるのもまた事実だった。それに、もう充分関わらせてしまっている以上、ここで話さないのはむしろ不義理のような気もした。
「……順を追って説明する。かなり荒唐無稽な話だから信じられないだろうけど、ひとまず最後まで聞いてくれ」
そう前置きをしてから、俺も自分の中で情報を整理しつつ、公園で起きた一部始終を細大漏らさず朔夜に伝えた。
正直、内容が内容だけに真に受けてもらえるとは思えなかったが、彼女に対して嘘はつきたくない。昔から、特にあの事件の後からは、朔夜には誠実であろうと誓い、そうあれるよう努めてきた。それは今回のような場合でも同じだった。
「そっか……。そんな大変なことがあったんだね」
だが予想に反し、話を聞き終えた後の朔夜の反応はとても淡泊だった。呆れている様子も訝しむような素振りもない。
「……信じてくれるのか?」
「え? だって本当なんでしょう?」
「あ、ああ、そうだけど……でも、常識的に考えたらありえない話だろ。素直に受け入れてくれるのはありがたいが、それでもこんな話、誰だって疑うのが普通だ」
「もう……何年の付き合いだと思ってるの? 憂人君はそんな変な嘘つかないでしょ。私からしたら、ここで憂人君を疑うことの方が『ありえない』よ?」
柔らかな笑みを浮かべて、さも当然といったふうに言い切られ、つい呆気に取られてしまう。彼女はそんな俺を見て、再び優しげに目を細めた。
「信じるよ。憂人君だもん」
外連も飾り気もない、どこまでも一途すぎる言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。
人は他人を見る時、大なり小なりその人を枠組みの中に捉えて見る。『足が速い』、『頭が良い』、『性格が悪い』、『根が暗い』などの記号を付ける。あの事件の後、俺は周りから『犯罪者の子供』というレッテルを貼られた。犯罪者――それも殺人犯だ。誰もが少なからず俺を敬遠した。仕方のないことだと思う。もしも自分が逆の立場だったら、俺も同じようにその人を遠ざけていたかもしれないから。
でも、朔夜は違った。彼女は俺と距離を取ったりしなかった。
加害者の息子である俺と、被害者の娘である朔夜。頭では理解していても、気持ちで割り切れないことは多い。俺とそれまで通り接するのは、朔夜にとっても簡単なことではなかったはずだ。それなのに、変わらず傍にいてくれた。傍にい続けてくれた。それに俺がどれだけ救われたか、たぶん、他の誰にも分からないだろう。
「……サンキュ」
「ふふ、お礼言われるようなことじゃないよー」
彼女がいなければ、俺は今頃人としての道を踏み外していたかもしれない。そう思えるほどに、俺の中で朔夜という人間の存在は大きかった。そんな俺たちのやり取りを、白い少女は無言のままじっと見つめていた。
「あー……今更だけど、まずは自己紹介とかした方がいいよな。……俺は高坂憂人」
「私は天城朔夜っていいます。あなたのお名前も教えてもらってもいいかな?」
なるべく声音を柔らかくして話しかけてみたが、少女からの返事はない。水色の瞳をぱちぱちと瞬かせ、わずかに小首を傾げている。
「お風呂でも声をかけてみたんだけど、その時も同じような反応だったんだよね。目は合うから無視してるってわけでもなさそうだし、やっぱり日本語が分からないのかな」
「かもな。とりあえず英語でも試してみるか。……ワッチュアネーム?」
少々発音が怪しいがかろうじて通じるはずと信じてトライしてみたものの、やはり返答なし。いきなり言語の壁にぶち当たった。こういう場合はどうしたものか。文明の利器に頼るのも手だろうか。スマホの翻訳アプリを駆使して少女の母国語を虱潰しに探っていくというのはどうだろう。そんな具合に沈思黙考する俺の傍ら、朔夜は微笑みながら少女の顔を覗き込んだ。そして、まずは自分を指差し、続いて俺を指しながら優しく言う。
「さくや。……ゆうと」
木漏れ日みたいな微笑を湛えたまま、手の平を上に向け、最後に少女を指した。
「あなたは?」
少女は向けられた手をじっと見つめ、順番に朔夜と俺の顔に視線を移し、何かを考えるように少しばかり目を伏せた。数秒の沈黙の後、桜色の唇がゆっくりと開いていく。
「……レーヴェ」
ぽつりと零れたその音は、紛れもなく少女から発せられた声だった。それを聞き、俺もつい感嘆の声を漏らしてしまう。何だろうこれは。初めて言葉を喋った幼子を前にしているような感覚なのだろうか。この子と接していると、ものすごく庇護欲を掻き立てられる。
「朔夜すごいな」
「いやー、えへへ。でも大変なのはここからだよね」
確かにその通りではある。特に聞きたいのは二点。あの赤髪の男が何者なのかと、少女自身の素性について。これらを聞き出すのはかなり骨が折れるだろう。それでも、名前を知れたのは一歩前進だし、無事に意思疎通ができたことは大きな収穫と言える。この流れに乗って調子よく話を進めていきたいところだ。
これはいよいよ翻訳アプリの出番かとスマホを取り出しかけたが、続けようとした問い掛けは『くー……』という可愛らしい音に遮られた。少女のお腹が鳴ったのだ。彼女はうつむきながら両手で腹部を押さえている。どうやら相当空腹らしい。朔夜がその様子を見てちらりとこちらに視線を送ってくる。それで意図は察した。おもむろに立ち上がり、台所へ向かう。
「何か残ってたかな……」
冷蔵庫の中は過疎化が進んだ村のような有様だった。冷凍庫にはレトルトのハンバーグを見つけたが、生憎今日は米を炊いていない。味が濃いハンバーグをそれのみで食べるのは少々しんどいだろう。さらにごそごそと中を漁っていくと、底の方にバンズを発見した。
諸々を解凍し、温めたバンズにハンバーグやレタスやスライスチーズを挟み込んで、マヨネーズとケチャップで適当に味を調える。飲み物は牛乳かビールか水道水の三択だったので、一番マシと思える牛乳を提供することにした。
「はい、どうぞ。即席で作ったから美味しいかは分からんけど」
少女は皿に置かれたものを見て固まっている。そっと手に持って上下左右から観察し、俺たちに無垢な瞳を向けてきた。まるで『何これ?』とでも言いたげな視線である。
「知らないのか? ハンバーガーだよ、ハンバーガー」
少女は俺の口の動きを見た後、手元のそれに視線を戻し、また再度こちらに目を向けた。
「ハンバガー?」
「惜しい。ハンバーガー」
「……? ハンバガー」
やはりニアピンで言えていないが、その様子が愛らしくて訂正する気も失せる。気をつけていないと口元が緩んでしまいそうだ。朔夜はもう手遅れのようで、紅潮した頬を両手で覆い、目を一等星のように輝かせていた。とりあえずジェスチャーで食べる真似をしてみせると、少女は俺の動きに倣い、小さな口でハンバーガーを頬張った。もぐもぐと咀嚼し、こくんと飲み込む。その直後、水色の澄んだ瞳から、ぽろぽろと涙が零れ始めた。
思わず動揺する。口に合わなかったのかと不安に駆られたが、少女は嗚咽を漏らしながらもゆっくりとそれを食べ続けていた。朔夜は何かを感じ取ったのか、少女の背中に寄り添うと、彼女が食事を終えるまでの間ずっと、後ろから肩を優しく抱いてあげていた。
食べ終えて間もなく、少女は朔夜に寄りかかり寝息を立て始めた。もう日付も変わる。子供が眠くなってしまうのも仕方ない。しかし、それとは別に、お腹が満たされたこと、泣き疲れたこと、そして安心して気が抜けたことが眠気を誘ったのだろう。
安らかな寝顔。聞きたいことは山ほどあるが、すやすやと眠る女の子を強引に起こすのは気が引ける。苦笑を漏らしつつ、何とはなしにその銀白色の髪をさらりと撫でた。
刹那、少女の瞳がパチリと開いた。
突然目覚めたことに驚いたのも束の間、少女の体躯がふわりと宙に浮く。空のように澄明だった水色の双眸が真紅に染まっていく。焦点の合っていない瞳で虚空を見つめる少女の身体が、謎の淡い白光に包まれた。神々しいその姿は、見る人によっては天女を連想するかもしれない。言葉もなく見惚れていると、家の壁や天井をすり抜け、周囲から掌大ほどの白い光の粒子が入り込んできた。おびただしい数のそれらは次から次へと舞い込み、少女を中心にして螺旋状に渦巻きながら幼き体内へと消えていく。
何とも不可思議で幻想的なその現象は、およそ三十秒にも満たないうちに終息し、後には厳粛な静けさだけが残った。
綿帽子のような身の軽さで再び地上に降り立った少女は、ここに来た時と同じあどけない女の子に戻っていた。瞳の色も元の水色であることを確認し、心中で安堵の息を吐く。だが、彼女の表情がなぜか悲しげに陰っていることに気付き、躊躇いつつも声をかけた。
「お、おい……大丈夫か……?」
少女が緩慢な動きで俺に視線を向ける。目には不安が滲んでいた。その唇が震えながら開いていく。言語は分からなくともせめて聞き逃さないようにと耳に意識を集めたが、彼女が声を発しようとした矢先、今度は別の驚くべき超常現象が起きた。
家のリビングにいたはずなのに、一瞬にして別の見知らぬ場所に立っていたのだ。
周りの一切が白く、壁という概念がないと疑いたくなるくらい果てなく広大な空間が広がる、そんな場所。
そこに、全人類が集まっているのではと思うほど大勢の人々が集結していた。
(なんだ? 何が起こった……?)
当然、狼狽する。他の人たちも皆似たような反応をしていた。それでも俺が比較的冷静さを保てていたのは、少し前から異常事態に遭遇していたことで気持ちばかりの耐性がついていたためだろう。どうにか現状を把握しようと辺りを見回すと、遠く離れた別々の位置に母と朔夜の姿を認めた。
「――人類の皆さん、ごきげんよう」
多くの会話や雑音が入り乱れる中、その声は直接脳内に流れ込んでくるかのように鮮明に響いた。突如上空から降ってきた声を耳にし、皆が一斉に頭上を仰ぐ。この空間にいる影響なのか、天高くに存在しているにもかかわらず、《その者》の姿は、毛先の一本一本まで明瞭に視認できた。そこにいたのは、何とも形容しがたい生物だった。
特徴的なのは頭部に生えた大きな鹿の角。人間をベースにあらゆる生き物を融合させたような珍奇な姿をしている。ただ、その姿は不均衡でありつつも完成されていて、生物でありながら、生物を超越した神聖さも感じさせた。だから、その容姿を揶揄する気など微塵も起きない。それは穏やかな眼差しの奥に暗い闇が垣間見えたからでもある。包容力に満ちている一方で、言い訳も口答えも許さないといった眼光。安心感と威圧感を同時に抱かせる、優しくも恐ろしい瞳をしていた。
「はじめまして。僕はこの地上に最初の生命を創造した者です。定義にもよるけど、君たちが言うところの《神》といった存在かな」
告げられた言葉に人々がざわめく。上空に佇む天上人は、眼下の様子を見てにっこりと相好を崩した。唇が再度動く。そのたった一動作だけで、波が引くように喧騒は止んだ。
「僕の発言を鵜吞みにする必要はないよ。真偽の判断は君たちに任せる。ただ、とりあえず最後まで話を聞いてほしい。僕がこうして人類諸君の前に現れたのは、今起こっている事態の説明をさせてもらいたかったからなんだ」
そう言いながら、視線を移していく自称神様。この場にもしも本当に全人類がいるのなら、一人一人と目を合わせるなんて絶対に不可能なはずなのに、俺も、おそらくは他の人も、あの存在から『視線を向けられている』という感覚をひしひしと受けていた。
「皆、魂魄剥離現象については知っているね。現在、世界的に発生しているアレのことだ。つい先刻にも五千万人を超える新たな被害者が出た。……そうだね、結論から伝えようか」
そこで一度言葉を区切ってから、神は変わらぬ声色でこう確言した。
「そう遠くない未来、人類は滅ぶ」
衝撃的な事実を唐突に突きつけられ、人々が取った反応は――沈黙。
驚きも怒りも嘆きもなく、ただ皆一様に呆然と立ち尽くした。
「ひと月ほど前、人類滅亡を目論む《魔王》が現れたんだ。魂魄剥離現象もこの魔王が引き起こしている。このまま行けば、あと四ヶ月ほどで人類は絶滅の危機に瀕するだろう」
たらりと、こめかみから頬へと冷や汗が流れていった。
多くの者が、その顔を絶望の色に染めている。中には呆けた表情のまま目を瞬かせている者もいた。突然のことに理解が追いついていないのかもしれない。
「僕はすべての生物を愛しているけど、とりわけ人類のことは特別愛おしく想っている。この世界の摂理上、僕は直接君たちを救うことはできないけれど、それでもどうにかして生き残ってほしいと心から願っている。……ただ、魔王の力は強大だ。人類の武力だけで太刀打ちするのは難しいだろう」
すっと鷹揚に両腕と翼を広げ、これ以上ないくらいよく通る声で言い放つ。
「そこで、君たちの中から《天使》を選出することにした」
神の横に、一人の女性が静かに並び立った。
清楚な修道服を着た、黄金色の長髪が印象的な美しい女性だ。清廉で真摯な人柄が、その面差しや佇まいから伝わってくる。
「紹介するね。彼女はエレオノーラ・スペルティ。かつて西欧の地で神に尽くし、無辜の民のために身命を捧げ、人類史上最も敬虔で慈悲深い聖女と呼ばれた者の生まれ変わりだ。前世の記憶を有したまま転生し、今世でも難民の救済や支援に当たっている。非常に高潔で善性に優れた人格の持ち主であることは僕が保証するよ。彼女をはじめとした十名の天使たちが、きっと魔王を打倒するための大きな戦力になってくれるはずさ」
神の傍ら、金髪の女性が慇懃に頭を下げた。
「コミュニケーションが取れないと不便だからね。今後彼女たちとやり取りする際は、言語が自動翻訳されるよう調整しておくよ」
喋り終えるや否や、パチンと軽く指を鳴らす。一瞬だけ、脳に稲妻にも似た光が迸った。
まさか今のあの行為だけで俺たちの認識に細工を施したのだろうか。だとしたら紛うことなき神業だ。その気になれば人の身体、記憶、能力、命さえも、指先一つで簡単に弄れるに違いない。奇跡の御業を目の当たりにし、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「繰り返しになるけど、僕の話は鵜呑みにしなくていい。君たち一人一人が自分の頭で考えて行動してほしい。何が正しくて、どうするのが最善なのかをね。君たちは各々が特別で主役たり得る存在なのだから。……幸運を祈ってるよ」
全生命の親とも呼べるその者は、柔らかな声音で人々の頬を撫ぜた。まるで暖かな日の光に包まれたかのような、抱いていた不安を打ち払うに足る心の安寧を感じた。
「最後に、魔王について教えておくね。これはひと月前の、魂魄剥離現象が起こった最初期の記録映像だ。彼女は見た目こそ人間だけど、自然発生した全くの別物。人ではなく災害だと思って対処した方がいい。可愛い外見に惑わされちゃダメだよ」
そう話す神の真横、金髪の女性とは反対側に、幼気な少女の姿が浮かび上がる。
灰を被ったような髪、雪女みたいな真っ白な肌、吸血鬼を思い起こさせる紅蓮の瞳に、誰もが息を呑んだ。それでもたぶん、いや絶対、俺が一番驚き困惑していると断言できた。
「さあ、人類諸君。《聖戦》の始まりだ!」
様々な感情の渦中にある俺たちに、神は猛々しくも愉快げな声でそう宣言した。
神の脇に佇立する少女は、終始無言のまま中空を眺めていた。ふと、その視線がゆるゆると落ちていき、俺の視線とまっすぐにぶつかる。俺は、彼女のことを知っていた。
「レーヴェ……」
神が《魔王》と断じたのは、俺が助けた少女だった。
***
眼前の光景が変わる。神も天使も民衆も消え失せ、気付けば自分の家に戻っていた。
幻覚、白昼夢――。現実的に考えれば、そういった可能性をまず疑う。
だが、あの鬼気迫る臨場感、この動悸の激しさ、何より神を名乗るあの存在を前にした時に抱いた畏怖の念が、現実的に考えて、あれは現実だったという結論へと至らせる。その確信を後押しするように、隣にいる朔夜の顔からも血の気が引いていた。
真っ先に頭を占めたのは、レーヴェを連れて今すぐにでもここを離れなければいけないという危機意識だった。水次公園での騒動を見ていた野次馬がいるかもしれない。それに家に帰る道中、何人かすれ違った人もいた。レーヴェの姿を目撃されている可能性は決して低くない。ここに留まっていたら見つかるのは時間の問題だ。
現金、各種カード、スマホ、充電器、最低限の着替えと食料。持ち出す荷物として必要そうな物を瞬時に脳内で羅列した。有事の際の避難具一式は前以てボストンバッグに詰めて用意してあるから、動こうと思えば即座に家を発つことができる。
「憂人君……」
縋りつくように服の裾を掴まれる。そこから朔夜の震えが伝わってきた。彼女の瞳は怯えと混迷で揺れている。それで我に返った。何かがおかしいことに気付く。だが、何がおかしいかが分からない。違和感だけが頭蓋骨の内側にこびり付いているみたいだった。
今一度、座卓の向こう側にいる純白の少女を見る。
素朴でありながらも可憐で、儚く薄幸な雰囲気が漂う七歳くらいの女の子だ。存在感こそ際立っているものの、邪悪な気配は微塵も感じられない。しかし神の言が真実ならば、純真無垢を体現したようなこの少女は魔王で、おそらくは公園で襲ってきたあの粗暴で凶悪な男が天使ということになるのだろう。
(分かるかよ、誰がどう見ても逆だろ普通……っ!)
思わず髪を掻き上げながら項垂れた。助けたことに後悔はないが、罪悪感なのか、遣る瀬無さなのか、言いようのない感情が心臓を激しく叩いている。なかなか平常心を取り戻せない。舌打ちしそうになるのを堪えつつ顔を上げたが、その転瞬の後、我が目を疑った。
「――やあ、どうも」
いつの間にか、レーヴェの隣に神がいた。あまりにも自然にそこにいるものだから、咄嗟に反応を返せない。声も出せない。対する神はニコニコと友好的な笑みを浮かべている。その横で、レーヴェは平然と座したままでいる。
「ほほーう、これはこれは……。ふふふ、なかなか面白いことになったねぇ」
顎に手を添えた神は、俺のことをまじまじと観察しながらそんな軽口を零してきた。喉がひりつく。かすれそうになる声をどうにか整えつつ、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「な、なんで……一体どこから……⁉」
「ああ、僕は言わばこの星そのものだからね。常にどこにでもいるとも言えるし、逆にどこにもいないとも言える。まぁ、深く考えなくていいよ。それより君にはもっと他に知りたいことがあるんじゃないのかい? 自分の身に何が起きたのか、とかさ」
天上の存在に見据えられ、金縛りにでもあったかのように身体が動かなくなった。硬直する俺を、この世のものとは思えないほど妖美に輝く虹色の眼が射抜いてくる。
「君はね、契約を交わしたんだよ。公園で助けを求めるこの子の手を取った瞬間にね。人類を滅ぼす《魔王》を守る従者……言ってみれば《悪魔》になったのさ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「思い当たる節はあるだろう? 筋力、知覚精度、反応速度、どれも今までの比じゃないはずだ。それより何より、君はこの子が魔王なのだと知った時、何を考えた? 普通なら追い出すか逃げ出すかすると思うけど、君は庇護しようとしたんじゃないかい?」
何を言われているのか分からなかった――なんていうのは、嘘だ。本当は分かっていた。その説明を正しく理解し、先ほど抱いた違和感の正体はこれだったのかと腑に落ちるところまでいっていた。だが、理性が現実を受け入れることを拒んでいた。
「契約はこの子としても無意識だったみたいだね。それだけ追い詰められていたんだろう。契約内容は『魔王の力のほぼすべてを譲渡する代わりに、あらゆる障害から自分を守る』って感じかな。君はこの子を決して見捨てられないし、絶対に裏切れない。たとえ全人類を敵に回したとしても、この子を守らなければならない未来を強いられたってわけだね」
こちらの苦悩などお構いなしに神はつらつらと喋り続ける。まるで会話を楽しむように。
「そんな……」
絶句する俺に代わり、朔夜が嘆きの声を漏らした。瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
レーヴェは依然として黙りこくったまま座り続けていた。しかし、その目はほのかに伏せられ、太ももの上に置かれた手にはわずかに力が込められていた。
「なんで……わざわざそのことを俺に?」
「君には自分の置かれた状況を知っておいてほしくてね。それに僕は一応中立の立場だからさ。《天使》側だけに接触するのはフェアじゃないでしょ」
鮫と思しき尾びれをゆらゆらと揺らしながら、愛想よく笑いかけられた。
中立の立場――味方ではないが敵でもないというその言葉を、果たして鵜呑みにしてもいいものか。神の心中など推し量れるわけがない。神自らは手を出さないという言葉も本当かどうか分からない。万が一にでも今攻撃されたら、俺はレーヴェを守りきれないのではないか。突如として湧いたその懸念が、脚を、腕を、身体を、瞬発的に動かした。
気付いた時にはもう少女の手を取っていた。
神が少なくとも人間の味方なら、朔夜や母さんに危害を加えることはないはず。頭の隅でそんなことを考えつつも、目下の目的は少女の身の安全を確保すること以外になかった。焦燥感、使命感、責任感、様々な感情が胸中に渦巻いている。背後から何か声を投げかけられた気がしたが、もう耳には届かない。玄関脇に備えていた避難用バッグを引っ掴むと、俺はそのままレーヴェと共に家を飛び出した。
その様子を、神は可笑しそうに眺めていた。
「あーあ、行っちゃった。せっかちだなー、本題も聞かずに。まぁ行動力があって良し!」
腕を組み満足そうに頷いている神に、朔夜が弱い雨音のような声で問いかける。
「憂人君は……これからどうなるんですか……?」
その質問に、神は両肩を上げてみせた。同時に六枚の翼もぴょこっと揺れる。
「それは僕にも分からない。すべては彼次第さ。でも、とりあえず平坦な道のりではないだろうねー。なんと言ったってあの子たちは人類の命運を握ってるわけだからね」
開け放たれたままの扉の奥に視線を移すと、秋の夜風が這うように吹き込んできた。あたかも未来を暗示するかのようなその冷たさに、朔夜は腕を抱きながら身を縮ませる。この肌寒さが風のせいだけではないことは分かっていた。
「憂人君……」
名前の主が消えた先の宵闇は、さながらこの世の深淵のようだった。
無我夢中で走る。当てもなくただ走る。
忙しなく移り変わる景色の端に、散りゆく金木犀の花弁が見えた。その形が十字架に思えたのは今の精神状態に起因しているのだろうか。
やがて足を止めたのは複合遊具などが置いてある児童公園だった。深夜の公園だ。俺たち以外に人はいない。念には念を入れるべく完全に人目を避けられる場所はないかと視線を巡らせると、コンクリート製のドーム型遊具が目に留まった。遊具には複数の円い穴が空いており、内部が空洞で中に入れるようになっている。見た目的にはチョコチップメロンパンを彷彿とさせる遊具だ。そこにレーヴェと二人で潜り込んだ。
内壁に背を預けてどさりと座る。長い息を吐いた途端、どっと汗が噴き出してきた。不思議なことに、全速力で走ってきたのにさほど息は上がっていない。対して、未だ手を繋いだままでいる少女は、顔を伏せて肩を激しく上下させていた。
(これからどうする……)
差し当たって優先すべきなのが身バレの防止であることは間違いない。
朔夜が持ってきてくれた着替えがパーカーで良かった。レーヴェの容姿で特に目立つのは白銀の髪と水色の瞳。長い後ろ髪を服の中に隠してフードを目深に被ってしまえば、ひとまず一目で人相を判別されるという事態は避けられるだろう。
とはいえ、それだけではまだ弱い。これから逃亡生活が始まるのなら、もう一つか二つ、周囲の目を欺くための小道具を用意したいところだ。幸いにも雑貨を売っている二十四時間営業の店が近くにある。行動するなら早い方がいい。
「少しの間、ここで待っててくれ」
そう言い残して一人外に出ようとした。が、レーヴェは手を放してくれなかった。
「……いかないで……」
酷く怯えた少女の顔がそこにあった。ほとんど光が届かない遊具内なのにしっかりと表情を視認できるのは、以前よりも夜目が利くようになったためか。レーヴェが何に怯えているのか一考してみたが、この状況では天使以外考えられないだろう。そう思い説得を試みようとしたところで、次いで彼女から零れ出てきた言葉がその推測を打ち消した。
「……ひとりにしないで……」
小さく、か弱い、蠟燭の灯火のような声だった。擦り切れそうな心の悲鳴が聞こえてくるようだった。それを耳にした瞬間、直感的に悟る。違う、天使じゃない。
少女が怯えているのは、孤独だ。
神の『契約はこの子としても無意識だった』という台詞を思い出す。魔王なのだから周りが敵だらけなのは必然だろうと思う反面、この怯え方はまるで普通の人間のようにも見える。本当に、人の温もりを求める一人の女の子のようだ。
(魔王って言うなら、もっといかつい大男とかであれよ……)
紛らわしい、ふざけるなと、誰に向けるでもなく毒づきたくなった。
だが、と自問する。
仮に風貌が違っていたなら、俺は水次公園で別の選択をしていたのだろうか。襲われていたのが少女ではなく中年男性だったなら、関わろうとせずに黙過していたのだろうか。目の前に助けを求める者がいたとして、その見た目を人助けの判断基準にしたくはなかった。自分はあの時後悔のないよう動いたのだ。今更それを悔やみたくない。
(しかし……どうにも腑に落ちない)
人類が『悪』で、レーヴェがその浄化装置と言われた方がまだ納得できる。ただ、そうなると神の言葉と矛盾する。『魔王という人類の敵が現れてこのままでは滅ぼされるから、それに立ち向かう天使という救世主を用意した』。あの珍妙な創造主が告げたことを要約するならおそらくこんな感じになるだろう。やはり何だかちぐはぐしていてしっくり来ない気がした。レーヴェの性質が『悪』ならすべてに辻褄が合うのだが、幼気な少女にしか見えないというただその一点が、この聖戦の整合性を失わせている。
(……だけど《魔王》に《天使》って……マジで冗談みたいな話だな……)
今になってじわじわと実感が湧いてきて、心がどんよりと重くなってくる。神が言うには、俺はレーヴェを絶対に見捨てられない契約を交わしたらしい。つまりは洗脳されているようなものだ。改めて考えるとなかなかに怖い状態に思えた。
(でも、さっき神に指摘されたことで、今はもう裏切るって選択肢を思い浮かべられるようになってる……。直では無理でも間接的になら寝返ったりもできるのか? 本当に洗脳されてるなら、洗脳って発想自体が出てこないだろうし……)
分からない。考えすぎるあまり、ぷすぷすと頭から煙が上がりそうになった。
俺が今こんな状況に陥っているのは、間違いなくレーヴェが原因だ。きっともう元の日常には戻れない。そう思うと呪いの言葉の一つでもぶつけたくなった。
だが、その一方で、この少女が邪悪な存在であるとはどうしても思えない自分もいた。果たしてハンバーガーを食べて涙を流すような子が好んで人を殺すだろうか。他者の声よりも自身の心で判断する。それが俺の信条だ。たとえその他者が神だとしても、俺は自分の目で見たものを信じたい。判断材料を集め、全容を明らかにし、その上で結論を出すのが正しいことだと思えた。
不安そうにしている少女の瞳を見つめ返す。どこか仄暗くも、綺麗で純な目をしていた。
「…………」
いくらか理性的になった頭で考える。
そうだ、どんな行動を起こすにしろ、その前にまず確かめておくべきことがある。俺が今後も彼女と関わり続けるしかないのなら、この問答は避けては通れない。
「レーヴェ……一つだけ教えてくれ」
俺は、この少女に対する印象を決定づける重要な質問を投げかけた。
「お前は自ら望んで人を殺しているのか?」
その静かな問い掛けに対し、淡色の少女は徐々に顔をうつむかせた。しかし、一瞬だけ見えた彼女の表情には幽愁が滲んでいて、言葉などなくともそれが俺にとっては明瞭な答えとなった。ああいう目を俺は知っている。罪悪感と後ろめたさ。少なくとも、自分から進んで殺人を犯している者が湛えられる感情ではない。そう思った。
「……そうか」
ゆっくりと息を吐きながら、俺は自分でも驚くほど安堵していた。おっかなびっくりといった様子でゆるゆると顔を上げた少女の瞳を、今一度しっかりと見つめる。
「これから必要な物を買いに行く。一緒に来ても構わないが、無用なトラブルを避けるためにも俺の言うことを守るようにしてほしい。まず、目立つ行動は控えること」
「……(こくり)」
「それから俺たちの関係を聞かれた際は兄妹と答えること。とりあえず今はこの二つだけ覚えておいてくれ。他のことはもう少し落ち着いてから話し合おう」
「……(こくり)」
喋りながら思う。俺が主導で決めてしまっているがいいのだろうか、と。
魔王というわりに素直で従順だから調子が狂う。返事はなく頷きだけ返す様は、いっそ小動物を連想させた。
(そういえば、いつの間にか言葉が通じるようになってるな……)
言語の自動翻訳。神が口にした『フェア』という単語が頭をよぎる。どうやら神がその細工を施したのは天使に対してだけではなかったらしい。何にせよコミュニケーションが取れるのは助かる。今後を思えば会話は必須だから。
俺はまだレーヴェのことを何も知らない。
どこでどのように生まれ、なぜ人間を滅ぼそうとしているのか。対話ができるなら、あわよくば和解の道も探れるかもしれない。争わずに済むのならそれに越したことはない。
人類の存亡をかけて《天使》と《魔王》が戦うという構図。漫画とかアニメなら、苦難や激闘の末に辛くも天使側が勝利しハッピーエンドといったところか。構成としてはわりと王道だし嫌いじゃないジャンルだが、今問題なのは自分が魔王サイドだという点。このままでは魔王もろとも俺も討伐されるという破滅の未来が透けて見える。仮に魔王側が勝利したとしても、その時は人類が滅んでしまうわけだから、どの道バッドエンドは避けられない。
(和解が無理だったら、これもうほぼほぼ詰んでんだろ……)
嘆息しながら天を仰ぎ、遊具の穴の奥から金色に輝く中秋の名月に目を細めた。
こんな長い一夜は初めてだと、そう思わずにはいられない夜だった。
***
空前絶後と思われる神の演説が世界を震撼させたとしても、いつも通り太陽は昇り一日の始まりを告げる。朝陽をその身に受けながら、青年は単身都内の街道を歩いていた。
「そうか……。分かった」
スマホの向こうから聞こえてくる幼馴染みの声に、曇っていく己が表情を自覚する。自分よりも過酷な状況にある友を差し置いて弱気な声を聞かせるわけにはいかないと、表層へと出そうになった動揺を腹の底に押し込めた。
青年が《天使》になったのは、ほんの数時間前のことだった。突如目の前に現れた神が言ったのだ。世界を救うために君の力を貸してくれないか、と。
拒否権がなかったわけじゃない。神は天使になるか否かの選択権を与えてくれた。承諾すれば戦いの中に身を投じることになる。それでも人類の滅亡を蚊帳の外で眺めているよりは当事者である方がまだいいと考え、青年は神からの提案を受け入れることにした。
しかし、その時はよもやこんな事態になるなどとは予想だにしていなかった。
「また何かあったら連絡してくれ。……俺も俺にできることをする」
通話を終えると、耳が痛むほどの静寂が空気を締めつけるようにして横たわっていることに気付いた。早朝の時間帯、人気の少ない郊外の一角とはいえ、物音一つしないのは異様という他ない。まるで嵐の前のような不穏な静けさを感じる。
天使と魔王による聖戦――。
昨夜の一件が現実だったのか夢幻だったのかは、そう遠からず判明することになる。今は吟味と判断、そして受容のための準備期間なのだろう。時代の変わり目。破滅の黎明期。静かなのは今だけで、これからすぐに騒然となるに違いない。
この足元の歩道も、両脇に立ち並んでいる家屋も、来月には壊れているかも分からない。そんなことを考えながら住宅街を外れ、緑豊かな林道に入る。個人の私有地であるその道を一直線に突き進むこと暫し、絵画のような西洋風の豪邸に行き着いた。周囲に民家はなく、城が如きその邸宅だけが整備された自然の中に聳然として立っていた。寂しくも豪奢に佇むその屋敷は、要人の別荘にでも使われていそうな様相を呈している。
身長よりも高い鉄製の門扉を開け、玄関扉まで続く石畳を一歩一歩踏みしめる。林道が土の地面だっただけに、靴の底から伝わる硬質な感触をより意識させられる。視線の先、自分が辿り着くよりも早く両開きの玄関扉が開き、中から一人の若者が出てきた。
「お待ちしていました。他の皆さんはすでに到着していますよ」
青年の穏やかな声が耳朶に触れる。朝の陽光を受けてブロンドの髪がさらさらと風に流れる様は、男の自分でもつい見惚れてしまうほど美しい。背後の屋敷と中性的な容姿も相まって、これまた絵になる光景だと思い、束の間目を奪われた。
屋敷の中に入るとすぐに開けた空間が広がっていた。上階へと繋がる階段が蛇のようにうねりながら延びている。今回は蛇の頭に足を運ぶことはなく、若者の案内に付き従い一階奥の大部屋へと通された。そこは貴族の食卓といった形容が似合う重厚な長テーブルがある一室だった。室内には自分と若者を入れて、男女合わせて八名の姿があった。
「集まりましたね。……それでは始めましょう」
そう発言したのは長テーブルの一番奥、いわゆる議長席に座っている女性だ。彼女の顔はもう全人類が知り及んでいることだろう。ほんの数刻前に神の紹介を受けその横に立っていたのだから。名前はエレオノーラ・スペルティ。《秩序》の天使の称号を与えられた人間。
「あぇ? 全部で十人っすよね? まだ何人か来てなくない?」
だらっと上半身を卓上に投げ出している灰色髪の若者がはてと首を傾げた。自分も席に着きつつ今一度頭数を数えるが、確かに隣席の男が言った通りあと二名ほど足りないように思える。すると、今度は対面に腰かけているショートボブの少女が小さく手を挙げた。
「あ、それについてですけど、一人リモート参加らしいです」
そう言いながら、ディスプレイが全員に見えるようタブレットをテーブルの端に置いた。
『んん……? むにゃ……ふぁあ……』
気だるげな声が室内の空気をいくらか弛緩させた。画面の奥は薄暗く、背景には山のような凹凸が見えるが、それだけだ。映っている人物の人相ははっきりとしない。性別も年齢も分からない。寝起きなのか徹夜明けなのか、ともかく眠たそうに目を擦っている。
「えぇ……リモートとかアリなん? なら俺もそうしたかったよ……」
テーブルに突っ伏した体勢のまま、灰色髪の若者がぼやくように呟いた。
「けど、それでも一人足りないですね」
「そういやあいついないじゃん。あの柄悪い赤髪のヤツ。今日はあいつ来ないの? ま、別に来なくてもいいんだけどね。うるさいから」
頬杖をつきながらそう零したのは、薄い紺色の中華服を着た少女だった。自分も武道を学んでいるから分かるが、おそらくは武術経験者だろう。発言こそ軽薄で飄々としているものの、居住まい一つ取っても隙がない。ただ、格闘家とはまた少し違う気がする。気配が何だか殺伐としているというか、まるで殺し屋のような冷たいオーラを放っている。
そうこう話している間に、玄関で出迎えてくれた金髪の美青年が紅茶を淹れてくれた。上座のエレオノーラは優雅な所作でそれを口に運んだ後、静かな口調で切り出した。
「第四使徒であるオルファさんは、昨夜魔王と会敵し、敗北しました」
その途端、室内の空気が再度張り詰めた。
「死んだのか?」
老年の男性が口を開く。この中では最年長だろうが、その双眸の奥には鋭い光が宿っており、肉体の衰えを毛の先ほども感じさせない。
「重傷ではありますが、命に別状はありません。とはいえ、全身の骨折に内臓破裂……ただの人間であれば即死していたことでしょう。しばらくは絶対安静です。現在はグリーンフィールド家が所有する医療施設で治療を受けています」
彼女に視線を向けられた給仕の青年が、恐れ入りますとばかりに頭を下げた。
「そのオルファさんって、私たちと同じように権能を貰ってるんですよね。それなのにそんなボコボコにやられちゃうって普通にまずくないですか」
首を傾げるショートボブの少女。それに合わせて白金色の髪もさらりと流れた。
「あー、ヤバい。本当にヤバい。終わった。完全に終わったよコレ。あんな可愛い見た目で骨バキバキに砕いて臓物潰すとか鬼畜すぎる。やっぱ魔王は魔王だ。きっと俺なんか聞いたこともないようなグロくてエグい拷問を受けた後、秒であの世に送られるんだ……」
隣の席では、灰色髪の若者が頭を抱えて鬱状態に陥っていた。
「アハハ! あいつ『俺が仕留めるからお前らは手ぇ出すなよ』とか偉そうなコト言ってたくせに返り討ちにあったわけ? 超ウケるんですけど! だっさーっ、無様ーっ」
侮蔑の言葉を吐きながら、中華服の少女は心底愉快そうに哄笑している。
「いえ、この中の誰が相対していたとしても、同じ結果に終わっていた可能性の方が高いでしょう。わたくし達が思っている以上に魔王の力は強大であり、天使以上に規格外の存在であるという事実を、我々はまず正しく認識しなくてはなりません」
エレオノーラの声がより真剣味を帯びる。
「本日、皆さんをお呼び立てしたのは他でもありません。すでにご存じの通り、先刻神様から我々人類に対し啓示がありました。魂魄剥離現象の正体と魔王の存在を全人類が知った今……いよいよ聖戦が本格化するということです」
自分も含め、全員の顔から表情が消える。その心中でどんな思考を巡らせているかを推し量れはしないが、きっと自分のそれは他の誰とも違うだろうことだけは分かっていた。
できることなら我々天使のみで事態を収拾したかったのですが、と清廉潔白な聖女は口にする。しかし状況は次のステージへと移行してしまった。不審死の真実が明らかになった以上、今後人々の心にはより濃く深い恐怖の霧が立ち込めることになるだろう。
「魔王は地球上のどこにいようとも、『魂を奪う』という手段を用いて一度に数千万という規模での犠牲者を生み出します。時間をかければかけるほど、人類の被害は爆発的に増えていくことは想像に難くありません。この聖戦は短期決戦が望ましい……。神様もそれを意図したからこそ、昨夜のうちにこの日本から残り五名の天使を選出してくださったのでしょう」
天使十名のうち初めの五名は、魂魄剥離現象が発生し始めたひと月前から先日までの間に、一人ずつ慎重に選ばれてきた。しかし、自分を含めた後の五名は、全員昨夜のうちに選ばれたと聞き及んでいる。確かに今エレオノーラが言ったように、魔王をこの地から逃さず仕留められるようにと、取り急ぎ選出されたのだと考えるのが妥当のように思えた。
ティーカップから曲線を描いて昇る湯気が、聖女の端正な顔の前でゆらりと揺れる。側面の窓から射し込む朝陽に照らされ、湯気の白さが一層際立っている。壁に掛けられている木製の大きな振り子時計は、カチコチと規則的な音を鳴らしていた。この空間すべてが彼女に支配されているかのように、厳粛で静謐な時間が流れていく。
「魔王は強い。単独で挑んでも勝算が低いことはオルファさんが証明してくれました。皆さん色々と思うところはあるでしょうが、勝利を掴むためには我々は一枚岩にならなくてはなりません。そのことを努々忘れず、どうか肝に銘じておいてください」
「それについて異論はないが、戦闘云々の前に、そもそもいかにして魔王を見つけるかが問題ではないか? そのオルファという男は魔王が魂を奪う場面に運良く出くわしたから追跡できたと聞いたが、一度襲われたことで今後敵はより警戒心を強めるはずだ。短期決戦が望ましいのはその通りだが、この広大な世界で女児一人を捜し出すのは至難だろう」
老年男性の言うことももっともだ。ほとんどの者が一様に難しい顔で唸り始めた。
「おっしゃる通りです。そこで魔王の捜索には彼らの力を借りようと思います」
エレオノーラの話を引き継ぎ、給仕をしていた金髪の若者が前に出る。さらにもう一人、薄汚れたカーキ色のローブを羽織り、フードを目深に被った小柄な人物が脇に立った。
「皆さん、
給仕の若者が懐から取り出したのは、チェーンで繋がれた金色の懐中時計。蓋には緻密な彫刻が施されており、丁寧に手入れをされていることからも物の良さを窺わせる。
「オルファさんが交戦してからまだ数時間、魔王は依然日本国内にいるはず。僕の神器で首都圏を中心にして全国各地に『目』を飛ばします。対象の外見はもう判明しているので、怪しい人物はすべて遺漏なく捕捉しましょう」
目の錯覚か、彼の足元の影が生き物みたいに蠢いたように見えた。ブロンドヘアの青年は、優美な雰囲気を纏ったまま悠揚迫らぬ態度で言葉を続ける。
「そして、見つけた後はウォーカーさんの出番です。彼の神器【
「…………」
ローブの男がかざして見せたのは年季の入ったコンパス。長年愛用しているのか細かい傷が所々に入っている。かなり使い古された物だというのが一目で分かった。
神器とは、自身の思い入れが深い道具に、神が特別な力を付与した超常の物質を指す。どんな能力を秘めているかはその持ち主以外把握していないが、これが魔王を打倒するための有力な武器になることだけは確かだ。当然、自分も常に肌身離さず持ち歩いている。
「レインさんが魔王を捜し、ウォーカーさんが我々を現場へと運ぶ。ひとまずはこれを基本方針として聖戦に臨みたいと思います。なお、捜索の手段や伝手が他の皆さんにもある場合は、レインさんと協力体制を取って事に当たってください。先ほども申し上げた通り、この戦いはスピードが肝要……一分一秒でも早く終息させなければなりません」
見目麗しい容貌からは想像もできないほどの悲壮な覚悟が、清流のように澄んだ声から滲み出している。そのことを、この場にいる誰も彼もが強く感じ取っていた。
天使同士の関係は対等であり、本来その間に序列などは存在しない。それでも彼女は、エレオノーラ・スペルティは、誰が言うでもなく自然と
神から直接紹介を受けた人間だからではない。彼女が持つカリスマ性は本物だと、誰もが相対しただけで理解させられたのだ。
「……さて、他に何か議題がある方はいらっしゃいますか?」
今日はこれで解散かという空気が流れ始めたが、エレオノーラが次に声を発するより一瞬早く、ショートボブの少女が控えめに挙手した。
「あのー、一致団結して魔王を倒すのなら、軽く自己紹介くらいはしておいた方がいいんじゃないでしょうか? 私も含め、この中の何人かは初対面だと思いますし。これから協力して戦っていく以上、お互いのことを知っておくのは大切なことだと思うんですが」
その提言を受け、エレオノーラは勘案するように人差し指の背を顎に添えた。仕草の一つ一つがたおやかで洗練されている。すべてにおいて秀麗で、楚々として品があり、彼女が何かするたびに自然と目で追ってしまう。
「……正論ですね。では親睦の意味も込めて、この後食事の用意をしましょう。予定のある方は別の機会でも構いませんので、今回は最低限、簡単な挨拶だけお願いします」
水面に波紋が広がるように、凛とした静寂が数瞬室内を満たす。
天使の現数は九。まずは自分からと、彼女は改めてすっと姿勢を正してから、胸元に手を当てつつ口火を切った。
「第一使徒、エレオノーラ・スペルティ。イタリアの出身です。先日まで難民や貧困者の救助・支援を旨とするNGOに所属していました。よろしくお願いいたします」
端的にそう締め括ると同時に目を閉じる。簡素な挨拶だったが、細かな動作や言葉の端々、一挙手一投足から彼女の生真面目で高潔な人となりが窺えた。
続いてチャイナ娘、ローブ男、給仕の青年、リモート参加者、灰色髪、老年男性、ショートボブの少女と、他の面々も順に口を開いていく。ある者は淡々と、ある者は鷹揚に、またある者は泰然としながら、自身の素性を多かれ少なかれ明かしていった。
「第二使徒、
「……第三使徒、パーシヴァル・ウォーカー」
「第五使徒、レイン・L・グリーンフィールドと申します。活動拠点であるこの屋敷をはじめ、国内にはまだいくつか我が財閥が所有している施設がございますので、皆さんどうぞご活用ください。その他必要な物資等ありましたら、お声掛けいただければと思います」
『…………zzz』
「ぇえ、このヒト終始寝てんじゃん。リモートしてる意味がねぇ……。てか、この会議ってこんな緩い感じの参加でいいん……? あっ、えと、
「第八使徒、見嶋宝成。製薬会社を経営している」
「第九使徒の雪咲メノです。VTuberやってます。よろしくお願いします」
そして最後、全員の視線がこちらに向けられた。
「…………」
青年は、心の中で己に問う。唐突に幕が切って落とされたこの聖戦において、自らの為すべきことは何かと。昨晩から自問を繰り返してきたが、やはり答えは一つだった。
友を救う。それが最優先だ。
だから、この中の誰よりも先に魔王と接触しなければならない。そうしなければ、彼が戦いに巻き込まれる危険があるから。数奇な運命を呪いたくなるが、そんな猶予すらももう残されていないように思えた。
正しい心と行い――その意味を、幼い頃からずっと考え続けてきた。
正しく在りたい――その思いを胸に、今まで彼らと共に生きてきた。
憂人を死なせない。朔夜を悲しませない。
そのために、自らが果たすべき使命とは何か……その答えはすでに出ている。
「第十使徒、竜童辰貴だ」
神に選ばれた《天使》として、自分が《魔王》を討つ。