二章(3)
*
作戦会議をした直後。
僕と胡桃は教師にバレないように靴を回収して、裏門から学校を抜け出した。
住宅街を抜けて通学路に合流し、下校中ですみたいな顔をしながら駅へ向かう。
電車に乗って数駅南下して、僕がいつも乗り換えで利用するターミナル駅で降りる。
目的地は、大型のショッピングモール。正確には、その中にある文房具屋だ。
モールにある文房具屋は、書店なんかよりもずっと本格的で品揃えがいい。
僕らは手早く店内を回り、大きめの消しゴムを十個と彫刻刀を二本、赤いインクのスタンプ台を一個と、それからトレーシングペーパーを何枚か購入した。
買い物を終えた僕と胡桃は、なに食わぬ顔で文房具屋のエリアを出た。
夕方のモールは、遊びに来た学生や夕飯の買い物に来た主婦でそれなりに混雑している。
僕らはどちらからともなく通路の端に寄り、二人でひっそりと歩きだした。
道すがら、胡桃がようやくこの買い出しの理由を語ってくれた。
「小テストとはいえ、テストはテストです。教師たちは自分の机にきちんと保管していることでしょう。決行当日は、職員室にいる教師たちの目を掻い潜って、素早く大量にテストに落書きをしなければなりません。今回の作戦は速さが命です」
「それで消しゴムはんこを作ると?」
「そうです。効率よく暴言を書く方法はないかずっと考えていたんですけど……ポンッと簡単に押せて、なおかつ教師の筆跡を完全にコピーできる消しゴムはんこが最強だという結論に至りました。名づけて『教師直筆! 暴言はんこ』」
……胡桃のネーミングセンスはどうにかならないのか。ならないんだろうな。
まあ、いいか。名前はともかくとして。
「教師の筆跡どおりに消しゴムはんこを彫るってこと? そんなことできるのか?」
「きっとできます。大丈夫ですよ。私、手先は器用なので」
胡桃が「がおー」のポーズになって、指をばらばらに動かす。
細くて綺麗な指だ。なんとなく、これを復讐なんかに使うのはもったいないと思った。
「……どうしたんですか、私の手をじっと見つめて。くすぐってほしいんですか?」
「なぜそうなる。くすぐってほしいと思う人間なんてこの世にいないだろ」
「いやいや。そういうのがフェチの人、いるらしいですよ」
胡桃は「先輩もくすぐりフェチなんじゃないですかぁ? こちょこちょー」とか言いながら僕の脇腹に手を伸ばした。僕がくすぐってくる胡桃の手を叩き落として拒絶の意を示すと、胡桃は「あははっ。効いてる効いてる」とニヤニヤしながら喜んでいた。
まったく。なにがおかしいのやら。初対面のときとは別の意味で不思議な子である。
ビニール袋とバッグを持ち直して、僕は再び歩き始める。
くすぐりフェチ認定されてしまう前に、話を元の路線に戻そうか。
「消しゴムはんこを作るのはわかった。で? このあとはどうするんだ?」
「うーんと、小テストに書いてある暴言をコピーするため、コンビニに行きます」
「わざわざコピーする必要あるか? 小テストの暴言をそのまま消しゴムに写して彫ればいいんじゃないか?」
「私もそう思ったんですけどね。消しゴムのサイズに合わせるために拡大や縮小が必要なものもあるので、一度コピーはしておく必要があるんですよ」
そういうものか。まあ、ハンドメイドのことはよくわからんし胡桃に従っておこう。
「印刷する原稿は持ってきてるのか? 実際の暴言をコピーするんだろ?」
「ありますよ。ちゃんと用意しておきました……ほらっ」
胡桃は肩にかけていたバッグから一枚の紙を取り出した。
授業の始めにやるタイプの小テストだ。教科は物理。点数のほうは十点満点中、二点。「名前 星宮胡桃」の横に、赤く乱雑な字で「学校やめろ」と書いてある。下位クラスの生徒に返却される小テストのお手本のような一品だった。
「その暴言を原画に消しゴムはんこを作るのか?」
「ん? 別の言葉がいいですかね? 他にもありますよ。この日のためにたくさんコレクションしておいたので」
猫型ロボットがお腹のポケットを漁るような感じで、胡桃はバッグから暴言つきの小テストをぽんぽん取り出す。「バカ」「論外」「は?」「学校やめれば?」「ふざけるな」「勉強しろ」など多種多様。すごい。見ているだけ吐き気を催すラインナップである。
ひとしきりバッグを漁ったあと、胡桃は小テストを綺麗な扇状に持って言う。
「こんなもんですかね。どうですか先輩。お気に召すものはありました?」
「暴言にお気に召すものなんてあるわけないだろ」
「あはー。奇遇ですね、私もですぅ。……ふふっ。先輩、いっしょ、ですね?」
胡桃がなぜかすり寄ってくるので、僕は反射的に半身を引いた。
なんなんだよ。びっくりした。距離感が近い子だな。
冷静を装い、僕は咳払いを一つしてから話を再開する。
「別にどれか一つに絞らなくてもいいんじゃないか? いくつかコピーしておいて、作りやすそうなものを作ればいいと思う。コピー代もそんなにしないだろうし」
「たしかに。それもそうですね」
うんうんと頷いて、胡桃は小テストを捲り始める。
「なら、彫りにくそうなものだけ弾いておきましょうか。画数の多い漢字とかはさすがに彫れないと思うので。……あ、ほら先輩、見てくださいよこれ。『論外』とか絶対に彫刻刀じゃ彫れませんよ。はんこを作る人のこともきちんと考えて書いてほしいですよね?」
「いや」
教師は消しゴムはんこにされると思って書いてないだろ、と言いかけてやめた。
代わりに「そうだな」と返して少し笑う。なんだか意味不明な会話してるな、と思って真面目に話すのが馬鹿馬鹿しくなったのだ。なにしてるんだろうな、僕は。
「なんですか。なに笑ってるんですか、先輩」
「ごめんごめん。別になんでもないよ」
「えー? 変な先輩。……あ、ごめんなさい。変なのは元からですね」
一言余計だ。僕は先輩だから噛みついたりしないけどな。
「よーしっ。それじゃ、いくつかの小テストをコピーして、今日は解散ですかね。明日の放課後にまた部室で待ち合わせ。はんこの制作を始める。この流れでいいですか?」
「うん。大丈夫だよ」
「わかりました! ぱぱっとコピーを済ませて帰りましょうか!」
胡桃が小テストの束をバッグにしまって右手を突き出す。
やる気があるのはいいことだ。やろうとしているのは悪いことだけど。
それにしても……小テストか。
懐かしいと思うほどではないけれど、久しぶりに暴言を『読んだ』気がする。
今年度の初めのころ──学校側に抗議を入れてクレーマー扱いされる前までは、僕も小テストをやるたびに暴言を書かれていたっけな。
二年の僕も一年の胡桃も暴言を書かれたことがある。つまり、出来の悪い小テストに暴言を書くという行為は、この学校の伝統なのだろう。ご丁寧に毎年引き継ぎやがって。そんな腐った伝統は消えろ。成績が悪いからってなにを言ってもいいわけじゃないだろうが。
そこまで考えて、僕はふと、あることを思いついた。
二、三歩先を進んでいた胡桃を呼び止める。
「なあ胡桃。はんこにする暴言、さっき出したやつの中から選ばないとダメか?」
振り向いた胡桃は、キャスケットがずれない程度に首を傾げた。
「うん? 別にダメじゃないですけど。どうしてそんなこと聞くんです?」
「……消しゴムはんこを作るなら、二年の数学を担当している古川の筆跡がいいと思う」
「ええっと、その心は?」
「古川の使っている赤ペン、他の教師と比べて太いんだよ。加えて字が大きい。筆跡通りに彫るなら、たぶんあいつが一番彫りやすい」
「ほう……なるほど?」
胡桃はなにか考えるように、顎に手を当て視線を上方へ向けた。数秒後、黒目を僕の姿を捉える位置に戻して、いつものにんまりとした意地の悪い笑みを浮かべる。
「いいですね。そういうところまでは考えていませんでした。先輩も悪よのお、ですっ」
「いやいや。首謀者には負けるよ」
「そこはお代官様でしょおー! あははっ」
なんという軽快なツッコミ。胡桃が笑うので僕もつられて少し笑ってしまった。
「あー、おっかしい。……それで先輩? 提案するからには古川教員の暴言が書かれた小テスト、持ってるんですよね?」
「うん。何枚かだけど、バッグの奥のほうにまだ入ってるはず」
「いいでしょう。消しゴムはんこの図案は古川教員の暴言を使うことにします」
言ってすぐ、胡桃は嬉しそうに目を細めて、
「ふふっ。先輩を仲間に選んだのは、やっぱり正解だったかもしれませんね」
別に僕はやりたくて復讐の手伝いをしているわけじゃない。喫煙の写真を撮られて脅迫されているから仕方なく協力しているんだ。仕方なく協力している、はずだ。
……でも、まあ、なんというか。
胡桃にそうやって褒められるのは、嫌ではなかった。
*
翌日。
放課後、天体観測部で落ち合った僕と胡桃は、消しゴムはんこ作りに取り掛かった。
消しゴムはんこ作りは実にシンプルな作業だった。
まず、消しゴムのサイズに合わせた図案を用意する。
そこにトレーシングペーパーを重ねる。ペーパーが透けて下が見えるはずなので、はんこにしたい部分(ここでは「アホ」と書かれた部分)を鉛筆でなぞる。
次に、なぞって黒鉛の付着した部分を消しゴムに押し当てる。上から爪で強くこすると、黒鉛が移って消しゴムに左右反転した図案が現れる。
あとは不要部分を彫刻刀で彫るだけだ。
さすがはハンドメイドの基本、消しゴムはんこ。
小学生でもできる簡単な作業である。
…………。
「ちょっと。先輩。雑すぎます。ちゃんと均一になるように彫ってください」
「いや、やってるって。丁寧に作ってこれなんだよ」
「嘘です! 絶対めんどくさがって雑にやってますよ! 転写の段階から几帳面にやっておかないとそうやって後悔するんですよ! 私、言ったじゃないですか!!」
「お、怒らないでよ。精一杯やってるんだから」
まあ、小学生でもできる簡単な作業であっても、僕ができるどうかは別の話。
胡桃と僕の作業の質には、雲泥の差があるだけでは足りず、天と地ほどの差があるだけでは留まらず、たぶん、成層圏とマントルくらいの差があった。
あまりに僕の作業が下手だったので、胡桃は僕の作った完成品を手に取ったときに渋い顔で「……なんか消しゴムがもったいないです」と言った。そして、裏面に文字を彫り始めた。ワオ。リバーシブル暴言はんこ誕生の瞬間である。片面は使い物にならないけどな。
そんなこんなで作業を進め、一時間と少し経ったあたりで僕はようやく悟った。
ふむ。これは努力でどうにかなるもんじゃない。
悲しいかな。僕は不器用な人間だったのだ。
それでも諦めず、なんとか作業を進めていたのだが、最終的には、
「あー、もういいです。私がやります。先輩は消しカスの掃除でもしておいてください」
「ごめんなさいそうします」
胡桃にジト目で戦力外通告をされる始末であった。
はいはいわかりましたよ。カスはカスらしく消しカスの掃除でもしてますよ……。
「そこのペーパーはもう使わないので捨てていいです。あと彫刻刀も片づけてください」
「はい。わかりました」
「消しゴムは何個残ってます? はんこにしていない暴言はまだありますよね?」
「新品の消しゴムは残り三個でございます。転写していない用紙は残り二種類です」
「はぁー……なんか疲れました。先輩、私の肩を揉んでくれませんか」
「承知いたしました、お嬢様」
「しっかり揉んでくださいね……おっ……あー、そこですっ……んっ、気持ちぃ……」
変な声を出すのはやめてほしい。
と、まあ、そんな感じにこき使われ続けること二時間ほど。
「……こんなもんでいいでしょう。なんとか完成しましたね」
僕の介入要素ほぼゼロで「教師直筆! 暴言はんこ」が出来上がった。
長机の上には胡桃が制作した消しゴムはんこが四つ。使用テストはまだしていないが、明らかにどれもクオリティが高い。機械で生産したように見えるレベルだ。
すごいな、これは。
制作段階ですでにわかっていたが、胡桃が器用だというのは本当だったらしい。
「うーん、まともにできたのは四個ですか。まずまずですね」
胡桃は完成した暴言はんこの一つを手に取ると、そんなことを言う。
「いや十分すぎるでしょ。胡桃の作業スピード、すっごい速かったじゃん」
「……先輩がここまで不器用じゃなかったらもっとたくさんできたんですよ」
「ごめんって。肩揉んであげるから許してよ」
「あっ……あぅ……先輩やめっ……頼んでなっ、いっ……んっ、そこいいっ……」
背後に回って肩を揉んでやると、胡桃は頬を紅潮させながら「も、もう。仕方がないので許してあげましゅ」と言うのだった。うむ。大変にチョロくて助かる。
「……ふぅ。先輩、肩揉みはもういいです。それよりこれ、試しに押してみませんか?」
「お、いいね。もしかしたらもうちょっと彫ったほうがいいやつとかあるかもしれないし」
「ふん。私に限ってそんなヘマはしていないと思いますけどね」
さて、どうなるやら。
僕は席に戻って、ビニール袋から買っておいたスタンプ台を取り出した。
図案作成に使っていたコピー用紙を裏返し、真っ白なほうを表とする。
あとはインクにペタペタしてポンと押すだけ……だが、さすがに記念すべき第一投は功労者である胡桃に譲るべきだろう。
「お先にどうぞ」と手で示すと、胡桃は「どうも」と会釈をした。手に持っていた暴言はんこをスタンプ台のインク部分にトントンと二回押しつけて、再度、僕の顔を見る。
「いいですか? 押してみますよ……」
「お、おう」
コピー用紙を左手で押さえて──ぺったん、と。胡桃は勢いよく押印した。
はんこを退けたあとの紙には、しっかりと赤で「アホ」という字が残った。
……うん。完成度は申し分ない。多少インクが滲んでいる部分などはあるものの、印字されているのはどこからどう見ても「アホ」。古川教員の筆跡だった。
「いいんじゃないか?」
「もう一回いきます」
胡桃が、今度は別のはんこを手にとって押印する。
二つ目。ぺったん。「バカ」。
三つ目。ぺったん。「ふざけるな」。
四つ目。ぺったん。「学校やめろ」。
胡桃が手を動かすたびに、パソコンでコピーアンドペーストを連打するかの如く、古川教員の暴言が紙に現れる。バカバカふざけるな学校やめろ、といった具合に。
これは、なんかシュールだな。
「ぷっ……せ、先輩……これ思ったよりおもしろくないですか……ぷぷ……」
「たしかに。……ふっ。なんかウケるなこれ」
胡桃が笑いを堪えながら押印を続ける。
ぺったん。「バカ」。ぺったん。「ふざけるな」。ぺったん。「学校やめろ」。
あれだけ嫌に思った暴言も、こうしてグッズ化してしまうともはやギャグだった。
「胡桃、僕にもやらせて」
「いいですよ。クオリティの高さに驚くがいいです」
僕が押しても、はんこは綺麗に古川教員の筆跡を真似てくれた。
不思議な感覚だ。吐き気を催すような暴言が、僕らの手の中にある。他者から向けられていた悪意が、今は僕らの手の中で完結している。制御できる場所にある。
そう思うだけで、すっと胸が軽くなる気がした。
僕は今までこんなものを嫌に思っていたのか。くだらない戯言じゃないか。
「ねえねえ先輩。私、閃きました。これ教師のみなさんにお配りするっていうのはどうですかね? これを使えば暴言を書く手間が省けますよって言って!」
「いやいや、どんな皮肉だよ。でも、はんこを渡されたときの教師の顔は見てみたいな」
「ですよね! あははっ。ばっかみたい」
僕と胡桃は笑いながら消しゴムはんこを押し続けた。
十分もしないうちに白紙のA4用紙は古川教員の暴言で埋め尽くされた。
赤字でいっぱいの紙を、僕はぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
その捨てる動作さえ痛快だった。タバコを吸うのと同じ快感が背筋を走った。
ああ、なんてじめっとしていて後ろ暗い快感なのだろう。僕の心の奥底に巣食っている本性という名の怪物は、その後ろ暗い快感を喰らって楽しんでいた。快楽に溺れていた。
このまま、いつまでもいつまでも遊んでいられる気がした。
「……よし。こんなもんですかね」
でも、追加の白紙を半分ほど埋め終わったあたりで、そんな声が聞こえた。
胡桃が手を止めるので、僕もつられてはんこを置く。
「もう試さなくていいのか?」
「ええ。クオリティの高さがわかったので十分です。お楽しみは決行当日まで取っておきましょう。ここで満足してしまったら、逆にもったいないです」
決行当日……ああ、そうだった。
今回の作戦は消しゴムはんこを作るまでが準備段階。
本番は、犯行は、別にある。
そう思った瞬間、火照っていた僕の体はクールダウンを開始する。
体が冷え、血液が冷え、頭と脳まで急速に冷えていく。そんな錯覚。
悪寒は冷静さに変わり、冷静さは僕に一抹の不安をもたらすのだった。
「……なあ胡桃。『全校生徒暴言配布キャンペーン』だっけ? 本当にやるのか?」
「当然でしょう。消しゴムはんこを作っただけでは、嫌いな人を脳内で殴っているのと同じです。私は、本当に殴らないと気が済まないんですよ」
言いながら、胡桃は目を細めて意地の悪い笑みを浮かべる。
「……そうか」
ダメだ。わかってはいたが、僕がどうこう言ったところでやめるような気配はない。
いったいなにがここまで胡桃を駆り立てるのだろう。
この学校の法律が、胡桃にとってどんなものなのかわからない。
胡桃がこの学校の教師になにを言われ、なにをされたのかわからない。僕よりもひどい仕打ちを受けたのかもしれないし、胡桃が僕よりも繊細なだけかもしれない。
僕は胡桃のことをなにも知らない……でも。
「すごいな、胡桃は」
「はい? 別にすごくないって言ったじゃないですか。私がやろうとしているのは私怨と偏った正義による復讐です。褒められるようなことはなに一つないです」
その行動力と意志の強さに、僕はやっぱり憧れるのだった。
そこまで吹っ切れられるのが羨ましいと思ってしまうのだ。
僕は、テロという道徳的に間違っている行為に躊躇を感じているから。
「さて、それでは決行日に向けて作戦会議をしましょうか」
それでも僕は、脅されているから従うしかない。
わかった。わかったよ。やればいいんだろ。
*
数日に及ぶ調査期間を経た後に、僕らは犯行の詳細を決めた。
ターゲットは、二年の数学を担当している古川教員。
彼が担当する上位クラスの小テストに暴言はんこを押す。
ターゲットにする教師は誰でもよかったのだが「せっかく図案にさせてもらいましたし、恩返し(笑)させてもらいましょう」と胡桃が提案したのでそう決まった。
うん。やっぱり胡桃は趣味が悪い。
犯行の日時については、水曜日の放課後に決めた。
こちらの理由も単純だ。
木曜日の一時間目に、古川教員が上位クラスに授業をしに行くからだ。
水曜の放課後に落書きをしておいて、翌日の朝一番で小テストを返却してもらおうという算段である。落書きしたことが早々にバレて、小テストは返却しませんなんて事態になったら嫌だからな。落書きからテスト返却まで最もラグが少ない日時を選んだ。
実行は水曜日の放課後。これがベスト。間違いない。
そして、ついにやってきた決行日。
「いいですか? テロを起こすのは十分後。ヒトナナマルマルです。この時間に古川が部活で席を外すことはすでに調査済みですので、先輩は速やかにテロを実行してください」
放課後。お馴染みとなってしまった天体観測部の部室。いつもの席。
僕と胡桃は計画表を挟んで対面していた。本番直前の最終確認中だ。
「先輩は職員室に侵入後、古川教員の机へ行き、小テストに暴言はんこを押します。返却までに押印がバレないよう、紙束の中央あたりから押していけるといいですね。終わったら動かした物などを元の位置に戻し、痕跡を消してから撤収です。流れはいいですね?」
真剣な眼差しで問いかけてくる胡桃に、僕は小さく頷いて返す。
「やっぱり実行犯は僕なんだな」
「それに関しては……ごめんなさいです。二年の職員室に私が入っていたらそれだけで怪しまれるかもしれません。だから先輩にお願いするのが一番なんですよね……」
まあ、そのとおりではある。
西豪高校は大きな私立高校のため、学年ごとに職員室が違う。
一年の胡桃が二年の職員室にいたらそれだけで目立つ。わざわざ胡桃が二年生のふりをするくらいなら、本当に二年生である僕が実行したほうがいい。話が早い。
口ぶりや表情から推測するに、胡桃は僕のことを人柱や捨て駒として使おうとしているわけではない……のだと思う。はんこ作りも胡桃にすべてやってもらったわけだし、少し怖いけど実行犯は僕が引き受けよう。
どうせ喫煙写真で脅されるんだ。反対なんてするだけ無駄だしな。
大丈夫。古川教員の机の位置は知っている。小テストの保管場所も調べ上げた。イメージトレーニングどおりに実行すれば、失敗はない。
それに、いちおう変装はするんだ。万が一犯行現場を見られたとしても、すぐに逃げて人目につかないところで変装を解けば個人の特定にまでは至らないはず。
とりあえず深呼吸をしよう。浅い呼吸をしたがる肺に、無理やりに空気を送り込む。
「先輩、もしかして緊張しているんですか?」
視界に黒とアッシュの髪がちらり。胡桃が下から覗き込むようにして僕を見てきた。
「当たり前だろ。実行したらもう引き返せないんだから。胡桃の言葉を借りるなら、僕は今、昨日まで脳内で殴っていた相手を本当に殴ろうとしてるんだ。緊張しないわけがない」
「チキンですねぇ。バレたところでいつものように人格否定されるだけですよ」
「……そうかもしれないけどさ」
「もう、困った先輩ですね……」
呆れたように嘆息すると、胡桃は机の上にある僕の手にそっと触れた。
「よしよし。大丈夫ですよ。大丈夫。最悪、一緒に怒られてあげますから」
言いながら、優しく僕の手の甲を撫でる。
「っ……」
撫でられている安心感と、年下になだめられている恥辱感。僕の心はしばらくアンビバレントと言えるような状態に陥っていたが、やがて前者の感情に支配された。
縋るように胡桃の手を握る。すると、胡桃は僕よりも少し強い力で握り返してくれた。
「んっ。どうです? ちょっとは落ち着きました?」
「……うん、まあ」
胡桃は僕の手を解放すると「よかったです」と優しく微笑む。
そして一転。意地悪く口角を吊り上げて、こう言い放った。
「それでは、先輩。楽しいテロを始めましょうか」
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試し読みは以上です。
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※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。
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