『はつ恋』(ツルゲーネフ著)を読んで 竹久優真
ツルゲーネフは静かで深い憂愁を感じさせる十九世紀のロシアの作家で、『はつ恋』はその作品の中でも最も代表的な作品。
十六歳のウラジーミルが夏に過ごした別荘の隣に住むジナイーダに恋をする。
ある日ウラジーミルは想いを寄せるジナイーダが恋をしている相手に気づく。その相手はウラジーミルが嫌悪するも尊敬せずにはいられない相手だった。自分の知らない世界の愛をささやきあう二人に対して、決してかなうことのない想いを抱きながら過ごす。
そう、はつ恋とはいつの時代も儚く切ないものだ。
あえて言うならば儚く切ないものでなければならない。儚く切ないものでなければ意味がない。儚く切ないものでなければ人生において一つ、大きな損をしているといっても過言ではない。
――なんて、単なる負け惜しみかもしれないな。
さて、実際の生活の中ではミステリ小説のような殺人事件が起きることなどめったにありえないし、そんなもの無い方がいいに決まっている。そして解き明かせないような謎もなければ探偵だって必要ないのだ。
思春期真っ只中の僕たちにとって最大の解き明かしたい謎というものは、果たして誰が誰のことを好きなのか、ということぐらいなのではないだろうか。
このツルゲーネフの『はつ恋』においても、ヒロインであるジナイーダが果たして誰に想いを寄せているのかということが一番の見どころではないだろうか。
僕にとってのはつ恋とはいったいどれのことだろう。中一の時にいつも憎まれ口ばかりをたたいていた隣の席のあの子だろうか……。それとも小五の時に急な転校でいなくなってしまう前日に僕の頬にお別れのキスをしてくれたあの子だろうか……。いや、それとも小三の時、渡り廊下で起きた風のいたずらによって僕に水玉模様のパンツをさらしてくれたあの子かもしれない。いやいや、考えようによっては保育園に通っていた時にいつも一緒にままごとをしていたあの子かもしれない。あの時二人はいつも夫婦役で将来は本当に結婚しようなんて言っていた。
ただ、はっきり恋をした。と、確信できるのはあの時だろう。
中学三年になったばかりの図書室で……
僕は高校の入学式に遅刻した。まさにしくじり青春のスタートであった。
だが、今更終わったことをとやかく言う意味などない。
二度と同じ轍は踏むまい、とありったけの目覚ましをセットして眠りについた。
もうその気持ちだけで十分すぎるほどだったのであろう。どれか一つの目覚ましが鳴るのを待つまでも無く目が覚めた。目が覚めたからにはもう眠るわけにはいかない。過去の経験よりこういった場合、もう一度眠りについて、次に起きると遅刻というのがお約束だ。
しかしながらもただ出発の時間を待つためだけに起きて待つというのも苦痛である。暇をもてあますことに飽きた僕はひとまず家を出発することにした。とりあえず学校に着いてから寝よう。そうすれば遅刻はありえないはずだ。
駅に到着するなり身の毛がよだつ。まさか田舎の電車がこんなに混んでいることがあろうなんて考えたこともなかった。本来乗る予定だった電車よりも一時間も早い電車。たしかにこの電車に乗ればサラリーマンたちが市街地にあるオフィスにたどり着くには十分だろう。
僕の通う
しかし、目についたのは洗練されたかのような真っ白な制服。いかにも私こそがエリート校の生徒ですよと主張するかのようにひときわ目立つ制服の生徒が数人、駅舎へと入っていくのが見える。もしかすると、の期待を胸に僕はホームに駆け上がった。
そしてホームの先端の方、蟻の行列の中からその姿をはっきりとらえられるのは何もその真っ白な制服が目立つからという理由だけではないはずだ。
黒髪の文学乙女。彼女を形容するにぴったりの言葉だ。肩にかかるか、かからないかくらいのところできっちりと切りそろえられたきれいな黒髪はしなやかでつやがあり、前髪はその無表情すぎるほどにつねにかたく結ばれた真一文字の唇とともに見事な平行線を描いている。この点だけをとっても、今から思えば二人がこの先も決して結ばれることのない関係性だと象徴しているようだ。
そして不健康なほどに白い肌に大きく黒目がちな瞳は知性を感じさせるメタルフレームの眼鏡のせいか、一層大きく見える。長いまつ毛といつもキラキラと潤っている二つの水晶球がどことなく視点を定められていないのは、視力が極端に悪いからだろうが、その視線に見つめられると、相手の視線は僕の眼球より少し奥の方でぶつかる。それがまた心の奥まで見透かされるような魔力を秘めているようで、どことなく妖艶ささえ感じる。
視力が悪い人にはありがちなのだが、おそらく本人はそれほどにはっきり見えてないからなのか、恐ろしくまっすぐ見つめてくる。無駄に視力の良すぎる僕にとってはそんな美しすぎる瞳を見返すことなど耐えがたく、つい、目が右へ左へと泳いでしまう。
「ああ、おはよう。
やや言葉のイントネーションを欠いたか細い声で話しかけてくる。手は肘から上だけを上品に振り、それに合わせて鞄についた鼻ひげを生やした猫のマスコットが揺れる。
「ああ、おはよう」
本当は息切れ寸前、しかも心臓が恐ろしく早く脈打っているのはホームまで駆け上がったからではない。こうして言葉を交わすのは一体いつ以来だろう。はるか遠く昔のことのように思えるし、つい、昨日のことだったようにも感じる。
事実。まあ、三週間ぶりといったところだろうか……。それは中学の卒業式の日。
その日まで僕たちは多くの時間を二人で過ごしていた。僕が高校の受験に失敗し、二人が別々の高校に進学すると決まり、もうあまり会えなくなることを悟った僕は、卒業式の日にその秘めたる想いを伝えることにした。
勝算はあった……
――しかし完敗であった。
もう過ぎたことだ。気にしてはいない……
しかし、この胸の早鐘がそれを単なる強がりだと伝えている。
若宮さんはそんな僕の心を知ってか知らずか、まるで悪意のない表情で話しかけてきた。
それがどんなに残酷なことなのか……。彼女は考えもしないのだろう。
「優真くん、たしか芸文館だよね。こんなに早い電車なの?」
少し前に僕が告白したという事実なんてなかったかのように彼女は言葉を弾ませる。
「まあね。何というか僕は勤勉家だから誰よりも早く学校に登校するタイプなんだよ」
――嘘だった。単に入学早々二日連続の遅刻をどうしても避けたかっただけだ。
「そんなこと言って、どうせ図書室にでもこもっているんでしょう?」
「当たらずとも遠からずといったところかな。あの学校……芸文館には図書室がないんだよ」
「え、そうなんだ珍しいわね」
「まったく。おかげで教室の隅っこででも読もうかなと思って……」
「それは淋しいね。優真くん、中学の時はいつも朝から図書室に通い詰めていたもんね」
「…………」僕はそれに対しては何も答えない。
正直に言えば毎朝図書室に通っていたのは読書好きだけが理由なわけではない。当時、図書室のヌシと陰でささやかれていた彼女が毎朝のように図書室に通っていたからだった。毎朝のように繰り返される二人きりの時間、今から思えばあまりにも見え透いた、それでいて痛々しいとしか思えない行動だった。だけれど若宮さんはそんなこと気にも留めていなかったようだ。
ともあれ、今でも朝から読書をするという習慣が体に染みついて、それだけが今の僕と彼女とのわずかなつながりだといえる。
間もなく電車が到着してドアが開いた。中にはおしくらまんじゅうと言わんばかりの乗客がひしめいていた。
「これに乗るのか……」
「うん、しかたないよ」
僕が先に乗って振り返り、その空いたスペースに若宮さんが乗る。若宮さんの後ろで閉じたドアに腕を突っ張って踏ん張る。若宮さんが少しでもつぶされないようにとの僕なりの配慮だった。『こうしていると恋人同士にしか見えないかな?』なんて今更考えてみる。フラれたくせに……
電車が動き出し、慣性の法則で生じる人の雪崩を背中に受けると、もう、僕たちは会話どころではなくなった。僕たちは黙ったまま見つめ合う形になった。ドキドキしているのはたぶん僕だけ。
カーブにさしかかるとまた背中に雪崩を受けた。突っ張った腕がつぶされそうになるのを必死に耐えるのは僕が若宮さんのナイトだからだ。
でも……、もし、押しつぶされたとして……。そしたらきっと僕は向かい合った若宮さんに激突してしまうだろう……。そしたら、もしかしてその時に若宮さんにキスしてしまうかもしれない……。きっとそれは不可抗力というもので誰かに責められるものではないかもしれない……。自分でも呆れるような妄想で僕は少しばかり気が緩んだ。
次のカーブの時、勢いよく背中に受けた圧力で突っ張っていた僕の腕は肘から折れ曲がった。
不可抗力だ……
前のめりに体勢を崩した僕の顔は若宮さんの顔へ近づいていく。すんでのところ。というべきか、額と額がぶつかり、鼻先と鼻先も触れあった。
唇は触れなかった。きっとそれでよかったのだろう。しかしながら彼女の温かく、湿った吐息を間近に感じるとやはり正気ではいられなくなりそうだ。
若宮さんは目をそらすなりしてくれればよかったのだが、彼女はなぜか黙って静かに目を閉じてしまった。体勢を持ち直して再び距離をとると彼女は目を開いた。さっきの出来事は彼女にとってもだいぶ恥ずかしいことだったらしい。今更になってその白い顔はよく熟れたトマトのような色になった。体勢を立て直した僕は再び腕を突っ張る。その時、肩にかけていた鞄が半分ずり落ち、サイドのポケットに突っこんでいた文庫本が少し飛び出した。いつもなら文庫本一冊、すっぽり収まる薄いポケットなのだが、何分その日入れていた文庫本は薄すぎたのだ。飛び出したとはいえ、表に出てきたのはほんのわずかな部分。白い背表紙と緑色の表紙絵が覗いたくらい。そして文学乙女の習性とでもいうのだろう。その文庫本に視線を釘付けにした彼女は、「ツルゲーネフ?」とつぶやいた。
――正解だ。その日鞄に突っこんでいたのはツルゲーネフの『はつ恋』だった。
「ああ、もう一回読もうかと思って」
「わたしも好き……」聞きようによっては勘違いさえできそうな、そんな言葉をぽつりとこぼした彼女は続けて、「きっとジナイーダはウラジーミルのなかに想い人の面影を見つけて、ウラジーミルにも同じように恋をしていたのよね」
「え……」
ああ、そうか、彼女はそちら側で物語を読んだのかと気づいた。考えてみれば初めて聞いた彼女の『はつ恋』に対する感想に、思わずなるほどと思った。
……もちろん主人公は男性のウラジーミルなのだが、女性の若宮さんはヒロインであるジナイーダ側の気持ちと立場から物語を読み解いていたのだと気づかされる。
「ねえ、優真くん。ジナイーダはあの人に出会っていなければ、ウラジーミルに恋をしていたと思う?」
そうは思わない。僕はそうは思わない……けれど――。
「うん、きっとウラジーミルに恋していたんじゃないかな……」
「そう……。やっぱりそう思う?」
「うん」心と裏腹の返事をした。だって……。そう思わないとやってられない。せめてあいつさえ存在しなければきっと僕のことを……
『……わたしはね……。片岡君のことが好きなの……』
思い出したくもないことを思い出してしまった。もしあいつがいなければ……。
〝次は――東西大寺――、東西大寺――……〟
車内アナウンスが鳴り響き、僕が降りなければならない駅に間もなく到着することが知らされた。
「優真くん、次……。降りなきゃいけないね」
「……なんだったらこのまま岡山駅までこうしていようか……。若宮さんが降りてから、Uターンして帰ってきても僕は学校には間に合いそうだし……」
「え、そんな、いいよ。気持ちはうれしいけどそこまでしてもらうほどの理由がないわ……それに、ここから先は少しすくから……」
「うん……。じゃあ……」
そこまでしてあげる理由なら、なくはない。僕は今でも君のことが大好きだから……。君と少しでも長くいたいから……。なんて言葉言えるわけないし……。それに『そこまでしてもらうほどの理由がない』という言葉は『はっきりとあなたとの交際は断りました』という言葉としてもとれる。
僕には「じゃあ、また」と、言い残して電車を降りる以外の答えは与えられていない。
それから毎日のように、一年前のあの頃と同じ目的を持って毎朝早くに起きて、早すぎる電車に乗って学校に行き、朝読書をする。まるであの頃から成長していない。
電車を降りて、まだ通学生徒のほとんどいない坂道をうつむいてトボトボと歩きながら、「ホント……。僕は何やってんだろう……」とつぶやいた。つぶやいてしまった。
今以て未練の塊でしかない自分が情けなくなる……
思えば彼女との出会いは今から一年ほど前……。中学三年に上がったばかりの四月の放課後のことだった。
「――快晴。――無風。うん、言うことなしだね、ゆーちゃん。今日の放課後だいじょうぶ? どうせ部活なんか行かないでしょ」
「部活なんか……。とは失礼だろ。彼らはみんなああして、何も考えず汗を流すことこそ青春だと信じてやまないんだ。僕にしたって例外じゃないよ。僕はれっきとしたサッカー部員なんだからね」
「って、ぜんぜん部活なんか出てないじゃん!」
僕にちゃんと突っ込みを入れてくれるのは友人の
あえて言うまでのことでもないのだが、ぽっぽはヲタクである。そんなぽっぽが本日提案したのが放課後の屋上で紙飛行機を飛ばそうというものだった。
そんなことの一体何が楽しい? 問いただしたところで無意味だろう。彼の考えることは時として周りには理解が及ばない。それが時として周りの人間を遠ざける結果となりうるのだが、僕にしてみれば彼と一緒にいると退屈しない。非ヲタの連中がやることといえばどいつもこいつも同じようなことばかりで、こぞって同じような服装をして喜んでいるのである。それを自己主張などとほざくのだから笑うべきなのかどうかさえわからない。
ぽっぽは違う。時々突拍子もないことを思いついてはそれに突き進む。中二の時などは本気でタイムマシーンが作れないかなどと考えていたくらいだ。そんなぽっぽが屋上で紙飛行機を飛ばすというのだ。きっと何かが起きるに違いない。
屋上。目の前に用意されていた紙の束には文章が羅列されている。当時の僕は本なんてほとんど読まなかったからよくわからないがどうやら文庫本のページらしい。背表紙から切り取られていて〝本〟の形を成していない。
「ぽっぽ、まさかとは思うけれど海賊版をアップロードとかしてるわけじゃないよな?」
海賊版をアップロードする際、紙面をスキャンしやすいようにページをばらすと聞いたことがある。
「そんなわけないでしょ。大体それってほとんど漫画の話で小説ならもっと簡単な方法があるよ。絵が必要ないなら文章だけを読み取ればいいんだから」
「してんのか? 違法だぞ」
「してないよ」
「ならいい」
ぽっぽは屋上に座り込んで、紙飛行機を折っては飛ばし、あれが違う、これが違うと言いながらスマホの電卓機能を使って計算をしている……。どうやら今日はハズレの日のようだった。飽きてしまった僕は屋上からのんびりと校庭を眺めていた。
そこでは僕の所属しているサッカー部(とはいっても幽霊部員)が練習をしている。サッカー部のキャプテンの片岡君が大声を張り上げて喝を入れる声が屋上まで届いてくる。
「まったく……。暑苦しい奴だよな……」ぽつりと独白する。
中三になっていよいよ部活に顔を出さなくなった。どうにかこうにかレギュラーの端にとどまることこそできていたものの、どうやら僕はサッカーのような集団競技には向いていなかったようだ。
僕は決して運動音痴というわけではない。走ったり、飛んだりといったことはわりと得意な方だし、遊びでやっただけではあるがアイススケートやスノーボードなど、かなりセンスが良かったといってもいいくらいだ。だったらなぜ他人の顔色をうかがうのが得意と自負するこの僕が集団競技がだめなのかということなのだが、要するに周りに気を遣いすぎてしまうのだ。サッカーにおいては仲間の意思をうまく読み取り的確な位置でパスを受けとる。敵の行動を読んでうまくボールを奪うことができる。問題はその後だ。僕ごときが出しゃばったことをしてボールを奪われでもしたらほかのみんなに申し訳がないという恐怖にかられてしまう。そこで僕が何をするかといえば、とにかくほかの誰かにボールを渡したいのだ。ボール、即ち責任を早く誰かに押し付けたいのだ。そういった僕の行動が、特別強いわけでもない中学生のサッカーチームにおいて評価されることはなかった。それどころか、大切な試合の大切な場面に僕は大失態を犯した。
試合の残り時間はあとわずかで2─2の同点。敵ゴール近くで僕の目の前に絶好のこぼれ球がやってきた。これを決めれば僕はきっとヒーローになれるだろう。しかし、僕の目の前には敵チームのディフェンスが二人向かってくる。僕はビビってしまった。
その時、僕の取った行動は……。全力の空振り。いや、ただしくはスルーだ。僕の後ろの方から上がってくる片岡君の姿が見えた。僕はこのチャンスを彼に託し、全力のスルーをして、空中を半回転しながら地面に背中から落ちて、敵チームのディフェンス二人も僕のあまりのこけっぷりにひるんだ。反則すれすれのプレーだ。しかし、どうしても試合に勝ちたかった僕に迷いはなかった。呼吸困難な体をどうにか奮い立たせたその時。片岡君はヒーローになっていた。僕は見事な失態を犯したとみんなの笑い種となった。
あれがフェイントだったとわかってほしかったとかそういうことだけではない。僕は、片岡君とのあまりの格の違いを自ら強く感じてしまい、なんだかサッカーをするのがばからしくなってしまったのだ。
暇を持て余した僕は退屈がてらに見よう見まねで紙飛行機を折ってみた。よくわからないところはただ何となく思い付きだけで折ってみる。
息を止めて、肩の力を抜いてすうーとはるか遠くまで手を届かせる感じ、僕の手を離れた紙飛行機は上空高く飛び上がり、空を大きく、ゆっくりと旋回する。空に一回、二回、三回と大きな螺旋を描きながらゆっくりと降りて行った。
四回まわってちょうど階下のベランダのところに落ちて行った。
「ずるいなー、ゆーちゃんはー」
「なにが」
「そうやって、ふらっといいとこを持っていっちゃう」
僕は屋上の手摺を掴みながら身を乗り出して真下のベランダを覗き込む。どうやら階下は図書室のようだ。
「ちょっととってくるわ」
「いいよ。別に紙飛行機くらい」
ぽっぽの言葉を無視して小走りになっていた。
「いいって、べつにー」
後ろの方でぽっぽの声が響いていたが気にはしなかった。
階段を下りて図書室に向かう。考えてみれば僕が図書室に入ったのなんてあれが初めてだったかもしれない。
いやに静かな図書室の引き戸を開けるとガラガラという音だけが響く。当然中の皆さんからの注目を浴びてしまうことを覚悟でそろそろと中に入る。と、注目を浴びるどころか図書室の中にいるのはただの一人で、しかも僕のことなんかまるで気にかけずに読書に没頭している様子だった。
ベランダへの出口のすぐ手前の無駄に広い閲覧コーナーにただ一人座っている女子生徒には、いつしか傾きかけていた太陽の茜色に染まる光が降り注いでいた。
放課後の図書室は蜂蜜をこぼしたような黄金色に包まれ、空気中を舞う無数の埃がまるで天使の飛び立った後の羽毛のように漂っていた。
ショートヘアでメタルフレームの眼鏡をかけた女子生徒は周りに構うことなく読書を続けている。茜色の夕日は彼女の黒髪を黄金色に輝かせる。
彼女のことは知っている。同じクラスの若宮雅さんだ。
知っているといっても顔と名前をようやく知っているだけ。同じクラスになったのは今年が初めてではあったが、それほど規模の大きくもない中学校の中で、同じクラスにならなかったというだけで今まで知りもしなかったというのも稀有な話ではあるが、それほどまでに彼女は地味で目立たない存在だった。もちろん話をしたことなど一度もない。
なるべくなら気取られないようにしたいところだが、いかんせん紙飛行機は彼女のすぐ後ろの引き戸を開けたベランダに落ちている。静かに静かに彼女の方に近づいていくとその大きな黒目がちな瞳と長いまつ毛にきらりと光るものが見えた。
「……泣いてるの?」声に出すつもりもなかった声が零れ落ちていた。
は。と、おどろくようにこちらに振り向いた彼女は……可憐で……。うつくしかった……。
「た、た、た、竹久君……。いつから……」
あきれた。今の今まで僕の存在にすら気づいていなかったようだ。それから彼女は自分の涙を見られたことに気づいたらしい。
「あ、あ、あ、ごめんなさい、ちょっと、ほ、本を読んでて……」
慌てて眼鏡をずらし、白いカーディガンの袖口で涙を拭きとった。
「どうしたの、こんなところに……」
僕を見つめる彼女の視線に思わず息をのんだ。その視線が僕の眼球そのものではなくその少し奥にあてられているのは彼女の視力のせいだろう。しかもちゃんと見えていないからなのだろうか、おそろしく戸惑うことなくまっすぐに見つめてくる。
いつもうわべだけを適当に取り繕って生きている僕の心の奥底までを見透かしたような視線に冷静さを失った。それを必死に隠すため僕はあえて軽口をたたく。
窓の外のベランダに見える紙飛行機を指差す。
「あれ……。あの紙飛行機にさ、君あてのラブレターを託して届けたつもりなんだけど、気づいてもらえなかったかな」なんて、自分でもイラッとするようなことをつぶやいてみせた。
「あ、あああ、ああ、ご、ごめんなさい。わ、わ、わたし……」
若宮さんは耳まで真っ赤にしてしまった。
「い、いやいや本気にしないで、ただの冗談だから」
「…………え、あ、ああ、あ、ご、ごめんなさい」
僕の軽口で再び若宮さんがたじろぐ。相対的に僕は少し冷静さを取り戻した。
「ねえそれ……。そんなにおもしろい?」
「え……ええ。ねえ、竹久君は小説とか読むの?」
「ああ……まあ、シェイクスピアとかならまあ……」
――嘘だった。
シェイクスピアなんて名前しか知らない。その頃は『ロミオとジュリエット』のあらすじすら知らなかったのだ。そもそも小説と聞かれておきながら、僕がシェイクスピアを持ち出したのは、戯曲と小説の区別すらできないような無知な人間だからだ。
「シェイクスピアならわたしは『十二夜』と『夏の夜の夢』が好きだわ。竹久君は?」
「……い、いや、まあ、ベタだけど『ハムレット』かな」
よし、これはナイスだ。『ハムレット』の名前が出ただけで申し分ない。もちろんどんな話だか知らないのだが。
「ねえ、また、竹久君が読んだ本の感想とか聞かせてもらえないかな」
「あ、ああ、いいよ。僕なんかの感想が面白いとは思えないけど」
「うん、いいの。自分以外の感想とか知りたいし、そういうこと話せるような友達とか……いないし……」
「うん、じゃあ、またあらためて……」
僕はまた、気障ったらしく手のひらを若宮さんに軽く振ってから踵を返した。
その視線を背中に感じながらも、まるで何事もなかったように、なるべくスマートであろうと心がけながら図書室を出た。やはり図書室というやつはそれなりに防音効果が働いているのだろうか、廊下に出ると吹奏楽部の演奏の音が初めて耳に入ってきた。今度の地区コンクールで演奏することになっている曲、ベニー・グッドマンの『シング・シング・シング』だ。その軽快なリズムに半ばスキップするような足取りで駆け出した。結局紙飛行機を回収さえしなかったことに気づきもしないで。
僕はその日の帰り道、本屋によってシェイクスピアの『ハムレット』を買って、朝までずっと読んだ。
ほとんど意味が解らなかったし、途中何度も睡魔に襲われたが、朝までにはどうにか読み終わった。
それから続けて数冊の本を読んで、僕はしばしば偶然を装って図書室に訪れるようになった。何をもって偶然と言い切ったのかはわからない。誰の目からどう見たって偶然であろうはずもないことくらいバレバレである。放課後、そして時には朝から。若宮さんは期待を裏切ることなくいつもそこに座っていた。
僕はちょっとした読書家を気取りながら〝同じ趣味を持つ者同士〟を演じて彼女に取り入ろうとした。初めのうちは開いた本の脇から盗むように彼女のことを眺めていたが、それになれるとだんだんと大胆さは増して本を置いたまま彼女に見とれることもあった。その白い肌、艶のある髪、大きな目、長いまつ毛。普段はおとなしすぎて気に留めもしなかったが彼女は十分すぎるほどに美しい少女だった。果たしてこの事実にどれくらいの人が気づいているだろうかと思うと、それを見抜いた自分を誇らしくも感じた。
彼女は読書をする時は決まって右手でページをめくり、空いた左手でスピンをいじるクセがある。本の世界で緊張が高まると細く、白い指にスピンをくるくる巻きつける。僕は左手の薬指に巻きつけるスピンを見ながらいつか自分が贈るであろう、その指の装身具を重ねた。
本を読み進めようとしてもいっこう頭には入らず、結局同じところを繰り返し読まなければならなくなる。僕はたしかに恋をしている。そしてそれは思春期において大いなる悩みが一つ増えたことを意味する。
そして時には彼女と読書の感想を語り合うこともった。ある時、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の感想文を彼女に渡したことがあった。まるでひねくれた、バカバカしいとしか言いようのない感想文だった。しかし若宮さんはそれを面白いと言ってくれた。『同じ本でも人によってそれをどう読み取るかというのはさまざま。ありきたりのきれいごとばかり並べる優秀な感想文よりも、竹久君らしさが出ていていい』ということだった。
僕はその言葉を聞いて調子に乗ったのだろう。有頂天になって、間違った読み方をすることに対しても恐れなくなった気がする。ただ、自分の好きなように読む。時には自分の都合のいいように理解する。そんな読み方までするようになった。
そして僕はどんどん深みにはまっていった。
――読書と、――若宮さんに。
偶然若宮さんと同じ電車に乗り合わせた入学二日目以来、僕はまた毎朝のように早すぎる電車に乗り、早すぎる時間に学校に到着。朝読書をする毎日となった。
やっていることは一年前とほとんど同じで、まったく成長していない。
「あー、ゆーちゃん。朝会うのは珍しいね。いつもこんなに早い電車で通ってるの?」
ある朝、駅から少し離れたところにある自転車置き場に駐輪している時、そう気さくに声をかけてきたのは中学からのヲタクの友人、鳩山遥斗こと、ぽっぽだ。
「なんでゆーちゃんはこんな早い電車に乗ってるんだ? ぼくと同じ東西大寺駅で降りるんでしょ? おんなじ駅までだから高校に行く時は朝一緒になると思ってたのにいつもゆーちゃんいないからどうしたんだろうと思ってたけど……。何もわざわざこんな超満員電車に乗らなくたって十分間に合うでしょ」
「そう言うぽっぽこそ今日はなんでこんな早い電車なんだ」
「部活だよ」何かを自慢するような表情で言いながら、自転車を止め終わった僕たちは二人で並んで歩きながら駅へと向かった。
「ぼく、部活始めたんだよ」
「……ふーん。ぽっぽがねえ。で、いったいなんの?」
「コンピューター研究部。……いいよね、高校ともなるとなかなか面白い部活がある。中学の時はまるでぼくの興味を引くものなんてなかった……」
「そうか……。ぽっぽは将来システムエンジニアになりたいって言ってたっけ」
「ゆーちゃんも部活始めたの?」
「……ああ、まあ、なんていうかな。朝読書だよ、家じゃうるさい妹とかエラそうな妹とか厚かましい妹とかがいて、ゆっくり本が読めないからね。それで朝早くから学校に行って読書でもしようかなって……。まあ、そんなとこだ」
「ああ、ゆーちゃん本気で朝読書なんてする人だったの?」
「中学の頃からそうだろ」
「あれはてっきり……まあ、いいや」
言いながら駅のホームに到着した僕はいつもの習慣でつい、そのホームの端まで歩いて行った。それは迂闊だったと言えるだろう。今日はぽっぽがとなりにいるということをもっと考慮するべきだったかもしれない。
「あ、優真くんおはよう」駅のホームの端っこで肘から上だけで小さく手を振る黒髪の文学乙女、若宮雅。「あ、きょうはぽっぽ君も一緒なんだね」
その瞬間、事情を理解したであろうぽっぽがジト目で僕を見た。
「……ふーん。今日はってことは毎日なんだね」
僕はその言葉を無視した。
二人して満員電車の中で若宮さんを守り、ぽっぽと僕は東西大寺駅のホームに降り立った。
「ふーん、朝読書ねえ」
「言うなよ」
「ああ、安心して、明日からは、ぼくはこの時間の電車は使わないようにするから」
それだけ言い残してぽっぽは立ち去った。ぽっぽの通う東西大寺高校は駅の南口方向にあり、僕の通う芸文館高校は駅の北口方向にある。したがってそれぞれ別々の出口に向かって解散した。
朝一番の誰もいない教室で本を開いたが、どうにも読書ははかどらなかった。窓の外の穏やかな風を眺めながら昔のことをつい思い出してしまう。
中学三年の夏休みに入ると若宮さんは市街地にある大きな市立図書館に通うようになった。四階建ての大きな建物で、一階のテラスの向かいにはわりと広い公園がある。公園の隅っこには役目を終えた機関車(D─51と言うらしい)が展示してあり、僕たちは汽車公園と呼んでいた。汽車公園の向こうには西川という名のほとんど用水路にしか見えないような流れのとても緩やかな小さな河川と、それに沿って長い遊歩道がある。そこには様々な植樹がされていて、ここより下流の方に行けば長い桜並木もあり、いつも散歩者が絶えない。
景観こそいいものの若宮さんはいつも景色になんか目もくれず本を読みあさっていた。
僕はそこに時々訪れる。――偶然を装って。
その頃には若宮さんにとって僕は十分に読書好きのイメージが定着していて、偶然という言葉にもいくらか信憑性もあっただろう。本来ならば毎日のように通いたいのだが、さすがにあからさま過ぎて、なるべく日を空けながら通った。
当時すでに二人は随分と仲良くなっていて、会えばいろいろな話もするし、時には一緒に勉強もした。そうだ、その年僕は受験生だったのだ。
若宮さんが勉強のできるタイプだというのは言うまでもないが、僕の方はまあ、平均。どちらかというと理系で文系教科はまるで駄目だった。夏の間に繰り返された読書と勉強会は僕の成績を飛躍的にあげることになり、考えてもみなかった有名進学校の白明を受験するまでに至る。(結果として付け焼刃の勉強は受験失敗に終わった)
そして中三の夏休みが終わり新学期が始まった頃、サッカー部のキャプテンの片岡君は僕のところへやってきた。
「なあ。オレたちも受験生だから今度の試合で引退なんだけど、お前も試合に出ないか」
意外だった。幽霊部員の僕がいまさら試合に出る必要なんてどこにもない。
「なんでいまさら?」
「記念だしな。それにオレとしてはお前のパスの技術は結構評価の対象ではあるんだけどな。それに……。それにあの時、みんなは随分と文句を言っていたがオレにはわかってたぞ。あれは敵にフェイントをかけてのスルー……。だったんだよな?」
どことなく上から目線な言葉にいちいち腹は立てない。サッカー部のキャプテンで背が高く、男前。勉強もトップクラスで十五歳には思えない、低くて渋い声をしている。当然足も速い。僕に勝てることなんて何一つない。むしろ僕が彼に少しでも認められていたことが誇らしかったくらいだ。そしてそんな彼があの時の僕の大失態の正体に気づいていてくれたことは素直に嬉しかった。だからといって今更どうということではない。
「いや、いいよ。今更練習もろくにしてない僕が試合に出ても足を引っ張るだけだよ」
「……そうか、じゃあ……しょうがないよな」
片岡君は淋しそうだった。
それから数日経ってからの放課後。図書室で若宮さんと二人で読書をして過ごしていた時に片岡君がやってきた。その頃には僕がそこにいるということは校内でもそれなりに知られていた。
「わりぃ。邪魔したか?」
「いや、そんなことはない。それより試合どうだったの? 昨日だったんだろう?」
片岡君はシニカルに笑ってみせた。
「……負けたよ。お前さえいたらな……」
「……あ、いや、ゴメン」
「謝るなよ。単なる皮肉だ。それより……今度の日曜日、引退メンバーで打ち上げしようかと思うんだけどお前も来ないか?」
「それこそどんな顔して出りゃいいんだよ。僕だってもう、ずいぶん長いこと部活になんて出ていないわけだし……」
少しの間をおいて片岡君は若宮さんの方を見た。
「じゃあ、若宮来ない?」
それを聞けば、僕だって黙ってはいない。
「どうしてそこで若宮さんなんだよ。それこそ関係ないじゃん」
「若宮来たら、お前も来るだろ」
「い、いや、それは……。どうしてそういう話になるんだよ」
「どうもこうも、そんなことわざわざ言うこともないんじゃねえの? だってお前さ……」
「あ、あの……」それ以上の言葉を遮るように若宮さんが割って入った。「あの……。わたしが行ったら優真くんも行く?」
「いや、だからどうしてそんなことに……」
「出た方がいいよ。そういうの……。せっかくなんだし……。わ、わたし行きます」
「……わ、わかったよ。じゃあ僕も行くよ」
「よし、じゃあそういうことで、日曜日午後一時に校門の前に集合な」
片岡君はそう言って立ち去った。なんだか変な話になった。
日曜日に僕は今更どんな顔してみんなと会えばいいのかを考えながらためらって、少し時間に遅れ気味に到着した。若宮さんはきちんと早めの集合を心掛けていたようだ。
それこそ場違いな若宮さんがこんなとこに来る理由はなく、浮いてしまうんじゃないかとも懸念していたが、それは過ぎた心配だったらしい。
そこに集まっていたのは僕を含め三年のサッカー部員、来ていない人もいたが十数名。それに加えてそれと約同数の女子生徒。ひとりはマネージャーを務めていた子だったが、あとの女子生徒のほとんどはどういう理由で集められたかは解らない。が、やはりそれは片岡君のカリスマ性ならではといったところだろう。
僕たちはみんなで歩いてそこから近くのカラオケ店(それは田舎における随一、そして唯一の娯楽施設)へと移動した。
男女合わせて三十名近く、ほとんどそれは部活動的なものというよりは大がかりな合コンにさえ近い。一番広い大型の部屋に入り、それぞれが仲のいい者同士のグループで勝手にワイワイする感じ。長い間部活に出ていなかった僕と、本が唯一の友達のような若宮さんとは当然のように部屋の隅っこの方で二人の世界を作り上げることとなった。
これだけの人数がいればカラオケで歌を唄わないやつがいたところで誰も気にはしないだろう。それに後ろの方にいる僕たちに誰が気を留めるだろうか。
またいつものように若宮さんと二人で最近読んだ本について意見を交換していた。そこに割り込んできた男が一人。
「ああ、読書だったらオレも結構読むぜ。太宰治とか。『人間失格』は最高だよな」なんて、ベタにもほどがある。そんなのはとても読書好きの意見とは思えないな……ってほんの数か月前の僕だってそんなものだっただろう。そう思えばあの頃の僕の薄っぺらい(今だって大したことはないが)〝読書家気取り〟なんて、本物の文学乙女には見抜かれていたに決まっている。そう思うと少し恥ずかしい。
ともあれ、誰にでも気が使える片岡君にとっては部屋の隅っこでみんなの輪から外れている姿が気になったのだろう。
そしてそこに彼が割り込んできたということは……。
この会に出席しているほとんどの女子生徒はおそらく片岡君のファンなのであろうことは明白であり、彼のいるところが常に会の注目すべき中心地だ。
会場全体の視線はおよそ僕たちのいる隅っこへと向けられた。そろそろカラオケにも飽きてきた頃の思春期の少年少女たちの関心事と言えば――。
「ねえ、ところで竹久君と若宮さんは付き合っているの」と誰かが言葉を投げかけた。
「やだ、そんなの聞かなくってもわかりきってるじゃない」
「そうそう、なんだかいつも二人でいるもんね」
次々に繰り出される勝手な言葉に僕たちは反論することも、肯定することも許されなかった。むしろ顔を真っ赤にしてうつむいている若宮さんの姿はそれを肯定しているようにしか映らなかった。僕たちは恋人同士だと決めつけられたようだった。僕は別段そのことを不快には思わない。むしろ嬉しいとさえ思っていた。
そしてテンションの上がりきった思春期の少年少女たちはやがて暴挙に至る。
――王様ゲーム。
それは王様の名をかたる悪魔が自由奔放にふるまう悪魔の遊び。そのルールの凶悪さゆえ、現代において絶滅の危機に瀕しているこの遊びも、こうした田舎においてはかすかに生き続けていたのだ。
しかしそこは中学生。それなりに分別をわきまえた軽いお遊びだった。しっぺ、デコピン。まあせいぜい好きな人の名を発表するというくらいにとどまっていたし、三十人近い人数だ。犠牲者になる確率だって低い。ほとんど傍観者のつもりで部屋の隅っこに鎮座していただけだった。
だが、それは突然訪れた。
「じゃあ、12番と26番がキス!」
いつも悪ふざけばかりしている男子生徒がそう言った。
「いや、ちょ、それはいくら何でもマズイんじゃね」
そんな声が飛び交った。どうかこのままそんな命令は却下されてほしい。僕は12と書かれた割り箸を誰にも見られないように握りしめていた。
「てか誰だよ。12番と26番! とりあえず名乗り出ろよ」
不穏な空気が流れ、いくら僕でもそこを無視するわけにはいかなくなってしまった。「12」とつぶやくように立ち上がった。
「26番誰だよ!」
その言葉の後しばらくの沈黙を挟み、若宮さんがゆっくりと立ち上がった。
「……なあーんだ。じゃあ問題ないじゃん」
「そうよね、どうせあんたたち初めてってわけじゃないんでしょ」「いいじゃん、いいじゃん。しちゃえよキス」「えー、あたし見たーい」
口々に好き放題の発言が飛び交う。周りに恋人同士だと勘違いされてしまったことがここにきて大きな痛手となった。
「キース、キース、キース……」
いつの間にかコールと、手拍子が始まる騒ぎとなった。もうどうにも後に引けないような状態。若宮さんはうつむいたまま拳を強く握りしめていた。そしてある時点で彼女のタガは外れてしまった。
「……あ、あ、あの……。わたしたち! べつにつきあってるわけじゃありませんから!」
まさか若宮さんがこんな大きな声を出せるなんて思ってもみなかった。それにはっきりとした否定発言に会場は凍りつき、険悪なムード。誰も、一言も発しないまま。それはわずか数秒のことだったのかもしれないが、果てしなく長い時間にも思われた。
「あーあ、雰囲気台無しだな」片岡君の思いっきり皮肉を込めたような言葉で沈黙は解かれた。
「お前ら、どうでもいいからさっさとキスしろよ。しないって言うんなら今すぐ帰れ」
僕はおそらく人生で初めて誰かを憎いと感じた。殺気立つ目で片岡君を睨み付けた。足が半歩、片岡君に向かった時、「いい、もう帰ろう」僕にだけ聞こえるような声で若宮さんがささやいた。おかげで僕は少しだけ正気を取り戻し、若宮さんの手を強く握った。
「帰ろう!」
皆にはっきりと聞こえるような声で言いながら若宮さんの手を引っ張ってカラオケ店を後にした。背中の方でヒューヒュー言いながら拍手をする音が響いた。
それからしばらくの間は片岡君と口をきくことはなかった。校内では若宮さんの宣言とは裏腹に僕たち二人は付き合っているとささやかれた。僕たち二人の関係はというと何も変わらなかった。今までどおり図書室で本を読んだり雑談をしたり。そんな毎日の中で僕は少しは気づくべきだったのかもしれない。時々彼女がうつろな目をしたり、何かをぼんやりと考え込んだりする姿に……いや、もしかしたらもっとずっと前から……。彼女は時々校庭の中を走りながら皆に檄を飛ばす誰かの姿を眺めていたのかもしれないし、あの日、あの会に彼女が参加しようと言い出したのだって、そのためだったのかもしれない。
僕はひとり、彼女の姿を眺めながら自分にとって都合の良い世界を想像していただけかもしれなかった。
ある日ちょっとした巡り会わせで片岡君と二人きりになった時に彼は言った。
「優真。あの時は悪かったな……。あの時はああ言うしかなかったんだ」
ただそれだけの言葉だったが、その時、僕はようやく気づいた。気づいてしまった。
片岡君は恋をしていた。あの、地味で目立たない黒髪の文学乙女に。
あの時、あの言葉は僕に対してどうこう言ったものなんかじゃない。
彼女を守るため。そのために行った苦肉の策。
片岡君は自ら憎まれ役を買ってあの会場から文学乙女を逃がしたに過ぎない。
〝ああ、これが恋なのだ〟〝恋のため、自らを犠牲にしたいと思うことがある〟
ツルゲーネフの『はつ恋』の中にあるセリフを思い出す。
去り際に片岡君は僕に言った。それは僕を見下す風な言い方ではなく、あえて言うなら僕に対する羨望というか、敬服といった印象を受ける言い方だった。
「――お前さえ、いなけりゃあな……」
片岡君は握り拳をそっと僕の脇腹に押し当てた。
僕はすっかりそのタイトルに騙されていた。ツルゲーネフの『はつ恋』は、そのタイトルからウラジーミルとジナイーダの恋の話だと思っていたのだが、実際に読んでみると後半部分に少し違う印象を感じた。ジナイーダという一人の少女を巡り、恋の火花を散らした二人の男の物語……僕はそう感じたのだ。
かくして僕は高校受験に失敗し、若宮さんは合格した。
二人が離れ離れになることが確定し、僕は卒業式の日にその想いを告げることにした。
勝算はあった……
それはいつの日だったか、たぶん夏休みの頃だったと思う。
昔から記憶力が悪いというか物忘れが多いというか、特に消しゴムをよくなくす。そして、いつも一緒に勉強している若宮さんに借りるのだ。そしてまたそれを返すのを忘れてしまう。まったく。自分が嫌になる。
さらに言うと僕は消しゴムに対し、変なフェティシズムを持っている。消しゴムについているキャップを外し、そのキャップを左手の人差し指にはめて、右手人差し指でその真新しい消しゴムの腹の部分を撫でるのだ。滑りやすくするためか、粉を吹いていて、すごくスベスベしている。背筋を這うような快感が走る。これを人知れずひそかに行っている。
と、ある時、キャップを外したところの真新しい部分にペンで文字が書いてあった。
――あなたのことが好きです――
よくよく見ればそれはもともと僕の消しゴムではない。考えるまでもなく若宮さんから借りてそのままにしているやつだろう。彼女はいつしか僕に密かなメッセージを送ってきていた。
それをたしかに僕は受け取った……。つもりになっていたのだが……。
『……わたしはね……。片岡君のことが好きなの……』
何がどこでどう間違ってしまったのか……。本来行動を起こすべきタイミングを誤ってしまったのかもしれない。もしくは初めからあのメッセージは僕あてではなかったのかもしれない。
ただ単に自分に都合のいいように解釈していただけ。
今から思えばあの『はつ恋』と同じだったのだ。
僕はこの話をウラジーミルとジナイーダの恋の話だと思って読んでいた。だけど若宮さんはそうではなかった。彼女はあの話をジナイーダ目線で読み取り、ジナイーダとその想い人との恋に悩む彼女がいつもその隣にいたウラジーミルに相談したという話として読み取っていた。
事の次第はつまりそういうことだったのだ。
中学時代の僕はウラジーミルで物語の主役だと思っていた。しかしジナイーダの目線で語ればウラジーミルは傍観者でしかなかった。ただそれだけなのだ。
そしてこの物語、結局のところ二人の恋物語なんかじゃなく。ウラジーミルとその恋のライバルとの友情物語に過ぎない。
そして、相も変わらず僕はこうして朝早く、誰もいない教室でひとり読書を開始した。一年前は二人だったが、今はもうひとりだ。『坂口安吾全集』を開きながら、やはりその内容はあまり頭に入ってこず、めぐるのはあの頃。
消しゴムに書かれた文字――あなたのことが好きです――を思い出しながら、センチメンタルに浸っていた。
いつしか僕のすぐ隣にとある生徒がいることに気づいた。目をやるとクラスで一番の美人の笹葉さんだった。いつもは強気な彼女が恥ずかしそうに、もじもじとしながらその白い頬を赤く染めていた。
「ねえ、竹久――。つきあって……ほしんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間。僕の脳髄は一気に沸点に達してしまい……
――愚かにも、再びとんでもない勘違いをして、そして玉砕するのだった。