プロローグ
嘘をつくときのコツを教えよう。
その一、真実だけを話すことだ。
式を挙げて早一ヶ月。純白のテーブルクロスと銀の燭台が演出するディナーテーブルを、席に着いた新妻の瞳がうっとりと眺めていた。
そんな妻の横顔を満足げに眺めつつ、「彼」は早上がりさせた使用人に代わって夕食の皿を丁寧に並べていった。
間もなく、多忙な夫が仕事を切り詰め用意した、二人だけの時間が完成する。
「あ、あの、ありがとう。アーサー。まだ一月目なのに、こんな」
「もう一月さ。エルザ」
答えながら、彼は上等なワインのコルクを抜いた。小気味良い音とともに、甘酸っぱい香りが二人の間に広がる。南部産の華やかな風味は妻の好みである。
彼はマメな夫だ。事あるごとに行動で愛を示し、妻から夫に失望する機会を奪うことに余念がない。その誠実さは生まれつきの特性であり、数年間の泥臭い軍役を経てなお擦り切れる事無く、むしろ戦友との絆を通じてより磨き上げられた。
九年前、革命内戦の終結とともに退役した彼は、幾許かの退職金を元手に投資家へと生まれ変わり、少々の財産を築いて田舎の名家の子女を妻に迎えた。
そんなつまらない成功は、昨今どこにでもありふれている。
十二年前。革命が王都を陥落させ、千年続いた貴族たちの支配が崩れ落ちた。
そうして、不死の絶対君主と三柱の大貴族が統治する
貴族たちが独占していた既得権益は人民の手に取り戻され、誰もが自由に商売をし、自由に論じ、自由に生きていける時代が到来したのだ。
つまり、誰もが己の手を動かさなければ何者にもなれなくなったという事だと気付いている人間は、一体世の中にどれほどだろう。
少なくとも、彼と彼の妻は違う。
アーサー=ティクボーンは、そんなことにすら気付かないでいられるほど、恵まれた才能と境遇を享受できたにゆえに。
エルザリア=ローレライは、革命からも取り残された木っ端貴族の末娘で、常に自分を両親から自由にしてくれる何かを待ち望むだけだったから。
「乾杯」
二つのグラスがかちりと鳴って、ルビー色の液体が互いにきらきらと波打った。
小さなテーブルが距離を縮める。夫は気障ったらしくグラスを傾けながら、妻の瞳から視線を外さない。エルザが気恥ずかしそうに目を伏せると、悪戯っぽくにやりと笑った。
「もう、からかわないでったら」
「ごめんごめん。ついつい、君が可愛すぎてね」
二人が知り合ってから、まだ三ヶ月。けれどエルザは運命を確かに感じていた。自分に愛を尽くし、導いてくれるこの男こそが、天に約束されていた人なのだと。
そしてアーサーも、そんなウブな女を心の底から愛していた。生涯を懸けて、彼女だけの運命になる事を誓っている。
食事とともに酒も進み、新婚夫婦の会話はよく弾んだ。アーサーは自分の仕事や過去を自慢するより、エルザの話を聞きたがった。
エルザは貴族の子女らしく、幼いころから男の前でぺらぺら喋らないよう躾けられていた反動か、あるいはどんな話でも興味と共感を示してくれる最愛の夫のせいか。三杯目のワインを飲み終える頃には、彼女の心は惜し気もなく赤裸々になっていた。
幼少の小さな思い出。軍隊に入った年の離れた兄のこと、数少ない友人について。果ては親への愚痴や、初恋の相手との麦畑でのキスまでも。
そこまで話して、一瞬酔いが醒めた時にはもう遅かった。エルザは慌てて口を噤み、恐る恐る夫の顔色を窺う。
そんな彼女の頬を、アーサーは予想外に優しく撫でた。
「話してくれてありがとう。君にばかり沢山しゃべらせてしまったね。疲れただろう?」
「いえ、ううん。違うの、私。その、あなたが聞いてくれるのが楽しくて、つい……言わなくていい、はしたない事まで……その、失望させてしまって、ごめんなさい」
「失望なんて、とんでもないさ。君のことなら、僕は何だって受け入れてみせるよ」
夫は立ち上がって腰を折り、不安に揺らぐ妻の瞳に顔を寄せて、口づけをする。
深く、深く。男の方から、確かな愛と誠意を流し込むような深いキスは、当人たちには永遠に思えただろう。
数秒後、アーサーはゆっくりと唇を離し、気を遣うように訊ねた。
「……今日はもう、休むかい?」
「うん。……あなたと、一緒に」
そうしよう、と夫は頷き返し、妻を抱き上げて寝室へ向かった。
――そして、安らかに寝息を立てるエルザの胸元からそっと腕を引き抜いて、彼は静かにベッドから立ち上がった。
「……」
先ほどまで抱きしめていた細い肢体を見下ろしながら、肺腑から息という息を静かに吐き出していく。胸の裡でくすぶる妻への愛情を、全て排出するかのように。
それから服を着て、アーサーはゆっくりと、己の顔に手をかけた。
べりべりと、聞こえる筈の無い音とともに、「彼」の顔が剥がれていく。
アーサー=ティクボーンという男の名前、肩書、感じた想いや記憶。用済みの人生が上っ面から引き剥がされていく。
決して、何か物質的なものが皮膚に張り付いていたわけではない。単なるイメージ。想像上の仮面だ。しかし、これを被ることで確かに「俺」は別人に成れる。
つまりは、一種の個人的な儀式の一環だ。
「ふう……」
剥がし終えた見えない仮面を空気に捨てる。三か月ぶりの素面が、新鮮な空気を求めて深呼吸するのに合わせて背伸びを一つ。
それから横目でベッドを確認すると、エルザ、「彼」の妻はよく眠っていた。バレないように少量ずつ分けて、料理と酒に混ぜた睡眠薬が効いているようで安心する。
遅効性とはいえまさか一戦せがまれるとは思いもしなかったが。おかげで余計な時間を食ったと、思わず舌打ちをこぼす。
もうこの世のどこにも、彼女に対する愛情は無い。エルザを愛していたのはアーサーであって、俺ではないのだから。
そして万が一、エルザが目を覚まして俺を見つめても、夫と同一人物だとは思うまい。
顔は同じだ。だが歩んできた人生が違う。だから身にまとう雰囲気も違う。
自分で思っているよりも、人は相手の顔など見ていない。愛する相手だろうが何だろうが、ぱっと見の印象と雰囲気だけで判断し、思考を止めるように出来ている。
アーサーという男は消えた。ついさっき、この顔から剥がれ落ちた瞬間に。
アーサーが語った愛は真実だった。だが、真実は人の数だけ存在する。
そして彼はもういない。最初から事実として存在してもいない。それだけの話だ。
そして今、ここにいる俺の名はライナス=クルーガー。
職業は、詐欺師だ。