『走れメロス』(太宰治著)を読んで  竹久優真

 正直な話。ざいおさむという小説家があまり好きではない。

 おそらく、古今東西の小説家の中でも、その人気は一位二位を争うほどで、イケメンでモテモテ。才能には恵まれ、資産家の息子ときたものだ。

 なのにどうだろう? この男、はっきり言って相当に失格な人間なのだ。

 薬物中毒で、大酒を飲み、約束は守らず、金に、女にだらしない。挙句になにかある度に死のうとする始末だ。

 いったい、何が不満だというのだ!

 それほどに恵まれてなお、どこまでわがままを言おうというのだ。

 世の中の人間の多く、たとえば僕のようにいたって平凡、あるいはそれ以下のような人間からしてみれば……

 ――要するに、妬んでいるのだ。


『エロスはいきりたった!』

 そんな書き出しでその物語は始まる。

 傍若無人にムチをふるう女王様のうわさを聞いたエロスはいてもたってもいられず、すぐさまその足で宮殿のようにきらびやかなネオン瞬く雑居ビルに入っていくが、あいにくその日は目的の女王様は出勤しておらず、失意のままに家に帰る。

 友人、セリヌンティウスに連絡をとり、また改めて一緒に行こうと固く約束をするも、その日が妹の結婚式であったことを忘れていたエロス。

 結婚式が終わるやいなや一目散に女王様のお店に向けて走り出す。

 それというのも、友人セリヌンティウスは、約束の開店時間までにエロスが到着しない場合は目当ての女王様を自分が指名すると言い出したのだ。

 エロスは走る。

「こよいわたしはシバかれる。シバかれるために走るのだ!」

 まだ開店時間まで余裕がある。とエロスはあまたの誘惑に何度もつられそうになり、気が付けば時間がどんどん迫っている。

 近道をしようと細い路地裏を入っていくと、そこで三人の男に性的暴行を受けてしまう(なんというヒドイ展開!)。

 それでもなお走り続けるエロス。時間ギリギリにお店に到着したエロスにセリヌンティウスは言う。

「エロス、君は真っ裸じゃないか」

 女王様とのプレイを妄想していたエロスは走りながらも我慢できず、一足先に全裸になっていたのだ。

「セリヌンティウス、俺を殴ってくれ!」

 道中、男たちに輪姦されたエロスは、同性愛にも目覚め、セリヌンティウスにSMプレイを要求する。

 それは、セリヌンティウスの望むところでもあった。お店の受付前でプレイを始めてしまうエロスとセリヌンティウス。それを見ていた女王様は二人のもとに歩み寄り、

「わ、わたしも、仲間に入れてくれないだろうか!」

 三人は仲良くプレイルームへと入っていく。


〝文芸部〟と表札のかかった、静かながらも老朽化の進む教室の中、その『はじれエロス』という物語を読み終わったばかりの僕の目を覗き込む彼女。

 長いまつ毛と黒目がちな大きなそうぼうが、黒縁の眼鏡のレンズ越しにきらりと輝く。

「感想を聞きたいのだけれど?」

 そう言って、まばたきをぱちりと一度だけして、じっと僕の方を見つめている。

 この部活動の部長である彼女、あおいしおりは黒髪のショートカット。文学乙女を思わせる眼鏡姿の彼女は、おとなしく地味な風貌ながらも個人的にはどストライクだと言って間違いではない。そんな彼女とふたりきりの部活動だと喜び勇んで入部したのが間違いのはじまりだった。

 そもそも彼女の性格には問題がありすぎる。

「感想を、といわれても……専門外ですよ。僕は」

 文学を愛する僕にとって、目の前にある彼女が先日同人誌即売会で見つけたという薄い小冊子の漫画は、専門外であると言い切れる。いや、それどころか……

「これ、基本BLじゃないですか」

「BLをキライな女の子はいないからね」

「それは偏見です。いや、それ以前に僕、男ですけど……」

「〝男〟という言葉を使うのはどうだろう? だって君はまだ童貞だろう?」

「童貞だろうと男は男です。それにこれはあきらかにR─18ですよね?」

 二か月前に高校生になったばかりの僕は当然18歳未満であり、それを言うならば、大きくたわわに実った夏服の彼女の胸もとにぶら下がるストライプのネクタイは、入学の年ごとに色分けされているもので、緑色のそれは今年二年生の証拠である。即ち、考えるまでもなく彼女もまた18歳未満なのだ。

「まあ、そんな細かいことは気にしなくってもいいじゃないか」


 ――まったく。こんなはずじゃなかったんだけどな……


 ここしばらくの間で、何度繰り返されたかしれないそんな言葉をつぶやく。二人きりの静かな部室を見回すと、教室の壁一面に並べられた書架と無数の本。古い紙とインクの匂い。昼過ぎに突然降り出した雨がまるで嘘だったかのように、窓から差し込むたおやかな日差しが室内に舞う小さなほこりをキラキラと輝かせている。その日、今年初めての真夏日を記録したにもかかわらず、山の斜面の上方に建てられたその旧校舎の室内には心地の良い風が吹き込み、窓際の臙脂色のカーテンをやさしく揺らす。

「ちゃっおー、しーおりーん!」

 教室の静寂を打ち破る底抜けに明るい声が響き、同時に教室の引き戸が大きくひらかれた。

 まるで太陽を連想させるかのような小柄な体躯の少女の夏服から飛び出す四肢は、ほのかな褐色を帯びている。胸元のネクタイは僕と同じ青のストライプで、一年生だという証拠だ。栗色のセミロングの髪を風になびかせつつ、おしとやかさのかけらさえ感じさせないのは肩幅以上に開いた彼女の足のせいだろう。

 猫だか、きつねだかのように吊り上がった双眸は笑顔とともに線のように細くなり、その眉とともに二つのVを描いている。

 僕はそんな彼女の表情を見る度、いつも決まって「ししっ!」とアテレコしてしまう。無論、彼女がそんな言葉を発しているわけではなく、あくまで僕の心の中でだけつぶやかれるのだ。

 控え目に言って、彼女、むなかたはとびきりの美少女である。

 物怖じしない性格で、人懐っこく、方々に首を突っ込んではかき乱すものの決まって彼女はいつも笑顔なのだ。そんな彼女の周りにはいつも笑顔があふれ、そんな笑顔に魅了されない男子生徒などいるはずもない。

 ちらり、と僕の方を一瞥して、

「なんだ、ユウもいたんだ」

 ワントーン落として、少し不機嫌そうにつぶやく。

「いちゃ、マズイかな?」

「だってさあ、アンタ。今日の放課後サラサたちと遊びに行くんじゃなかったの?」

「いや、まあ……。なんというかな、あれだよ。僕なりに気を遣ってみたんだけど……」

「はあ……」と、彼女は息をつき、「まあーったく、そうならそうとアタシにひとこと言っておいてよね。アタシだって今日、サラサたちと一緒に行くつもりだったんだからっ!」

「なんだ、そうだったのか……で、じゃあなんで宗像さんはこんなところにいるんだ?」

「いや、何でじゃないでしょ! アンタがいないからでしょ!」

 聞きようによっては、勘違いして調子に乗れそうな言葉だったが、あいにく彼女が言っているのはそういう意味ではないだろう。

「……そうか、ゴメン」

「いや、別に謝ってくんなくってもいいけどさ。さすがにアタシだってあの熱々カップルの隣に一人でいるのは気まずいわけよ」

 宗像さんの親友、さささらは僕の友人のくろさきたいと少し前に恋人同士になった。美男美女の完璧すぎるカップルだ。もちろん、友人として祝福はするが、やはり周りの人間としては少しばかり気を遣ってしまうものだ。僕にしても、宗像さんにしても……

「ああ、これ! 〝あみこ&つみこ〟の新作じゃん!」

 机の上に置かれたBL同人誌『恥れエロス』を見つけた宗像さんは息も荒くに薄い冊子を手に取った。

〝あみこ&つみこ〟という名はその同人誌にちゃんと記載されてある。宗像さんが息巻くほどに有名な漫画家なのかと感心もするが、それよりも……

「い、意外だな……。宗像さんもそういうの……読むんだね……」

「え?」

 と、一瞬驚く彼女。腰に手を当て、薄い胸を張りながらに堂々と宣言した。

「ったり前じゃないの! BLをキライな女の子はいないからね!」

 ――偏見……なんだよな……。少し、自信がなくなった。


 椅子に座り、夢中になって同人漫画を読み始めてしまった彼女。仕方なしに僕は立ち上がり、インスタントのコーヒーを淹れる。

 部室に唯一置かれた家電製品である湯沸かしポットでお湯を沸かし、用意されているそれぞれの専用マグカップにいつものようにコーヒーを淹れる。僕と栞さんはともかく、宗像さんはここの部員でもないくせに、ちょくちょくと顔をのぞかせるようになるうちに、いつの間にか専用のマグカップと大型のコンデンスミルクのチューブを持ち込んだ。僕と栞さんはきまってブラックコーヒーなのだが、宗像さんはミルクと砂糖の入った甘いコーヒーが好みだ。しかし、この部室には冷蔵庫など無く、したがってミルクもない。そこで彼女はコーヒーにたっぷりのコンデンスミルクを入れて飲むのだ。無論、スティックシュガーと常温で保存のできるコーヒーフレッシュを使えばいいことなのだが、コンデンスミルクのチューブなら一本用意するだけでかさばらなくていいというのはアウトドアの世界、ことさら荷物の量を気にする登山家の間では割と有名なテクニックらしい。いずれにしても読書家の僕からすれば縁の遠い世界の話だ。

「なあ、宗像さん。いっそのことうちの部に入らないか? 前にも言ったと思うけど、部員の足りていない現状のまま秋になると廃部になって部室を取り上げられてしまうんだ。だから今はひとりでも部員が欲しいわけだよ。なにも毎日来なけりゃいけないってわけでもない。なんなら幽霊部員だっていいわけだからさ」

「でも、今はまだ大丈夫なんでしょ?」

「え?」

「ほら、秋までは自由にここが使えるわけ。もし、それまでに部員がそろわなくてギリギリになったら、その時考えてあげるわ。そしたらきっとアタシはユウにすごいカシができるわけ。与えられたカードは最大限効果的に利用しなくちゃ」

 そうして彼女はコーヒーを片手に、再び漫画の世界に没入する。しばらくして漫画を読み終わった宗像さんは得意げに、

「はあ、今作も素晴らしい出来! まさに神作! ねえユウ、これ、あれだよね。太宰治の『走れメロス』のパロディーだよね!」

 と、言うまでもない当然のことを言った。

 いや、本を読まない彼女からすればそれがわかったというのが賞賛されるべきことなのか。

「『走れメロス』学校の授業でやったよね!」

 宗像さんのそんな言葉に、ああそうだったと当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしい。

 中学時代の授業でやった『走れメロス』。あれは最悪だったという記憶で、思わず記憶の中から封印しかけていたのだ。

 信じることの大切さと友情の大切さを説いた国語教師の授業の内容は反発を覚えるものばかりだった。しかし、それも致し方ないことだろう。あの教科書の抜粋は、僕からすれば一番大切な部分が切り取られてしまっていたのだから……。

 その点で言えばこの『恥れエロス』という同人漫画は秀逸だと言えるのかもしれない。その、大切な部分が削除されていない原文をもとに描いているからだ。

 僕は、部室に並べられた書架の中から太宰治の『走れメロス』を抜き取り、宗像さんのところに持って行った。

 そして、少しばかり偉そうに彼女に言う。

「ねえ、宗像さん。『走れメロス』の結末、最後はどうなったか知ってる?」

「え? たしか……。メロスたちがハグして、王様が改心して終わり……よねえ?」

「そう、たしかに物語はそこで終わる……教科書の物語ではね」

 言いながら、宗像さんの向かいの椅子に座り書架からとってきた文庫本のページを開いて机の上におく。

「でも、原文の方はもう少しだけ続きがあるんだ……」

〝ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘 さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

 勇者は、ひどく赤面した。〟


「えっ、なにこれ?」

 宗像さんはひどく赤面した。つい先ほどまで、あられもないBL漫画をケロリとした顔で読んでいたにもかかわらず、いまさらだ。

「原文の方ではメロスは最後、全裸で街中を全力疾走した挙句、セリヌンティウスと殴り合い、そして抱きしめ合ってるんだ。まあ、さすがにこんな結末を中学の教科書に載せてしまったら、さんざんネタにされるだろうからね。わからなくもないんだけど……」

「いや、セリヌンティウス……もっと早く教えてやれよってカンジ? さっきのBL漫画の結末のシーン、これだったんだね。全裸で殴り合ってハグしてるっていう……でもさあ、何で太宰はこんな結末にしちゃったんだろう?」

「どうだろうね? これは僕の解釈なんだけど、前半、なんだかんだと言い訳をしながらあまり本気で走っていなかったメロスだけど、後半、本気で走り出すと、自分の姿がどんなに不恰好であるかなんて気にしなくなった……ということじゃないかな。まあ、文学の解釈なんてこれと言った正解があるわけでもないし、なにが正解なんて決めつけるものじゃない。だから、そこは勝手に自分なりの解釈をしてしまえばいいんじゃないかな」

 なんとなく、うまく話をまとめてしまおうとした時、栞さんが話の中に割り込んでくる。

「でもさあ、せなちー。太宰治ってモテモテ男だったわけだけど、その実人間的にはかなり厄介なやつだからさ、そういうダメな男に気をつけなきゃダメだよ」と、僕が言いたかったけれども遠慮していた言葉を遠慮もなく言う先輩。「走るメロスに走らない太宰とかね」

「なにそれ?」と、宗像さんが半分興味を示したところで僕はそのエピソードを得意げに語ることにした。

「太宰が熱海に滞在しているあいだ、友人である檀一雄は太宰の奥さんに頼まれて太宰のところへ宿代のお金を持って行くんだ。しかし、太宰達はそのお金を使って豪遊し、宿代が払えなくなってしまう。そこで『お金を工面してくる』といって檀を人質として太宰はひとり、熱海を離れる」

「あ、メロスと一緒だ」

「でも、ここからが違う。約束の期日になっても太宰は帰ってこない。そこで檀が太宰を捜しに行くと、井伏鱒二と一緒に呑気に将棋を指していたんだ。

 怒る檀に対して太宰は一言。

 ――待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね。

 そう、言ったそうだ……」

「……意味、わかんないね」

「まあ、なんか適当なことを言ってごまかそうとしたんだろ。そんな感じのエピソードが絶えない人だからね、この人は」

「この時のことをもとに、太宰は『走れメロス』を書いたのかな?」

「まあ、『走れメロス』自体はシラーという詩人の『人質』や伝説などをモデルにして描かれたものなんだけど、この時のエピソードが内容に大きく影響しているというのは間違いないんじゃないかな。この事件の後に書いたのが『走れメロス』だったわけだし。

 まあ、このメロスという人物、なににつけても自分勝手でしょうがない。考えなしに城に踏み込んで捕まるわ、勝手に友達を人質にするわ……

 そのクセ妹の結婚相手にメロスの弟になることを誇りに思えだとか、自らを真の勇者だとかほざく。ダラダラ歩くわ居眠りするわ、なにかにつけて言い訳しながら自分が走らない理由を模索し続けている。『私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ』なんていうセリフは完全に自分に酔っているとしか思えないよね。まったく、これじゃあ熱海の時の太宰治そのまんまじゃないか。

 あと『走れメロス』の書き出しが〝メロスは激怒した〟となっているのに対し、太宰と将棋を指していた井伏鱒二がこの直後に描いた『山椒魚』の書き出しが〝山椒魚は悲しんだ〟となっているのも面白い。

 もしかすると、太宰の師匠でもあった井伏鱒二がその時の気持ちを表したものなのかもしれない」

「まあ、なんにせよ人間失格ってところね」

「まあ、ひどいものだよ、この人は。ここでいちいち説明はしないけど芥川賞事件やら、志賀直哉との喧嘩やらもう、人間として救いようがない……でもさ、なぜだかこの手の人間ってのは才能が秀でていたり、女性にモテたりするもんなんだよね。神様っていうものが不平等だという証拠の一つだ」

 そんな話をしながら、早くも糖分をいっぱい含んだ甘いコーヒーを飲み終えた宗像さんはおかわりのコーヒーを淹れに席を立つ。かわりに身を乗り出してきた栞さんが、その溢れんばかりの胸を机に乗せてささやきかけてくる。

「ところでさ、たけぴー(栞さんは僕のことをそう呼ぶ)。『走れメロス』の真犯人は誰だと思う?」

「真犯人? 『走れメロス』はミステリではないですけど……」

 栞さんは普段、あまり読書はしないと言うが、聞くところによれば推理小説なんかはわりと読んでいるらしかった。身内に、実際私立探偵がいるそうなのだ。しかしその実情は推理小説の中の存在とは程遠いものらしいのだが……。

「つまりね、あーしが言いたいのは、誰がメロスを殺そうとしたのか? ということなんだけどね」

「メロスを殺そうとしたのはディオニス王……でしょ? 他に誰かいる?」

「あーしはね、この物語、裏にうごめく悪意のようなものを感じるんだよ」

「裏にうごめく……たとえば短絡的で、無鉄砲なメロスの性格をよく知ったセリヌンティウスがメロスに王の暗殺を企てさせる……とか? でも、やっぱりそれはありえないな。メロスの性格があんなだからこそ暗殺なんて成功しないというのは誰にだってわかることだし、結果、セリヌンティウスが自分勝手なメロスのせいで殺されかける結果となっている」

「ははは、なるほどね。確かにメロスほどの短絡的な考え方の人間ならば、うまくやれば利用するのは簡単だろうね。でも、一番に注目するところはここだよ」

 栞さんは机の上に置かれた文庫本を手にとり、ぱらぱらとページをめくる。開かれたのは、三人の盗賊がメロスに襲い掛かるシーンだ。


〝「待て。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」

「その、いのちが欲しいのだ。」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。〟


 あきらかに、山賊はここでメロスの命を奪おうとしている。

「この山賊は、誰に雇われたのかっていう話」

「だってそれは、ディオニス王じゃないのかな? だってここに……」

「でも、それって変じゃないかな? 王は人を信じることのできない人間で――」

 そうだ。確かに言われるまでもないことだ。

「メロスが約束を守ったからと言って改心なんてするわけがない。王が山賊を雇っていたというのならば、王は初めからメロスが帰ってくるものだと信じていたことになる。山賊たちも、王に雇われたなんてことは一言も言っていない、が、確かに裏で誰かがメロスの命を奪うように指示をしているように感じる」

「――じゃあ、それはいったい誰?」

 二杯目のコーヒーに、さっきよりもたっぷりのコンデンスミルクを入れた宗像さんが帰ってくる。ふうふうと息を吹いて熱すぎる熱を冷ましているあいだ、僕は必死に答えを考えてみた。

 その横で、文庫本をぱらぱらとめくっていく宗像さん。不意に重大なヒントを言った。

「あ、こんな人物、教科書には出てこなかったな」


 見ると、そのページに描かれていたのはフィロストラトスだった。セリヌンティウスの弟子だというその男は、ぎりぎり町に到着したメロスにこう言っている。

『もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。』

『ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。』

 しかし、実際にはセリヌンティウスの刑が執行されるまでにはまだこの後しばらくの時間があるわけで、なぜ、この男がこんなことを言っているのか皆目見当がつかない。あるいは、まるでここでどうにかメロスを思いとどまらせ、セリヌンティウスを死刑にしてしまいたいようにも見えるのだ。

 では――、一体なぜ?


 僕の持つ知識から考察することで、やがて一つの答えにたどり着いた。

 栞さんに向けて、僕はその持論を展開する。

「――フィロストラトスは石工だと言っている。その師匠であるセリヌンティウスもおそらく同じ……。

 かつてのヨーロッパでは石工は多くの建築法を数学で編み出しており、その知識と技術は組合の中で秘密の暗号として共有されていたということは有名な話です。

 そしてそれらの組織は歴史の裏で大きく政治と関わり、秘密結社として暗躍していたという都市伝説はあまりにも有名だ。また、この秘密結社というやつがカトリックとの折り合いが悪く何かにつけて目の敵にされていたはずだ。そして太宰もまたカトリックの信者であり、この秘密結社に対しては良い印象を持っていなかったとも考えられる。

 さて、件のフィロストラトスもセリヌンティウスもその秘密結社の一員だったと考えて間違いはないとして、そしてまた、ディオニス王のような暗愚王がいつまでも実権を握っていてはいけないと暗躍していたのかもしれない。

 しかし、師弟の間でその考え方に対立があった。ディオニス王の暗愚はやがて国民たちの不信を買ってクーデターが起きるのは目に見えている。その時を待つという師の意見に対し、若いフィロストラトスはすぐにでも行動を起こさなければならないと考えていたのだろう。

 そこで、彼は一計を案じる。

 セリヌンティウスの友人の愚かで短絡的なメロスをたきつけ、事件を起こす。そんなメロスの計略が失敗するのは計算済みで、友達思いのセリヌンティウスはメロスを守ろうとその身を差し出す。その、愛のある友情劇を無視してセリヌンティウスを処刑するディオニス王に対する国民の反発心を一気に煽り、意見の対立する師匠をも同時に消し、国民を扇動して一気呵成にクーデターを起こそうと考えたフィロストラトスからしてみれば、メロスが帰ってくるというのは最も望まないかたちの結末だと言える。

 だから、彼はメロスの命を奪おうとした……

 しかし、フィロストラトスの計略は失敗し、また、ディオニス王はそれほどの暗愚ではなかった。それが、フィロストラトスの一番の間違い。

 王は改心し、結果としてクーデターは必要ではなくなったのだが、果たしてフィロストラトスはこの結果をどう受け取ったのか。もしかすると、ディオニス王亡き後に自分の息のかかった後釜を据えることで陰からの支配をもくろんでいたのかもしれないし……」

 と、つい調子に乗って熱く語っていた自分自身に気が付き、まったくバカらしくなってしまった。

「そんなわけがない。まさか太宰がそんなバカげたストーリーを書きたかったはずがないじゃないですか」

 そんな自分に突っ込みを入れる僕をニヤニヤした目つきで見ている栞さん。結局のところ、彼女自身の考えがあり、言葉巧みに僕を誘導し、その思い描く通りに僕が考察し、熱く持論を語り始めた僕を見て彼女は笑っていたのだ。

 まったく。恐ろしい人間だと嘆息するしかない。結局のところ僕は彼女の手のひらの上で踊らされていたにすぎないのだ。

「あ、あめ……」

 と、不意に宗像さんがぽつりとつぶやいた。窓の外を見ると、いつの間に降り出したのかしれない雨が次第にその勢いを強めていった。

 準備のいい自分を我ながら褒めてやりたい。まだ梅雨入り前とはいえ、用心深い僕は朝、ちゃんと傘を持って来ていた。

 窓を閉めようと思い、そちらの方へと向かって歩いて行き、窓を閉め切ったところで、窓ガラスの向こうを走りすぎていくスーツ姿の男性教員の姿が見えた。思いがけない雨で、革の鞄を頭の上に掲げて走りすぎていく。黒縁の眼鏡はすっかり濡れてしまい、大きなしずくが視界を奪っている。

 その男性教員は、この芸文館高校の教師ではなかった。無論、高校に入学したばかりの僕がこの学校の教師の顔を全て憶えているはずがない。ひとの顔を覚えられないことには自信があるくらいだ。

 にもかかわらず、その男性がこの学校の教師ではないと断言できたのには理由がある。

 その男性教員はぐるっと建物を迂回し、この旧校舎の玄関口へと走っていった。

 僕はタイミングを見計らい、その男性教員が文芸部の部室のちょうど前にたどり着いた時に、教室のドアから廊下を歩く男性教員を「おっさん!」と呼び付けた。

 年配の男性、おじさんを意味する発音ではなく、〝お〟にアクセントをつけた発音だ。

 おっさんと僕に呼び止められた男性教員は驚いた風に眼鏡越しに目をぎょろりとひん剥いて、

「お、たけひさか!」と言った。

「こんなところでなにしてんですか?」

「卒業生が出身校に顔を出すのに理由がいるのか?」

「中年のおっさん(おじさんを意味する方の発音)の場合は必要でしょ? 変質者かと思われる……てか、この学校の出身だったんですか」

「俺はまだまだ二十代だ。おっさんではないだろ! それにちゃんと許可を得てからやってきてんだよ」

 言いながら、濡れた革の鞄で僕の頭を一撃軽くたたく。今度改めて暴力教師だということで教育委員会だかなんだかに文句を言ってやることとしよう。

 そんな僕の腕をつんつんと突いて「だれ?」と問う宗像さん。

「あ……この、僕の中二の時の担任。まあ、おっさん(おじさんの発音)って呼べばいいから」

 そこでまたもう一度僕の頭を鞄でたたく。

「今、発音がおかしかった。わざとやっただろ!」

「はん、ばれたか……、改めて紹介。僕の中学の時の担任、奥山先生。理科の教師でカメラヲタク」

「そこまでは言わんでいい」

 ともう一度鞄を振り上げるが、さすがに何度も同じ攻撃を食らうはずもなく、そこはひらりと華麗にかわす。

「なんか仲良さそうだね」

「「どこが!」」

 宗像さんのつぶやきにふたりしてツッコミを入れる。


 中学時代の担任だった教師、奥山先生は皆に「おっさん」と呼ばれ親しまれた教師だった。ちなみにこのあだ名は僕が付けた。奥山の最初の文字の〝お〟に敬称を付けただけなわけだが、当然本人がいない時やイラついた時は皆、中年男性を意味する発音の方で呼ぶ。

 フレンドリーであまり教師らしくなく、職員室嫌いでいつも理科の実験室にいたのは、教師の間でいじめられていたからだという説もある。

「で、なにしに来たわけ?」

「いやな、来年度の受験の説明会なんかの話もあって今日はここまで来たんだよ。あ、俺、今年三年の担任な」

「それは気の毒に……」

「いや、まったくだよ」

 この教師、仕事がキライなのだ。生活するために教師をしているだけで、熱血だとかそういうものとは縁の遠い存在だ。

「でな、その用事が終わったからこうして思い出の校舎を散策していたわけだ」

 と、部室の中をながめながらゆっくりと歩き、

「この場所も変わらんなあ……」

 と感慨深そうにつぶやく。

「なあ……もしかしておっさんって文芸部……だったんですか?」

「んー、そうだなあ、文芸部ってわけじゃあないなあ」

「じゃあなんでこの場所がそんなに感慨深いんですか?」

「俺がここを使ってた時はな、文芸部は部員不足で廃部になってたんだよ」

 ――文芸部って、いつもそうなのかよ……と、心の中でつぶやく。

「んで、まあ。ここの部室を使ってたってわけだ」

「カメラ部……とか?」

「ん、まあ……秘密だ」

 秘密だと言われればそれ以上は追及しない。別に、興味もない話だ。

 おっさんは一通り歩き回ってから、そのあたりの椅子を引いて座りこむ。すかさずそこへ、部長である栞さんがコーヒーを淹れて差し出す。来客用の紙コップに淹れたインスタントのコーヒーだが、そんな姿はやけに彼女らしくなく、まるで気の利く女を演出しているようだった。

「どうぞ、おあついうちに」

「ああ、どうも。気が利くね……」

 ニコリと眼鏡姿で微笑む彼女に、いい大人のおっさんが一瞬、その姿に見とれたのがわかった。しかし、すぐに我に返って、照れ隠しにそっぽを向いた。

「それにしても、お前が文芸部だとはなあ……」

「ま、まあね……」

 そう言って誤魔化しながら、栞さんの方はとても見られない。今頃どんな顔で僕を見ているのかなんて想像したくもない。

「あ、ねえねえおっさん!」

 と、宗像さん。さすがに順応が早く、初対面なのにすぐにあだ名で声をかける。

「ねね、ユウって昔からあんなにひねくれた本の読み方してたの?」

「いや……そんなこともないんじゃないか? 俺が担任をしていた頃のこいつは本なんてまるで読まなかったからな……。竹久、お前あれだろ、本読み始めたのって三年の時……」

「うるさいだまれ」

 イントネーションを欠いた言葉で制する。

「まあでもあれだな……ひねくれてたことはひねくれてたよなあ……」

 そう言いながら、さっきまで宗像さんが読んでいた同人誌『恥れエロス』の本を見つけて、ぱらぱらとめくる。こんな同人誌、おっさん以外の教師に見つかったら速攻で取り上げられてしまうだろう。

「なあ、太宰治は自殺だと思う? それとも殺されたと思う? 奇しくも今日、六月十三日は太宰治の命日だ。本来、命日とされている桜桃忌は六月十九日だが、これは死体が発見された日と、太宰の誕生日にちなんでつけられた記念日。実際に死亡したのは今日、六月十三日かあるいは十四日だとされている。せっかくだからそんなことを話してみてもいいんじゃないのか?」

「はあ、太宰の命日……ね……」

「なんだ、竹久。不満でもあるのか?」

「いや、別に……」

 ――不満なら……。無くはないかもしれない。六月十三日は太宰の命日というよりは、僕の誕生日でもある。当然誰からもおめでとうなんて言われていないのだけれど、別にそのことに対して文句はない。そもそも僕はここにいる誰かに自分の誕生日を教えてなんかない。

 以前に一度、僕の誕生日が太宰の命日と同じと言う理由で〝生まれ変わり〟だなんて言われたことがある。太宰嫌いの僕からすれば不名誉なことこの上ない。


「ねえ、ところでさ。太宰ってどうやって死んだの?」

 と、今更当たり前のことを質問してきたのは宗像さんだ。一応、話についてこられない彼女のために簡単に説明をしておく。

「太宰治は1948年の六月十三日、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺をしたんだ。しかもこの日、雑誌に連載していた『人間失格』の最終回の掲載の日でもあったんだ。

 この『人間失格』。言ってしまえば太宰自身の自伝的な側面の多い物語で、当時の新聞はこれは太宰自身の遺書だったと報道し、当然ながら話題となった。それから現在に至るまで約1200万部が売れた超ベストセラー作品であり、この作品の熱烈なファンは数えきれないだろう」

「ああ、でももったいないよね。そんなに売れたんならきっとお金もたくさん入ってきてウハウハな人生だったかもしれないのに、死んじゃったんじゃあ意味、無いよね……」

「まったくね。でも……」

 言いかけた僕の言葉を奪うように栞さんが言葉をつなぐ。

「この太宰の入水自殺については多くの疑問があるのよ。一つの説として、愛人の富栄に殺されたんじゃないか、という説。

 遺体が発見されたのは六月十九日。奇しくも太宰の誕生日であるその日は行方不明となってから六日後だった。

 二人は赤い紐で結ばれて抱きしめあった状態で川底の棒杭に引っかかっていた。

 富栄の遺体は激しく苦しんだ形相をしていたにもかかわらず、太宰はおだやかな死に顔で、あまり水を飲んだ形跡も見られないという。また、太宰の遺体の首には絞め殺された跡のようなものまで残っていたのよ。

 つまり、太宰は入水前に死亡、あるいは気絶、泥酔状態のいずれかではなかったかと言われているのよ。入水地点にはウイスキーの空き瓶と青酸カリの空き瓶が見つかっている」

「つまり……それって、その愛人が薬を飲ませて殺したうえで赤い紐を二人にくくりつけて無理心中に見せかけたってこと?」

「さあ、どうだろう」と、僕はつなぐ。「富栄が首を絞めて殺したとか、落ちていた青酸カリの瓶は関係ないとか、ただ単に直前までウイスキーの瓶を手放せないほどに泥酔していたとか、可能性はいくらでもある。その中でそうであると一番ドラマティックで、そうであって欲しいと宗像さんが想像しているだけかもしれない」

「別に……そうであってほしいとかそんなことを考えてるわけじゃあないけど……」

「ただ、こうして現場にこういうものが落ちていましたよ。と言われてしまえば、人は自然、それらの道具すべてに役割を与えなければならないとすべてを関連づけてしまいがちだけど、なにせ川べりに瓶が転がっているだけなんて、誰かが捨てただけかもしれないし、どっかから流れてきたのかもしれない」

「でもね、当時の記録としてはこんなのも残っている」

 と、栞さん。立ち上がり、豊かな胸の前で両腕を組んで僕らの周りをゆっくりと歩きながら、それはさながら名探偵が事件の真相へ向けて説明していくように、何の資料を開くわけでもなく、頭の中の記憶を引き出すにしてはあまりに一字一句鮮明に当時の説明をしてくれる。

「当時の記録によると、入水現場には下駄を思いっきり突っ張った跡と手をついて滑り落ちるのを防ごうとした跡が、事件発生より一週間も後、その間雨が降っていたにもかかわらず残っており、入水することを拒んで激しく暴れたのかもしれないし、いざ死ぬとなるとやはり怖くなってもがいたのか、それについてもはっきりとしない。

 けれど、現場検証をした中畑という呉服商が『わたしは純然たる自殺とは思えない』と警察所長に言ったことに対し、所長も『自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても腑に落ちない点もあるのです』と言っている。

 警察は事件性があるとしながらも、終わったこととして処理したと述べている」

「ねえ、しおりん。太宰の愛人、トミエ? そのひとが太宰を殺したのだとして、その動機ってなんなのかな?」

「『死ぬ気で恋愛してみないか?』と、太宰は言ったそうだ」

 僕はその有名な言葉を彼女に伝える。

「文字通り、富栄は死ぬ気で恋をしたのかもしれないね。なにせ相手はその時代きっての人気作家。外見的にも魅力的で、そんな相手を好きになったのだから、それなりの覚悟は必要だったのだろうさ。たとえばそんな相手に本気になったにもかかわらず、色情のおさえられない猿のような男に弄ばれただけだと知ったなら、そいつを殺して自分も死ぬ。なんてヤンデレ展開もあるかもしれないよ」

「うーん。でも、そこまで人を好きになれるのって少し憧れてしまうかもしれない……」

「やめときなよせなちー。あんたは放っておいてもみんなに好かれる存在なんだから、何もそこまでしてろくでもない男を好きになる必要なんてないんだからさ……」

「じゃあ、俺もそろそろ理科の教師らしいことでも言ってみようか」

 と、話のきっかけを作っておいてずっと沈黙を守っていたおっさんが語り始める。

「さて、そんな太宰の死因について、当時の日本にはまだ十分な検死の技術がなかったということは言うまでもない。が、昨今の進化した科学技術があれば詳細が明らかになっていたのも言うまでもないだろう。

 しかし問題は五十年もたった今となってはそれを調べるための材料すら残っていないということだ。できることと言えば、残されたわずかな資料から、科学的な知識で再検証するくらいのことだろう。

 さて、いちばんの問題は死亡から死体発見まで六日もかかったということと、発見現場が入水現場とそれほど離れていなかったことが挙げられる」

「それは……つまり何が問題なわけ?」

「太宰の遺体は衣服なども着用したまま、遺体の損傷も少ない状態で発見された。これは太宰の遺体が川底に沈んで、ゆっくりと川底を移動したのではないということだ。

 通常、入水した場合、もがいて大量の水を飲み、肺の中が水で満たされることによって底へと沈む。しかし、先にも話が出たように富栄は苦しんだ形相をしていたにもかかわらず、太宰の表情は穏やかだったということから、太宰はもがいて大量に水を飲んではいないということになる」

「それって、やっぱり先に殺されちゃってたってこと?」

「そうと決まったわけじゃないよ。だいぶ泥酔していたから、もがくこともなかっただけなのかもしれない」

「そうだな、この時点では何とも言えない。

 しかし要するにだ。浮いた状態では遺体が発見現場まで移動するのにおそらく一日だってかからない。六日後に遺体が見つかったのならば本来もっと下流の方へ流れ着いているはずだ。つまりはやはり遺体は一度どこかに沈んだのだと思われる」

「それはたとえばおもりを抱いて沈んだ……とか?」

「いや、そこまでする必要はないさ。人間が一度死ねば、時間とともに肺に水が浸入し、やがては底に沈むことになる。水に沈んだ遺体はその体内でガスを発生させ、再び水面へと浮上することになる。しかしこれにしても、当時の六月十三日から発見されるまでの気温や、その間雨が降っていたことを考えれば水温はそれなりに温かかったと考えられる。それならばやはり六日というのは浮上するまでに時間がかかりすぎなのではないかと思われる」

「んもうっ。じれったい! 結局のところ! いったいなんだったのよ!」

 長々と回りくどいおっさんの説明にしびれを切らした(あるいは話についていけなくなった)宗像さんが結論を急ぐ。

「――だ、そうだ。若者の時間の流れはおっさん(おじさんの発音)のそれとは違う。話の長い大人は嫌われるからそろそろ結論を」

 おっさんは少し渋りながらも「じゃあ」と結論をまとめる。

「おそらく太宰は入水後まもなく心肺停止。遺体発見現場付近までまもなく流され、そこで引っかかった」

「引っかかった?」

「そう、水中の木の根にね」

「水中の木の根?」

「遺体発見現場の新橋付近の川の中は空洞状になっていたんだよ。そう、その断面はいわば丸底フラスコみたいなね。川沿いに生えていた木の根っこは水中で縦横無尽に広がっていた。その根に引っかかった二人の遺体はその場で肺に水が溜まりいったん川底へ。

 そして体内にガスが溜まり浮上しようとしたところ、空洞の天井部分に引っかかって浮上するのにさらに時間がかかってしまったというわけだ。さらに、水死体の場合には首に絞められたような紋が浮き上がることがある……とまあ、こんな感じかな」

「うーん、で、結局どうなの? 太宰は殺されたの? それとも自殺した? 結局。そこのところってどうなったのかな?」

 足早に説明させておいて、納得できない様子の宗像さんに僕は補足する。

「まあ、首を絞められた跡があるってのが単なる勘違いってことは決まりだ。そもそもそこに関して言えば、はじめから矛盾だらけなんだよね。いくら太宰が酔っていたとはいえ、か細い富栄の手で男である太宰の首を絞めて殺すことができるとは考えにくい。それにそもそも青酸カリなんて用意する必要もない。

 で、もし青酸カリで死んだのならば、おっさんの言うように死体が一度沈んで再び浮き上がるなんてことまでを富栄が知っていたとは思えない。ならば死体はすぐに発見される確率が高いわけで、そうなると死因が青酸カリだったってことはすぐにばれる。だったら尚更心中に見せかける必要はなかったってことだよ。

 で、今度は僕の見解。理科の教師でもない文系な考察になるけれど、まず、『人間失格』は太宰の遺書なんかではない。後になって発見された資料によると、一度完成された『人間失格』はその後発表までの間何度も推敲が繰り返されている。で、実際の遺作と言えば『グッド・バイ』という小説がある。結局絶筆となってしまったこの小説を執筆中、作家としての自信を無くしてしまって自殺しようと思ったんじゃないかな。

 タイトルの『グッド・バイ』というのもいわくありげだが、この小説は十三話で絶筆となっている。これはキリスト教についていろいろ調べていた太宰らしい忌み数だと思う。言うまでもなくキリスト教で言う十三は不吉な数字であり、だからこそ心中の日にちも十三日に合わせたんじゃないだろうか。

 つまり、僕は太宰はやはり自殺だったと思ってる。これは、殺人事件なんかじゃないよ」

 僕の意見で、宗像さんもようやく納得した表情だった。おっさんも黙ったまま大きく一つ頷いた。

 これにて、一件落着……となるところだったが、やはり相も変わらず我が部の部長である栞さんはそんな簡単に物語を結末には導いてくれない。

「いや、これはれっきとした殺人事件だよ。しかも連続殺人……。あーしとしては死刑を求刑したいところだけれど、どうにも犯人は不本意にも死んでしまったので事件は迷宮入りするしかないという形になってしまったに過ぎない」

「まさか、それじゃあ富栄は本当は死ぬつもりじゃなかったみたいじゃないか。いくらなんでもそれは……」

「いや、たけぴー。そういうことじゃないよ。殺人犯は太宰治の方だ。太宰は富栄を殺し、自分だけが生き残って幸せに暮らすつもりだったんだろうよ……」

「え……」

「考えてもみなよ。最初にせなちーも言っていたけれど、本が売れて生き残ってさえいればお金もちになってウハウハだったんだよ、彼は。

 それにさ、発表までに何度も何度も推敲を重ねたこの『人間失格』という小説。太宰自身かなりの自信作だったんじゃないのかな?

 その最終回が掲載される当日、その作者が自殺を図ったというニュースが新聞に載ったら、どれだけの人がその『人間失格』という物語に興味を示すだろうか? いや、現に話題となったその小説は日本の文学史上異例の大ベストセラーになったわけだ。計算違いだったのはその利益を自分が手にすることができなかったということ。

『グッド・バイ』や十三の忌み数など、むしろ出来過ぎていると言えば出来過ぎている。自らが本気で死のうと考えている状況での仕込みにしてはいささか冷静に計算し過ぎではないだろうか?」

「つまりは、太宰治自身の心中未遂、未遂……だったってこと?」

「自殺未遂をすれば本が売れる。これは太宰自身過去に四回も繰り返し、その度そのうま味に与ってきたんだ。

 そもそも太宰は狂言自殺の常習犯でもあったわけだろう? なにせデビュー作がいきなり『晩年』で、本人いわくこれを書いて死のうと思っていた……らしいじゃないか。

 でも、その度に太宰に惚れた女はことごとく命を失っている。狂言心中に見せかけて、それまで何人の女が彼の手によって殺されてきたことか……

 玉川上水の時だってそうじゃないか? 富栄は苦しそうな顔をして死んでいたのだっけ?

 果たして恋をした女は愛する男と心中するのであればそんなに苦しい顔をして死ぬだろうか? でももし、それがその愛する男に頭を水の中に突っ込まれて窒息させられたのだとしたら? 心中に見せかけるためにわざわざウイスキーの空き瓶や青酸カリの瓶を用意したのであったのならば?」

 彼女の言いたいことはよくわかる。

 しかしそれはいくらなんでも信じたくはない推理だ。

『人間失格』であることに異をとなえるものは誰もいないだろう。

 たとえ太宰嫌いを声高に主張する僕であっても、その意見に首を縦に振ることはできなかった。

 僕は本当のところ、太宰をキライなわけではない。そのあまりに恵まれた、秀でた才能をひがんでいるに過ぎないのだ。

 その才能に羨望のまなざしを向け、その相手を否定することで平凡な自分を慰めていたいだけなのだ。

 なのになぜ、栞さんはそこまで太宰に対して厳しい推理ができるのだろうか?

 そんな彼女の闇と、永久に謎のままであり続ける太宰治の死因について、暗い空気に包まれてしまったその教室内の空気を払拭するために、いつものセリフを言うことにする。

 とある友人が言っていた言葉だ。


 ――まあ、わからないことがある方が世の中はおもしろい。

 そんなあっけらかんとした言葉でその日の部活動を締めくくる。


 窓の外は相変わらず雨が降り続いていた。

 スマホをいじっていた宗像さんが僕を呼び付ける。

「あ、ねえユウ。今日サラサたちが立ち寄ったカフェのクレープ・シュゼット。すっごいおいしかったんだってえ!」

「……そうか。それはよかったな」

「はあ? アンタなに言ってんの? そもそもアンタが今日、サラサたちとの約束を断らなければアタシだって一緒に行って食べてたはずなんだよ! そこのところ、ちゃんと責任かんじてるわけ?」

「いや、それはいくらなんでも……」

「まあ、いいわ。アタシたちも今からそこのクレープ・シュゼット、食べに行きましょ! ねえ、そんなわけでしおりん! アタシたち今日のところはこれで帰るね!」

 そんなことを言いながら、僕の腕を引っ張って文芸部という表札のかかった教室を後にする。

 そして、到着したのは少しさびれたリリスという名の喫茶店。その喫茶店についてはまた別の機会に詳しく語るとして、その店のクレープ・シュゼットは確かに、文句なしにうまかった。

 しかし、もっと驚いたのは、その日のクレープ・シュゼットを宗像さんがおごってくれると言い出したことだ。

 何かにつけて僕に甘いものをおごらせようとする宗像さんが、いつもよりも少しばかり値の張るそのクレープ・シュゼットをおごってくれるというその理由を彼女に問いただした。

「え? だって今日、ユウの誕生日でしょ?」

「え……。僕、自分の誕生日が今日だって、誰かに教えたかな?」

「ふふーん」

 彼女はそう言いながら目と眉とで二つのⅤの字を描いた。

「アンタ今朝、風船飛んだってつぶやいてたわよね?」

 ――そのことに関しては確かに心当たりがある。しかし、それこそなぜだと聞きたい。Twitterで自身の誕生日に設定した日に風船が上がるのは周知の話ではある。しかし、宗像さんが僕のTwitterを知っているというのがおかしい。もちろん僕自身が彼女に教えたわけでもないし、YUMAというハンドルネームだけでは身バレするなんて思ってもいなかった。しかし……

「そもそもYUMAなんて実名を名乗っているのがチョロいのよね。ユウの好きそうなものとか、地元が岡山であることだとか、そういうこと打ち込むとすぐに出てくるのよね。それにTwitterで何つぶやいてるかと言えば、読んだ本の感想文だなんて……、しかもものすごくひねくれたやつ。見つけてしまえばすぐに特定できるのよね」

 ――まったく。返す言葉もない。そして、それらのすべてが宗像さんに筒抜けだなんて思ってもいなかったし、何か余計なことを言ってしまったことがあるんじゃないかと気が気でならない。

「――えっと、いつから……」

「うん。まあ結構最近ではあるんだけどね。見つけたの。あ、そうそう。ユウのフォロワーの〝ななせ〟っていうの。それ、アタシのことだから」

 慌ててスマホを取り出しフォロワーをチェックする。数少ないフォロワーの中から〝ななせ〟を見つけることは容易だった。アイコンやサムネイルさえ設定していないシンプルすぎるそのアカウントには、フォローしているものこそわずかにあるが、自身から発信しているものは何もない。それに、アカウント自体がつい最近になって作られたもので、それはいわば僕を監視するためのものだと言っても過言ではないかもしれない。これからは、発言に十分に気を付けなければならないと感じた。

「あ、そういえばさっきアンタ。太宰治の命日と自分の誕生日がおんなじ日だってこと、すこしやだなって思ってたでしょ!」

「よく……わかったね」

「わかるわよ、そのくらい。でもね、そういう時はもう少し違う考え方をした方が健全よ。ユウの誕生日と太宰の命日が同じってことは、少なくとも太宰のファンからしてみれば一発でユウの誕生日を憶えてくれるっていうことなんだからねっ! おかげでアタシも、太宰の命日なんて人生で絶対役に立たない情報を一発で憶えちゃったわよ」

 そう言って、会計を済ませて(本当におごってくれた)店を出た彼女はスタスタとひと足先に歩き出した。

 しかし、少し歩いて立ち止まり、振り返ってこう言うのだった。


「わかってる? これはカシなわけ、アタシの誕生日には三倍にして返すのよ! いいわね!」

 そう言って彼女はいつものように目を細めて笑うのだ。

 まったく。僕は今までいったいどれほどの借りを彼女に作っていることになっているのだろう。

 夕方の少し涼しげな風が吹き、路面にできた水たまりの表面をやさしく揺らす。

「そう言えば、いつの間に雨は止んだんだろう」

 つぶやいて、彼女の少し後ろをついて歩く。

 これからは、胸を張って言うことにしようと思う。六月十三日。この日は僕の誕生日であり、太宰治の命日だ。

 そして僕はこの日、もう一つの記念日を制定する。


 宗像さんがクレープ・シュゼットをうまいと言った。


 だから今日は、クレープ・シュゼット記念日だ。

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