屑(7)
***
「どうかしたか?」
十二月の上旬。その日は雲母の様子がおかしかった。
いつもしつこいほどに俺の方へと向けられる視線が床や地面に向けられ、会話も反応もワンテンポ遅くずれている。
今もまた俯いていたことに気付いていなかったのか、ハッとした様子で雲母が顔を上げた。そして視線はまた外へ。ここまで来れば俺でも気付く。
「具合でも悪いのか? それとも何か気にかかることでもあったか?」
正直面倒だが愚痴に相槌を打つくらいはしてやってもいい。その程度の関わりはある。
これで何も答えないようならもう放っておこう。そう決めてしばらく。雲母が躊躇いがちに切り出した。
「…………その、霞さんは、昨日って……何、してましたか?」
「あん? 俺?」
別に無理して益体もない世間話をしてもらう必要もないのだが。
「昨日は飲み会に行ったな」
それがどうした? そう返せば、雲母は「やっぱり……」と呟く。
「昨日は、私もサークルで飲み会があったんです」
「ああ。それで?」
「それで、その帰りに…………」
言いよどむ。そんなに言いにくいことなら言わなくてもいいんだが。別の男とでも寝たのだろうか? もしそうならわざわざ報告されても反応に困る。
「見ちゃったんです」
「見た?」
ふと、嫌な予感がした。
「霞さんが、知らない子と、ホテルに行くところを」
……なるほどな。確かに俺は昨日、綾子と寝た。
ミスをした覚えはないが、偶然というものはある。特にサークルの飲み会だとなんだかんだと大学近辺の繁華街になりやすいし、同じ街になること自体は不思議でもない。同じ店で別々のサークルが飲み会をやっていることだってままあるのだ。
さてどうやって誤魔化すか。
このパターンでバレることは滅多にないが、逆に言えば偶にはあることでもある。
暗かったから見間違いで押し通すか? だが写真とかあったら余計に面倒なことになる。
そもそもこの手のものは浮気を疑われていて、証拠集めのために尾行された結果という場合が多い。彼氏持ちに手を出した時によくあることで、逆上して殴りかかってきたところを逆に潰せばそれで済むことも少なくないが、雲母相手ではそれも無理だろう。
いっそ、開き直るか?
しょせん都合がいいだけの女だ。都合が悪くなったなら切ればいい。縛られてやる義理もないし、離れていくならそれまでのこと。雲母に執着する必要性も理由も見当たらない。
とりあえずどの程度確信を持っているのか探ろうとして、ぞっとした。
目に光がない。元々昏い目をする女だったが、今までのは序の口だったと知る。こういう目をしたやつは何をするのかわかったもんじゃない。
「霞さん?」
声に抑揚がない。影が蠢いているように見えた。
……ふぅ。落ち着け。錯覚だ。慌てれば慌てるほど弁明はしづらくなる。とにかく丸く収めなくては。
「ああ、昨日な。ホテルになら行ったぞ」
ぴくりと雲母の眉が痙攣した。怖い。……怖い? 馬鹿な。俺が怯える、だと……?
「こほんっ。見ていたんならわかると思うが……」
何を怒ってるんだ、こいつ? ぐらいの勢いで怪訝な表情を作る。
「浮」
「あいつベロベロだっただろ?」
そして雲母が口を開く瞬間に合わせて、こちらも弁明を重ねた。
「もし腕を絡めているように見えたのなら、そりゃあいつが泥酔していたからだ。滅茶苦茶重たかったぞ」
心底疲れた風を装って首を振る。
「部屋に着く前に吐かれたから、あいつの彼氏が迎えに来ても洗濯が終わるまで帰れなかったし」
散々な目にあった、と溜息をついてみせる。そしてジトりとした目を雲母に向けた。
「それとも何か? 俺は泥酔した女を襲うほど女に飢えているように見えんのか?」
「それは! 違いますけど……」
「なら、そういうことだよ。……まあ、女連れでホテルに行ったのは事実だし、ベタベタくっついていたように見えたのかもしれないけど、あれはほとんど歩けなくて寄りかかってただけだ。誤解させて悪かったな」
殊勝に謝って見せれば、いつの間にか雲母の鬼気迫る雰囲気は霧散していた。
馬鹿な女だ。まんまとかかった。
「……私こそ、疑ってすみませんでした」
「気にすんな。確かにパッと見じゃそう見えてもおかしくなかっただろうからな」
ひらひらと手を振ってこの話は終わりだと示す。
「あの、でも」
「ん?」
「できれば、その、女の子とホテルに行くのは、やめてほしいです」
「って言われてもなぁ。タクシーすら拒否されるようだと、他に介抱する場所もねえだろ。店に迷惑かけるわけにもいかないしな」
下手にわかったなんて言う方が疑われる。なんせ建前上は何も悪いことはしていないことになっているのだ。ここでやめると言ってしまえば、やっぱり疑いは正しかったのでは、と考え直させるきっかけになりかねない。
「そう、ですよね……」
一応の納得といった感じだがそれで十分。
やっぱちょろいな。根が善良だとこういう騙し方が効くから楽でいい。
後は念のために話を合わせてもらうように伝えればひとまずは誤魔化せるだろう。
「霞、スマホ鳴ってるよ」
「わーってるよ」
智也を連れて大学近くの蕎麦屋に来ていた。テーブルの上で振動するスマホを取り上げれば画面には案の定雲母の名前が表示されている。少しでも音を殺すために座布団の上に放った。
「いいの?」
「いいんだよ」
浮気バレ未遂事件は存外後を引いていた。
俺だってあんな適当な嘘で万事解決、なんのわだかまりもなく元通りの関係に、なんてなれるとは思っていない。
あれはあくまでもその場しのぎ。あの場で感情的になられて派手な言い争いにならないようにするための応急処置でしかない。
これからは少しずつ距離をとって、互いに納得できる距離感を探る必要がある。その結果として受け入れられずに離れるなら、それまでの縁だったというだけの話だ。
そもそもの距離感が近すぎたからこそ、ああいう問題が起きる。互いにいつ切ってもいい相手なら、気に入らないことがあった時点で離れるし、わざわざ時間と労力を費やしてまで相手を変えようとはしない。
だというのに、雲母はまだ俺に執着しようとしている。
女の子と飲みに行くときには教えてほしいだの、できれば二人きりはやめてほしいだの。
お前に一体どんな権利があって俺を束縛できるんだと言いたい。
もちろん言いはしない。言えば俺と雲母の縁は切れるだろう。それ自体は構わないし、今となっては歓迎する事態でもある。だがそれをすれば大きく揉めることになる。それは面倒だった。
「ちっ」
思わず舌を打てば、智也が苦笑していた。
「なんだよ?」
「なんでも」
見透かしたような笑みが神経に触る。だがそれが八つ当たりだとわかってもいた。大きく深呼吸して苛立ちを吐き出す。意図して笑みを作った。
「智也。お前、クリスマスはどうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ。一応予定はあるけど」
「どっかのクリパにでも顔を出すのか?」
「そんなとこかな。あ、一応言っておくけど、霞は全然関係ないところだからね」
先約を作って雲母を躱す。そんな俺の思惑はばればれだったらしい。思わず渋面を浮かべる羽目になった。
「霞こそどうするのさ」
「お前、他人事だと思って」
「実際、他人事だし」
智也が雲母の件で首を突っ込んでくるとは思っていない。というか突っ込まれても困る。だがまさか逃げ道を塞いでくるとは思いもよらなかった。良くも悪くも我関せずだと思っていたのだ。
「面倒くせぇなぁ……」
「その面倒くさい子に手を出したのは霞だろ?」
ちゃんと僕は忠告したからね。そんな副音声が聞こえてきそうな笑みだった。
「きっぱり振ればいいじゃないか」
「そんなことしたら暴発するだろうが」
このまま行けばクリスマスデートに誘われるだろう。それ自体は別にいい。問題はそのままなし崩し的に元の距離感を取り戻そうとされることだ。そうなれば間違いなく束縛は今よりもさらに強くなる。そして俺はそれを受け入れることはできない。当然反発する。結果より大きく派手な形で破綻は訪れるだろう。
「さっさと幻滅するなりなんなりして離れてくれねぇかなぁ」
「うーん。最低過ぎる発言だね」
何度かデートをドタキャンしてもまだ切り捨ててくれない。それどころか俺の適当な言い訳を信じている節がある。
今となってはもう、その従順ささえも疎ましかった。