屑(6)
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雲母は頬杖をついて窓の外を眺める仕草がいやに似合う。
ふと、そんなことを思った。
気だるげというか、憂鬱そうというか、そんな厭世的な雰囲気。瞳はここではないどこかを見ているように虚ろで、きっとこの展望台から見下ろした街並みさえ視界には入っていないのだろう。
とてもデートに行きたいとせがんだ人物とは思えない。
「雲母。……おい、雲母!」
「あ……。ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」
ぱちくりと何度か瞬きをした雲母はそう言い繕った。
「本当は高い所が苦手だったりするのか?」
高所恐怖症の人間が高い位置から下を見ると気が遠くなるという話を聞いたことがある。雲母もそのクチかと考えたのだが。
「だったら展望台に行きたいだなんて言いませんよ」
と笑って返された。道理だ。
なら悩み事か、体調不良か。と勘ぐろうとしてやめた。ガキじゃないんだ。何かあれば雲母の方から言ってくるだろう。
「霞さんはこの景色を見て何を感じますか?」
雲母の横に並んで街並みを見下ろす。特に感じ入るようなことはない。ただあるがままを、街並みを街並みとして捉えるだけだ。そこに感慨はなかった。
「月並みだが……。人がゴミのようだ、とかか?」
返答に窮して雲母の方を向けば、雲母もまたこちらを向いて苦笑を浮かべていた。
「私はこうやって広い街を眺めて、ずぅっと遠くまで続く景色を見ていると、なんだか自分が世界にひとりぼっちみたいな気がするんです」
「…………そういうもんか」
俺には雲母の言うことが全く理解できない。共感なんてできそうもない。
人は孤独なものだ。そう認識している。
例え一時、同じ空間にいたとしても、互いの全てを理解できるわけでもないし、そう遠くない未来にはそれぞれの道を行くだけだ。だからそれまでの間、どう接していくかが大事なんだと思っている。
今さらそれを改めて突きつけられるようなことはない。
だから、雲母はそう感じる、ということだけを頭に入れておけばそれでいい。
「はい。そういうものです」
そう言って再び雲母は窓の外を眺める。
先程とは違う横顔。ああ、なるほど。そうか。あれは寂寥感だったのか。あいにく俺には縁遠い感情で、すぐに理解が及ばなかったのも今ならわかった。
「なら雲母が一人になりたい時は高い所を目指すのか?」
雲母が振り返る。その目は大きく開かれて、瞳は驚愕に揺れていた。じわりと涙が滲んで、濡れた瞳が俺を映す。想像もしなかった反応に焦った。
「覚えて……?」
呟かれた言葉はあまりにもか細くて全ては聞き取れない。
俺の表情に何かを悟ったのか、雲母は首を横に振って、次の瞬間にはもう普段の表情に戻ってしまっていた。
「いいえ。でも、そうですね。そうかもしれません。……そろそろ行きましょうか」
展望台を降りて階下。いくつもの商業施設が並ぶそこは、時期的なものもあってか、やたらと人で混雑していた。一度はぐれたら合流するだけでも一苦労だろう。しっかりと雲母の手を握る。
「次はどうしましょうか?」
「何か見たいものはあるか?」
「見たいもの?」
「色々と店もあるし、あとは水族館とか、プラネタリウムなんかもあったはずだ」
「詳しいですね。それも他の子と行った場所?」
「まあな」
不機嫌さを悪戯っぽさの中に隠した雲母に率直に答えれば、明らかに不機嫌さが増した。
「わかってただろ? それとも今さらでも隠した方がよかったか?」
「いいえ、別に結構です」
大きく一歩踏み出した雲母に引きずられるようにして並べば、露骨な不機嫌さは演技だったようで笑っていた。
「水族館もプラネタリウムもまた今度にします。連れていってくれますよね?」
「はいよ」
他に答えようもないと肩をすくめれば、雲母はさらに笑みを深くした後で、迷うように指先を頬に当てる。
「うーん……。でもこれといって欲しいものがあるわけでもないんですよねぇ」
「なら適当にぶらつくか」
二人で順番に店を眺めて行きながら、興味を惹かれたら立ち寄ってみる。そんなことを繰り返していた時のことだった。
「どっちがいいと思いますか?」
服を二着持った雲母が定番の質問を投げかけてきた。
「雲母にならどっちも似合うと思うが」
「霞さんに選んでほしいんですよ」
「あー……」
少し迷ったフリをしてから、片方を指さす。
「俺の好みならこっち」
「ふふっ。じゃあこれ、買ってきます」
レジへと向かう雲母を見送り、待つ間に店内マップを開いて喫煙所を探そうとした時。
「霞?」
どこかで聞き覚えのある声に呼ばれた。振り向く。
「……美佳」
ある意味俺にとって数少ない元カノの一人。懐かしくも苦い経験を思い起こさせる。
別れて以来、美佳は俺を意図的に避けていた。大学も別だ。まさかこんなところでばったり出くわすなんて思いもよらなかった。どんな偶然だと毒づきたくなる。
「変わらないね」
その表情にははっきりと嫌悪が浮かんでいる。そもそもなんでこいつは俺に声をかけてきたんだろうか。
「そういうお前は綺麗になったな」
いつかのように軽口を叩けば嫌悪はますます深まった。
「ほんっとに変わってない。まだ女の子を騙して遊び歩いてるんでしょ」
場所が場所だけに言い逃れは不可能だった。男一人で来るような場所でもない。まあ俺が言い訳する必要なんてないんだが。
「相変わらず人聞きが悪いな」
くつくつと笑ってやれば、美佳が苛立つのがわかった。後はそのまま踵を返してくれればそれでいい。今さら俺と美佳の関係が変わるはずもなし。ここで会ってしまったのはちょっとした不運で済まされる。
「お待たせしました。……霞さん?」
だから正直、今だけは雲母に帰ってきてほしくなかった。
不穏な空気感を悟ったのか、雲母が様子を窺うように俺へと視線を飛ばしてくる。
「もしかして……百目鬼さん?」
雲母の手を引いて立ち去ろう。そう決めた矢先に、美佳が雲母の名を呼んだ。
「え……? あ。
どうやらこの二人は知り合いだったらしい。だがこの距離感は……。たぶん大した関わりのないクラスメイトってところか。なんとも覚えのある距離感だ。
「お久しぶりです」
「う、うん。久しぶり」
挨拶を交わし合う二人。とりあえず緊張した空気感は気まずい雰囲気に一蹴された。騒ぎにならずに済んだことにほっと息を吐く。
そんな俺の様子を目ざとく見つけた美佳が鋭い視線を向けてきた。
「百目鬼さん。こいつはやめておいた方がいいよ。とんでもないクズだから」
大した関わりのないクラスメイトにわざわざ忠告したのは、俺に対する敵愾心からだろうか。それとも親切心からか。美佳のことだからきっとどっちもだろう。
俺の腕に雲母が腕を絡めた。
思わず振り向く。
雲母は真っ直ぐに美佳を見つめていた。決して睨むわけではなく、ただ見つめていた。その口元にはほのかに笑みが浮かんでいる。
誰の目から見てもわかる明らかな挑発。はっきりと美佳の全身が硬直するのがわかった。引きつった顔をこちらに向けている。視線は俺と雲母の組まれた腕に注がれていた。
雲母が小さく会釈して、俺の腕を引く。逆らわずに歩いた。
無言で歩くことしばらく。雲母がぽつりと呟いた。
「ごめんなさい」
「なぜ?」
何についての謝罪なのだろうか。俺にはわからない。
「あんな目で霞さんを見る人になんて、絶対に負けたくなかったの」
それは答えにはなっていなかった。俺の聞き方が悪かったのか、あるいはわかったうえでそう答えたのか。どちらかさえもわからない。
それに正直なところ、雲母の執着も俺はわかっていなかった。
理屈では理解できる。だがきっと感情的なところでは、なぜ雲母がこんなにも負けたくないと、一番でいたいと拘るのか、共感できてはいまい。
「ねぇ、霞さん。私、霞さんの家に行ってみたい」
「うちに?」
「うん。ダメ?」
雲母の家には何度も行った。だが雲母を家に呼んだことは一度だってなかった。それは他の女も同じ。だからそれは躊躇われた。
「霞さんのしたいこと、なんでも叶えてあげる。あの子よりもずっと気持ちよくしてあげるし、あの子よりも大きな声で喘いであげる。だから、ね?」
挑発的で攻撃的な笑み。なのになぜだか俺は、そこに不安と焦燥感に駆られる雲母の姿を幻視した。
ふと醒めるものを感じる。
──なんだ。そんなもんか。