第2章 大芸大というところに その6
◇
真っ暗になった校内では、ところどころで酒宴が開かれていた。新歓時期が終わるまではこんな感じらしい。
もうてっぺんをとうに越した時計を見つつ、学校を後にする。
「何が新入生歓迎だよ。歓迎される側がひどい目にあったぞ」
スヤスヤと寝息を立てているシノアキを背負いながら、僕は横暴な先輩たちに愚痴をたれた。
春の夜道はほどよい気温で、過ごしやすいのがせめてもの救いだった。
校舎から聞こえてくる
「ん……? あれ、わたし寝てしまったと?」
背中から声が聞こえてきた。
「おはよ」
答えると、背中の生き物は僕の着ていたパーカーのフードに顔を
「うー……まだなんか頭ボーッとしよる……」
「そりゃ、あんなに飲んだらそうなるよ」
苦笑して、さっきまでのシノアキの行動を振り返る。
結局あの後、シノアキは相当しっかりした量の『水』を飲んだ。
僕がハラハラする中、シノアキはにこにこと笑いながら堂々と上座に座り、男子の先輩たちから『水』を注がれる立場になっていた。
オタサーの姫って、あれ何年
「でも先輩たちもええ人でよかったねー」
シノアキはのんびりした声で言う。
「まあ、悪い人ではなかった……かな」
明らかに行動や発言が変な人ばかりではあったけど、いわゆる悪人というわけではなかった。
シノアキや僕に飲酒を強要してくる人もいなかったし(
ま、かけもちでもいいということだったし、とりあえず入るにはいいところかもしれない。
「
ふと。
さっきとは違うはっきりした口調で、シノアキから名前を呼ばれた。
「最近、なんか難しいこと考えよったでしょ?」
「えっ」
思わぬタイミングで、しかも思わぬ相手から心情を突かれた。
なんで、わかったんだろう。
確かに、シノアキのあの様子を見てから考えることが多い。でも当のシノアキがわかるほど、おもてに出していただろうか。
「ふふ~っ、なーんでわかったんやろって感じの反応しよる~」
キョドったのが返事でわかったのか、シノアキはぐふぐふと笑う。
「うっ、で、なんでわかったの?」
おそるおそる聞くと、
「恭也くんはあんま自分のことしゃべらんし、なんか大人っぽいというか、人のことばーっか気にしとるとこあるから、ちょっと観察しとったんよ」
ちょっと、ドキッとした。
10年後から来たこともあって、僕はみんなをどこか子供のように見ているところがあった。ナナコはちょっと大人びていて、シノアキは子供っぽくて。でもそれは、別におもてに出していたつもりはなく、悟られているなんて
だから、勘とはいえそれがバレたことに。
しかも、子供っぽいと思っていたシノアキに。
少しばかり動揺してしまった。
「言いにくいことね?」
「うーん、そうでもないけど」
「なら話してみんね? そしたらなんかわかるかもよ」
言われるがままに、話して聞かせた。
自分でも驚くぐらいに、素直に
「ふぅん……意外やね」
「意外って?」
「わたし、恭也くんっていろんなことができる人やし、そんな悩み持ってるとか全然わからんかったよ」
「いろんなことって、そんな」
その人物評の方が意外だった。シノアキの目から見たら違うのだろうか。
「んーとね、たとえば……
「知ってる。ここんとこずっと無理やり起こして学校に連れてきてた」
「その上家事もなんもできんし、お湯しか沸かせん!」
「知ってる。
「ゴミ出しの日もすぐまちがえる!」
「知ってる。僕がときどき引っ込めてる」
シノアキはうんうんと
「それ全部、
「う、うーん、でもそれは芸大の授業とは関係なくない?」
つい、そう言ってしまった。
「……でも生きていくのには大切なことやよ」
シノアキはそこで、妙にしんみりと答えると、
「なーんもできん人は、なにかできることを必死で探しとるんよ。だから、恭也くんがすごいと思ってる人も、何かをどうにかしたくて、必死なんだと思うよ」
彼女の
接触している背中から、熱が身体中に回っていく。シノアキは何気なく口にしただけなのかもしれないけど、その言葉が、僕の心をグラグラと煮立てて、揺り動かす。
「そう、かも」
絞り出した一言の後で、脳裏に情景が浮かび上がった。
シノアキの、あの一心不乱にモニターに向かって
何かがあれば、すがればいい。でも何もなかったら、何かを探すしかない。
貫之も、必死で何かを探しているのだろうか。
そして、今の僕にはそれがなかった。
「恭也くんはようできる子やよ、うん」
シノアキの口調が元に戻った。
なんだか子供をあやす親みたいな口調で、ちょっと笑ってしまう。これじゃあ立場が逆だ。
「そりゃどうも……って、えっ!」
直後、頭にふわっと乗せられたものに、僕は思わず声を上げてしまった。
「よしよし……」
シノアキの手が、僕の頭をやさしく
ちょっとだけ
感触は頭にだけあるはずなのに、全身が温かくなるようだった。
「……シノアキ」
高校生の時、両親が離婚した。
父に引き取られた僕は、それ以来ずっと母親と会っていなかった。
さみしさと心細さとが入り交じった感情を、やさしさで包んでもらって。
僕は自然と、
「ありがと」
シノアキに、お礼を言っていた。
「ん……」
シノアキは僕の声を聴いて安心したのか、
すぐに背中から寝息が聞こえはじめた。
僕は下宿への道を急ぎつつ、春の風を顔に受けて、ふと夜空を見上げる。
新入生を祝う桜の花びらが、その風に舞っていた。
「僕には、何ができるんだろう」
10年前に戻ってきて、以前とは違うルートを選んで、芸大に入って。
これといってできることもなく、何をしていけばいいのかもわからなかったけれど。
なんだかやっと、入口にたどり着いたような気がした。