Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(7)

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 初夏には海外でも熱狂の渦に沸き、推しへの愛を叫ぶ人々は多い。

 七月頭。日本の隣国──中国はシャンハイでオタク向けの一大イベントが催される。

 それが『ビリビリワールド』だ。中国におけるポップカルチャーの発信地である国内最大級プラットフォーム、ビリビリ動画。アクティブユーザー数は二億人を超え、その数は既に日本の総人口数をはるかにしのぐ規模の巨大マーケットに成長していた。

 だが、市場が巨大でも隣国には隣国のきょうがある。

 日本の漫画やアニメコンテンツも配信するビリビリ動画は、夏の祭典ビリビリワールドでもそれらコンテンツの展示ブースを作り、原作者を招いたトークショーも企画する。それが原作に対する敬意だ。

 ベササノも今年のビリビリワールドにおいて、人気スマホゲームで手がけたイラストの数々が展示される予定となっていた。本人が上海におもむくわけではないが、海外ファンは原作絵師のイラスト展を楽しみにしている。

『こんにちは。ご無沙汰しています。少し相談があって連絡しました』

 業はQQというチャットツールから知り合いの中国人に中国語でチャットを送った。

『カルゴ!』熊のアイコンからの返信。

 南極熊ナンジーシォンは、業が推しカルゴの名で幅をかせていたときに知り合った海外ニキの一人である。

 南極熊の反応は早かった。

『カルゴ、久しいが元気だったか? 乃亜が燃えてからDD化したと思っていたよ』

 DDとは「D誰でもD大好き」の頭文字を取った中国のネットスラングだ。

 次から次に現われるVTuberを片っ端から好きと騒ぐファンをして〝DD〟と呼ぶ。

 相手が単推ダンツェイかDDか。それがオタク同士で会話を盛り上げるとき、地雷を踏まないための重要な情報源だった。

 DDはうわ性というらくいんを押され、からかわれるのだ。

『熊さん、また動画翻訳と代理投稿をお願いできませんか?』

 いんぎんな態度で業は頼んだ。

『なんだ』察した南極熊がチャットの雰囲気を変える。『通話に変えるか?』

『その方が意図も伝わるかもしれません。よければ』

『もちろんだ。カルゴからの恩は忘れていない。あのときのグッズは大事に飾ってる』

 南極熊は快く話を聞いてくれた。

 当時、業が中国人ファンに売った恩は多岐にわたる。

 日本人VTuberを推す中国人が抱える問題は、言語の壁だ。

 日本語を履修する学生も多いため、彼らの方が日本語がたんのうであることが多い。しかしながら彼らのおもいとは裏腹に、推しが中国人とコミュニケーションを取らないケースが多かった。彼らは国境の壁によって片思いを強いられる。

 公式グッズも海外発送に対応しないことも多い。そんなとき、彼らは日本在住の中国人ブローカーを経由してグッズを入手するが、悪徳業者も多く、こんぽうが雑でグッズが悲惨な状態で届いたり、金を受け取った後に高飛びされたりすることもザラだ。

 乃亜推しカルゴはそんなかなしい思いをする海外ファンを作りたくなかった。

 発送先に業の実家を指定するよう指示し、公式から届いた商品は懇切丁寧に梱包して彼らに国際便で郵送した。もちろん手数料も取らず。

 そうまでして恩を売るカルゴを不審に思った中国のノア友は、なにか見返りが欲しいのかと尋ねた。──乃亜ちゃんへの応援が見返りですよ。当時のカルゴはそう答えた。

『その男はゴウゴウか?』

 南極熊は真面目なトーンで聞き返す。日本語で犬──ワンワンという意味だが、中国では侮蔑の意味が含まれる。クソ野郎なのか、と南極熊はいている。

「プロデューサーをかたって豆腐を食べてます」業は中国語で答える。

『ああ』南極熊は嘆息した。『よくある話だ』

 中国語で〝豆腐を食べる〟とはセクハラという意味だ。

 ベササノの人となりを伝えた程度では、南極熊の協力とその先にいる数多あまたの中国人たちのぞうきつけることはできない。業もそれは予想していた。

 彼らが敬愛しているものは日本の先進カルチャーだ。

 推してもいない無名のVTuberが、セクハラ被害を受けている程度はまつな出来事。その晒し動画を投稿したとしても、大して再生数は稼げないだろう。

 もっと本質的な部分で火に油を注ぐ必要があった。

「ベササノは来週、上海でイラスト展示会を開くそうです。知ってますか?」

 業がURLをチャットに貼り付けた。ビリビリワールドの特設ページへのリンクだ。

『おぉ。日本のコンテンツブースはいつもにぎわう』

「実は彼、こんな発言もしてまして──」

 業は海那に集めさせた秘策を公開した。南極熊の声色が変わる。

『この画像が本物なら』押し殺した声で南極熊は宣言した。『我々が彼を晒し上げるには十分な動機になる。来週の話だ。話題性も強い』

 南極熊のそれはまるで品定めするような物言いだ。

 それもそのはず、南極熊は動画投稿で稼ぐ、とある投稿者集団の幹部だった。

 彼らの活動範囲はビリビリ動画にとどまらず、その他のショート動画投稿アプリにまで及ぶ。彼らにとって炎上とは極上の商品なのだ。

「本物です。ガセなら自分の身を危ぶめることくらい、おれも熟知してますよ」

『カルゴ。おまえは良い男だし優秀だ。話を持ちかけてくれたことに感謝する』

「一晩あれば元動画はこちらで用意しましょう」

 不敵な笑みを浮かべ、南極熊とのボイスチャットを終える業。ヘッドセットを外し、背筋を伸ばす。その淡々とした様子を海那は唖ぜんと眺めていた。

「どうした?」振り向く業。

「さすがカルゴさん……。うわさ通り、海外にも手が届くんですね」

「なに言ってんだ?」

 業は肩をすくめて立ち上がり、自然体のまま用を足しに向かう。

 海那はその背を見送りながら、乃亜推しカルゴは噂通りの人物だったのだと再認識させられた。海那の計画には彼が必要であることもだ。

 業が戻ると、だるそうに壁掛け時計に目を向けた。

「二十三時……」

 業は意図して海那と時計を交互に見比べた。顎で合図し、海那に時間を気づかせる。業も海那も現役の高校生だ。若い男女が同じ部屋で過ごす時間帯としては適切ではない。

「あ……」気づいたように海那が反応する。

「まぁそういうことだ。時間も時間だし」

 業は海那が察したことにあんして、言葉を付け加えた。

 両手をぱっぱっと開き、海那を追い払うようなジェスチャーを送る。だというのに、海那は何を勘違いしたか、紅潮させた顔を両手で覆い、ろうばいし始めた。

「え、えっと……。そう、ですよね……。ははは、わたし、経験ないんだけどな」

「なんの話をしているんだ」

「わ、わかってます……! いまのわたしにできるのは、それくらいってこと……っ」

「なにか勘違いしてないか?」

「か、かか、覚悟の上ですからっ! 信頼のあかしですもんねっ」

 なにを血迷ったか、はブラウスの裾を握り、勢いよくめくろうとしている。

 ごうとっに海那の腕を押さえた。すでに彼女の肌着ごとまくれつつあり、白い玉のような肌が業の目に飛び込む。両者しばしの硬直。業も慣れない状況にドキドキしていた。

 一方で、業はもう普通の青少年とは別次元の思想に漬け込まれている。

 かなえ乃亜という女こそが、業のすべてだった。

「おれは、なにも望んでない」

「あ……、う……」海那も次第に冷静になる。「ごめんなさい。……だって、さっき覚悟を試すって」

「あんたを試すのはもう少し後だ」

 言って業はおもむろに海那の腕を放した。海那は眉根を寄せる。

「あんたはもう帰っていい。あとは、おれがうまくやる」

「でも……」海那は帰りたくなさそうだった。

「安心しろ。明日の昼頃にはベササノ炎上のニュースが世界中に広まるさ。ゲームの準備より、引退表明の言葉でも考えておくことだな」

 実のところ、それは業なりの精一杯の気遣いだった。

 その思いやりは見事に空振りしたらしく、海那はその顔色をみるみる険しくさせた。

「えっと……。また〝あんた〟って言いましたよね? それNGワードですよ」

「はぁ?」

「あんたは禁止です。ちゃんとミーナって呼んでください」

「言ったか? おれが?」

「言いましたっ! 三十秒前にっ! しかも二回も」

 業は頭を掻きながらぼやく。「妙なところで圧の強いやつだな」

「カルゴさんがずるいからですよ」

「なんのことだ」

「ずっと前から思ってました。カルゴさん、いつも他人に恩を売るくせに、お返しは受け取ろうとしませんよね。いまだって、なにも望んでないって言いました」

「それのどこが悪い? 見返りを求めて行動するやつよりずっといい」

「いけません。だって恩を返せなかったら、こっちがずっと持ってなきゃいけないじゃないですか。恩を抱えたままにさせるなんて憎い人ですよ」

「だから、それが推──」

 業は思わず言葉をみ込む。もうこれで三度目。突如あらわれた少女は、何度も業の本質をえぐり、どこかで非人間らしい自分を解き明かしてしまう。

 業は、無償の愛をささげることに慣れすぎた。見返りを求めなければ、他人が自分の隙間に入ってくることはない。そういう生き方がちょうど推し活というブームにぴたりとまったのだ。業は乃亜を推すことで気楽な生き方に傾倒していた。

 ──本当に乃亜ちゃんを推していたんですか……?

 業は乃亜を応援していたのか、もうわからなくなっていた。

 あるいは、依存していただけかもしれない。そんな自分が乃亜をあの舞台に推し上げ、火の海へ放り込んだのだとすると──。

「……」

 壁時計の秒針が静寂な部屋で時を刻んでいた。海那のほうもばつの悪さを感じていた。いまから助けてもらおうという人間が、差し出がましいことを言ってしまった。

「んと……なんか衝突してばっかですね。わたしたち」

「そんなに何かしたいなら勝手にしろ」業は無機質に答える。

「……じゃあ、このまま寝泊まりの準備をしますね」

「はっ? と、泊まる?」業が悲鳴を上げた。

 海那は部屋の隅に寄せられたゴミを取り上げ、ビニール袋にまとめて放り込んでいく。そのぎわの良さに驚きを隠せない。

「なに勝手にひとんを漁ってんだっ」

「恩返しに、せめてお掃除でも……。きっとこのありさまだと二時間はかかりますし、そのまま泊まらせていただきます」

「親が黙ってないぞ」

「放任主義ですから、ちゃんと連絡すれば大丈夫です。友達と口裏合わせますよ」

 海那は楽しそうに掃除を始めた。まるで押しかけにょうぼうだ。

「せっかくなのでベッドの下、ほこりっぽいので掃除してもいいですか?」

「そこはダメだ! 絶対に!」

 業は聖域を守る騎士のように海那の前に立ちはだかる。

「あはは。冗談です。わたしだって年頃の男の子の聖域に踏み込もうなんて無粋なことはしませんって。もちろんパソコンの隠しフォルダもです」

 業は胸をなで下ろす。ベッドの下は確かに聖域だ。絶対に侵入を許してはならない。

 それから業は、海那に張り合うように掃除を始めた。深夜に掃除機をかけることはご近所さんの迷惑を考えたらはばかられたが、背に腹は代えられない。

 いまは海那という侵略者に聖域を荒らされぬよう、抵抗するときだ。

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