『蜘蛛の糸』(芥川龍之介著)を読んで 竹久優真
散々悪事を働いてきた盗賊のカンダタは当然のことながら地獄へ落とされる。そこに一本垂れさがる蜘蛛の糸。それは生前行った唯一の善行、蜘蛛を殺さなかったということからだ。その蜘蛛の糸をよじ登ればきっと地獄から抜け出せるとカンダタは登って行く。ふと下を見れば他の罪人までもが蜘蛛の糸を登ってくるので、これではこんな細い糸など切れてしまうと思ったカンダタが「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ、おりろ、おりろ」と大声を出した途端、糸はカンダタの手元から切れて闇の底へと落ちて行ってしまう。
言わずもがな、因果応報を語った物語である。
日本でもっとも有名な小説家のひとり、芥川龍之介の名著で、芥川初の児童向け文学。おそらく誰もが一度や二度はこの物語に触れたことがあるだろう。この物語の下地はポール・ケーラスというアメリカの作家の著書『カルマ』の日本語訳『因果の小車』の中にある一篇であるとか、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中でグルーシェンカの語る『一本の葱』という話がモデルにもなっていると言われており、スウェーデンの作家の『わが主とペトロ聖者』やイタリアの民話『聖女カタリーナ』、日本各地に伝わる『地獄の人参』など、数多くの類似した物語が存在するわけだが、この物語を初めてちゃんと読んだ、当時中学生だった僕はそんなうんちくなど知りもしなかった。そしてこの短い物語を自分の好きなように読み、全く自分勝手で間違いだらけの感想を抱いたものだ。
――お釈迦様は悪趣味だ。
うつむきながら歩いていた……
桜並木の坂道を僕は一人で歩いていた。はっきり言って気分は最悪だ。
僕は中学生の時に恋をした。いつも二人は一緒にいたし、ちょっとした理由もあってそれなりにうまくいっている自信もあった。
僕らは同じ高校を受験し、幸せな高校生活を送る予定だった。しかしながら僕は受験に失敗し、成績優秀だった彼女だけが合格。二人は別々の高校に進学することになった。
いきなり突きつけられた制限時間。いつまでも曖昧な状態は続けられないと、彼女を呼び出しその想いを告げた。
「ごめんなさい。わたし、好きな人がいるの」
……フラれてしまった。
想いを寄せる人にあっさりフラれ、高校受験に失敗した僕は滑り止めの適当な高校に進学し、その入学式の日の朝……。寝坊した。
入学式だというのに家族は誰も僕を起こしてはくれなかった。朝起きた時には家に一人ぼっちだった。
急いで家を出たのだが電車には乗り遅れた。次の電車は朝の通勤ラッシュの時間だというのに三十分待たなければならない。これだから田舎は嫌だ。
三十分後の電車に乗り学校最寄りの駅〝東西大寺駅〟の北口という、もはや方角のよくわからない場所に到着したのは入学式開始八分前。
――走った。
途中から桜並木の坂道になり、そのはるか坂の上にこれから通う芸文館高校がそびえたつ姿が見える。なんだってこんな不便なところに学校があるのかと問うたところでどうにもならない。今、走る以外の何があるだろうか。
しかしこんな時に限って人はつまらないことを考える。
果たして行きたくもないこんな学校に通う意味なんてあるのだろうか。彼女のいないあの学校へ毎日通う意味なんてあるのだろうか。今更、入学式に遅刻しなかったからと言って僕に何か幸せが訪れるとでもいうのだろうか。
その答えはすべてがノーだ。
走るのをやめ、トボトボと歩き始めた。ふと顔を上げれば、目の前には満開の桜並木の中に一本だけ、へんにねじれ曲がって、まるで枯れ木のような桜の木がある。花を咲かせることに一人だけ出遅れてしまったのか、それともそもそも花を咲かせることができなくなってしまった樹なのか……。ともかく僕はその樹に自分の姿を重ね、それが僕の高校生活のメタファーだと感じとった。僕はその樹を……
「ちぇーーーーすとーーーー!」
ボカッ! と、鈍い音とともに後頭部に激しい痛みを感じた。
思わずうずくまる僕の横を軽やかに駆け抜ける足音が響く。そして後頭部を抱えながらその足跡を追うように坂道の上の方に目を走らせた。
その時が初めてだったかもしれない。僕が空を見上げたのは……
まだ肌寒さの残る春の空には雲一つなく澄み渡っていて、悪意のかけらさえ持たない薄黄色く輝く太陽がまぶしすぎるほどに輝いていて……。まぶしすぎてとても直視なんてできなかった。
太陽からのびる一筋の光線はまっすぐに地上に向かい、やがて坂道の途中で立ち止まり、振り返る少女の栗色の長い髪の後れ毛の隙間を縫いながら地面へと落ちた。
薄小麦色の健康的な肌。狐の目のように吊り上がった目を笑いながら細めている。眉は目とともにふたつのⅤの字を描いている。
まだ使い慣れてもいない皺の少ないブレザーは間違いなく同じく芸文館高校の生徒のもので、ネクタイは青と白のストライプ。入学年ごとに色の替わるネクタイはこの学園の特徴の一つで、僕と同じ青のストライプであることから同じ新一年生だということがわかる。左手に握った革の鞄はおそらく先程僕の後頭部を殴打したものであろう、男らしく背中に回して担いでいた。
「ねえ、君、遅刻するよ!」
元気な口調で叫ぶ彼女は再び目と眉でふたつのVを作った。
「ししっ!」と声が聞こえるようだ。無論、実際に彼女はそんな声など出してはいないのだろうが、僕の心の中でその音声をあてがった。きっと誰もがそうするに違いない。そう思えるほどに彼女の微笑みが「ししっ!」と語っていた。
再び坂道の上へと振り返り、彼女のスカートのプリーツが遅れて半回転する。そして、まっすぐに走り始めた。
走り出した彼女のうしろ髪は太陽の光をいっぱいに浴びて黄金色に輝き、強く、しなやかに跳ねていた。その一本一本はとても丈夫そうで……。それを伝っていけばやがては地獄から抜け出し、極楽浄土へとたどり着く蜘蛛の糸のようにも見えた。
何も考えられなくなり、しばらくの間僕はその場に立ち尽くしていた。それが実際に何秒ほどの出来事なのかはわからないが、我に返った時にはすでに彼女の姿はなかった。
僕の好きな小説家である村上春樹のとある掌編小説を読んだ僕は、もし、ある晴れた四月の朝、100パーセントの女の子に出会った時、どうやって声をかければいいのかを常日頃考えていたが、いざそれが本当に起きると、なにも言葉は出なかった。それをあえて言い訳をさせてもらうなら、予定していたシチュエーションとはあまりにも違いすぎたから。
始業のチャイムが鳴り、完全に遅刻を確信した僕はようやく歩き始めた。
目の前には誰のものかハンカチが坂道の途中に落ちていた。紅葉の柄のついた白いハンカチだ。桜の樹の下で拾った紅葉柄のハンカチはあまりにも風情が無さすぎると感じたが、そのハンカチは先程の〝太陽の少女〟のものだと確信した。いや、本当のところ彼女のものでなくてもいい。ただ、「落としましたよ」と声がかけられればそれで十分だった。白い紅葉柄のハンカチは僕にとってはしあわせの黄色いハンカチ。いや、それ以上に運命の赤い糸ともいえる存在に感じた。
拾い上げたハンカチをブレザーのポケットに押し込み、僕は坂道を駆け上がっていった。
山の斜面に建てられたこの学校は、校門をくぐり正面の新校舎から入ってすぐに下駄箱がある。その新校舎の裏から登りの山道に沿って長い長い階段があり、その階段に沿ってさらに二棟の校舎がある。正面新校舎から順に、奥に行くほど建物は古くなる。
誰もいない長い階段を駆け上がり、一番上まで行くとちょっとした広場になっていて、正面に大きな食堂があり、その左手の方には体育館が見える。入学式はその体育館で行われている。
入学式はすでに始まっていた。ひとつだけぽかりとあいた空席のパイプ椅子に向かう。所在なげにまわりを見るが誰も遅刻者のことなど気にしている様子はない。まあそれも当然。所詮僕など脇役に過ぎない。
そして、主役というのはきっと彼のような存在なのだろう。いそいそと席に着く僕の隣に座っていた男子生徒は「新入生代表」という言葉で皆の前に出て行く。なるほど、これがうわさに聞く入試成績一位の生徒というやつか。しかも見ればとんでもないイケメンだ。
美貌。と言えばいいのだろうか。まるで少女漫画の表紙に描かれているような端整な顔立ちだ。テレビなどで見かける人気俳優の平均値よりもいくぶん男らしい顔立ちで、誰が見てもイケメンとしか言いようがない。……たぶん足だって速いだろう。これで入試成績一位の新入生代表だというのだから、神様なんてものはあまりにも不公平だ。神はひとりの人間に一物も二物も平気で与える。代わりに僕には何も与えてはくれなかった。むしろ何もないことで笑いの対象とするために存在させているのかもしれない。神様なんてその程度の悪趣味な存在なのだろう。
黒崎大我。新入生代表はそう名乗った。リア充のなかのリア充、キングオブリア充にふさわしい堂々とした名前だ。あまりの悔しさに彼には新しい名前を与えることにしよう。リア充のなかのリア充、キングオブリア充なので〝リア王〟としよう。その名はかのシェイクスピアの四大悲劇の一つ、『リア王』から与えられたものだ。偉大なるその王は周りの皆から見捨てられ、悲劇的な死を遂げる。僕は黒崎大我にそんな一縷の願いを込め、名誉ある〝リア王〟の名を与えた。
入学式が終わり、皆が教室に案内される中、僕は一人職員室に呼ばれた。言うまでも無く僕が入学式早々の、たった一人の遅刻者だったからだ。
僕のクラスの担任だという原田良照という男は、人生のすべてを悟った人間かのように偉そうな口ぶりで僕に向かって説教を垂れる。お前は人生のすべてを悟るほどの人間でもないだろうと思いもしたが、当然口には出さない。見れば実年齢こそ三十代前半といった頃だが、その不毛なる砂漠のような頭頂部が年齢の不詳さをかもしだしている。彼は若いなりにその頭皮について思い悩みもしただろう。僕は若くして頭皮の悩みを抱える彼に〝テルテル〟の名前を与えてやることを決めた。
熱く説教を垂れる彼に対し、それをあえて無視する僕は目の前の『若きテルテルの悩み』について想像を膨らませながらやり過ごした。
一年A組、普通科 特別進学コースの教室は校内で一番玄関寄りの新校舎にある。
説教のせいで一人少し遅れて教室にたどり着いた時にはすでにいくつかの〝輪〟が出来上がっているように感じた。ざわめく教室の中、それぞれに見た目だけでそれなりに見当のつきそうな系統別に分かれ、それぞれに雑談を始めている。
黒板には座席と名前が書かれていた。とにかく僕の席はその黒板の席次表によると教室の一番左側の後ろから二番目、特別でも何でもないその場所が他でもない僕のために用意されていて、何を考えるでもなくその席に座り、机の上に荷物を置いた。
教室の中を見回すとそこいらで初めて顔を合わせる者同士がそれぞれの新しい仲間を求めて言葉を交わしている。
少ししてチャイムが鳴り、ほぼ時を同じくして担任のテルテルこと原田がやってくると、教室のみんなはおとなしく自分の席に戻っていった。お約束の挨拶やら聞き飽きた注意事項やら心がけやらを偉そうに語るうすらハゲの言葉など聞くだけ時間の無駄で、僕は教室全体を眺めていた。
それというのも僕の心の片隅にちょっとした希望があったのだ。こんなことを言うと笑われてしまうかもしれないが、僕が今朝出会ったあの〝太陽の少女〟のことだ。もしかしたら同じクラスの生徒で「あっ、さっきは!」というような運命の出会いができるかもしれないと思っていたりなどするのだ。漫画などではあまりにもよくある光景にもかかわらず実際にはまずありえない。
そして僕の人生においてもやはりそんなことはありえなかった。
しかし、転んでもただでは起きないのが僕だ。教室の一番右の列の最後尾に天使を見つけた。透き通るような色白の肌で、まるでシャム猫のような気品に満ちた、はっきりとした顔立ちで、少し厚めの唇はつやつやと輝きを放ち……。なのだが髪は明らかに地毛では通用しない明るい染髪でやわらかそうな長い髪。日本人には珍しく青みを帯びた瞳は神秘的でさえあり、スカート丈は驚くほどに短い。
まあ、一言で言ってしまうとビッチっぽい。入学早々に一年生がこれほどまでに堂々とした恰好でいるとはいい度胸だ。もともとこの学園は進学校ではなく、芸術や文化教育に力を入れていて美術科や調理科、音楽科などを有しており、まあどちらかというと偏差値は低めの生徒が多い。そんな学園内において特進コースはただそれだけで異質な存在であり、ルサンチマンの対象であるにもかかわらず、入学早々『調子に乗っている』とも受け取られそうなその恰好は孤立を招きかねない軽率な判断だともいえるだろう。
しかしながら、それくらいどうってことないほどどストライクだった。その真っ白な肌はまるで新品の消しゴムを連想させる。まあ、どうでもいいことなのだが僕は新品の消しゴムというものに対して一方ならぬ嗜好がある。まずその角ばった形だ。光に透かすと透き通るほどに白くシャープな角はそれでいて触ると意外なほどに優しい。そう、新品の消しゴムの角はツンデレなのだ。新品の消しゴムの良さはそれだけにとどまらない。消しゴムについているカバーを外してみよう。その内側は少しだけパウダーっ気があり、触るとものすごくスベスベしている。僕は時々勉強に行き詰まると消しゴムのキャップを外して中のスベスベを堪能しながら精神を集中させる癖がある。
僕は妄想の中で彼女のキャップを外してその中のスベスベを堪能してみた。
僕は黒板に書かれている席次表を見ながら彼女の名前が笹葉更紗という名前だと確認し、それと同時に〝消しゴム天使〟という名を与えた。はじめに思い浮かんだのは〝ゴムビッチ〟だったが、それではあまりにも下世話な印象なので美人に免じて〝消しゴム天使〟を採用することにした。
つい、見とれてしまったのかもしれない。どれくらいの間彼女を見ていたのかはわからないが、やがて僕の視線に気づいたであろう彼女は僕の方を見つめかえして二人の視線はぶつかった。
まるで一瞬の間に恋するというのはこういうことなのかもしれないというほどに胸が高鳴った。もしかすると僕はここで彼女と出会うことを運命づけられていたんじゃないかと思う。さらに消しゴム天使は首を少しかしげ、僕に向かって微笑んでくれた。その表情は意外にこわばっていた。少しぎこちなさを含んではいるが、決して悪意はない、たしかな親しみを感じる笑顔を必死で作ろうとしていた。
急いで僕も何かしらの合図を送り返そうとした。その時僕の後ろの席、つまりは窓際の一番後ろの席で何かの気配を感じた。その気配の主はそんな彼女に手を振っていた。僕はそっとそいつの顔を見てやった。黒板の席次表なんか見る必要もない。僕はこいつの名前を知っている。
こいつの名前は確か黒崎大我、僕がさっきリア王の名前を与えた奴だ。そしてすぐに現実を理解した。よくよく考えてみればあんな美人の消しゴム天使が僕になんか微笑みかけてくるはずがないのだ。彼女がその微笑みでアピールしたい存在とは超の上に超がもう三つくらいつきそうな美男子でしかも入試成績トップのキングオブリア充ことリア王、黒崎大我をおいて他にいるはずもなかった。
僕は恋に落ちて三秒で失恋を経験し、その腹いせに横目でリア王こと、黒崎大我を睨んでしまったかもしれない。そんな僕の目線に気づいたリア王は屈託のない笑顔で僕にさえ微笑みかけてくれた。この腐りきったねじくれた性格を持った僕に優しく微笑みかけてくれたのだった。もし、この僕が女に生まれていたならトキめいてしまったかもしれない。
全てを持って生まれてしまった人間は他人にルサンチマンを感じることはない。だから僕の目線の奥に潜む悪意を感じ取ることもできず、ただ優しく微笑み返してしまったのだ。
ホームルームが終わり、その日の学校行事はそれだけで終わりだった。遅刻した僕にとっては一体何のために学校に来たのかもわからないような一日であった。僕は荷物をまとめ帰る準備をしようとした。
そんな僕の背中をトントンとたたいてくる。考えるまでも無く僕の後ろに座っているリア王だろう。座ったまま上半身をひねって振り返った僕に優しく微笑みかけながら(僕は王子様スマイルと呼ぶことにした)繊細で美しく、それでいてそれなりにたくましい手を差し伸べてきた。
「俺は黒崎大我。これからよろしくな」
ただ、それだけ。ただそれだけの当たり前の挨拶だったが、王子様スマイルのせいかその伸ばされた掌がまるで地獄にいるカンダタの前に差し出された蜘蛛の糸のように感じた。ドン底の気分で二周も三周もねじくれた性格の僕を極楽浄土へと導いてくれるかもしれない蜘蛛の糸。
午前中にして家に到着し着慣れないブレザーを脱ぎ、結びなれないネクタイをほどいてリラックスすると、ベットの上に横になって読みかけの文庫本を開いて読書を開始する。
僕の趣味は読書だ。ある理由があって一年くらい前から本を読むようになった。初めのうちは読み始めるとすぐに眠くなっていたが、いつの間にか平気で何時間も読み続けられるようになっていた。
一時間ほどで読みかけだったスタンダールの『赤と黒』を読み終わると本棚に並べ直す。本棚はすでにパンパンで本を差すためには一度邪魔になっている端のノートを引き抜かねばならなかった。すぐに別の場所にそのノートを移動させようと思ったが思い直して引っ張り出し、ノートを開いてみた。そのノートには僕が一年ほど前に読書の趣味を持ち始めた時からの読書感想文が書かれている。決して課題として学校に提出するとかそういったために書いているものではない。その当時知り合った友人の勧めで思ったことを何でもいいから書くようにしたのだ。もちろんページ数や文法も特に気にする必要はないし誰かに見せるためにウケを狙う必要もない。おかげで書いている内容は実にいい加減なものである。
最初のページを開いてそこに書かれている一年前の感想文を読んでみる。
『蜘蛛の糸』(芥川龍之介著)を読んで
お釈迦様は残酷である。そもそも蜘蛛を助けたからと言ってそれで人を殺したり家に火をつけたりする大泥棒の罪がチャラになるわけがない。そもそも蜘蛛を助けただけではなくただ殺さずに見逃してやっただけに過ぎない。別に善い行いをしたわけでもなく、悪い行いをしなかっただけに過ぎない。そんなことで極楽浄土へ行けるというのなら地獄なんてはじめから誰も行く必要が無い。
だったらなぜお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らしたのか? その答えは簡単だ。
カンダタのごとき悪人はどうせ蜘蛛の糸を独り占めするような行動をとるということが初めから予測されていたのだ。その上でお釈迦様はカンダタに糸を登らせてわずかな期待を持たせ、そのうえでまっさかさまに落としてやろうという魂胆だったに違いない。
芥川は悪人などというものはそうしてお釈迦様の暇つぶしにもてあそばれるようなただの見世物としての生活を受け入れなければならない因果応報を語りたかったのだ。
それにあの話、一体正解はなんだったというのだろう?
細い糸にしがみついているカンダタを追って登ってくる罪人の群れ。どうすればうまく昇りきることができただろうか。細い糸は今にも切れそうであったに違いない。「さあ、みんなで一緒に登ろう!」なんてのはばかげている。「糸は細いからみんな順番に一人ずつ登ろうよ!」なんて優等生なセリフも無意味だ。何せここは地獄で周りは罪人である。そう簡単に秩序を守るわけがない。つまり初めから出口なんて用意されてなどいなかったのだろう。本来地獄とはそういったものだ。しかしまあ、僕だってそれほど悪人というわけでもない。まあ死ぬまでに十匹は蜘蛛を殺さず見逃してやろうと思う。
まったく。中学生時代に書いたものとはいえ、ひどい内容だ。このひねくれた性格は何も最近に起きた不幸な出来事の連続で生まれたものではないという証拠だ。
一年前から僕はすでにひねくれた性格だったことを思い出した。
だが、一年前にこんなひねくれまくった僕の読書感想文を肯定してくれた人があった。
その人はこう言った。
『面白いわ。こういう考え方もあるのね。読書の感想や解釈にはこれが正解なんてものはないの。その人が読んで感じたことがすべて正解なの。そして読むたび、また違った感想や解釈ができるようになっていくわ。それは読書をする時の心的状況もあるでしょうし、年齢に伴う考え方の変化もあると思うわ。だから読んだことのある本でも何年か置きには読み返してみて。そうすればまた違った感想が持てるかもしれない。その時のためになるべく今の感想を書き留めておいて未来の自分がどう変化したのかを考えてみるのもいいかもしれないわ』
その人はただひねくれただけの少年を肯定してくれた。そのことに気をよくしてしまったのかもしれない。それからというもの僕はひねくれることを恐れなくなってしまったような気がする。
ひねくれてばかりだった入学式の日から三か月の月日が経ち、すっかりと姿を青々しく変化させた桜の並木道を坂の上の旧校舎から眺めながら、あの桜の木ほどではないにしろ自分もずいぶん変わったなと思い返す。それというのもきっと……
本格的な暑さが日本列島を横断し始めた今日この頃。山の斜面に建てられた芸文館高校の敷地内でも最も高い場所にある旧校舎はささやかな避暑地だと思っていたのだが、いかんせんこの古い建物にエアコンが設置されていない現実は、インドアな部活動の生徒さえも室外へと送り出す力を秘めていた。
小高い丘に建つこの旧校舎では、蒸し風呂状態の室内よりも、旧校舎前の縁側の方が風がそよぎ、いくぶん涼しさを感じられる。
「そうやっていつも部屋の中にいるよりも、たまには外に出た方がいいよ。天気良いんだし」
そんなことをつぶやく我が部の居候、宗像さんの言葉を受けて、部室の椅子を屋外へと持ち出した僕は丘の上に立つ旧校舎の縁側に居を構え、そこで読書に耽っていた。
そんな僕の隣では、同じように椅子を持ち出した宗像さんが椅子の上に体育座りをするというはしたない、あるいは見る角度によると少しばかりエロい体勢で少女漫画を読んでいる。
終始二人は無言で、それぞれの物語に浸っていたのだが、不意に宗像さんは僕の目の前に手のひらを上に向けて差し出し、
「あめ……」
とつぶやいた。
僕はすかさず、足元に置いていた数冊の文庫本を入れて持ち歩いているポーチのサイドのポケットからロリポップキャンディーをひとつ取り出し、彼女の手のひらに載せた。
「なにこれ?」
とつぶやく宗像さん。
「だから、あめ……」
躊躇なくそう答える僕は決してつまらないダジャレを言っていたつもりではなかった。
「いや、そういうことじゃなくってさ、クモの糸の方……」
「クモの糸の方?」
彼女が言うには、空から降ってくる雨は、〝雲から垂れ下がる糸〟らしい。すでに高校生である彼女は、その時まで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のことを雲から垂れ下がる糸、すなわち雨を掴んで登っていく話だと思い込んでいたそうだ。
まったく。僕の〝雨と飴〟の勘違いも大概だけれど、宗像さんの〝雲と蜘蛛〟の勘違いも大概バカバカしいと大笑いをした。
大笑いをして、本格的に降り出した夕立に慌てて椅子を担いで旧校舎内に駆け込む僕たちふたりはまだ笑っていた。
薄暗い教室に移動して、読んでいた漫画を置いた宗像さんはしばらく窓の外を眺め、ぽつりとつぶやいた。
「雨、やみそうにないね。ねえ、せっかくだからどこか出かけようよ」
なにが、せっかくなのかわからない。
「あ、そうだ。ユウの通ってた中学校に行こうよ」
「なんで?」
「ほら、この間のおっさん先生? あの先生に会いに!」
――なんで? そんな言葉を口から出しかけたが、やはり口に出すことは憚られた。つい先ほどまで宗像さんが読んでいた漫画は女子高生と学校の先生が恋をするという物語だったからだ。少女漫画にはやたらとこの設定が多い。よもや美少女女子高生の宗像さんが、冴えないおっさんのことを、なんて考えたくもないが、ならばなおさら理由を聞くこともできず、僕は素直に宗像さんを出身中学校まで連れて行くことにした。
降り出した雨は通り雨で、数分もすると何事もなかったように晴れ渡った。
二駅ほどを電車で移動して到着した放課後の中学校。僕たちは職員室ではなくまっすぐ理科準備室へと向かう。職員室嫌いのおっさんはいつも理科準備室に閉じこもり、部屋を趣味の写真現像のための暗室に勝手に改造していた。
相変わらず汚い部屋だ。わずか四畳ほどの狭い準備室は散らかり放題で机の上のわずかなスペースを除いて、どこに何があるかわからないほどにものが散乱している。
「やあ、ひさしぶり」
「なんだ竹久か……何の用だ?」
「自分の出身校に来るのに、理由なんて必要かな?」
「なんだ、いい年してわびしい俺に恋人でも見せつけに来たのか?」
「恋人? ああ、宗像さんはそんなじゃないよ」
言いながら、本来ここに来たいと言い出したとなりの宗像さんに視線を送る。いつも堂々とした彼女らしからず、きょろきょろと視線を泳がせ、うろたえている様子だった。
僕は部屋の隅のパイプ椅子をふたつ持ってきて宗像さんと並んで腰かけた。
気を利かせた僕はその場の空気を自然なものにするため、思い付きで話を振った。
「いやね、この間おっさんが太宰の死の真相を究明したのを聞いてね、ちょっと相談したいことがあって来たんだ」
「なんだよ」
「今日は、芥川龍之介について……」
宗像さんが急におっさんに会いに行きたいだなんて言い出してから、ここに来るまでの間に必死で探しておいた話のネタだ。
「ああ……あれな。ありゃあ……脳腫瘍だ」
「脳腫瘍?」
話の本題に入る前に唐突に放たれたその回答に、思わずうわずった声で復唱した。
「芥川龍之介の死因だよ。ドッペルゲンガーって知ってるか?」
――ドッペルゲンガー。もちろんそのくらいのことは知っている。
自分とそっくりの人間がある日突然現れて、出遭った本人はその数日後に死んでしまうという西洋の都市伝説。芥川龍之介も晩年に書いた『歯車』という話の中でドッペルゲンガーの影に追われるというものがある。これにより芥川自身ドッペルゲンガーを見たのではないかという噂もある。
「まさかその都市伝説上の存在に襲われて死んだとでも? 理科の教師のセリフじゃあないな」
「いや、だから死因は脳腫瘍だと言ってるだろうが。いいか、ドッペルゲンガーというやつは医学的に言うならば自己像幻視というやつで、こいつは側頭葉と頭頂葉の境界に脳腫瘍ができることで発症することがある。つまり、ドッペルゲンガーを見るということ自体、いつ死んでもおかしくないような危険な状態にあると言ってもいいわけで、これがドッペルゲンガーと呼ばれる都市伝説の正体だ」
得意げに自説を語る教師を前に、こんなことを言うのもなんなのだけど、それでも僕はちゃんと真実を話しておかなくてはならないなと思った。
「悪いけど……。芥川の死因は服毒自殺ですからね」
「……」
「知らなかった? たぶん、ドッペルゲンガーがどうとかという話よりもずっと有名な話……」
「ま、まあでもあれだ。たとえば脳腫瘍が原因で小説が書けなくなったりだとか、いろいろ精神が錯乱状態になったのだとも考えられるだろう? それで服毒自殺に至ったということだって十分に……」
「まったく。負けず嫌いにもほどがある。でもまあ、そもそも僕が話そうとしていたことはそんなことじゃないんだけどね」
「……ん? そうなのか? さっき芥川がどうとか……」
「芥川の名前を出しただけで暴走を始めたのはおっさんだ。
さて、ここからが本題なんだけど……。ずばりおっさんは『藪の中』の真犯人は誰だと思う?」
『藪の中』は芥川龍之介の傑作小説の一つだ。
藪の中に見つかった侍の死体、その容疑者は三人現れる。その三人すべてが自分が犯人だと主張し、その状況を語るが、当然三人の言い分は食い違っていて真相は迷宮入りする。
「真相は藪の中」といった表現はこの小説のタイトルに由来する。
僕はその物語についての簡単な状況を、その小説を全く知らない宗像さんに解説するため、状況を復習するために、簡単にあらましをまとめた。
死体の第一発見者、木こりの証言と状況
朝、いつもの通り杉の木を切りに裏山に入り、山影の藪の中で死体を発見した。烏帽子をかぶった侍の死体があおむけになって倒れており、胸元には刀を一突きされた跡があり、傷口は既に乾いていた。周りの竹の落葉は血で赤紫に染まっており、凶器らしき刀などはあたりには落ちていなかったが、一筋の縄と櫛とが落ちていた。あたりは一面踏み荒らされた跡がある。馬が入ってこられるような場所ではない。
また、旅法師の証言では侍は妻と二人で馬に乗り関山のほうに歩いていったとある。妻はとても勝ち気な性格で、事件後その姿を消している。
容疑者1 盗賊の多襄丸について。
札付きの盗賊で事件発生後まもなく別件にて逮捕された際、侍の持ち物である弓矢や馬などを所持していたが、肝心の凶器と思われる太刀は所有していなかった。
多襄丸の供述では自分が侍を殺したという。妻の行方については知らないという。
多襄丸は侍夫婦と出会い、山の中に宝を埋めてあるから安く売ってやると話を持ち出し、ふたりを山へと連れ込んだ。妻は馬の入れない藪の入り口で待機し、藪の中で二人になった時侍の不意を衝いて組み伏せ、木の根元に縄でくくりつけた。
妻を侍が急病だと言って呼び出し、侍が縄でくくられているのを見せる。すると妻は小刀を抜いて多襄丸に切りかかったが、名うての盗賊にかなうわけもなく、侍の目の前で多襄丸は女を手に入れた。
ふたりを置いて立ち去ろうとした多襄丸に妻がすがりつき、二人の男に恥を見せたとあっては生きてはいられないと、どちらか一人の男に死んでほしいと懇願する。生き残った男と連れ添いたいとも。
多襄丸は侍の縄を解き、侍と一対一の決闘をして激戦の末侍を討ち果たしたが、すでに妻の姿はなく太刀や弓矢を奪って去った。都に入る前に太刀は処分した。
容疑者2 妻の供述について。
後に見つかった妻の証言は一部食い違いがある。盗賊は侍の前で妻をてごめにし、妻はどちらかに死んでくれとまでは言ったが、呆れた盗賊は太刀と弓矢を奪ってその場を立ち去る。妻は小刀で侍の胸を突いて殺して縄をほどき、自分も後を追おうとしたが死ぬに死にきれなかった。
容疑者3 死霊となった侍の供述について。
なんと、降霊術を使って死んだ侍から直接事情を聴く。なんだ、それできるんなら今までの話はなんだったんだということは言ってはいけない。
妻をてごめにした盗賊は夫を捨てて自分と一緒になれと妻に迫るが、妻はそれならば夫を殺してくれという。そうしないと安心してあなたとは一緒になれない。その言葉にあきれた盗賊は妻を蹴り倒し、侍に問う。そんなことを言う妻を殺してやってもいいがどうするか?
侍が答えるまでもなく、妻はその場を逃げ出した。憐れんだ盗賊は侍の縄を解き、太刀と弓矢を奪って立ち去る。ひとり残された侍は足元の小刀で胸を突いて自害する。
「さて、この事件。理科の教師の視点でどう考えるだろう」
「ふうむ、そうだね」と腕組みをしてから眼鏡をかけ直すおっさん。数秒もたたないうちに一つの問題点から指摘する。
「まず、盗賊の供述だが、激しい激闘の末侍を倒した。これはおそらくウソの供述だと考えていいだろう。
木こりの証言にもあるように侍は胸に一太刀受けて死んでいたはずだが、まあ、人間というものはそう簡単に死んだりはしない。しかも一太刀となればおそらく心臓を破壊、死因はこれしかないだろう。しかし、証言によると落ち葉は血にまみれていたとあるが、あたりの木々に血しぶきが散っていたというような記述はない。おそらくこれは心臓を突いた太刀がしばらく刺さったままだったと考えていい。心臓を貫いた太刀をすぐに抜けば傷口から大量の血しぶきが散ってしかるべきだ。
しかしどうだろう? 心臓を突いたからとはいえ、侍はその場にすぐに倒れて死ぬわけではない。尚も武器を持って立ち向かってくるはずだ。次の攻撃に備えなければならない盗賊はその体から太刀を抜き、とどめを刺す。あるいは防御の構えを取らなければならない。つまりこの事件、侍は無抵抗の状態で刺殺されたということになる」
「なるほど。確かに理科の教師らしい見解だ。僕もおおよそその意見には賛成だ。僕の考えでは真相はどうあれ、盗賊は別件で逮捕されていて余罪も多く、おそらく当時の裁判において極刑は免れないだろう。だとすれば、せめて男のプライドだとか、そんなものを誇示したくて侍と一対一で切りあって勝利した。なんてエピソードを言いたかったんじゃないだろうか」
「よし、じゃあ次だ。妻による刺殺説。これなんだが、まったく男からすればゾッとする話だ。自分の妻が生き残った方と添い遂げるからどちらか片方は死んでくれという話なんだが、まあ、科学的に言えばメスはより強いオスと子孫を残そうとする本能があるわけで、この発言には無理がない」
「ちょっとまって! 別に全てのメスがそう思ってるわけじゃないからね」
「わかってるよ、宗像さん。力が無くても金があればそれは問題ない。理性を働かせればそういうのもアリだろうけれど、本能的には、という意味での話だよ」
「さて、話を戻そうか」
と、生物学的に決して強くはないオスふたりの会話に戻る。
「あと、妻は樹に括られた侍の胸を突いて、その後に縄を解いたとあるが、普通、縄で樹に括りつけるのならば心臓のある胸のあたりじゃないだろうか。もし、もっと下の方であるならば上半身の動きに余裕があるので胸を突かれるにしてもかなり抵抗する余地がある。かといって心臓よりも上を縛れば、これは間違いなく簡単に縄から抜けることができるだろう。それに落ち葉同様、縄も血に染まってしまうだろうが、どうやらそういった記述もないようだ。つまり、妻が殺したというのにもやはり無理があるような気もする。一度はその場を逃げ出した妻であったが、自分のしたことで罪の意識にさいなまれ、自分が殺したと供述することで自分自身に罰を与えようとしたのではないだろうか。
そして、消去法に従って侍の自殺説。ためらい傷といったものがないというのは自殺であるという証拠にならない。しかし、侍が意を決して自分の胸を突いたというのならばそれにはあまり無理はない。よって、科学的な見解では侍は自殺した。といったところかな」
「おいおい、ちょっとまってよ。なにが科学的にだよ。降霊術の証言に科学的根拠なんてなにもない」
「まあ、そうは言うけれどどのみち消去法で自殺ってことにはなるんだからさ。それとも何か? 竹久には別の推理があるとでも?」
「うーん、まあ、これはさっきおっさんの話を聞いていて思ったんだけど、侍が自害したのならばなんでそこに凶器の小刀はなかったんだろう? 侍の証言にあるように、後になって誰かが抜いて持ち去らなければならない。罪の意識にさいなまれた妻か、あるいは物取りの盗賊の仕業か、木こりがとったなんていうのも考えられるかもしれないが、どうもすべて釈然としない答えだ。
そこで、僕は想像してみた。この物語のもう少し続きを……
盗賊は侍にこんなことを言い出す妻を殺してやろうかと持ち出し妻は逃げる。妻に見捨てられた侍は打ちひしがれ、哀れに思った盗賊は縄を解く。みじめなあまり、盗賊に自分を殺してくれと頼む侍。
ほんのわずかの間ではあるが同じ女性を愛した男同士、わかりあえるなにかがあったのかもしれない。盗賊は侍の太刀で胸を突き、その場で念仏を唱えてやった。時間が経ってから抜かれた太刀からは血しぶきが上がることもなく、盗賊は立ち去る。
後に逮捕された盗賊は検非違使の質問に対し、哀れな侍の事実を伏せ、男らしく戦って死んだという嘘をでっち上げた。
つまりさ、これは邪知奸佞な物語なんかではなく、恋のライバルと、男同士の友情の物語。そんな気がするんだよ」
またしても、そんなくだらない僕の妄想でこの物語は締めくくられる。さて、『藪の中』に隠された真相についてはいくら議論したところで尽きることはあるまい。まさにわからないことがあった方がこの世はおもしろいのだ。
会話に夢中になる弱いオスふたりの脇で誰もが愛してやまないほどの美少女は企みを遂行し終わったようだ。
「また来るよ」
それだけ言い残して僕たちは出身中学校を後にする。
帰り道。強がる僕はあえて気にしないようにしているつもりだったが、どうにも無理のようだった。
弱いオスふたりが会話に夢中になっている最中、僕は彼女が散らかった机の書類の間に、そっと一通の便箋を忍ばせたことに気づいた。とても可愛らしい、ピンク色で白いレースのついた便箋だ。
「なあ、宗像さん。さっきの手紙……」
「あ、ラブレター……。気づいてた?」
『ラブレター』という言葉を彼女は臆する様子もなく使った。
「まったく。あんなおっさんのどこがいいの?」
「どこっていうかさ……。あ、もしかして妬いちゃってる?」
「べ、別に妬いてなんかないよ」
「あ、それツンデレさんな定番セリフ!」
「まあ、ともかくこれで借りの一つは返したことになる」
「まあ、それは仕方ないかな。でもたぶんまだ結構残ってると思うし」
「生きているうちに返せる程度ならいいけど」
「あ、じゃあさ。もう一つだけ返してもらっていいかな」
「な、なに?」
「えっとねえ……」彼女は目を狐のように細めて笑顔をつくり(僕はししっ! とアテレコする)、「今度からアタシのこと、下の名前の〝瀬奈〟って呼んで。アタシたちもう友達なんだし、そういつまでもさん付けで呼ばれるのってしっくりこないかなって」
「そ、そんなことでいいなら」
「じゃあ決まりね。これからはアタシのこと〝瀬奈〟って気軽に呼ぶこと!」
「あ、ああ。わかったよ……」
――瀬奈。と僕は彼女に聞こえないようにつぶやいてみる。やはり少しハードルが高いようだが、借りは少しでも返した方がいい。
思えばカンダタは地獄にいた時に一本の蜘蛛の糸を見て、これを伝っていけば極楽浄土に行けると考えたわけだ。しかしながら地獄に蜘蛛の糸とは何ともあたりまえの存在ではないだろうか。蜘蛛の巣や蜘蛛の糸なんてどちらかといえば天国より地獄の方がイメージに合う。にもかかわらずその糸を自分が生前助けた(実際は助けたというより殺さなかっただけ)蜘蛛の糸で、それを伝っていけば極楽浄土にたどり着けると考えるのはあまりにもバカで楽観的な考え方だろう。
つまりはあの話。物事を常に前向きに考えてさえいれば、どんな些細な出来事さえもチャンスだととらえ、目の前にぶら下がる好機をつかむことができるということが言いたかったんではないだろうか。
カンダタはやはり欲深い男で好機をものにはできなかったが、カンダタに負けないくらいのバカで楽観的な男が屈託のない善意を持って過ごすことができたなら、やはり好機をつかむことができるんじゃないのか。
そしてその実例があのリア王だとは言えないだろうか……